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夢見るHard Winds
Act7・見えない影

 

「何だ…気のせいか?」
 ホッとしたようにロッドは椅子に座り直した。

「いや…違う」
 外をうかがっていたアレクの声が震えている。
「今日はまだ、丘を降りたものはいないだろう? 露に濡れた草の上を…誰かが歩いた跡がある…」
「何?」
 その言葉にロッドもドアの所まで進み出た。
「本当だな…」
 その声は安堵の色に戻りつつあった部屋の空気を一掃した。

 ドアの外に広がる風景…そこを覆い尽くした背丈の低い草は朝露に濡れて朝日に白く輝いて見える。そんな中、濃いグリーンの線が丘の上の小屋の玄関付近まで続いていた。

「誰かが来たんだ…」
と、リードが言うと、
「じゃあ、まだこの辺りにいるかも知れないわ!」
 キャシーもみるみる青ざめていく。
 
 全くその通りだった。

 しかし、ドアから広がる風景の何処にも人影は見えず…そのことが尚も恐怖感を高めた。
 下の河原までの所々には点々と背の高い杉が生え、林もある。その何処にでも身を沈めることは可能であった。少し背丈のある草陰でも、そして物置の陰にでも今にもゆらりと影が動きそうであった。
「…一体…どういうことなんだ」
 さすがのロッドもやっとそれだけ言うと、自分の席に戻った。

 誰も、言葉はなかった。

 だが、言いたいことは言い尽くせないほどあった。
 護兵が来ない、と言うのは嘘ではないか? やはりオルフェイン氏の死と関係があるのか? 自分達は一体、誰から狙われているのか…もしかするとこれらすべての疑惑自体が自分たちの作り出した幻想ではないのだろうか…?

 でも。

 だとしたら。セイジュ・S・モートンの視察の真意は…?

 静まりかえった部屋の中で時計の振り子だけが確実に時を刻んでいた。その音が今日は異様に大きく耳に響くような気がした。

 まるで湖の底のような雰囲気の中でただひとり、明らかに表情の違うものがいた。
 カーター氏である。
 彼は何一つ、言葉を発しようとはしなかったが…他の六人とは違うところを考えているようである。…まるで何かを楽しんでいるかのような…

 それに気付いているものが一人だけいた。しかし正面切って口に出すことはなかった。

 重々しく流れる空気の中で七つの皿のスープがどんどん冷めていった。

 

 時計が八時半を回ると、アレクとロッドは出勤の時間になる。「私たちも出掛けなくてはね、リーア」
 キャシーはようやく微笑んだ。しかし、リーアの表情は硬いままである。
「もしも、銃を持っている人間であれば…」

 アレクは窓の外を眺めながら言った。
「狙撃されるかも知れない」

 あれきり何事もなかったが、やはりどこかに誰かがいるような気はした。

「なあ、ロッド。子供じみているかも知れないがみんなで一緒に出よう。俺は護身用の銃を持っている。もし狙撃されれば、相手を一発で仕留めてみせるさ」
「そうだな。まさか商店街の中で銃撃戦をしようとは誰も思わないだろうからな」
「相手が常識のある人間ならな」
 アレクは上着を着込みながら、強気に笑った。彼はボタンを留めると銃を確かめた。

 皆が忙しく支度をする様をリードはぽつんと眺めていた。心の中ではどうしたら「動けるか」を一心に考えていたのだが。
「リード?」
 身支度を終えたキャシーが話しかけてくる。
「お昼はミルクとパンとサラダで食べてね。今日はなるべく早く戻るから…悪いんだけど、ジャガイモをむいて置いてちょうだい、よろしくね」

 すっかり母親の顔である。だが、これが九年間培ってきた彼女の立場だった。
「分かった」
 リードが笑顔で答えると、彼女は小声で耳打ちするように、
「くれぐれも気を付けて…何かあったら板きれでも持って、暴漢の一人ぐらいやっつけちゃうのよ」
と、付け足した。そして面食らったようなリードと目が合うと、にっこり微笑んだ。まるで彼女の彼女なりの宣戦布告とでも言うように…

 慌てて、ドアの外の三人を追っていく後ろ姿を眺めながらしばしきょとんとしていたリードはやがて部屋の中に視線を戻した。
 そこには古新聞を整理しているジミーの姿があった。

