〜こうちゃんと花菜美・10〜 …7…
水色の背中を見送って、病室に戻る。暗闇に浮かび上がるナースコールの赤いランプが、少し滲んで見えた。 「…こうちゃん?」
「こうちゃん、って、呼んでいい…?」
「…みず…はし?」 「ごめんね、こうちゃん…」 それしか言えなかった。それしか言えなくて、涙が溢れてしまう。こうちゃんの声を聞いただけで、こんなに大好きがこみ上げてくる。こうちゃんが倒れたと聞いたとき、本当に驚いた。すぐに大したことないと分かったから良かったけど。一瞬、この世からこうちゃんの存在が消える幻影を見て、たまらなくなった。 「水橋…」 ぼろぼろと溢れてくる涙に両手で顔を覆うと、のろのろと伸びてきた指先が私の頬に届く。こうちゃんじゃないくらい、それは冷たくて。でも、間違いなくこうちゃんの指で。 そっと自分の手をどけると、何とも言えない表情でこうちゃんがこちらを見ていた。 「…どうして、水橋が謝るんだ? 水橋は何も悪くないだろう…?」 「こうちゃん…っ!」 身体に負担を掛けたら駄目だって分かっているのに。それでもこうちゃんにしがみついていた。毛布の上に掛かった白いカバーにぼとぼとと涙のしずくがこぼれる。丸いシミがどんどん広がっていく。 「ごめんね、ごめんね…あのね。私、こうちゃんが、好き、大好き。もしも、こうちゃんが私のことを嫌いになっても、それでもきっと好きなの。こうちゃんが、世界で一番、好きっ…!」 「…馬鹿だな…」 「そんなの、当たり前だろう? 一番好きだから、結婚したんだから。それは、俺も同じだから…」 その声に、私は身体の力がふっと抜けて、声を上げて泣き崩れてしまった。
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こうちゃんの横たわっているベッドの脇にパイプの椅子を引っ張ってきて、そこに座っていた。上体をベッドに突っ伏して…というか、こうちゃんの胸に寄りかかるような感じで。消毒薬の香りが充満する病室の中で、そこだけはこうちゃんの匂いがする。あったかくて、そばにいるだけで胸がいっぱいになっちゃうみたいな。 「うん…」
閉まったドアにお辞儀して振り向くと、こうちゃんがくすくすと笑っている。 もう恥ずかしくて、身の置き場がなくて。下を向きそうになると…こうちゃんはますます目を細めて、私にお出でお出でをした。
我が儘で、独りよがりで。そんな私が、自分の大切なものを失いかけていたのかも知れない。 こうやって腕の中に包まれていれば、こうちゃんはこうちゃんのままなのに。いつでもあったかいのに。…どうしてそれを忘れてしまうのだろう。
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雅志くんの言葉に、私は訳も分からず、呆然としてしまった。でも、隣りの千春くんも、反対側の隣りの孝雄くんも呆然としていた、私と一緒に。 「『こうちゃん』、って…呼んじゃ、まずかったの?」 「まずくないけどさ…」 私の問いかけに、雅志くんが口ごもる。何が何だか分からなくなっている私。こうちゃんが私のことを「水橋」と呼ぶのは本当に気になったけど、『こうちゃん』と呼ぶことを疑問に思ったことはなかった。当たり前になっていたし、こうちゃんだって嫌な顔をしなかったし。 「ちょっと、兄貴には可愛すぎるかなとは思ったけど…そんなに変か? 『高節』が『こうちゃん』で、何がわるいんだ…?」 すると。今までずっと黙っていた新司さんが、赤信号で車を止めて咳払いする。新司さんはこうちゃんと似てる。似てるけど…どっか違う。違うけど、どっか似てる。それが兄弟というものなんだ。 「あの。…分からないかな? 兄貴のこと…そうやって呼んでいたのは、誰だったか。実は、この世にひとりしかいなかったんだよな。兄貴、それだけはすごくこだわっていたから。友達にだって、誰にだってそう呼ばれたら嫌がってやめさせてたよ」 「…え?」 「あちゃ〜、…そうかあ…」 「俺は、少なくとも花菜美さんが『水橋』と呼ばれる10倍は気にしていたんだけど…ね?」 「なな…、何よっ! もうっ…また、みんなして、私のこと外すの!? 分からないわよっ! 分からないんだから、教えてくれたっていいでしょうっ!?」 もこもこふわふわしたものが充満しかけた空間を、かき分けながら叫ぶ。もうやだ、こんな風に仲間はずれにされるのは。兄弟の中だけで分かることで勝手に納得しないでよ。私が分からないことは、ちゃんと説明してくれなくちゃ。そうやって、一緒に想いを共有したい。 だって、私は。もう大泉の家族なんだから。これから、ずっと一緒に暮らしていくんだから。私とこうちゃんの弟くんたちは、血は繋がってなくても兄弟なんだから。 「あのね」 「兄貴のことを、『こうちゃん』って呼んでいたのは、俺たちのお袋。…だからね、すぐに分かった。兄貴にとって花菜美さんは本当に特別な人間なんだって…」
