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夢見るHard Winds
Act9・演奏会

 

 次の日。
 朝からぱたぱたと落ち着かないキャシーが一人で丘の上の小屋を走り回っていた。

「おいおい、キャシー…」
 ベッドの上で昨日の新聞を読んでいたリードが呆れた声を出した。
「あのさ、ここには病人と怪我人がいるんだけど。少しは落ち着きなよ」

「でも、何日も留守にしちゃったもの。何か埃っぽくて嫌になっちゃう…」
 
今日は雑貨屋は休んだキャシーだった。
 この数日、リーアにつき合っていたキャシーだったが、危険も少ないようであるし…何しろ、今日は特別なのである。

「ところで、そっちは何か分かった?」
 
 ジミーが届けに来たタウンの新聞、ジャイス区の新聞、ルータ区の新聞…小さい記事も丹念にリードは読んでいた。
「やっぱり…新聞に載るようなことではないらしいよ。もともと夜盗の事件なんて余り新聞に載らないもんだしね」

「ゴーストがらみの事件には規制があるみたいよ、ジミーが言っていた」

「きわどいことして、睨まれたら怖いだろうからな…」
 収穫無し、とばかりにリードは新聞をたたみ直して積み重ねた。

「そっちが終わったんだったらさ、リード、これお願い」
 キャシーは間髪入れずにグリンピースのかごを置いた。
「豆をむいてちょうだい、初物なのよ」

「あとは何を作るんだい?」
「ドライフルーツのラム酒付けがあるから、それでケーキを焼いてね…それからアヒル肉のボイルとサラダと…う〜ん、スープは何にしようかな?」
「10年分の誕生日とクリスマスがいっぺんに来たようだな…」
「オーバーねえ…」
 キャシーは明るい笑い声をあげた。

「おやおや、楽しそうだな…」
 そこにカーター氏がやってきた。

「あ、ミスター・カーター。じゃあ、これむいて下さいね」
 今度はジャガイモのかごがテーブルに置かれた。
「付け合わせのマッシュポテトにするの。お願いします〜」

 キャシーはテーブルクロスを抱えて外へ出ていった。

「あ〜あ。俺、仕事に行きたいなあ…」
 リードはオーバーに溜息を付いた。

 カーター氏の方は軽い笑い声をあげて、
「でも、突然だね。今夜をごちそうにしたいだなんて」
と、言った。リードは首をひねりながら、
「キャシーの思いつきは突飛だから、振り回されちまいますよ」
 諦め顔で言った。
「何でもやりたいこと、みんなやりたいようですよ」

「前向きなんだねえ」
 カーター氏は器用にナイフを使った。
「男やもめなものでね…こう言うのは得意なんだ」
 
 そうか、カーターさんは独身だったんだ…リードは思い出した。

 その日のリース村はすばらしく上天気だった。
 テーブルクロスを抱えて丘を駆け下りたキャシーの瞳には春の日差しに照らし出された村の全景が角度を変えながら映し出される。楽しいことを考えているからだろう、それは何時に増して美しく見えた。

 特別の日にしかテーブルを飾らない真っ白なクロスはキャシーのお気に入りである。どんなシミが付いても綺麗に白く洗い上げられるのでリードなどは、
「執念の白」
と、呼んでいるぐらいだ。
 
 それを川の流れに浸して軽く濯ぐ。この前使ったときにきちんと洗って仕舞ったので白さは健在だったが使う前にもう一度水を通して乾かすのがキャシーの習慣だった。

 今日はそれをするのにも最高の日和。

 キャシーはふと手を止めると、空を仰いだ。

 誰が色づけをしたらこんな澄んだ色になるんだろうと悩みたくなるほどの透明な青のグラデーションの所々に、これもまた一点の曇りもない真っ白な雲が点在している。

 一息ついて川の流れに目を戻しても、青の色が脳裏に残っていた。テーブルクロスを引き上げながら…キャシーは、
(リーアに借りるドレスは青いのにしようかなあ…)
 …などとぼんやり考えていた。

 

 

 …まだ日の中だと言うのにその部屋は薄暗かった。
だが、よくよく暗がりに目が慣れてみれば合点がいく。窓という窓は板きれで塞がれ、その上からご大層に黒い布まで掛けられていた。外部との接触を極端に断った環境である。