「あれ…? なんだ、お前。どうしてこんなに今日はのんびりしているんだい?」
「…嫌だなあ、リード兄貴」
 ジミーは呆れ声で答える。やはりキャシーと面差しが似ている。
「今日は休刊日だって昨日言ったろ。だいたい、普通は僕が朝食の席にいるわけがないだろう? 気付けよな〜?」

 とても五歳近く年上の人間に話す口調ではなかったが、その言葉にリードはようやく思い出した。これから忙しくなるから、休刊になったのだということを。そのあと、ふと思い当たってもう一度話しかける。
「そういや、ジミー? どうなんだい? ダークじいさんの養子騒ぎは」
「それにはもう十分参りきっているよ」
 ジミーは面倒くさそうに昨日の一連のやりとりを話して聞かせた。
「あのじいさん、一体何を考えているんだろう? この頃歳のせいか特にひどいんだ。一日に三回も話されてみろよ。じいさんが嫌いな訳じゃないけどいい加減にして欲しいよな」
 ジミーの言葉にリードは苦笑した。相変わらずの事らしい。
 
 五人の元に養子の話は幾度となく舞い込んできた。子供のない家、女の子のない家、男の子のない家…本人がその気にさえなればいつでも家族を持つことは出来たのだ。

 キャシーとジミーこそ本当の姉弟ではあるが、その他のメンバーは「タウンの生き残り貴族子弟」という共通点があるだけの寄せ集めである。自分を護ってくれる大人と暖かい食卓のある安定した暮らしは魅力的でないとは決して言えない。実際、同じ年頃の子供達が何不自由なく学校に通ったり、遊んだりしているのを目の当たりにすれば…心が揺らがないわけはない。  

 しかし、そうはならなかった。

 養子の話が持ちかけられるたび、五人はテーブルを囲んだ。
 そして静かに当人の判断を待った。

 ジミーに養子の話が初めて出たのは、新聞屋に勤めだして間もなくの彼が七歳になったばかりの春だった。
「どうするか?」
 ロッドの静かな問いかけにジミーはゆっくりとかぶりを振った。小さな、赤ん坊の頃から眺めている弟分のはっきりした意思表示をリードは今でも鮮明に覚えている。
 彼の心はそれから六年たった今も変わらないようだ。

 暖かい家族というものと今の仲間の間で揺れている仲間の姿…その姿をロッドはいつでも何も言わずに黙って見つめていた。その目は何かを語っているようでもあり、ただ無心であるかのようにも見えた。
 別に強いられたわけでもなく、仲間の答えはいつも同じ結果に収まったのはあの眼のせいではないかと考える。ただ自分より年長なだけでは語り尽くせない存在感がロッドにはあるような気がしていた。

「でも、お前は新聞屋の仕事は好きなんだろう?」
 気を取り戻して、リードは静かに話し始めた。
「そりゃあ、好きだよ。嫌いだったら朝の五時前から活字拾いが出来るかっていうの。でもそれとこれとじゃ、話は一緒にならないだろう?」

「そうだろうな」
 ジミーの言わんとする事がリードに何となく伝わった。

「今日の休刊はそういう意味でもしばしの休息と言うところかな? これから忙しくなったらじいさんも忘れてくれると思うのだけど…」
 ジミーは首をすくめると困ったような眼でリードを見た。
「そうだといいな」
 こればかりはダークじいさん本人でないのでリードには断言することは出来ないが、自分の願いも込めてそう答える。

と、そこにカーター氏が外から戻ってきた。
 彼は少し外に出たいと家の周りをぐるりと回っていたのだ。人が潜んでいる危険性が高いが今なら丘を降りていく仲間達がいる。少しは安全だろうと言うことになったのだ。
「やあ、久しぶりに風に当たった気がするよ。もうすっかり春なんだなあ」
 カーター氏の不思議なぐらいの穏やかさにリードは驚きを隠せなかった。
 人が殺されたり、謎の人の気配がしたりと物騒この上ない状況下でどうしてこんなに落ち着いていられるんだろう? 大人というものはこんなに落ち着いているものなのだろうか?

