TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの箱・4



〜こうちゃんと花菜美・10〜
…4…

 

 

「…花菜美さん…!」
 後ろから足音が近づいてくる。軽快に地面を蹴って走る音。

 私は振り向かなかったけど、早足で黙々と歩いていたから。どんどん、後ろの足音との距離が迫っていることは分かっていた。

 

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 1週間が過ぎて。その朝も私は無言で家を出た。冷蔵庫には定期的に食材を追加したし、インスタント食品もたくさん買っておいた。だから、みんなひもじい思いなんてするはずもなかった。

 …ちょっと、期待はずれだった。

 私がご飯づくりを放棄すれば、みんなもっと私のありがた味に気付いてくれるかと思ったのだ。ほんの一度、ケーキを焼いた「美由紀ちゃん」よりも、私の方がずっとずっと苦労してる。みんながきちんと生活出来るように頑張ってる。それに気付いて欲しかった。

 でも。

 私がいなくても、結局みんな困らないのだ。むしろ、余計な人間が関与しなくなって、昔の気ままな生活が戻ってきたのかも知れない。食事だってどうにかするし、洗濯だって各自でしてる。出来ないものはクリーニングに出せば、一日で戻ってくるんだし。掃除はおぼつかないけど、まあ、埃まみれになっても大したことがないのかも。そう簡単にばい菌でくたばる面々じゃないしね。

 頑張っていたのは、私ひとりだったのかも知れない。そう思うようになった。

 こうちゃんと結婚して、同居して。だから「家族」の一員として認められて。そりゃ、初めはよそよそしいかも知れない。でも時間を掛けて、少しずつ馴染んでいこうと思っていた。

 この結婚は、ただ単にこうちゃんのお嫁さんになることだけではなかった。大泉の家の主婦になること。そして、こうちゃんの弟くんたちのお姉さんとしてしっかりすること。みんなが過ごしやすいように頑張ること。そうしなくちゃ、いけなかったんだ。それだけの決心をして、私は踏み込んだのだと思う。

 周りの人は期待してくれた。とくにこうちゃんの親戚の人たちからは、ものすごく感謝された。そんな大層なことじゃないよ、当たり前のことなんだよ、と思っていたけど…それは表面的なことで、実はものすごいプレッシャーだったのかも知れない。

 …頑張ったのに、すごくすごく、頑張ったのにっ…!

 それでも、全てが空回りしていた。こうして、私が全てを放棄しても、誰も困らないほどに。

 何時、折れてくれるかと思った。こうちゃんが、私のことを心配してくれるって。それなのに、こうちゃんは何も言ってくれない。まあ、前からそんな感じではあった。こうちゃんは自分に非があると認めればすぐに謝ってくれる。でもそうじゃないときは、辛辣なものだ。
 見た目はどこまでも優しそうで、何でも受け止めて許してくれそうなこうちゃん。でも、それだけじゃない。時々、手のひらを返されたように冷たくなる瞬間もある。

 怖かったから、だから我慢してた。でも、もう限界なの。こうちゃんが折れてくれなかったら、もう駄目になっちゃうかも知れない。今度こそ、駄目かも知れない。

 

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「花菜美さんってばっ! …もう、呼んでるでしょう?」
 足音が私を追い越して、目の前で止まる。進行方向を閉ざされたから仕方ない。ずっと歩道のタイルを眺めながら歩いていた視線を上げた。

「…何?」

 目の前に立っていたのは、千春くん。丁度大学に出かける時間なんだろう。肩にリュックを引っかけて、教科書を手にしている。ちゃらちゃらしているようだけど、一応、学業だけはきちんとしているらしい。奨学金生だしね、あんまり成績が悪いと、この不景気なので援助を切られてしまうのだ。

「あ…あのさあっ!」

 私は冷たい視線を投げて、彼を迂回して進もうとした。するといつもの千春くんにはないような苛立った声で、腕を伸ばす。遮断機みたいにぱっと下ろされて、また歩けなくなった。

「ねえっ! もう、こんなの、やめようよ。おかしいよ、兄貴も花菜美さんも。お互いにいつまで意地を張り合ってるんだよっ!」

 すごい、単刀直入。私はちょっと感心してしまった。

 女の子にモテモテの千春くんだけど、その魅力はルックスだけではないのだと思う。相手の感情を読みとる機敏さ、今言わなくてはならないことをきちんと言える強さ。そう言うものがあるからこその結果なんだろう。

 そう考えた途端に、目の前の弟くんとは正反対の人を思いだしていた。

 言葉ってやっぱり重要だと思うわ。以心伝心とか言うけど、やっぱり音になって出てきた言葉は重い。「寡黙」とか「口下手」とかで逃げていいことじゃない気もするの。…やだ、やっぱり私、怒ってるよね?