 コンコン…ノックの音。

 どこを叩いているのだろう…? この部屋にはドアらしきものは見あたらないが。と、黒い布の向こうから再度、ドアが叩かれた。

「…今日の夕食は?」
 部屋の隅からくぐもったうめくような声がした。

「豆のスープ・ボイルのソーセージ・ライ麦パン」

「…それだけか?」
 ノックの音の主らしい声に反応して、再び屋内の声が部屋に低く響いた。

「あ…忘れていた、赤葡萄酒も付けてくれ…」

 するとおもむろに屋内の物陰が動き、素早い動作で壁の黒布をめくりあげると、ドアに二重に渡させていた留め金を外した。
 狭く開けられた隙間から体を横にするように今ひとりの人間が屋内に滑り込んできた。再びドアはきっちりと閉められ、留め金が掛けられた。

「…ジャン! …おお、よくぞ無事に…」
「カリオス…お前こそ、生きて再び巡り逢えて嬉しいぞ!」

 ふたりはお互いの顔を覗き込んで、手を取り合い、無事を喜び合っているようだ。

 ジャン、と呼ばれた男がドアを叩いた方で、黒い外套を着込んでいた。暖かい春の日差しの中でそれはひどく不釣り合いであったであろう。だが仕方ない…替えの服など持つ間もなくここを飛び出したのは雪深い真冬のことであったのだ。その頃にはこの外套は心許ない薄っぺらな布きれに思えた。

「他のみんなはどうした? 連絡は付いたのか?」

 ジャンの声にカリオス…暗がりのこの部屋で息を潜めていた方…はにわかに顔を曇らせた。
「ライアとセズン、バニアは無事らしい…でも、あとのメンバーは…」

「──── 行方、未だ知れず…と言うことか…」
 ジャンの声は確かに落胆してはいたが、それはそれ程彼の想像の範疇を越えてはいなかったらしい。やっぱり、と言うニュアンスを含んだ返答であった。

 2月の猛吹雪の晩、そのゴウゴウと唸る音に耳を惑わされ…細心の注意を払っていたはずだったのに外部からの襲撃に為す術もなかった。当時、隠れ家にいた10名のメンバーはちりぢりに逃げたが、内の3人は捕らえられてしまったと聞く。

「…惨い…死に様だったそうだ…」
「…らしいな…」

 ジャンは懐にしまって置いた酒の瓶を取りだした。
「…ここにグラスはあるのか?」
「…残念ながらね、ここに先に戻ったのはこの飲んべえのカリオス様だったんでね…」

 カリオスは部屋の隅の木箱を開けた。そこには10個のグラスがきれいに並べて入れてあった。使った形跡のない真新しいものであった。

「…みんなの分、揃えたのかい…」
 ジャンが泣き出しそうな目を見開く。

「…大馬鹿者だと笑ってくれよ…」
 カリオスの目頭にも涙が滲んできている。

「じゃあ、とりあえず…」

 ジャンはグラスを2つ並べると琥珀色の液体を注ぎ入れた。
 輝きが揺らめき立つ水面をカリオスは静かに見守っていた。

「では…」
 ジャンはグラスを両手に持つとそのひとつを再会したばかりの友に手渡した。そしてゆっくりと続けた。

「お前との再会を神に感謝して」

 するとカリオスも静かに言葉を添える。
「神の元に召された我が同士たちに…」

「どこかでしぶとく生き延びているであろう同士たちとの再会を祈って…」

 …キン、と硝子と硝子の打ち合う音がした。

「…ところで…」
 乾杯の酒を一口含んでから、ジャンはおもむろに話を切りだした。
「ここに来る道中、妙な話を聞いたんだ」

「…?」

 ジャンは小さな紙切れを取り出すとカリオスの目の前にかざした。

「…これは…」
「…な、おかしな話であろう」  

 暗がりの中の小さな紙切れの文字は目が慣れているカリオス以外には判別は不可能であろう。ここからも伺い知る事は出来ない。ただ、部屋の中にいる二人のやりとりからそこに書かれている事柄が普通では考えも及ばないことだと言うことだけは推察できるが。