 よくよく考えてみると大人という人種をこんなに身近に感じるのはタウンにいたとき以来だ。村人との交流はあるが、彼らは彼らなりに自分たちを一人前の人間として扱ってくれていたからそれなりの距離があったのだろう。第一、一緒に寝起きをすることもなかったのだし。カーター氏の前では丘の上の住人達のリーダーであるロッドまでもが子供に見えた。

「ここはミスター・カーターが住んでるところよりずっと南だからね。ティレス区って、まだ寒いんだろう?」
 ジミーは彼に椅子を勧めながら言った。
「ああ、例年通りならまだ雪がだいぶ残っているはずだ」
「へえ、まだ雪が…タウンはその北西なんだよな。寒いだろうなあ…」
 ジミーはまだ見ぬ…いや、もう遥か遠くの記憶にも残っていない産まれた土地の事を楽しそうに話している。
「そう、リード君。樹に繋いであるのは君の馬かい? なかなかいい馬じゃないか」
「そう…ですか? 馬屋から譲り受けた奴なんですけど」
 リカルドのことを誉められても、素直に喜べないのはやはり振り落とされた記憶が鮮明だからか?
「ここの住人達はみんな馬に乗れるのかい?」
「必要に迫られた、と言う感じですがね。馬でもないと生活できない土地柄だし…」

 そうは言ってもここに来るまで、乗馬の心得のあったのはロッドとアレクだけであった。リードも練習はした覚えがあるが、馬を引いてもらって、どうにかまたがっていられる程度だった。何回も振り落とされながら練習を繰り返し、乗りこなせるようになったのは「生きていく」強い意志があったからだからだろう。

「キャシーですら、この丘の急斜面を楽に降りてしまいますからね」
「そりゃあ、乗馬の大会に出られらそうだなあ…」
 カーター氏はフフと軽く笑ってから、
「じゃあ、今は役目がなくてお休み中というわけだな」
と、付け足した。
「そうですね、俺の足が…」
 言いかけて、リードはハッとした。
 リードの心中を知ってか知らずか、カーター氏は変わらない様子で
「残念だね」
と、言った。

「ねえ、ねえ、ミスター・カーター。良かったら、仕事の話をしてよ」
 ジミーが2人の間に割って入ってきた。
 カーター氏が土地の名前を挙げながら、商談の話をしているのも空にリードは先ほど思い立った事を考えていた。

 リカルド…馬の力を借りたら、馬の足を借りることが出来たら…。

 どんよりとした雲間から陽の光がこぼれてきたように、リードの表情は明るくなっていった。

 

「おい、アレク」
 不意に名前を呼ばれて、アレクは書類から顔を上げた。
「──── レイフ」
「何だ、またモートン伯のご視察関連の文書を読んでいたのか。熱心なことだね。それより、お客だよ。面会だ…早く行けよ、レディーを待たせるもんじゃない」
 彼の声はいつもの明るさであった。
「レディー…?」
 キャシーのこと…じゃないだろうな、どう見てもレディーって柄じゃない。だったら…
 レイフの意味深な言葉にアレクは首をひねった。
「おやおや」
 レイフは大げざに首をすくめて、
「自分の最愛の恋人を忘れたのかい?」
と、言った。とたんにアレクは叫んだ。
「リーア?」
「ほら、行った、行った。ブレイクはまだ三十分以上あるから、ごゆっくり」
 レイフに背中を押されて、アレクは出口に向かった。

「アレク」
 不意に背後から名前を呼ばれた。
「何だ?」

 振り向くと今までの快活さがなりを潜めたように心配顔の友の顔があった。
「お前…仕事熱心なのはいいが、彼女に会うときぐらいは眉間にしわを寄せるのはよせよな。この頃、根を詰めているようだが…」 温もりのある声に応えてアレクは口元に淡く笑みを浮かべた。「すまない、気を付けるよ」

(レイフは…)
 アレクは歩きながら考えた。
(彼は何か知っているのだろうか…? まさか…?)

