「─────帰る途中で、倒れているのを見つけてね…」
夕食のテーブルに付くと、低い声で呟くようにロッドが話し始めた。
もし、隣の部屋の闖入者が目を覚ましたとしても、聞き取れないであろう小声だった。
「まさか見て見ぬ振りも出来なくてね…医者に見せに行ったんだよ」
そして、ちらっと寝室の方をうかがってから、
「こんな時に、すまないな…」
と、付け加えた。
「…素性は知れているのかい?」
アレクはポリスの職員らしく、冷静に聞いた。
「マーバマス商社、企画室部長…と持っていた身分証明にはあったが…」
「マーバマス? 香辛料…特に胡椒を主に扱う会社だよ。タウンに本社があって…」
新聞屋に勤めるジミーは、ここぞとばかりに知識を披露した。
「マーバマス…? 聞いたことないな。この村とは取引がないと思うけど…」
今度は郵便屋のリードだ。アレクも頷いて、
「そうだな…リース村のわずかな収穫より、南の国から直接仕入れた方がよほど安く付くだろう」
と、言った。
「だったら、こんな村にどうして…」
一同は首を傾げた。
「親戚でもあるのかと二、三当たってはみたんだが…そうでもないらしいようでね。それに宿屋にも予約がないそうなんだ」
ロッドの声に、皆、押し黙るばかりだった。
ゴースト来訪のニュースが飛び込んできただけに、今日に限ってはどんな人も疑いの目で見てしまいそうだ。
「よく寝ているわ…お医者様はなんて…?」
病人の様子を看ていたキャシーが寝室から戻ってきた。
「疲労と…精神的なもので外傷はないし、疲れを取るのが一番らしい。本当は医者に預けてきたかったんだが、今日はお産が重なってベッドが足りないらしい」
その後、ロッドは一同を見渡して言った。
「分かっているとは思うが…」
今までで一番、小声だ。
「あの男がどんな奴だろうと、気を許してはいけない。それだけは心していて欲しい」
四人は同時に頷いた。
月が冷たい光を放っている。
ぼうっと青白く浮かび上がった木の根元に、リードは座っていた。
…眠れなかった。
もう何回もベッドから抜け出していたので、足に負担をかけることなくここまで来られる技を身につけていた。
昼間なら村中が見渡せる丘も、暗い闇の中にある。
貧しい村には夜更けまでランプの灯を使う家もない。
村全体が眠りについているようであった。
…どうしても、眠りの淵に入っていくことが出来なかった。
今まで行方知れずの人生を送ってきたのに、それがいつの間にか慣れっこになっていたようだ。
直接、命に関わるような出来事を突きつけられて、こんなに戸惑ってしまうとは…
不覚、としか言いようがない。
「ただ、村見物というのならそれで良いが…」
セイジュ・S・モートン伯の視察について、ロッドはこう言った。
──── そんなはずはあるまい…と言う言葉が音もなく続いて
いるようであった。
考えすぎは良くない…しかし。
九年後の「死刑囚」の行動には何処か引っかかるものがある。 そんなわけで、他の仲間とは異なり、一日中を退屈にベッドで過ごしてしまったリードが眠れるはずもなかった。
ロッドもアレクも…今回については下手な小細工が通用しないと言うことを知っている様子だった。
──── 今までは表に出してなかったが…二人の兄はいつかゴーストーストを倒そうとそれぞれに思い続けていたのだろう。
だから、今回のニュースにも比較的、冷静に対応してしまっていた。
リードは改めて、自分の幼さを悟った。
いつかこう言う事態が訪れると言うことを、どうして考えられなかったんだろう?
