TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの箱・5



〜こうちゃんと花菜美・10〜
…5…

 

 

「…何?」
 何かを訴える視線を、弾くようにかわす。一番会いたくない人に、会ってしまった。今更、何を? もっと、あれ以上に言いたいことがあるんだろうか。

 

「ここに、いたんだ」
 彼は私の質問には答えず、ぽつんとそう言うと、おもむろに携帯を取り出した。

「あ、千春兄(にぃ)? …いたよ、ええと三丁目の公園。え…、だってさ。いたものは、いたの」

 あっち側で千春くんのぎゃんぎゃん叫んでいる声がしてたけど、雅志くんはそれには構わず話を切り上げる。元の通りに携帯をGパンのおしりのポケットに突っ込むと、ふうっとため息を付いた。

 

 静寂が戻って。

 私はひとりでブランコをこぎ出した。夜の深まっていく公園で、冷たい空気が身体にまとわりつく。

「…みんな、心配したんだからな。どっかの誰かさんは、手ぶらで出て行くんだもんな。おかげでうっさくて、勉強にもなりゃしない」
 すごーく嫌な言い方をして、大袈裟に息を吐く。…別に言いもん、何言われたって。

「とうとう、千春兄が泣きついてきて、俺まで借り出されたんだぞ。いいのかよ、浪人生にこんな苦労かけて」

「…別に。見つけたくなんて、なかったでしょう? 雅志くん、私なんていないほうがいいんだもんね」

 夜風の中を長い髪が揺れる。こうちゃんと恋人同士だった頃、手入れを欠かさなかった自慢の髪。このごろお手入れもさぼりがちだった。その上、手入れをしているところまで見られちゃうんだもん、嫌になっちゃう。こういうのって、シークレットなのにさ。夫婦の寝室だと「水分補給パック」もおちおちやってられない。

「よく、分かってるじゃん」

 気が付くと、私のすぐ脇に雅志くんは来ていた。そして、ブランコの鎖を強引に引っ張る。バランスを崩した振り子運動はぐらぐら揺れながら、静止した。

「なっ…」

 なにすんのよ、と言ってやるつもりだった。でも、言葉が途中で止まってしまう。雅志くんがこちらを睨み付けてる。背の高さはやっぱり180はあるなあ。本当にでっかい兄弟だ。雅志くんはこうちゃんよりも目が大きくて眉も太い。ぱっと見は「お坊ちゃん風」なんだけど、近寄るとかなり威圧感があった。

「俺さ、あんたのこと、嫌いだよ。大嫌いだっ!」

「…そう」

 ものすごく、きついことを言われたはずなのに。結構冷静に対処してる。そんな自分をどこか遠くから眺めている気がした。

「あれだけ、あからさまにされたら、誰だって分かるわよ? 何よ、見つけたって知らんぷりをすれば良かったじゃないの、無視して通り過ぎたって」

「あ――ああ、そうだな。その通りだよっ!」

 私は、今まで溜め込んでいたものがどどどっとあふれ出すのを感じていた。息苦しさとか不安とか憤りとか、そういうもの。一生懸命やってるのに、空回りしてしまう日常。些細なすれ違い。そりゃ、仕事していたってそれなりのトラブルはあった。でも仕事はお金に換算されるものだ。でも、家庭生活というのは金銭の問題ではない。心の関係なのだ。

 満たされているときには、何もかもが上手く行く。でも…荒んだ心でいるとちょっとしたことで辛くなる。それをこの半年近い年月で痛いくらい感じていた。こうちゃんに対しても、弟くんたちに対してもそうだった。相手が何を考えているのか分からない状況はかなり大変だった。

「…こうちゃんは?」

 ふと、気付いて聞いてみる。だって、さっき。雅志くんは千春くんに連絡をした。もしも、こうちゃんが戻っていて、私を一緒に捜してくれてるなら…きっとこうちゃんに連絡したはずだ。そう、思ったから。

「帰ってこない、携帯にも連絡が付かないんだ。電源を切ってあるみたいで…」

 考えていた通りの言葉が戻ってくる。こうちゃんはきっと戻ってきてないと思った。何か、難しいことを抱えているのかな? って、少し前から気付いていた。でも…こうちゃんは私には何も話してくれないから、そのままになっていたんだ。考えてみれば、こうちゃんも疲れていたんだ、そして私も疲れていた。

 4月だし、新年度は色々と変化する。もっと、思いやりをもって接しなければ、ならなかったのだ。でもそれだけのゆとりはなかった。

 …結婚するって、生活を共有するって。そう言う面倒くさい部分まで、一緒に味わうと言うことで。お互いがお互いのことを大切にするだけでは済まないんだ。

 