 ポリスの制服の長い裾を風になびかせて門を出ると、立っていたのはやはりリーアだった。
「どうしたんだ? ここに尋ねてくるなんて…初めてじゃないか?」
 リーアは恋人の仕事場に訪れるようなマナー違反はしない人だ。それだからこそ、「レディー」とレイフが言っても。アレクには心当たりがなかったのである。
 彼女の表情は冗談交じりに笑いかけられるようなものではない。
 アレクは声を潜めると、
「何かあったのか?」
と、優しく聞いた。リーアはかぶりを振った。
 リーアが思いあまって、何か言いそうになった時…アレクは素早く彼女の口に自分の人差し指を軽く当てて、
「ここじゃまずい。誰かに聞かれるといけない…河原に行こう」と、手を取って歩き出す。

 昼下がりの河原には人影はなかった。

 二人の長い髪はそれぞれに緩やかな風に吹かれてなびく。河原は春の花で覆い尽くされていた。

「私、怖くて…」
 川の流れに目をやりながら、リーアはポツリと言った。
 彼女の目にはもう涙が溢れ出ていた。淡々とした言葉も痛々しい。
「…君が心配する事なんて、何もないだろう?」
 アレクは静かに答えた。
「────でも!」
 リーアは向き直ってしっかりした瞳でアレクを見つめた。
「一日、一日、確実に近づいてくるんですもの、彼のやってくる日。父のことはもう諦めているんだけど…父のことを考えても、やっぱり何もなく通り過ぎることはない気がするの。みんな…丘の上のみんな、それを静かに受け止めているようだけど、やっぱり駄目、…私は…」

 彼女は言葉を詰まらせて唇をかみしめていた。
 しかし涙は留まることを知らず、溢れ出ては頬を伝って流れ落ちる。

 その姿を黙ったまま見つめていたアレクがゆっくりと話し出した。
「────あのね、みんな…多分、不安なんだよ」
 リーアは意外そうな表情をした。
「え…だって…そんな風には」
 アレクは彼女をそっと包み込むような優しい目をして、ひとつ、頷いてから話を続けた。
「君ももう知っているとおり、俺達はタウン生まれだった、何の不自由もなく育てられてきて…あの日に全てを失った」
 静かな語りにたとえようのない憂いが流れた。

「目の前にね…」
 そう言いながら彼は自分とリーアとの間で、両の腕に空間を包み込んだ。
「確かにあったものが、消えたんだ」
 彼の両腕は柔らかい曲線を描いて音もなく空間を閉じた。

 一瞬して閉じられたその場所をリーアは息を殺して見つめていた。

「何も、残らなかった。それから後、生き伸びることだけを考えてがむしゃらに生きてきたから…きっとみんな、心を外に出せないんだと思う」
「アレク…も?」
 リーアはかすれるような声で言った。アレクはゆっくりと頷いた。
「ああ、残念ながらその通り。成り行きとはいえ、君まで巻き込んで…今日も明日も生きていられる保証なんてないしな…」

 彼の表情はいつになく気弱なものを映している。ピンと張った快活さがなく、明らかに「丘の上の小屋」の兄の顔ではなかった。
 それから何かを隠すようにリーアに背を向けて、川の流れを見やった。言葉は途切れた。
「アレク!」
 しかし沈黙はすぐに破られた。
 アレクは自分の背中ににわかに温もりを感じた。
「死なないで…」
 くぐもった声。それはポリスの制服の背に顔を埋めている恋人の声に他ならなかった。.
 背後から胸に回されたしなやかな腕は小刻みに震えている。

 しばらくそのままの体勢で立ちすくんでいたアレクはやがてゆっくりと向き直ってリーアの顔を覗き込んだ。

 その眼はいつも通りの優しい色に戻っていた。
「…リーア?」
「こういういい方って良くないと思うのだけど…私…あなたに生きていて欲しいの。あなたがいなくなってしまったら、目の前から消えてしまったら…今度こそ私は本当にひとりぼっちになってしまうわ。…ううん、私はどうなってもいいの、あなたが無事でいてくれたら…」

 いつの間にか。

 ごく自然なまま、リーアはアレクに抱きすくめられていた。
 寂しさも不安も恐れも…一瞬のうちに消え失せ、時の流れが止まってしまったかのような長い長い沈黙が辺りを包んだ。

 やがて風が緩やかに流れ出し、何処かで鐘の音が聞こえる頃、アレクはようやく口を開いた。
「俺も」
 言葉を一端切って、腕に力を込める。
「リーアには生きていて欲しい…何処にも行かないよ。…決して、独りになんて、させない」