九つになった秋から、がむしゃらに生きてきたとしても…
「リード、そこにいるの?」
いつもよりトーンを落とした声が、彼を呼んだ。
「ちゃんと、毛布は持ってきたよ」
リードは振り返ると軽く微笑んで見せた。
「もう!」
ショールを肩に羽織ったキャシーは、すたすたと彼の横まで歩いてくると、
「そういう問題じゃないでしょう?」
と、言っていつものように隣に腰を下ろした。
「何、考えていたの?」
彼女はリードの顔を覗き込んだ。答えはなかった。
「─── タウンのことかしら?」
キャシーは視線を空に向けた。
辺り一面を照らし続ける月が青白くそこにあった。
「リード、って…」
まるで独り言のように彼女は続けた。
「クーデターの頃、九つだったわよね?」
「─── そうだよ」
リードも何時しか月を見ていた。
「いいなあ…だったら少しは覚えているわね、家族のこと。兄弟は何人いたの? …そんなこと聞いたこともなかったわね」
そう…だな、とリードも不思議に思った。
九年も一緒にいたはずなのに、家族のこともそれまでの生活のことも、ついに話に上らなかった。
まるでみんな忘れてしまったかのように誰の口からも語られることがなかった。申し合わせていたかのように。
「姉さんが一人、後は両親」
長い間、口にしなかった言葉が声になった。
とたんに、忘れたくても忘れられない日のことが脳裏に甦ってきた。
いつもは忙しさに紛れて忘れていても、時折、心を埋め尽くす記憶だ。
ハーモニカ。
リードがあの日、たった一つ握りしめていたもの。
今夜も何気なく手にしていた。
「…きれいな音色ね」
彼女は相変わらず、月を見ていた。
何年たとうと、その音色は変わらなかった。
────── リードが初めて、今の仲間と出会ったのは…クーデターの夜だった。
その夜、リードはいつものように、二階の自分の部屋で休んでいた。
今では夢としか思えない大広間。続き間の窓際にベッド。
大きな本棚と机。
天井まで届く大きな窓には縁飾りのついたゆったりしたカーテンが掛かり、そこからテラスに出られる造りになっていた。
家にどんな部屋があったのか、どのくらい広かったのか、小さかったリードには把握し切れてなかった。
自分の部屋だけでも広すぎて持てあまし…実際、三人のメイドが毎日、小一時間かけて自室の床を磨き上げていたのを覚えている。
…きな臭い…?
何かが焼け落ちる音とともに、リードは目覚めた。
「…何…?」
少し不安になったリードは、多分、母親の元に行こうとしたのだろう、ベッドを降りて廊下に続くドアに駆け寄ると重いレバーをあらん限りの力を込めて押し開いた。
次の瞬間────彼の体は恐怖に凍り付いた。
…火!?
廊下は天井まで届く炎で、まさに火の海と化していた。
辺り一面を舐め回す炎の舌が、餌を求めてリードの方に襲いかかってくる。
遠くでガラスが砕ける。
大きなものが倒れる音がする。
悲鳴、断末魔──── …
「逃げなくちゃ…!」
自分に言い聞かせた。
それが、当時のリードに考えられるひとつだけの判断であった。
どうして建物に火が回っていたのか、他のものはどうしたのか…何かあったら飛んでくるはずの爺やもメイド頭のサリーも一体何処に行ったのだろう。
それすらも考えるゆとりがなかった。
いつもと変わらない、ごく普通の夜だったはずだ。
宮廷の晩餐会に出かけていた両親や姉は夕食のテーブルにはいなかったが、休むときにはサリーが子守歌を歌ってくれて…。
リードは炎から逃れるように窓際まで駆け寄り、ベランダから手の届く木の枝に飛び移った。
その瞬間、部屋の本棚が火だるまになるのが眼に映った。
枝から枝へと降りていく間、屋敷はますます燃え広がっていく。
─────速く…!!
今に、建物は崩れると予感した。
全速力で走り、門の所まで来て初めて振り返ると、屋敷の姿は跡形もなく、ただ、火の山がそこにあるだけだった。
自分の身がひとまず安心だと思ったとき、リードはタウン全体が火の海になっている事実に気付いた。
空は不気味なほど明るい紫色。
ここでリードは立ちすくんだ。
この先の道が分からない。
今の今まで自分の足で門から外へ出たことがないのだ。
しかし、引き返す道はない。
彼は門から出ると、通りを左手の方角へひたすら走った。
視界に入る建物は全て火の粉をまき散らし、崩れようとしている。
そんな事態で、人影がないのが変だ。
「もうみんな…遠くまで逃げてしまったのかしら…?」
自分の家から右手にいくらか行けば、国王一家の住む宮殿が森の中にゆったりとたたずんでいることは分かっていた。
ここらは貴族達の邸宅が続く一等地である。
十一月ともなれば、寒い地方なので木々は丸裸だ。落ち葉もたくさん敷き詰められている。
そんなところに火が回ったらどうなるか…考えただけで怖かった。
