〜こうちゃんと花菜美・10〜 …6…
「な、何だよ〜それっ!!」 「待ってくれよな!? そんな馬鹿馬鹿しいことで、俺たちは振り回されていた訳!? …勘弁してくれよ〜まったくもう…」 私の手首を捕らえていた束縛が抜ける。そのまま、千春くんは「はあっ」と小さく呻いて頭を抱えてしまった。 「……」 「い〜加減にしてくれよな…それくらいのこと、夫婦の間で何とかしてくれよ」 「馬鹿馬鹿しいこと、じゃないもの。私、ずっと悩んでいたんだもん…ちょっと考えたら、分かりそうなものでしょ? 本当におかしいと思わなかったの…?」 この言葉は千春くんに向けていたが、でも前の座席のふたりにも十分に聞こえるくらいの音量だったと思う。髪をくしゃくしゃっとかき上げる千春くんの仕草を見た後、また視線をスカートに移した。私が薄い布地を握りしめることで、水玉のつぶつぶ模様が流れを変える。 「…口惜しかったんだもん…」 「…って、さ」 「小学生じゃ、あるまいしさ。呼び名ひとつで1週間もストライキ起こすの? 花菜美さんがそんなに子供っぽいとは思わなかったよ…」 新司さんと雅志くんはやはり無言だ。何を考えているのだろうと、サイドミラーを覗く。雅志くんと鏡越しにぱちっと見つめ合ってしまい、お互いに気まずくてふっとそらした。
「だって…」 こうちゃんが、「美由紀ちゃん」って、言った。私のことは、未だに「水橋」なのに。それが、それだけのことが、ものすごく口惜しかった。心にひっかき傷を作った。 どこの世界に自分の妻のことを旧姓で呼ぶ馬鹿がいるのだろう。いつか誰かに指摘されて改まるのかと思っていたのに、いつまで経っても変化がない。 「私、何度も言ったもの。付き合っていた頃、こうちゃんに。でもこうちゃんは全然改めてくれない。仕方ないかなと思ってたけど、物事には限界というものがあるのよ…結婚したのに…のに…」 でも。それだけじゃなかったのだ。呼び名のことなんて、ただのきっかけに過ぎなかったのかも知れない。だって、私はこうちゃんへの想いだけを抱いて、ひとりぼっちで新しい世界に飛び込んだのだ。そこは…もうすっかり水草も根付いて水温も調整された水槽の様な空間だった。 たくさん、たくさん。 心に降り積もっていくもの。それが塞いでいく一番大切な想い。
「…って、さあ。美由紀ちゃんはね、兄貴よりひとつ年下だけど、近所に住んでたしさ。まあ、幼なじみみたいなもので、仲が良かったんだよ。登校班とか一緒だったしさ。親同士も仲が良くて家族ぐるみのおつき合いでさ、旅行にみんなで行ったりして。向こうは女ばっかりの姉妹だったし、目新しくて面白かったんだよ。 仲が良かったんだもん、当たり前だろ? 親父たちの葬式の時は彼女、一番わんわん泣いてたし…もう家族同然だったんだから。 でもさ〜、…それとこれとは別だろ? 花菜美さんは兄貴の奥さんだろう…どうしてそんなことでいちいち突っかかるんだろうなあ…」 千春くんの台詞はくるくると同じところを空回りしていた。そして、もっと小さな声で「女って、分かんない」と呟いた。
この辺は道が入り組んでいて、一方通行が多い。車が孝雄くんのアパートの近くまで来ているのが分かる。でもぐるりと遠回りするので時間がかかるのだ。車内は相変わらず重苦しい空気に包み込まれていた。