 それが確信の持てない言葉であることは2人とも十分承知していた。しかし今、言葉以外に慰めになるものはない。

 まだ浅い春がぎこちなく二人を包む。
 幸せが容易く手に入らないことを無意識のうちに感じ取りながら…それでも今この瞬間。独りじゃないことだけが確かだった。

 

「おやあ。 誰もいないのかい?」
 雑貨屋の店内に呆れ声が響いていた。
「はあい、います…きゃあ!」
ガラガラ…ドシャーン!!
「あ痛…たた…」
 もうもうと埃が舞い上がった中から、キャシーは腰をさすりながら立ち上がった。
「いらっしゃい、イルミアおばさん」
 思い切りの営業スマイルにも対するイルミアの方は呆れた顔で眉間にしわを寄せている。
「何だい、キャシー。あんた、オルフェインの店を壊しているのかい?」
「違うわよ〜」
 キャシーは埃まみれのまま、ふくれっ面になった。
「リーアがタワシが切れたから補充してくれと言うから探していたのよ。屋根裏にあると言うんだけど…はしごが見つからなくて…」
「で、これで代用したのかい?」
 イルミアはそこら中に散らばった椅子を指さして言った。
「全く、キャシー。あんたそれでも嫁入り前の娘だろう? こんな足場の悪い踏み台で落ちて打ち所が悪かったらどうするんだい?」
「完璧な組み方だと思ったんだけどなあ…ほら、ちゃんとタワシの箱も見つかったわよ!」
 キャシーは得意そうに木箱を指さした。
「オルフェインは遠出をしていると言うけど…リーアはどうしたんだい?」
「ちょっとお使いに行ってるの、私は留守番してるんだ」
「リードと言い、あんたと言い…人の災難まで背負い込んで楽しそうにしているんだから、全くおめでたい限りだね」
 イルミアは腰に手を当てて、わざと大きく溜息を付いた 。

「あれ、ところでおばさんは何しに来たの?」
 キャシーはそのことにようやく気付いた。
「そうさね、あんたに話してもいいか。レイオスの親父がね…ほら、ご視察の際に宿になる酒場の主人だよ…奴が当日の給仕に綺麗どころの若い娘を何人か声かけてくれって言うからさ。リーアとあんたなんかどうかと思ってね」

 ご視察、と聞いた時点でキャシーは背筋がぞくっとした。

 でも悟られないようにすぐに思い直す。
「リーアはとにかく、私も、なの?」
「キャシーもね、いつも兄貴達のお下がりシャツにあたしの着古したスカートを詰めて履いていては垢抜けないけど…ひとつ、リーアのドレスでも借りてごらんよ。お偉いさん方のお世話係だって不足ないだろうよ」
「そう…かなあ…」
 きっぱり言い切られてしまい、キャシーも面食らってしまった。
「そしたら髪はあたしがいい風に結ってやろうね…」
 イルミアの眼差しの中に言葉にならないものを感じて、キャシーはハッとさせられた。

 キャシーを養女に欲しいと何度も言ってきた内の一人がここにいるイルミアその人であった。断りはしたものの、この後も疎遠になることはなく服を譲ってくれたり、何かと世話を焼いてくれていた。

「ああ、ここ。片づけなくっちゃ!」
 キャシーは思いを吹っ切るようにくるりと向き直った。

「…あれ?」
 足に硬いものが当たった。
「何だろう…これ」
 曲線を描いた黒い形のそれは特別のものを入れるためにわざわざしつらえたことを物語っていた。

「ねえ、おばさん! この辺で楽器の修理を出来る人はいないかしら」
「何だい、突然…」

 キャシーのいきなりの問いかけにイルミアは面食らった。
「角の酒屋の親父が意外とそういうことに詳しいと聞いたことがあるが…」
「ありがとう! ねえ、ちょっと行ってくるから、リーアが戻るまで店番していてよ」
「キャシー?」
 あわてふためく果物屋のおかみ。
「それから、さっきの話。私は引き受けるから。レイオスのご主人にそう伝えて!」

 先ほどのケースを大事そうに抱えたキャシーはにっこり笑ってそう言い残すと、サーッと走り去っていった。

「何だい…全く…」
 その後ろ姿をしばし見守っていたイルミアはやれやれと言った様子で体を重そうに動かしながら、荒れた店の片づけを始めた。


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