「でもこれが本当の話であったとしたら…」

「…賭けて、見るかい?」

「そうするしかないであろう…」

「だが、上手く乗ってくれるだろうか?」

「そんなこと言ったって」
 ジャンは口元だけで微笑んだ。
「危なくない橋を渡ることが今まであったかい?」

「…そりゃそうか」
 カリオスも小さく笑った。

 何かが動き出す、そんな予感が2人の中に生まれたようであった。カリオスにとって久しぶりの酒がなくなるのにそう時間はかからなかった。

 

 

「…これでいいかしら、キャシー…」
 リーアが自信なさそうに訊ねた。

「うん、上出来! さすがリーアね、センスいいわあ〜」
 キャシーは活けられた花を眺めて答えた。

 雑貨屋からの戻り道にリーアが河原で積んできた一抱えもある野の花は丘の上の家の一番大きな水差しに溢れんばかりに咲き誇っていた。

「きれいね…」

「俺にはリーアの方がきれいに見えるけどな…」
 そう言いながら入ってきたのは例外なくアレク。
「こんな感じでいいだろ? キャシー」 
 先ほどのリーアの言葉とは対照的にこちらは自信たっぷりに言い放ったアレクだ。

「…まあ、いいでしょう。アレク兄さんのセンスも上等よ」

「いつものことだろう?」

「…はいはい、それを置いたらもう一度ドアの前を履いてきて」
 キャシーの方もアレクの対応には慣れたものであった。

 アレクが持ってきたのはビーズの刺繍を施したダークグリーンのベストだった。ベストそのものは古着屋から破格値で仕入れたものであったが、オルフェイン氏の雑貨屋にあったビーズで美しく飾り付けたのはアレクであった。家事一般が得意、とされているキャシーであったが、実は針仕事だけがあまり得意ではないのである。

「やっぱり、グリーン、よね〜」
 金や銀のビーズがキチンと並んだベストを持ち上げて、キャシーはにっこりした。

 テーブルのあちらではリードとミスター・カーターがああでもないこうでもないといいながら皿に料理を盛りつけていた。

「ただいま〜」 
 今度はジミーが戻ってくる。

「ご苦労様、ジミー。ロッド兄さんはどうだった?」

「なんかレイオスに置く時計の修理がもうちょっとなんだって。先に帰ってろって、言われた」

「…そう、あなたに頼んだものは?」
「ちゃんと、取ってきたよ〜重かったァ」
 ジミーは大袈裟に叫んで椅子に座った。

「ほらほら、仕事はたくさんあるのよ〜」
 キャシーはケーキの飾り付けをしながら、ジミーをせき立てた。

 

 

 時計屋では主人とロッドが大時計を前にしていた。

 針がかすかな音を立てて、ひとつ進んだ。

 途端に…部屋中に澄んだ音色が響きだした。

「…これはこれは…」
 時計屋の主人が感慨深く言った。
「想像していた以上だよ、ロッド、お前の腕も大したもんだな」

「師匠がいいからだろうよ」

「いや…どうしたんだ、鐘の音色も違っているようだが…」

「軸が少し傾いていたようだったから、様子を見ながら調整したんだ…この角度が一番きれいに響く気がしたんだけれど」

「全くだよ…新品で来たときより垢抜けている音色だ。お前は耳がいいんだなあ…」

 主人の言葉にロッドは何も答えず、ただ、5回の鐘が打ち終わるのを静かに聞いていた。

「じゃあ、これを運ぶんだな。二人で大丈夫かい?」

 背丈ほどもある大時計である。もしもロッドが二人いても厳しい気がした。しかも時計屋の主人の方は老人である、背丈もそれ程あるとは言えない。普通に考えてちょっと無理だと思えた。

「…ああ、それなら…」
 時計屋の主人は思いだしたように言った。
「明日の朝、皆で運ぼうと言うことになっているんだ」

「…朝? 何時だい…俺も来た方がいいよな」

「そうしてもらえるかい? 6時半なんだが…」

「そりゃまた…早い時間だなあ」
 朝に強くないロッドはちょっと不安になった。

「悪いねえ…」
 主人は申し訳なさそうに微笑んだ。
「みんな、自分の店の仕事があるから…朝の早いうちのほうがいいと言っているんだ…年寄り連中は朝だけは早いんでな…」