千春くんがこちらを見ているのが分かる。でも、意識して視線をそらす。こんな狭い空間では、一瞬の顔色の変化も瞳の動きも分かってしまう。心を探られるみたいで嫌だった。 「…今回さ」 「花菜美さんが、今までにないほどのストライキに入っちまって。実は俺たち、兄貴に言われたんだよな…」 「…え?」 「花菜美さんがあそこまで思い詰めるには、絶対に俺たちの方に落ち度があったはずだって。だから、それを必死で考えなくちゃいけないってさ。花菜美さんのことを大切に思っているなら、何を考えて悩んでいるのか、こちらだって察してやらないといけないだろうって…。 まあさ、俺は花菜美さんは2日か3日で元通りになるんだと思ってたんだよな? 兄貴のことだから、本当に間抜けなところでドジってさ、怒らせたんだろうって。でもな…1週間はまずいんじゃないかって、そう思ったから…とうとう、今朝――」 ああ、そうだったのか、と合点がいく。今までは、私とこうちゃんがなんてことない諍いを起こしただけで、千春くんが必死で仲裁に入ってきた。どうにかして私たちの間を取り持ってくれようと心を砕いてくれていた。でも、今回はそれもなかったから…どうでもいいのかなと思ってしまったんだ。 見捨てられたのかなって、ちょっとだけ思っていた。 「兄貴、強がってるけどさ…見てらんなかったんだよ。顔色は悪くなるし、飯も満足に食わないし。あんなになってるのに、あれでいて強情なんだからなあ…」
こうちゃんのこと、この1週間、ろくに見たこともなかった。付き合っていた頃はデートの間隔が半月くらい空くことも当たり前で。だから、そう言う意味では大したことがなかった。こうちゃんはまめに電話とかメールとかくれるタイプではない。もちろん、私から連絡すれば、快く応じてくれたけど…こうちゃんから、どうこうしてくれるって、少なかった。 でも、今回は…ちょっと事情が違う。同じ家に住んでいて、必要なことも会話して行かなくちゃいけないような立場にあって、ふたりともずっと関係を断ち切っていたのだから。私も、こうちゃんが折れてくれるまでは許す気がなかったけど、こうちゃんも私が動くのを待っていたのか。それじゃあ、いくらたってもそのままだったのかも知れない。 …こんなことでもなければ…まだまだ、断絶が続いていたのだろうか? いや、これだって、修復された訳ではない。私の中ではとても微妙な思考が渦巻いているままだし。 やりきれない想いがこみ上げてくる。こうちゃんにとって、私はどれくらいの存在なのか。それが分からないから辛かった。でも、その反面、こうちゃんの奥さんなのに、その立場に満足出来ない自分も嫌だった。右と左から押さえつけられているような気分でいた。 …はじまりは。本当に些細なひとことだった。ちっぽけなそのほころびがだんだん大きくなる。
こうちゃんが、私のことを「水橋」って呼ぶこと。それをおかしいと思っていたのは私だけなのだろうか? 私が勝手に独り相撲をとっていたのか。本当に馬鹿馬鹿しいことだったのだろうか…? 「う〜ん…」 「花菜美さんと兄貴の問題だからな…ふたりの間で何か、考えがあるのかなと思っていたけど」 「こうちゃんは。こうちゃんにも深い考えがあった訳じゃないと思える? たとえば、私に心を許せないから、いつまでも旧姓で呼んでるとか…」 必死で言ったのに。千春くんは、私の言葉に心底呆れたように目を見張った。 「…はあ?」 「あのさ…考えてもご覧よ? 心を許せないような奴と結婚出来るわけないだろ? 他の奴はどうか知らないけど、兄貴みたいな不器用な奴は…嫌いな人間とは口も聞きたくないはずだと思うけど。…そんなことも分からないでいたの?」 「だって…、不安だったんだもん…」