…そうやって、こうちゃんのお母さんは息子たちを呼んでいた。亡くなるその時まで。いつまでも子供扱いして、とお父さんがたしなめてもそれだけは改まらなかった。 「どうしてですか、この子たちはいつまでも私の、私たちの大切な子供です。それはいつまでも変わらないんですよ…?」 こうちゃんにとって、「こうちゃん」と言う言葉は、自分の命を慈しんで育んでくれたあたたかい人の特別の調べだったのだ。
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「水橋…?」 「言いたいことがあるなら、言っていいよ。水橋が黙っていると、本当に分からなくなってくる。ある日突然、爆発されると…本当にどうしたらいいんだか」 「うん…」 こうやって、くっついていて。本当にこうちゃんがいればいいんだと気付く。ただ、こうちゃんがいてくれるだけで、こんなに幸せなのに。満たされるのに。 …私は、欲張りだ。 「こうちゃんって…、どうして赤ちゃん欲しくないの? 子供嫌い? …そうじゃないよね」 「…へ…?」 ああ、恥ずかしいよ。直接的な言い方をしたわけじゃないのに、どうしてこんなにどきどきするの? 何か嫌じゃない? 女の方から誘っているみたいじゃないの。 「そんな…ことで、今まで怒っていたのか…?」 こうちゃんが、信じられないと言う感じで言う。 「そっ…そんなこと、じゃないもんっ! 大切なんだもんっ…!」 がばっと起きあがった瞬間に、こうちゃんと目が合う。ものすごく恥ずかしくなって、どうしようもなくて、頬を押さえる。すごい、熱くなってる…。 「こっ…こうちゃんの、赤ちゃん…欲しいんだもの。どうして駄目なのかって、悲しかった…」 確かに。みどりちゃんに言われたこともあるかも知れない。でも、それだけじゃなかった。こうちゃんと結婚して、そしたら赤ちゃんが生まれて、お父さんとお母さんになって。そんな風になるんだと思っていた。それなのに、現実はそうじゃないから。変だなって、口惜しいなって…思っていたんだ。 こうちゃんが毎回、ちゃんと避妊してるの分かっていたから。どうしてなんだろうって、聞きたいのに聞けなくて…。 「そ、そうか…」 「…こうちゃん?」 たっぷり5分くらいの間があって。あまりに長い沈黙に耐えられなくなって、声を掛けた。こうちゃんがおずおず、と言った感じで口を開く。 「水橋、大変そうだったから。弟たちの世話だけでも息切れしてるのに、豪太郎まで押しつけられて。それでも音を上げずに頑張ってるのには感心したけど…この上、子供なんて出来たら、それこそ、もう壊れちまうんじゃないだろうかって――…」 「え…」 「こうちゃんと私の赤ちゃんなら、どんな状況だって大丈夫だよ? どうして、そんなこと心配するの? おかしいよ、こうちゃんは…」 じっと顔をのぞき込んだら、こうちゃんがもう赤黒くなっているのでこちらまでとてつもなく恥ずかしくなる。ああん、こんなところでする会話じゃない〜〜〜っ! 病室なのよ、公共の場なのよっ! どうにかしてよ、もう。 「そ、それにだなあ…」 「も、もしもだぞ。女の子が生まれて、俺にそっくりだったりしたら…可哀想だなって。こんな顔じゃ、嫁のもらい手もないだろう…女の子は父親に似るっていうから、それを考えると可哀想で可哀想で…」 「こ、こうちゃん…」 もう、開いた口が塞がらない。やだ、どういうことなのよ…!? 何で、今からそんな心配をするの! 女の子なんてお化粧でいくらでも変えられるんだから…っ! それにそれに、こうちゃんにそっくりな女の子だって、なかなかいいと思うけど? …た、確かに美人ではないけど。 「やだ、もう…こうちゃんってば…」 「わ、笑わなくたって…いいだろ…?」 ほっぺが熱くて、その火照りを鎮めたくて。私はまたこうちゃんの掛けている毛布にカバーの上からすがりついた。一瞬だけひんやりとして、すぐに熱さがぶり返す。おかしさと嬉しさが一緒になって流れる涙が、頬を伝って落ちていく。でも、幸せで。すごく満たされていて。 「あのね、こうちゃん…」 今なら、言える気がする。すんなりと言える気がする。私の一番のわだかまり。 「もうひとつ、言ってもいい?」 「え…まだあるのか!?」 こうちゃんの身体がぎゅっと強ばった。私も大きく深呼吸する。 「どうして…私のこと、『水橋』って、呼ぶの? 私はこうちゃんの奥さんでしょ? そうやって呼ばれるとすごく悲しいんだけど…」 「あ…」 「守谷さんのこと『美由紀ちゃん』なんて親しげに呼んで、ご飯なんて食べに行って。