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夢見るHard Winds
Act10・朝焼けに染められて

 

 …頑張りすぎた翌朝はちょっと起きるのが辛い。

 そんなことを考えながら、キャシーは重い瞼をかろうじて開き、上半身を起こすと静かに体を滑らせるようにベッドを降りた。そうしないと隣で寝ているリーアを起こしてしまう。

(ジミーは…もう出掛けたか)

 身支度を整え、ダイニング兼リビングになっている部屋(要するに丘の上の家は2間と台所しかないから)に入っていった。

 リードはボーっと新聞を読んでいたが、ジミーの姿はなかった。

 何しろ新聞屋は朝5時からの勤務になる。
 弟だから、と言うわけでもないけどとりあえず食べられるように前の晩、食卓に食事の準備をしておき、キャシーが起きられないときにはそのままひとりで出掛けてもらうことにしている。キャシーも朝にはそんなに強い方ではなかった。

 とは言え、今の時間は5時ちょっと過ぎ。

「リード、お早う…」
「おはよう、昨日はお疲れ、キャシー」
 リードはカーテンを少し開けた。
「…今日の朝焼けはちょっとすごいよ」

「あら本当…」

 朝が来て、日は改まり4月の4日。
 セイジュ・S・モートン伯の来訪日まで後2日になっていた。 キャシーは窓際まで行くと眩しそうに目を細めた。

「朝が明けるのも早くなったわ…」

 その時、
「お、起きてたか」
 ロッドが寝室から出てきた。

「あ、兄さん。起きられたのね…」
 キャシーが寝ているみんなを気遣ってくすくすと笑った。

「朝ご飯、並べるね…」

「あ、飯はいいや」
 ロッドは短く言った。

「あら、食べなきゃ駄目よ?」

 キャシーが母親顔でたしなめる。ロッドはそれを軽くかわして、

「大丈夫、時計屋の親父が俺の分まで朝食を作ってくれるって言ってたんだ…大体、昨日の晩飯がまだ喉の辺りまで詰まっているような気がするよ…」
と、言って笑った。

「それより、キャシー…昨日は本当にありがとう…」

「あら、お礼を言われるほどのことじゃないわ…みんなオルフェインさんのお店のものを失敬したんだし」

 ロッドが急に改まった言い方をしたので、キャシーは焦ったように両手を振った。

「でも…嬉しかったから…」

「良かったじゃないか、ロッド兄貴は喜んでくれたんだよ」

「何だリード、その言い方は?」
 リードの言葉にロッドは首を傾げた。

「あのね、キャシーはロッドが本当に喜んでくれたのか、とても心配してたんだよ…」
「…そうだったのか?」
「あーもう! リードのおしゃべり!!」
 キャシーは照れ隠しの様にリードを軽く叩いた。そんな2人のやりとりをロッドは楽しそうに見守っていた。

「…何かお礼を、と思ったんだが…」
 ロッドは再び話し出した。

「だから、兄さん…いいんだってば…」

「今、急には用意できなくて…とりあえず、これを…」

「いいって言ってるのに…兄さん、これは…!?」

 キャシーはびっくりしたように話を止めて息を飲んだ。

 リードも差し出された物を見て、ハッとした。

 …金色の…懐中時計…

「兄貴…それ…」
 リードもそれ以上、言葉が出なかった。

 

 9年前のクーデターの夜、リードはハーモニカを握りしめて逃げた。大切なバイオリンさえ手放したロッドであったが…実は懐にこの懐中時計を忍ばせていたのだ。しかし逃亡生活のさなか、何が原因かは分からないがそれは動かなくなってしまっていた。でも金の時計である。修理に出したら怪しまれるであろう…それならば時計を直せる技術を身につけて、自分で直してしまおう…そう考えて時計屋の仕事を選んだのだと、いつだったか照れたようにロッドは言った。
 時計の由来は誰も聞いていなかった。しかし、そうしてまでロッドが直したいと考えるものだ、大切なものに違いなかった。

 

「私…こんな高価なもの、貰えない…」

 キャシーは明らかに狼狽していた。ロッドがくれると言うからには心は決まっているのであろう…でも…。

「本当に困るわ…ロッド兄さんの大切な思い出なんでしょう?」

 そう言いながら手渡された時計をまじまじと眺めた。純金製の時計は手にずしりと重く文字盤にはいくつかの細かい宝石も散りばめられていた…買ったらもの凄い値段だろうと思われる。キャシーの金銭感覚では計り知れないが…