泣きたい気分になる。そんなに頭から決めつけるわけないじゃない、ずっと悩んでいたのに。それなのに、私の全然知らない女の人を無邪気に「美由紀ちゃん」と呼ぶこうちゃんが、すごく遠く感じたんだから。 ほっぺがぴくぴくっと痙攣する。その時、ふっと視線を感じた。顔を上げると、ミラー越しに雅志くんがこちらを見ていた。その唇が、微かに空を切る。 「――俺は。少しは変だなと、思っていたけど…」 雅志くんのその言葉に、運転中の新司さんもうんうんと頷く。 「だって、兄ちゃんは俺たちの前では、ちゃんと『花菜美』って、呼ぶんだよ? あんたのこと。なのに面と向かうと…何故か『水橋』。どうしてなのかなって思っていた」 「え…、そうだったっけ!?」 千春くんが驚いて叫ぶ。雅志くんは呆れた顔で振り向いた。 「…千春兄こそ、考えなさすぎ。それで、よく寄ってくる女がいるよなあ…」 「――わるったな…っ!」 ぷいっとむくれてそっぽを向いた千春くんに余裕の微笑みを浮かべて。それから、雅志くんはゆっくりと私の方に向き直った。 「それは、それとしてさ。…でも、俺は最初から、思ってた。兄ちゃんにとって、あんたは特別なんだって…」 「…へ?」 「電話してきただろ? …最初。兄ちゃんが、酔っぱらって潰れたから、ウチに泊めますって。その時に、ああ、ホンモノなんだなって…思ったんだよな。すげー、口惜しかったけど」 …どういうこと? 思わず見つめ返すと、雅志くんは今まで私に向けたことのない様な、やわらかくて、それでいて少し悲しそうな表情になっていた。
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良かった、大事なくて…でも、やっぱりインスタント食品を1週間も続けたのがまずかったのかなあ。まあ、お昼はちゃんと食べているのだろうけど、忙しい時だとうどんやそばをかき込む状態になるって言ってたし。 「水橋の作ってくれる飯は美味いなあ…」
こうちゃんの容態を知って安心した弟くんたち4人は、どやどやと引き上げていった。こうちゃんが寝ている病室に簡易ベッドはひとつしかない。だいたい、大の大人が4人も5人も押しかけるような重体ではないのだ。 みんなを病院の出口まで見送りに出ると。一番後ろを歩いていた雅志くんが、ちょっと足を止めて振り向いた。 「…あのさ」 「俺さ、実は…別にショートケーキが食べられなくなったとか、そういうのないんだよな。外では結構、食ってるし…でも兄ちゃんたちはすごく気にしてくれてるし、ウチでは御法度になっていて」 「え…」 私のためだけに、こぼれた言葉たちを、必死で拾い集める。千春くんに呼ばれて向き直る前に、一度私を見て、ちょっとだけ笑った。 「あんたのこと、嫌いだけど。でも兄ちゃんの奥さんだから、許す。…ケーキ、食うからさ。ごちそうさま」 すごく、大人びた輪郭。雅志くんの中のひとつの感情が、羽ばたいて飛び立っていく…そんな映像が見える。人の心は不変のものじゃない、かたちを変えて色を変えて。たくさんの関わり合いの中で、必ず変化していく。 もしかしたら、私は彼のお姉さんになれるかも知れない。そんな予感がした。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 何だかいろんなことがありすぎて、疲れちゃった。肩を回すとコキコキと音がするくらい。めまぐるしく変化する1日だった。もう、こうちゃんのお嫁さんなんてやめちゃおうとか思っていたのに、気付けばこうして付き添っている。雅志くんじゃなくても、自分の行為のあまりの矛盾に呆れてしまう。 「こうちゃん…」 薄暗くした部屋の照明に浮かび上がる輪郭。やっぱり、ちょっと痩せたかな? そんなに心配してるなら、声を掛けてくれれば良かったのに。こうちゃんが、私のこと大切にしてくれれば、機嫌なんてあっという間に直ってしまったのに…。 …ううん。大切だったんだと思う。そうだったと信じたい。でも…私はそれでも「言葉」を求めていた。しっかりと確実なもので想いを伝えて欲しかったのだ。心の中だけではなくて…もっと、包み込まれるように…。
「あ…」