「仕方ない、俺が起きられるように祈っていてくれ、親父」

「分かったよ」
 時計屋の主人は白髪交じりの眉に埋もれそうな目で笑いながら言った。

「…今日は遅くまでご苦労だった。もうお帰り…さっきもジミーが来ていただろう」

「そうだな…」
 ジミーが戻りに時計屋に寄るなんて珍しいことだった。

「今日は何かあるのかい?」

「聞いてないんだけどなあ…」

 ロッドは首を傾げた。そして上着を手にした。

「じゃあ、お疲れ。親父、また明日な」

「ご苦労様、ロッド。気を付けてお帰り…」
 足早に去っていく弟子の背中を時計屋の主人は頼もしそうにいつまでも眺めていた。

 

 

「…どうしたんだ、今夜は…」
 ドアを開けるなり、ロッドは彼には珍しいほど驚いて立ちつくしていた。

「キャシーの思いつきだよ…さ、早く座って」

 リードの声に導かれるようにロッドは自分の席に着いた。
 夕餉の支度はすっかり出来上がっていた。

 しかし、どうだろう…

 いつもはスープとソーセージ、良くて温野菜があれば上等の食卓なのに…今夜は一週間分の料理が並んでいるかのようである。

 アヒル肉のボイルにマッシュポテトとグリンピースの付け合わせ。生野菜のサラダにはハムが添えられ、ビーフスープにはちゃんと肉が浮いている(普段のキャシーだったら骨のだしのみのはずである…)。その上、ドライフルーツのたっぷり入ったケーキにホットビスケットまで並んでいる。

「兄さんたちには葡萄酒も奮発しちゃった」

「キャシー…」

「はい、どうぞ」

 手渡されたグラスにキャシーが赤葡萄酒を注ぐのを呆けた表情でロッドは見つめていた。

「あの…」

 食事前の言葉を述べるのは長い年月の中、年長者のロッドの役目だった。今日一日の皆の無事を感謝して食事を始めるのが習わしだ…でも…。

 ロッドは信じられない光景にしばし言葉を失っていた。

「兄さん」

 キャシーがやさしく語りだした。

「今まで本当にありがとう…」

「…どうしたんだ、キャシー。急に何を言い出すのかと思ったら…」

 ロッドが面食らっていると、アレクが続けた。

「思えばあの大火の中、兄貴がいたから生き延びられたんだからな…」

「俺もロッド兄さんが声を掛けてくれなかったら、銃弾の嵐に遭っていたんだし」

「ボクのことまで見捨てないでいてくれて本当にありがとう…」
 リードとジミーも続いて言った。

「…と、言うわけで…」
 キャシーが立ち上がった。
「今日はみんなで兄さんへの感謝の心を表現してみました!」

「おいおい…」
 ロッドは思いっきりうろたえていた。

「何なんだ…どうして急に、こんなことするんだ」

「それは…これだよ〜!」
 ジミーがロッドに黒いケースを差し出した。

「こ…これは…!?」

「開けてみて、兄さん…」

 キャシーの声に導かれるようにロッドはおずおずと(いかにもロッドには似合わない態度であるが)流線型のケースを開いた。

 出てきたのは…新品同様に光り輝いたバイオリンであった。ケースを見た瞬間に中身は分かっていたはずのロッドも息を飲んでそれを見つめていた。

「オルフェインさんのお店の屋根裏で見付けたの。酒屋のご主人が楽器に詳しいと聞いて、調整してもらったのよ。結構、状態が良かったそうだから、きっと大丈夫よ」

「…あの夜…俺を助けるために兄貴のバイオリン、駄目にしちゃっただろう? あれに比べたらちゃちなもんだろうけど…」
 リードは照れながら言った。

「兄さん」
 キャシーがロッドの背中を押した。
「何か弾いてみてよ…」

「そ…そうは言ってもなあ…」
 ロッドは躊躇した。

「もう長いことこんなものには触ってもいないんだよ…いきなり弾いて見ろと言われても…」

「大丈夫!」
「だれも本物のバイオリンなんて聴いたこともないんだから」
 ジミーとリードが明るく言い放った。

 …それは本当の事である。もしかするとミスター・カーターは聴いたことあるんじゃないかと思うが…当の本人は事の成り行きを楽しそうに見守っていた。

「そうは…言ってもなあ…」

「ほら、俺の力作!」
 アレクが半日がかりで飾り付けたダークグリーンのベストをロッドの肩に掛けた。

「じゃあ、一曲だけ…」

 ロッドは立ち上がった。

 そして左手にバイオリン、右手に弓を持ち…その瞬間、彼の背筋がすっと伸びた。吸い寄せられるように左の肩にバイオリンは置かれ、顎で軽く押さえると弦に指を添える。2,3回軽く弓を引いて自分の耳で音を合わせた。