どうして、私のこと、ちゃんと名前で呼んでくれないの…?」 こうちゃんは口の中でもごもご言ってる。「やっぱ、それか…。あのときはすごい顔をしてたもんな」とか聞こえてきた。 「水橋は…じゃあ、どんな風に呼ばれたいんだ?」 やがて、こうちゃんは観念したように私に尋ねてきた。うわ、いきなり本題か…こっちも慌ててしまう。でも、答えるしかないかな。これを逃したら、それこそ一生『水橋』で、終わるかも知れないし。 「えっ…、えっとねえ…」 「やっぱり、…『花菜美さん』…じゃあちょっとよそよそしいから、『花菜美ちゃん』は子供っぽいかな…う〜ん『花菜美』とか呼び捨てにされたいかも知れない…」 「ああ…」 「実はなあ…俺の父親、とても威張っていて…その『亭主関白』って、奴かな。母親のこと、怒鳴り散らしていて、嫌だったんだ。それで、父親が母親のこと、呼び捨てにするから…何だか抵抗があって…」 「え…」 「お父さんと、こうちゃんと。それが何か、関係あるの…?」 こうちゃんは、ちらっと私の方を見て。それからくるんと、寝返りを打った。どうしても、顔は見せないぞという感じで。 「み、水橋のこと…そんな風に呼んでたら、いつか父親みたいになるんじゃないかと思って…怖いんだよ。あんな風になって、水橋に愛想をつかされたらと思うと――」 「やだっ! …もう、こうちゃんは〜!」 思わず、吹き出してしまった。 私に向けられているのは大きな背中。そこにきゅっと抱きついた。身体の半分はベッドの外だから、ちょっと苦しい体勢だったけど。まさか、お布団の中に潜り込むのはどうかと思うし。 「私、どんなに威張りくさっても、怒鳴り散らしても…そんなこうちゃんでも、やっぱり大好きだと思うわ。…でも、想像付かないけど…」 「おいおい…」 ふたりの身体が揺れて、ついでにベッドも揺れて。幸せのゆりかごみたいだ。あったかいね、こうちゃん。ずっとこうやって、ふたりでいたいね。時々はケンカしても、辛いことがあっても、乗り越えてまたふたりで笑いたいね。…そんなふたりがいいね。
「な、なあに?」 私の腕はこうちゃんの背中から脇の下を通って、胸に回っている。その、手のひらをこうちゃんの手が包んでいく。すごく、すごくあったかい。 「花菜美って、呼ぶのはやっぱり抵抗があるんだ…だから、『花菜』って…呼んでいいか?」 「…え…」 ――カナ。 その瞬間。私の周りの空気がふっと止まった。身体の奥の方から、忘れかけていた声が聞こえてくる。 …カナ…。どうして? カナ…。 やわらかな風が吹く、心の内側から。あの季節に戻っていく、全て全てが初めから繰り返されるように…私の記憶の中で微笑む人が、ふうっと薫風の中から鮮やかに蘇る。 …一瞬の、奇跡。
こうちゃんの声が近くでして。そして、ハッと我に返る。 「う、ううんっ! そんなことない、すごく嬉しいっ…!」 もう、必死で首を振った。背中を向けたこうちゃんからはそんな私の仕草は見えないと分かってるのに、あらん限りの力で。 「…そうか」 「じゃあ、改めて…花菜」 静かに視線が重なり合う。ふたつの細い目が私をまっすぐに見ていた。こうちゃんは肘を突いて身を起こすと、私の手を取る。ふたつの手とふたつの手。重なり合って、絡み合って。こんな風に頼りないお互いのぬくもりを寄せ合って、そして、ひとつの想いが生まれる。 今までも、そしてこれからも。 「俺の体調が戻ったら、すぐに子供作ろう? いいな、俺に似た女の子が生まれても、ちゃんと可愛がってくれよ…? これだけは、約束だからな」 「…うんっ…!」 そんなに見つめないでよ、恥ずかしいじゃないの。こうちゃん、自分で言っていることが分かってる? 結構すごいこと言ってるよ。 「みず…じゃなくて、花菜」 言いかけて、慌てて言い直す。慣れない響きにどぎまぎする…でも、それよりも。あの日を思いだしてしまって。これから、こうちゃんにこうやって名前を呼ばれるたびに、私は心のどこかで思い出すだろう。 でも、それは。 こうちゃんも同じだよね。こうちゃんも、こんな甘くて切ないもうひとりの響きを感じていたのかもしれない。特別な、音を心に受け止めながら。 「好きだよ…花菜」 白い病室の壁に染み通る声。夜のとばりの中で息を潜めて見守る記憶。 心に抱えた傷も痛みも。全部丸ごと…好きになる。全て全てをさらけ出せばいいというものでもないよね、でも逃げないで愛し続ける勇気をこれからも持ち続けたい。どんなこうちゃんでもみんな好きでいたい。こうちゃんを好きな自分を好きになりたい。 唇に感じる、もうひとつの体温。私が私であるための、大切な存在。つまづきながらでもいい、こうして一緒に歩いていきたいね。
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