「…そう」

 私は。ブランコから、ぽんと降りた。

「きっと、もう駄目だと思う。雅志くんが望むとおり、私、出て行くことになるわ」

 すうっと、風が流れる。ふたりの間を流れる。空間を、確かにふたつに分けて。風の向こうで、雅志くんの表情が少し、揺らめいた。

「そう…なの?」

「うん、だって」
 私、笑ってる。こんなものすごいことを言いながら、でも笑っている。それが、自分でも不思議で、だから大丈夫だと思った。

「私、こうちゃんのこと、嫌いになりたくない。このままだと、きっとどんどん、駄目になっちゃうんだよ。このまま、こうちゃんのこと大好きなままでいたいの。だから、もうやめる。その方がいい…」

「何だよ、それ」
 雅志くんは吐き捨てるように言った。

「ぶつかる前に、逃げるのかよっ!? それで、いいのかよっ…、そんなに簡単なのかよっ!!」

 ほの暗い公園。そこで言い合っている私たちは、傍からみたら、痴話喧嘩の恋人同士かも知れない。そんなじゃないのにね…きっと、そう言う風に見えている。人間関係なんて、みんなそうかも知れない。当事者以外は見えてないものがたくさんあるんだ。

「上手く行ってるときだけ、へらへらしていて。ちょっと躓いたら、すぐに投げちまうのかよっ! それでいいのかよっ、そんなにいい加減で。だったら、何で、結婚したんだよっ! 別れるために結婚したのかよっ…!」

「わ…私だってっ!! こんな風になるとは思わなかったわよっ!!」

 

 こうちゃんが好きだから、大好きだから結婚したんじゃないの。そうなのよ、それだけだったのよ。なかなかプロポーズしてくれないこうちゃんにも、具体的に話を進めてくれないこうちゃんにも、やきもきした。でも、結婚というゴールはすごく分かりやすくて、だから見失うことはなかったんだと思う。

 それが。そのテープを切ってしまったら、何の目標物もなくなった。雑多な日常の中で、お互いを気遣うあまりに、だんだんぎこちなくなってしまった。大切なことすら、後回しになる。結局、こうちゃんに聞けないままのことがたくさんあった。

 

「だけどっ! 仕方ないじゃないのっ! ぶつかったら、壊れちゃうわ。言いたいこと言い合って、そしたら、きっと私たちは壊れちゃう。それは嫌なの、こうちゃんには嫌われたくないの…だから、おしまいにしたいのよっ!」

 …そうよ。

 今のままなら、別になんの支障もなく別れられる。子供もいないもん。もしかして、こうちゃんはこうなることを予期して、子供作らなかったのだろうか? 子供のために夫婦の生活を仕方なく続けるなんて、悲しいことだ。そうなる前に、お互いがよく分かれば…。

「そ、それで満足なのかよっ! あんた、それでいいのかよっ!」

「いいじゃないの、雅志くんだって、これで心おきなく受験勉強が出来るわ。嫌いな女がいなくなったら、集中出来るでしょ?」
 
 …嫌いだ。高校生をやめたばかりの若さなんて。まっすぐで、曲がらなくて。大人の感情で対抗しようとすると、揚げ足を取られる。面倒くさい。

「私も、いわれのないことで嫌われるのはもうたくさん。雅志くんも、最後だから言えば? 今後のために聞いておきたい、…私のどこが気に入らなかったの…?」

 

 しばらく。雅志くんは唇を噛みしめたまま、黙っていた。

 もともとおとなしい性格だ、黙っていろと言えば一日中でも黙っているのかも知れない。5人の兄弟は、少しずつ似ている。誰と誰がとても似ているとか仲がいいとかそう言うのはないと思うけど。雅志くんにも時々、こうちゃんを見つけることがあった。

「…最初から、全部」
 雅志くんは心のどろどろとしたものを吐き出すように、そう言った。

「兄ちゃんが、彼女を連れてくるって言うから、これでも期待したんだよ。どんな素敵な人なんだろうって…でも、来たのはあんたで。ヘラヘラしていて、かっこいいことばっかり言って。腹ん中では何考えてるのか、さっぱり分からない妖怪女だと思ったよ。いくら上手に化けたって、すぐにぼろが出るんだ、人間なんてそんなもんじゃないかっ!!」

 夕方の居間での剣幕よりすごい勢いで、雅志くんが叫ぶ。でも、どうしてかショックはなかった。そう言われるのが当然な気がしていた。

「兄ちゃんや、他の兄貴たちに取り入って、上手いことやるつもりだったんだろうけど。俺は騙せないんだからなっ! お前みたいな汚い大人なんて、絶対に信じてやらないんだからなっ!!」