 それからぐるりと部屋の中にいるみんなに視線を配ると深く深呼吸して演奏に入った…

「…レクイエム…」

 アレクが小さく呟いた。

「レクイエムだ…」

「レクイエム?」 
ジミーが大きく見開いた目をくるくる動かしながら訊ねた。

「鎮魂曲…死者の魂が天国に救い入れられるよう歌われるキリスト教のミサの曲だ」

「死者の魂を…慰め鎮める曲…」

 澄んだ美しい…でも底知れぬ憂いを含んだ曲が静かに丘の上の家を包み込んだ。皆、在りし日の神童の姿を思い浮かべるかのように黙り込んで聞き入っていた。

 ロッドは毎晩のように開かれる王宮晩餐会でいつも国王一家を前にバイオリンの腕を披露していたという。王族や貴族の子弟にあってはバイオリンやピアノは必修科目みたいな物であるから、多くの者が親しんでいたことであろう…それでもわずか14歳にして腕を認められていたと言うことは…もしも、あのまま国王の時代が続けば彼にどんな未来が待っていたのであろうか…。

 ロッドは丘の上の住人の誰よりも昔の記憶を持っていたはずだ…

 長い長い時間…ロッドの演奏は続いた。それは自分たちの儚く散っていった身内を弔う曲のようで…今までの9年の月日を思い返すような曲にも思えた。

 

 

「…あれ、兄さんは?」
 食器の後片づけをしながらキャシーがジミーに聞いた。

「ロッド兄貴ならさっき、ミスター・カーターと外に出ていったよ」
 ジミーに代わってリードが答えた。

「…明日早いって言ってたのに、大丈夫かしら?」
 キャシーが心配そうに首を傾げた。それからふと思い出したように、
「ねえ、リード? 演奏の後、兄さん少しおかしくなかった?」
と、訊ねた。

「うーん、そうだなあ…」
 リードも少し思い起こすように伸びをしながら首を回した。

「…確かにいつもに増して大人しかった気もするけど…やっぱ、久しぶりにバイオリンを手にしたら色々と思い起こすことがあったんじゃないかなあ…」
「そうかもね…」

 キャシーは一息ついてから続けて、
「リード、兄さんにとって今夜のことはいいことだったのかしら?」
と、不安げな表情になった。

「…そりゃ、悪い事じゃなかったと思うよ」
 リードは慰めるように言った。

「バイオリンを手にしたことで兄貴が何を思いだしたかは分からないけど…俺たちが兄貴のことを本当に大切に思っていて、いつも感謝して感謝しつくせないほどだったと言うことはちゃんと伝わったと思う…その人にとって何が一番いいことか何て誰にも分かんないだろ?」

 リードの眼に映るキャシーの顔は夕方までの浮き浮きした雰囲気は消えて、不安げな16歳の少女の顔だけが残っていた。

「でもだからといって、何もしないのがいいとは限らないよ? 多分、今夜のロッド兄貴には兄貴なりに得るものがあったと思うし…」

 リードは自分でも何をどう言ったらいいのか思いあぐねていた…何か言わなければいけないことは分かっているのだが、どう伝えたらいいのかその方法が見つからなかった。

「…ありがとう、リード」
 キャシーはやがて静かに微笑んだ。

「みんな私の大作をこんなにきれいさっぱり食べてくれちゃって…もう、明日からどうしよう。リード、早く足を治して稼いでちょうだいね!」

「そうだなあ…」

 いつものキャシーが少し戻ってきたようである。リードはホッと胸をなで下ろした。

 いつもと変わらない静かな夜がゆっくりと更けていった…

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