「…意地なんて、張ってないわ」
 だけど。私は目の前の千春くんが唖然とするほどの冷たさでそう言い放っていた。

「私もこうちゃんも、普通よ? 別に千春くんがどうこう言うことじゃないでしょう…?」

「花菜美さんっ!!」
 振り切って歩き出す私に、千春くんが叫ぶ。朝の爽やかな空気の中、そこだけが緊迫して。

「ねえっ、花菜美さん、お願いがあるんだけど…」

 …え?

 さっきまでとは、明らかに声色が異なる。春風に乗って耳に届いた千春くんの言葉は消えそうに切なかった。だから、糸で引っ張られるように振り返ってしまう。

「今夜は、ちゃんと帰ってきてくれる? ――兄貴にも、そう言うからさ」

 …頷かなかった。でも、何かが吹っ切れた気がした。

 こうちゃんが謝って暮れたわけじゃない。でも、寂しそうにこちらを見つめてる眼鏡越しの視線は、私に何かを訴えているようだった。

 

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「ただいま〜」

 その日、定時に上がった私は、そのまま電車に飛び乗った。走って帰れば、家に着くのが6時だ。ちょっと駅前で買い物したから、それよりは遅かったけど。まだ、外が明るくてびっくり。日の残っているうちに家に辿り着くなんて、久しぶりだった。自分でも驚くくらい、明るい声が出た。

「お帰り〜花菜美さんっ!」
 バタバタっと音がして、千春くんが出迎える。いつもはこんな風にわざわざ玄関まで来ないのに。普段着に着替えて、現れた彼は明らかにホッとした表情を浮かべていた。

「兄貴にも、電話したんだ。でも少し遅くなるかもって言ってた。…あ、それ持つよ」
 千春くんはそう言うと、私の手から買い物袋を取り上げた。並んだ靴は3人分、こうちゃん以外はみんな戻ってきていることになる。

 がさがさ、と千春くんが袋の中身を確認して。それから、不思議そうな顔をして向き直る。

「何…? これ」

「え〜、あ、うん」
 私は靴を必死に脱ぎながら答える。今日のは編み上げの紐の革靴。すごく脱ぎにくい。

「会社の近くのね、ケーキ屋さん。すごくおいしいの、だから奮発して買ってきた。たまには――」

 結構値段が張ったんだよね、デラックスのショートケーキ。ひとつ380円もするの。でもその分、大きさも半端じゃない。上だけじゃなくて、間にも思い切りいちごが挟まっているんだ。生クリームもすごくおいしい。これを食べたら、ちょっと他のは食べられないわよね。

 でも、おなかが空けば、ギスギスしてくる。もしもおいしいものを食べればそれだけで気分が晴れる。だから、仲直りにはやっぱご馳走だ。そう思ったから…。

「…え? ケーキ?」
 千春くんの反応は、ちょっとぎこちなかった。

「うん、いちごのね、ショートケーキだよっ!」

 そう言って、振り向くと…そこには戸惑ったままの表情。それは受け答えと同じように、どうしたらいいのか分からない複雑な色を醸し出していた。

「け、ケーキ…かあ…」
 そんな風に歯切れ悪く呟きながら、居間の方に向かう。私は訳の分からないまま、後に続いた。

「おかえりなさい」
 居間では新司さんが、お茶を注いでいた。私のを含めて4人分。こうちゃんの湯飲みも用意してある。

 そして。

 テーブルの上に、和菓子の包みが置いてあった。

「…え、あのっ…」

 何となく、居心地の悪い空気を感じた。ほの暗い蛍光灯の明かり。ちょっと古くなっているのかな? そのせいもあるかも知れない。でも、私の足はすくんでしまって、部屋の中に入れなくなった。

 私たちの玄関でのやり取りを聞いていたのだろう。新司さんも千春くんの持っているケーキの箱を見て、困った顔をしていた。

 ――何?