火から逃れるためには町はずれに向かうのが得策だと思ったのだ。
しばらくいくと視界が開けて、大通りに出た。
人影も見えた。
「これで助かる…」
大人も子供もいた。
少なくても大人がいればどうにかなるとリードは信じていた。 逃げまどう人の波に続こうと、足を速めたとき、
「おい! そっちに行くんじゃない!!」
不意に左腕を捕まれた。
「こっちに隠れるんだ!!」
太くて低い声。
その声の主を確かめる間もなく、リードの体は近くの倉庫に引っ張り込まれた。
「だ…誰…?」
リードが振り向こうとしたその時、大通りに銃声が轟いた。
倉庫の窓からその惨事をまざまざと見ることが出来た。
さながら、映画のシーンであるかのように…
銃の音がすると同時に人々は血しぶきを上げて倒れ込んだ。
その群衆の中にリードはいたはずだった…
辺りが静まりかえり、何か叫んでいくつかの足音が遠のいていった後、赤々とした炎のライトの下、死体の重なり合う地獄絵が浮かび上がった。
リードはそこから目をそらすことが出来なかった。
「おい、大丈夫か?」
低い声が再び語りかけてきたとき、リードはようやく我に返った。ガクガクと震える体で動けなくなっていた彼は、ようやく自分が今一人ではないことを思い出した。
側にあった木箱に手を付いて、ようやく振り返ると声の主が思いがけずとても幼かったことに驚いた。
とは言ってもリードよりはいくらか年上のようであった。
薄茶の短めの髪のその少年は、飾りレースの付いたブラウスにビロードの上着を纏い、七部丈のズボンを履いていた。
「────俺は、ロッド」
声の主は冷静だった。
「お互いこんななりじゃ、すぐに殺られてしまうぞ。命が惜しかったらこの辺にある作業着に着替えろよ」
それだけ言うと、自分はさっさと上等な服を脱ぎ捨て、使用人が着るような粗末な服を着込んだ。
服は麻袋のような臭いがした。
正直言って余り着たいものではなかった…
「おい早くしろ、火が回るぞ」
まだ火は付いていないものの、服や板きれ、紙切れなどが散乱するその室内は一端、火が付いたらひとたまりもなさそうであった。
勝手が分からないままだったが、今見た風景と少年の言葉に急がされて、リードはあたふたと着替えた。
ガウンを脱いだとき、ゴトンと何かが落ちた。
ハーモニカだ!
リードは素早く拾うと、それを今着た服のポケットに収めた。
「着替えたら行くぞ!」
少年の声にハッと我に返った。
「ね、ねえ…!」
背中を向けた少年にリードはやっと話しかけることが出来た。
「何だ?」
「教えてよ、一体何があったの? どうして逃げなくちゃいけないの? …どうして…逃げないと僕は殺されちゃうの?」
振り向いた少年…ロッドは心底、意外そうな顔をして…笑ったのだ。
そう、確かに一瞬、笑ったのだ。
その後、ゆっくりと口を開いた。
「ゴースト…さ」
「ご…ごう…すと…?」
リードにとって、初めて聞く言葉だった。
「─── 何だ、お前は…まさかそれも知らないのか?」
ロッドは呆れ声で呟いた。
仕方なくリードは頷いた。決まり悪かったが、知らないものは仕方ない。
「ゴーストって言うのはな、明後日、処刑が決まっていた、一八人の集団だ。罪という罪を舐め尽くし、そういう刑を受けるまでになったんだが…とうとう最後にとんでもない悪事を思いついたらしい」
「悪事?」
「そうだ」
ロッドは短く言葉を切った。
リードにはまだ良く理解が出来ていなかった。
「悪事って…こうやって、いっぱい火を付けることなの?」
「あ……」
ロッドは頭を抱えた。
しかし、すぐに気を取り直して話を続けた。
「お前は…よっぽどの箱入りで育ったらしいな。さもなくばさぞ、楽天的な大人に育てられたかだ。…まあ、そんなことはこの際、どうでもいい、こうやってタウン中に火を放てば人々は館とともに焼け死ぬか、または俺達のように焼け出されて出てくるだろう。そこをズドンと…さっきのようにな、あれでイチコロさ。全てを火の中に葬り去って…奴らは自分たちが動かす新しい国を造ろうとしているんだ」
「え…じゃあ…」
さすがにリードも事態が飲み込めてきた。
全身から血の気が引いていくのが分かる。
「そうだ、国王一家は晩餐会の広間に突然現れた奴らの銃弾に倒れた。同席していた人々のほとんどもな。…俺は広間でこれの腕を披露している最中だったから一部始終見ていたよ」
彼がポン、と叩いたのはバイオリンのケースだった。
「奴らとしてはそれだけでは不十分だと考えているんだろう…力あるもの、敵討ちをするものがないよう…片っ端からタウンの人間を殺すつもりだ」
「だから…僕も…?」
「そうだ、お前、見てくれだけで貴族のボンボンと言っているようななりをしているもんな…そういえば、まだ名前も聞いていなかったな」
「え…僕リード、リード・ストライガー……」