「あら…?」
 キャシーは耳をすました。

「…兄さん、もしかして、この時計…動いてる…」
「わ、本当だ!」
 リードもびっくりして覗き込んだ。

「そうなんだよ…」
 ロッドは照れ笑いになった。

 時計屋に勤めて9年…決して飲み込みが早いほうではないが、真面目な性格のロッドは一通りの時計の修理は出来るようになっていた。この懐中時計も何度も解体しては組み直し、修理を試みていた。でも何が悪いのか分からないままとうとう再び針が動くことはなかった。

(特殊な部品でも使ってあったのだろうか…?)

 何しろ金は有り余るほど持ち合わせていた貴族が道楽でこしらえさせた時計であろう。何か仕掛けがあったとしても不思議ではない。

 袋小路に入り込んでしまったような具合で、ロッドもいつしか時計は再び動くことはないだろうと考え始めていたのだ。

「…昨日の晩、眠れなくてミスター・カーターに付き合ってもらって昔話などしていてね。この時計をふと取りだしてみたら、動いていたんだよ」

「不思議なこともあるもんだなあ…」
 リードは感慨深く言った。

「でも…動いたのなら、尚更。これは兄さんが持っているべきだわ」
 キャシーはかぶりを振って、時計を押し戻した。

「じゃあ、こうしよう」
 仕方ない、と言うようにロッドは頷いた。

「今度の…一連のゴタゴタが終わるまで…それまで預かっていてもらおう」

「…兄さん」

「そうしたら、俺に返してくれていいから。それならいいだろう?」

「……」

 無言のまま、キャシーは自分の両手に包まれた時計を見つめた。

「お、時間だ。じゃあ、出勤と行くか…」
 ロッドが外套に手をやったとき、寝室からアレクが起きてきた。

「アレク、起きたか?」

「…う…ん、兄さんも大変だね…気を付けて」

 とりあえず、見送りに起きてきたらしい。欠伸を連発している姿は「リース村一番の色男」とは思えないものだ。

 ロッドはそんなアレクを笑いながら見ると
「じゃあ、行ってくる。みんなも気を付けるように」

 そう言い残すと、朝焼けの丘を降りていった。

 

「…ロッドが…時計を?」

 後に残った3人。アレクが先ほどの話をリードたちから聞いていた。

「どうしたら、いいかしら? アレク兄さん…」
 キャシーは困り切った表情だ。

「いいんじゃないの? 預かっていればいいんだったら」

「そうかしら…」

「多分さ、ロッドもキャシーのことが心配なんだろう。でも四六時中付いているわけにも行かないから、せめて時計をお守り代わりに、ということなんだろ? ロッドの気持ち、くんでやれよ」

「うん…」

「わ、小さい字で何か彫ってある…ルーペでもないと…分からないか…」

 アレクが懐中時計の蓋の裏に気付いた。模様とばかり思えたがそう言われてみれば、回りの文様の中に細かい文字が並んでいる…。

 

 その時…

 3人の動きが止まった。

 次の瞬間、お互いの顔を見合った。3人の顔から血の気が引いていた。

 

「何だ!? 今のは!!」
 アレクは護身用の銃を懐に入れると上着を羽織ってドアから飛び出していた。

 

 …銃声が…3発…

 まだ夜明け前ののどかな村に響き渡った…

 

 ドアの向こうに消えたアレクを追って、転げるように外に出たリードとキャシーが目にしたものは…想像していた中で最悪の状況。

 

「兄さん!?」
 キャシーの悲鳴のような声が丘の上から響いた。

 丘を降りていくその麓付近に先ほど見送った丘の上のリーダー…ロッドが背中から血を流して倒れていたのだ。

「…どうしたんだ? みんな?」
 カーター氏とリーアもドアを出たところで、ハッと息を飲んで立ちすくんだ。

 

「お前は…!」

 アレクは早くもロッドの所まで辿り着いていた。

 そこで彼はロッドに銃口を向けた張本人と向き合っていた。

 アレクは動揺を隠せずに叫んだ。
「お前は…この前までポリスにいた…」

「顔は覚えていてくれた様だな、久しぶりだな。有能な上司さん、よ」

 …忘れるはずもない…一月ほど前まで一緒に勤務していたポリスの部下だったのだ。とは言ってもこの男の方がアレクより年輩であったが。逃げるように荷物をまとめ、どこともなくいなくなってしまった…