 その時。とんとんと音がして、ここにいないもうひとりが降りてくる。

「…あのさ」
 私の脇をすり抜けて、居間に入って。それで、全ての状況を確認する。その上で、私に向かって、言う。

「ケーキって、お祝いの日に食べるものなんじゃないの? それとも…あんたの生まれ育った地域では葬式にケーキを配るとか…?」

「え…?」
 何、言い出すんだろう、急に。そんなことあるわけないじゃないのっ! どうして…?

「…どういうことだよ? これ…」
 でも、ご大層にケーキの箱を開いて中身を確かめる。その一連の行為が、あまりに重々しくて、何かに似ていた。千春くんと新司さんも青ざめたまま黙っている。

「あんたっ、俺にケンカ売ってんの!? どういうつもりなんだよっ! 今日が何の日か、忘れたのかよっ、この薄情者っ!!」

「え…え?」
 見たこともない剣幕。それだけで私は凍り付いてしまった。おとなしくて、感情を露わにしたことがない雅志くんがいきなり爆発した。もうパニック状態だった。

「今日は、4月の25日だろっ! …分かってるから、早く戻ったんじゃないのかっ! それとも、あんたは分かっていてわざわざこんなことをするような女なのかよっ!?」

 

「あ…っ!」

 私の顔色が変わったのを見届けて、雅志くんは何とも言えない笑顔になった。それははらわたが煮えくりかえる人間が、最後に放つ別れの微笑みだった。

 そのまま、また私の脇をするんと通り抜けて、階段を上がっていく。私はもう立っていることが出来なくなって、廊下にぺたんと座り込んでしまった。


「あの…ね、ごめん。まさか、忘れているとは思わなかったから。俺が朝、ちゃんと言えば良かった」

 ややあってから、千春くんの声が頭の上の方から響いてきた。私はその方を向くことが出来なくて、スカートの水玉模様を目で追っていた。もう何も考えたくなかった。

「あの朝ね…」
 千春くんは、言葉を選びながら話を続ける。とても辛そうだ。

「雅志の小学校で陸上大会があって。ウチの両親は応援に行けないから、その代わりお土産をねだったんだよね…あいつ、いちごのショートケーキが好きで。だから、両親は仕事の帰りにそれを買いに行って…で…」


 …もう、それ以上、聞いていられなかった。


 柱に手を付いて、立ち上がる。膝に力が入らない。がくっと落ちそうになって身震いすると、ぽたぽたと床に水が落ちた。

 …なんで、こんなところに、水?

 自分の頬を伝って落ちていくそのしょっぱい水が、すごく遠い存在に思えた。

「…ご、ごめんっ…、ごめんなさいっ!」

 そう言って。私は次の瞬間、家を飛び出していた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 きい、きい、と。金属のきしむ音。街灯が真ん中にぽつんとあるだけの小さな公園。そこが私の隠れ家だった。

 お財布も持っていなかった。それに気付いたのはここに着いてからで。もう…今更、取りに行くことも出来ない。携帯も脱いだ上着の中にある。とんでもない薄着で、つっかけのサンダルを履いて、出てきてしまった。

 日の落ちた外気は冷たい風が流れて、ぶるぶるっとする。でも身震いしても、寒さを感じる感覚は麻痺していているみたいだ。枯れることのない涙がまた、ぼろぼろとこぼれた。

 …どうして。

 どうして、気付かなかったんだろう。朝、千春くんが私に声を掛けてきたときに。その時に気付かなくてはならなかったのに、…どうして。

 ――4月25日。

 ちょっと前までは、絶対に忘れちゃいけないって覚えていた。それなのに、当日になって、すっぽり抜けてしまうなんて。朝、お線香とお茶を上げたとき、どうして思い出さなかったんだろう。

 こうちゃんのご両親は帰宅途中に信号無視のダンプトラックと正面衝突した。ほとんど即死だったと聞いている。でも、事故当時の話はもうみんなの口から語られることはなかった。私も聞き出そうとはしなかったし。ただ、ご両親のご冥福をお祈りすることしか出来ないと思っていた。

 …そう、今日は。こうちゃんたちのお父さんとお母さんが亡くなった…命日。絶対に、何があっても忘れちゃいけない日だった。

 毎年命日には、お二人の好きだった桜餅を仏壇に供えて、一番近い日曜日にみんなでお墓参りに行くんだと聞いたことがある。こうちゃんが、お墓参りに行ったときに教えてくれた。


 ――でも。

 私だって、好きで忘れていた訳じゃない。そりゃ、申し訳ないことをしたと思っている。でも…知らなかったんだもん、わざとやった訳じゃないもん…!