「…雅志くん…」

 どうしてなんだろう。ぼろくそに言われてるのに、全然、嫌な気がしなかった。それどころか、こんな風にぶちまけてくれる雅志くんがすごく可愛いと思った。自分の中に生まれた感情がよく分からない。本当にどうしちゃったんだろう、私。

「あんたを見てるとさ、思い出すんだよっ! 色々とさ、昔の嫌なことをっ…! だから、嫌なんだっ、視界になんて入って欲しくない。消えて欲しいのに、やたらと話しかけてきて、うざいんだよっ!!」

 …私よりも、ずっと大きくて。力の差なんて歴然としている男の子。それなのに、どうしてこんなに頼りなくて、可愛らしく思えるんだろう。きっと、私が今、こんな感情を抱いていると知ったら、雅志くんはすごく嫌がるのだろうな。

「親戚のおばさんがそうだったんだ…!」
 私を必死で威嚇するように、怖い顔になって睨み付けてくる。でもその顔色の中に、怒りとは全然違う感情が浮かんでいる。多分、彼自身も気付いてないと思うけど。

「俺、父さんたちが死んだとき、小さかったから。一時、親戚の家に預けられたんだ。そこのおばさんはすごく俺のこと可愛がっていて、家の子供と同じようにしてくれた。もう本当に信じ切って、そのままあの家の子になってしまいたいと思うほど。

 …でも。ある晩、おばさんがおじさんと話してるのを聞いた。
『雅志は頭がいいから。いい学校に進めば、こっちまで鼻が高い。だから我慢して育てよう、本当はあんな陰気な子は嫌いだけどね』…って。

 もう、信じられなくて。すぐに家に電話して、気が狂うくらい泣いて。そしたら、兄ちゃんが迎えに来てくれた。理由は話さなかったけど、俺が帰りたくないって言ったら、もう二度とおばさんちに行けとは言わなかったよ…大人なんて、体裁ばっかりだ。腹の中で何考えてるのか分からない。
 こっちの機嫌を取ろうとしていい顔する奴は絶対に信じないんだっ! だから、あんたも嫌いだっ、大嫌いだっ!!」

 

 張りつめた緊張感を揺らす叫び。雅志くんが抱えていたもの、誰にも言えずに溜め込んでいたもの。それが私にぶつけられる。言葉が途切れたときに、ようやく地面にくっついていた足が自由に動くようになった気がした。

 黙ったまま、ちらっと視線を投げて。それから、歩き出す。見つかっちゃったんだし、とりあえずは家に戻らないとまずいだろう。帰らないと決めてたけど…でも。逃げるにしても、一度はちゃんと話し合わないと駄目だから。

 それに。心配かけたから、ちゃんと謝らなくちゃ。新司さんと千春くんと、それから途中から呼び出された孝雄くんと。大人気なかったよね…? 私、みんなのお姉ちゃんにならなくちゃいけなかったのにね。

「――私も。雅志くん、苦手だった。何を考えているのか、分からないから。こうして…はっきり言ってくれて嬉しいよ。何だかとってもすっきりした…ありがとう」

 こうちゃんとぶつかり合えない自分がいた。だから、こうしてすれ違ってしまったんだ。こんなに遠く離れてしまうくらい。

 心配して欲しいとか。謝って欲しいとか。気付いて欲しいとか…そんなことばかり、考えていた。

 言葉にしなくても、気付いて欲しかった。だって、言葉にするのはすごく難しいから…。


 私にだって、あったはずだ。昔…まだ、制服を着ていた頃に、心の全てを投げ打って、守りたいと思ったものが。それを手放してしまったときの、あの空虚な心を。大切なふたつのものから、ただひとつしか選べなかったあの葛藤を。たくさんたくさん乗り越えて大人のなったのに…結局は同じことの繰り返し。

 私は、まだ臆病な小さな人間のままだ。

 そばにいるからと言って、心まで近い訳じゃない。身体が触れ合っても、遠いものがある…そうだったのに。だからこそ、必死にならなくちゃいけなかったのに。


「ごめんね、雅志くん」

 ぽつり、と言葉がこぼれた。

 私が、至らないばっかりに、たくさんの人に迷惑を掛けるんだね。もっとしっかりしていたら、こうちゃんとだって、ちゃんと話し合って上手く行ったのに。ちょっとしたことすら、躊躇してしまって、こんなに遠くなってしまったなんて。

 大好きだけじゃ上手く行かないのが「結婚」と言うものなんだと…どうして誰も教えてくれなかったのだろう? それとも、私が気付かなくちゃならなかったのだろうか。

「…ね、ねえっ!」

 雅志くんの鋭さが、再び私に向かう。でも、私の心は、もう悲しいものが溢れそうだった。

「きっと…こうちゃんも。もっとお似合いの素敵な女性がいるよ。私は…駄目だから」

 こうちゃんと、私の間に。絶対に崩せない壁があった。それの形成された謎をどうしても問いただすことが出来ないで。

「まっ―…! あ、あのさ…」

 雅志くんが、さらに何か言おうとする。そのせっぱ詰まった声にハッとする。

 

 

 そして、その時。

 突然、白いワゴン車が、歩道を歩く私たちに横付けされて止まった。

「花菜美さんっ! …雅志っ!!」

 ドアを開けて、転げるように飛び出してきたのは千春くんだった。迎えに来てくれたのか、と一瞬思ったが、それにしては様子が変だ。そばによると、ぐいっと腕を掴まれた。その手がぶるぶると震えている。何? …どういうこと!?