「しゅ…主人が、ご迷惑をおかけしました。あの、ご連絡、ありがとうございます…」 「いいえ…こちらこそ。お引き留めしたのがいけなかったのですから」 やわらかい声、聞いてるだけで心が穏やかになっていくような。そっと面を上げると、何とも言えない微笑みに見つめられた。 「――花菜美、ちゃん…ですよね? お話はたくさん、伺いましたわ…」 「…は?」 いきなり、下の名前で呼ばれてしまった。心臓が跳ね上がる。しかも「ちゃん」付け。こうちゃんが私には絶対に呼んでくれなかった言い方だ。 「大泉くんがお嫁さんを貰ったことは聞いていました。でも…何だか信じられなくて。私、色々知ってましたから。やっぱり、ちょっと…口惜しいかな」 「美由紀、さん…」 彼女は廊下の長いすに腰掛けて、私の場所も空けてくれた。促されるままにそこに座る。 「あら」 「あまり、他人行儀にしなくていいのに。私とあなたはいくつも違わないでしょ?」 しばらくはこうちゃんに付き添ってここにいてくれた彼女だったが、息子さんが眠くなってしまったので、家に寝かせに行っていると聞いていた。もう一度、様子を見に戻ってきてくれたみたい。 「あのね、私、離婚してね。息子を引き取って、食べていくために保険の仕事を始めたの」 聞きもしないのに、そんな風に話し出す。でも、そのことは知っていた。…ううん、知らされた。彼女は家に電話してきたとき「守谷」と名乗った。それを知った千春くんが感づいたのだ。それは美由紀さんの旧姓で…公にはしてなかったけど、そう言うことなのでは? と言うことになった。みんなも初耳だったらしい。若くして結婚して、子供を産んで。幸せだと、思っていたのに…って、驚いていた。 「でも、全然上手く行かなくて。で、気付いたのよね…大泉くんだったら、どうにかしてくれるんじゃないかって。県庁にお勤めでしょう? もしかしたら、たくさん知り合いを紹介してくれるかも知れない。だから、息子のことをだしにして、話を切り出したの。…でも、上手いことかわされちゃった」 …知ってる。こうちゃんは、保険が嫌いなんだ。そりゃ、最低限度のものには入っている、家族のために。 でも弟くんたちに保険を掛けたりはしない。それは自分たちが成人して、社会人になってからでいいと言ってる。ご両親が亡くなったときに「保険が下りて良かった」とさんざん言われたのがトラウマになっているらしいのよね。お金があっても、命がなくちゃ始まらないって、いつも言っていた。 「今日もね、息子が駄々をこねるからって、食事に誘ったの。でも…用事があるから帰るって。ただ、息子を説得するために、会いには来てくれたのね。そしたら、お店で倒れちゃって――」 ふうっとため息を付いて。それから彼女は白地に黄緑のラインの入ったタバコを取り出す。それをつまみ上げた左手の薬指に指輪のあとがあった。マリッジリングなんて、付けてるか付けてないかも分からなくなっちゃうほど当たり前のもの。ずっとずっと付けていたら、あとになってしまうのか。そんなことをふと考えた。 つーんとした、ミント系の香りが広がる。彼女は携帯用の灰皿を取り出して、灰を落とした。 「大泉くん、あなたのことばっかり話すの。聞きもしないのに、たくさんたくさん聞かされたわ。こっちがヤキモチ妬いてるのにも気付かないんだもの、酷いわよね?」 「…こうちゃんが…」 「あら」 「花菜美ちゃんは…、『こうちゃん』って、呼んでるの?」 「え…?」 私の胸に、車の中で聞いた雅志くんの話が蘇ってきた。鮮やかに、かたち取られていく…ひとつの真実。どうして、気付かなかったのだろう…どうして、気付いてあげられなかったのだろう。
それきり、私が言葉を失っていると。美由紀さんはさっと立ち上がった。 「じゃあ、私、これで失礼するわ。…どうぞ、お幸せに」
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