「お前には在職中、世話になったな。礼を言おうと思って戻ってきたぞ…」

「…どういうことだ」

 自分に向けられた銃口をしっかりと見つめながら、アレクはその場から逃げようとはしなかった。

 男と自分との間に倒れているロッドのことも気がかりだった。今この瞬間にもうつぶせに倒れているロッドの胸の辺りには血の海が広がり続けている。すぐに駆け寄って無事を確かめたい…だか、そうなればこちらに隙が出来るであろう。銃口は自分に向いている。命が惜しいわけではない…しかし、今自分がこの男に敗れるような事があれば残った弟妹たちの命の保証もないだろう…

 アレクはギリギリの自制心を保って、男に語りかけた。

「話を聞こう。どうしてこんな事をしたんだ。俺の兄貴の命を狙うようなマネを…」

 アレクの必死の問いかけに対して、しかし、男は嘲るように笑い出した。
「兄…? 笑わせるんじゃないよ、お前たち、兄弟じゃないだろう? まあ同類相哀れむ、ってところで…」

「…どうして…それを…」

 

 一瞬、アレクの緊張が弛んだ。

 再び男の銃口が火を噴いた…

 

「…ダーネス…!」

 身を翻して避けたつもりが、右肩をかすってしまった。
 そのまま膝を突いてうずくまる…

 もう一発…そう思ったのだろう。アレクも今の体勢では逃げようがない…しかし。

「どうした?」

 やがて…アレクは歪んだ顔を上げた。

「…俺の運も尽きたか…弾がこれしか入ってないとはね。こいつとお前がいなくなれば後の3人などものの数にも入らない、上手く行くと思ったんだがな…」

 男は自嘲気味に笑い出した。

「ダーネス…どうしてこんな事を。誰に頼まれて…」

 アレクがそう問いただそうとした瞬間、
「グフッ…」
と、生ぬるい呻き声と共に男が大量の血を吐いて倒れた。

 その姿に一瞬、ひるんだアレクであったが、すぐに気を取り直し、
「おい! …医者だ! …レーン・ドクターを呼んでくれ!!」

 …そう叫んだ後、彼もその場にうずくまって動かなくなった。

 

 

 静かすぎる時間が流れていった。
 

 銃声は村の隅々まで響いたので、すぐに村人たちが飛び出してきた。

 レーン・ドクターも呼びに行くより早く、寝間着姿のまま駆けつけた。

 映写機の映像が静かに回るように音の消えた情景をリードは少し離れたところから、微動だにせず、見守っていた。

 動こうにも動けなかった。

 すぐ前にいるキャシーが後ろ向きのまま自分の方に倒れ込んで来ていたのだ。リードは板きれを支えにやっと立っている状態である。そこにキャシーが倒れ込んできたのだから、実のところ体勢も危うい状態だった。しかしここで自分が倒れるわけにはいかない…キャシーは小刻みに震えながら、先ほど手渡された懐中時計をしっかり握りしめたまま、それでも立っているのである。
 
こう言うときにロッドの所にすぐさま駆け寄るべきなのであろう…しかし、足の事は置いておいても…体が言うことを聞かない。それはキャシーも同じようであった。

 背後にいたカーター氏とリーアの方が素早く人の輪に入っていった。

 村人たちが忙しく立ち回る様をただ見つめることしかできない自分たち…ふと見ると、新聞屋から飛び出して来たんだろう、ジミーも人の輪から少しはずれたところで呆然と立ちつくしているのが見えた。

 

 

 薄暗い部屋の中にアレクはひとり座っていた。

 俯いたままぴくりとも動かないでいるので眠っているようにも見えるがその目は大きく見開かれていた。

 視線の先は…壁。木目模様の一点を静かに見据えたまま…そこから視線は動かなかった。

 彼の右肩には痛々しく包帯が巻かれていた。
「…あの至近距離で、これだけ避けられたのは奇跡だぞ…」

 白い包帯を肩に回しながら、レーン・ドクターは静かに言った。

 痛みがないと言えば嘘になる。鎮痛剤を打ってもらってもなおじんわりと広がる微痛が残った。薬のせいか腕もだるい。

 今日は休むようにポリスのみんなには言われたが、明後日に視察団がやってくる忙しさの中、自分だけが休暇を取るのは忍びなかった…休んだところで…

 