「とにかく、乗ってくれっ!! 兄貴が出先で倒れたんだって。病院に運ばれたって連絡が来て――っ!」

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 私はもう関係ないわよ、とか言いたかったけど。

 とても、そんなことを言える雰囲気じゃなかった。まるで誘拐犯に拉致されるように車に引っ張り込まれる。運転していたのは新司さん、よくよく見たら、デパートの公用車だ。たまに使用許可をもらって、借りる。こうちゃんの兄弟と私が一緒に乗るには、家の普通車じゃ無理だから。

「倒れたって、どういうこと!?」

 何しろ、こうちゃんとはこの1週間ろくに会ってない。声すらかけ合ってなかった。最後にまともに話をしたのがあの「美由紀ちゃん」ケーキ事件の時だ。あのときのこうちゃんのにこにこ笑った顔がすごく遠く感じたのを思い出す。

「それが…良くは分からないんだけど…あのっ…」

 もともと無口な新司さんは黙ったままで車を運転してる。市街地の方に向かっているみたいだ。孝雄くんは一度家に戻ると言ったそうだ。ここには乗ってない。説明を求められる千春くんはだいぶ混乱しているようで、言葉が上手く出てこないみたいで。

「さっき、家に美由紀ちゃんが電話してきて。あの、ふたりは一緒だったらしくて…」

 …え!?

 自分で自分の顔色が変わるのを感じていた。ずるっと何かが滑るように、ふさがりかけたかさぶたがえぐられる。もうたくさんだと思った。

 こうちゃんと、あの人が一緒にいたの? 会ったこともない人、一度だけ声を聞いただけの人だ。でも…あの人は私にとって特別の人だった。こうちゃんにとって、すごく大切な人だって、分かっていた。

「あ、…待ってっ! 違うと思う。あのねっ、花菜美さん。変な風に考えないでよっ!?」

「――やっ…!!」
 なだめようとした千春くんの腕を振り払う。そして、ドアのロックに手を掛けた。

「止めてよっ!! 新司さんっ、車を止めてっ!! …私、行かないっ!! 病院なんて行かないっ!! ――もう、こうちゃんに会わないっ!!」

「花菜美さんっ!!」

 このままでは走行中の車のドアでも開けてしまいそうだと心配したのだろう。

 いきなり、後ろ手にぐいっと両腕を掴まれた。いくらもがいても千春くんとて、結構体格のいい男の人だ。私が太刀打ち出来る相手ではない。

「兄貴が倒れたんだよっ!! どうして、そんなことが言えるんだっ…!」

「もう、いいのっ!! こうちゃんなんて、知らないんだからっ…! どうにでもなっちゃえばいいのよっ…!!」

 そう叫んだら、途端に涙がどどっと溢れていた。

 

 こうちゃんのことが心配じゃないのか、と言われたら答えはひとつだ。心配に決まってるじゃない。こうちゃんのことが大好きだもん、いきなり倒れたなんて聞いたら心配じゃないわけない。

 …でもっ!! 病院に行ったら…あの人がいる。私なんかより、ずっとずっと…こうちゃんたちに近い人が。私には全然太刀打ち出来ないものを持っている人が…それは口惜しかった。そんな人に会いたくなかった。

 それに。こうちゃんだって、あの人がそばにいてくれた方がいいんだ。そうに決まってる。

 

「どうしたんだよっ!! 花菜美さんはっ…この前から、絶対におかしいよ。いつもの花菜美さんはどこに行っちゃったんだよっ!? 何が、原因なんだよっ!!」

 千春くんは言葉を叩き付けてくる。そのまんま、心にぐさりぐさりと突き刺さって、痛いくらいだ。

 

「…え…」
 腕に食い込む指の力と、心に刺さる言葉。それが私を問いつめていく。そして、気付く。ようやく気付く…私を本当にがんじがらめにしていた真実を。

「だって…だって、こうちゃんは…私のこと…」

 

 溢れる涙で、言葉が上手く出てこない。ようやく絞り出した、その一言を聞いたとき。車内にいくつかの小さな叫びがあがった。



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