よく分からない、けれどこの人は味方だと、頼りになりそうだとリードは確信していた。
「俺はロッド・オールソン…」
その時、リードの視界を何かが横切った。
「ロッド、後ろ…!」
戸口から、こちらに男が銃を向けている>
「ふざけるな>」
ロッドのバイオリンケースが空を切って、男の顔面を直撃した。 大きな音をたてて、その男は転倒した。
「行くぞ! リード!」
窓ガラスを破り、二人は外に飛び出した。
「ロッド…バイオリンが…!」
「あんなもの構わない! それよりリード、これから俺は奴らから逃げ延びるつもりだ。命に保証はないが、一緒に行くかい?」
「も…もちろんさ!」
もう戸惑ってなんていられなかった。
ロッドの背中を追って、リードはひたすら走った。
さっきの男が起きあがり、何時追いつくか知れない。
大通りには今や逃げまどう人影はなく、死体だけがゴロゴロと数え切れないほど転がっていた。
躓かないように飛び越えながら…リードはふと、通りの脇の街路樹の根本に目がいった。
「待って! ロッド…人がいる!」
リードの声に、ロッドも足を止めて振り向いた。
幸い、近くには敵の気配はないようだった。
木陰にいたのは、小さな女の子だった。
「…だれ…?」
そこらじゅうが焼けこげたネグリジェを着た少女はおびえた目で二人を見つめた。
「僕たちは、君の味方だよ…」
リードが優しく話しかけたとたん、少女は緊張がとけたかのようにわっと泣き出した。
「お…おうちに火が付いて…とうさまとかあさまと…逃げたの…そしたら…そしたら…」
少女の視線の先に、路上に転がった男女の死体があった、刃物でメッタ切りにされたらしく、思わず目を背けたくなる惨状だった。
彼女はその光景をずっと見ていたに違いない。
リードが振り返ると、ロッドは大きく頷いた。
「もう大丈夫だよ。君…名前は?」
少女は足をひどく怪我しているようで歩けそうにない。
リードはそっと彼女を抱き上げた。
「キ…キャシー…、キャサリン・グレイン…あっ、ジミー!」
木陰には少女の他に、赤ん坊がいた。
この事態にあって、少しも気付かず、すやすやと寝息を立てていた。
もし、この赤ん坊が目を覚まして泣きわめいていたら…今頃、この姉弟はこの世の人ではなかっただろう。
「危ない!」
その時、静寂を破る叫び声が響いたかと思うと、次の瞬間、銃声が辺りに響いた。
リード達は身を縮めた。
──── かなり近くで、何かの倒れる音。
男…銃を持った男であった。
多分、ゴーストの一味であろう。
リード達を狙っていたに違いなかった。
…でも…どうして…?
「お前は…?」
ロッドの声が低く響いた。
少し距離を置いて、炎を背にブラウンの巻き毛の少年が立っていた。
手にした銃の銃口から煙が立ち上っている。
「アレク、アレキサンダー・シューベルント。さ、早く」
巻き毛の少年は皆を促した。
空は変わらず紫に染まっており、右も左も、火の海はどこまでも限りなく続いていた。
「そういえば…よくリードが、そのハーモニカ、吹いてくれたわね。アレク兄さんが歌を歌ってくれて…」
キャシーが少し微笑んで言った。
バイオリンやピアノのレッスンは小さなリードにとって、退屈なだけであった。
『貴族としての教養を…』と、両親も先生も言ったが、そんなことが何の役に立つとも思えなかった。
そんな中で、父親が外国土産に買ってくれたハーモニカは特別だった。
小さな手にも収まり、何処に行くときも持ち歩いていた。
あの夜…町はずれまで逃げ落ちたとき、
「お前…大事そうに何を握りしめているんだい?」
と、ロッドに言われるまで、手にしていたことすら気付かないでいた。
たったひとつの思い出。
「ねえ、リード?」
今度は真っ直ぐに視線を向け、キャシーは語りかけてきた。
月明かりに照らされて、浮き上がった後れ毛がタンポポの綿毛のように見える。
「何?」
何故か、どきまきしてしまう自分を隠すように、リードは冷静を保った。
「私たちって…」
軽くため息を付いて、彼女は続けた。
「私たちって…別に不幸じゃなかったわね。二つ分の生き方が出来たんだもの…」
リードは首をすくめた。
「キャシーの口からそんな言葉が聞けるようになるとはね…」
「あら? そうかしら?」
「─── いや」
リードは首を振ると、微笑んだ。
何かが吹っ切れたような気分だった。
何よりも大切なのは未来。
過去をあれこれ思うより、これからが大切だ。
───── せっかく手に入れた自分たちの小さな、当たり前の
空間…それを体を張って守ってみるのもいいかも知れない…
何より、一人ではないのだから…
「戻ろうか…」
リードが明るくそういうと、キャシーも頷いた。
月はますます青白く、丘の上の家を照らし続けていた。
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