 ケーキのことだって、初めて聞いた。知らなかったんだから、仕方ないじゃない。もしも、こうちゃんが教えてくれたら、こんなに大切なことだったら前もって教えてくれたら良かったのに。雅志くんがエビフライを好きなことは聞いていたけど…ケーキがこんな意味を持っていたとは知らなかった。知ってたら、ちゃんと聞いていたら、私だってこんなことっ…。

 ――でも。やっちゃったことなんだから、仕方ない。私が付けてしまった傷は、もう取れないんだから。身体に付けてしまった傷はそのうち癒える。だけど、心に付けてしまった傷は癒えないんだ。絶対にそれだけは消すことは出来ないんだから。

 

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 …それにしても、おなかがすいた。

 腕時計を確認する。ちょっと腕を伸ばして、街灯にかざす。ふっと浮かび上がる二本の針。それは微妙な角度を描いていた。短い針は8を指している。辺りはとっぷりと暮れていた。

 でも、いつものことだもの。ここで待とうと思っていた。

 残業なんてしてなかった。会社のみんなは私のことをとても心配していつでも定時に帰してくれる。みどりちゃんはお産の予定日が過ぎたので、実家に帰っていた。実家の近くの産院で産むのだからその方がいいだろう。予定日を1週間過ぎても、まだまだ連絡が来ない。こちらから電話するのもなんだなと思って、なんとなく連絡が取れなくなっていた。

 仕方ないから、どこにも行けないから。私はこの公園を見つけて時間を潰すことにした。ひとりでいろんなことを考えた。これから、どうしたらいいのか…でも、思いつかなかった。もしかしたら、こうちゃんが見つけてくれるかなって、期待もあった。でも…通勤路から外れたここを見つけることなんてなかったのか。そして、探してくれることもなかったのか。


 …こうちゃんなんて、私のこと、全然、どうでもいいのかもしれない、な。


 もう、家には帰れない。あんな風に孤立して、私にもう居場所なんてないから。どこへ行けばいいのだろう…お金もなかったら、電車にも乗れない。定期だって、バッグの中だ。私、どうしたらいいんだろう。おなか空いて、餓死しちゃうのかな? ひからびて倒れているところを発見されるのかも知れない。この飽食の時代に、ひとりで寂しく餓死するなんて、そんなのが私の運命だなんて。

 …結婚って、なんだろう。

 好きだから、ずっと一緒にいたいから。だから結婚したんじゃないだろうか? たまに一緒の時間を過ごしたり、おいしいものを食べたり。それでいいんだったら、恋人のままでいれば良かったんだ。でも、それじゃ足りなかった。もっともっと、一緒にいたかった。ちょっとしたことで笑ったり、泣いたりしたかった。たくさんの感情を共有したいから、結婚したんだ。

 でも、蓋を開けてみたら。

 こうちゃんたちと私にはあまりに大きな溝がある。親御さんをいきなり亡くして、兄弟で必死に生きてきた5人には私の入り込めないものがある。それが、とても口惜しかった。私も、そこに行きたかった。

 …連れて行って、って…言えなかった。だって、分かってる。「時間」と言うものは到底埋められない。私はひとりぼっちだった。どこまでも、いつまでもひとりだった。


 つううっと、涙が頬を流れる。

 …しなけりゃ、良かった。結婚なんて、虚しいだけじゃない。


 私、ひとりぼっちになるために、結婚したんじゃない。こうちゃんと、幸せになりたかったから、だから結婚したんだよ。こうちゃんだって言ったじゃないの、「幸せになろう」…って。どこで間違えたんだろう、どこで道を誤ったのだろう。

 心の中で、こうちゃんへの不満がたくさん積もっていた。でも、それを口に出せなかった。出しちゃいけないと思っていた。私は大泉のお嫁さんになると言うことでたくさんの人から感謝されていた。だから、弱音なんて吐いちゃいけなかったんだ。

 …頑張ったのに。だから、我慢して、頑張ったのに。


 がさ、と音がして。突然、私の後ろの植え込みが動いた。

「…え?」
 少なからず、動揺して振り返る。よくよく考えたら…こんな真っ暗闇に、ひとりで。ううん、今までずっと何もなかったから、大丈夫だと思っていたけど。でも…?

 

「あの…」

 思わず息が止まる。そこに立っていたのは意外な人だったから。意外すぎる、人だったから。

「雅志、くん…」
 私の声が、少し滲んだ春の夜に溶けて行った。



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