「アレク…」

 静かにドアが開いて、ワーグス署長が入ってきた。青ざめた表情を隠せない。何しろ、銃撃騒ぎなどこののどかな村では聞いたことのない出来事だったし…その上、犯人は元ポリスの隊員である。自分の部下が起こした不祥事と言ってもいいだろう。タウンの首脳が来る前の大切なときにこんな事件が起こるとは監督責任を問われる問題であった。だが、署長が今、気にしていたのは我が身の処遇ではなく、他でもない目の前にいるアレクのことであるようだった。心痛の面もちで部下を見つめるその目が全てを物語っている。

「少しは落ち着いたか…」
 他の言葉を見付けることが出来ず、ワーグス署長は短く言った。

 勤務に就いたものの、仕事にはならず放心しているままのアレクを気遣って別室で少し休むように促したのは他ならぬ署長の配慮であった。

「はい…ご心配おかけして本当に申し訳ございません…」

 アレクの無理に作った微笑も痛々しい。ワーグスはそっと自分の目頭に手を当てた。

「アレク、今日はこの後各部署に分かれての訓練になる。お前の隊の指導は他の部隊長に任せるから、今日はこれで戻りなさい…」

「でも署長…!」
 アレクは一瞬激痛の走った右腕をかばうように左手で包み、それでも何か言いたげに口を挟んだ。

「…アレク、ちょっとこれを見てごらん」
 ワーグス署長は古い新聞記事を取りだした。

「これは…ゴーストの…」
「そうだ、右から3人目の男…ピエールと言うのだが、ロッドに似ているであろう」
「そう言われれば…少しは」
「この男はこの間、話しかけたクレール・P・ドリアン氏とセイジュ・S・モートン氏の諍いに巻き込まれて…どうもどっち付かずでいて怪しまれたようなのだが…近頃、タウンで姿を見ないそうなんだ。一説では両勢力から追われているらしい…」

「……」

「ロッドはこの男と間違えられて撃たれたんだ」
 ワーグス署長はきっぱり言い切った。そしてアレクが何か反論しようとしたのを素早く制して…

「この写真は誰にも見せない。この村の人間はピエール氏の顔なんて知らない…ロッドはピエール氏と間違えられたと私が言えば皆、信じるだろうよ」
と、言ってアレクの目をじっと見据えた。アレクはその気迫にに飲まれていた。

「ダーネスは…奥歯に毒を仕込まれていたらしい。一定の時間が来ると溶け出すようになっているもので…最初から口封じのために殺されることになっていたんだな」

 ややあって、ワーグスは言った。

 大量の血を吐いてアレクの目の前で倒れた元部下はレーンドクターが診るより先に絶命していた。恐ろしいほど薬の回りが速かったらしい…

「…そうでしたか…」
 アレクは静かに目を伏せた。

「アレク」

 ワーグス署長は再び、アレクに向き直った。

「今日は戻りなさい、明日から頑張ってもらうから。傷の心配もある…今日は早く戻った方がいい…」

 ワーグスはそっとアレクの左肩に手を置いて促した。

 アレクは静かに俯いていたが、やがて顔を上げると言った。
「申し訳ありません…署長。ご厚意に感謝します…」

 

 

 丘の上の家では居間に移されたベッドにロッドが静かに横たえられていた。ロッドが丹精していた置き時計が不気味なほど大きな音を響かせて時を刻んでいく。

 ベッドの傍らの椅子にリードが座っていた。

「キャシーは…?」
 レーン・ドクターはリードにゆっくりと語りかけた。

「…寝室の方に…リーアが見ている」

「そうか…」
 レーン・ドクターは何を言ったらいいか分からない、と言った感じで暫く俯いていたが、やがて顔を上げた。

「…すまない」

「ドクター…」
 レーン・ドクターの言葉にリードが反応した。
「そんな言い方、しないでいいよ…」

「私の…腕ではどうにもならなかった…」

 リードは黙ってレーンの方を見た。彼の目に真っ赤な泣きはらした目をした初老の男が映った。

「…でも急所に当たって…ほとんど即死、だったんでしょう?」

 そっとロッドの顔を見る。

 …まるで眠っているかのようである。

 安らかな表情が苦しみを伴わない最期を物語っていた。

 肉親を失った過去があるリードにも今回のように身近な人間を瞬時に失ったのはショックであるはずだ。

 …でも…どうだろう…?

 ポッカリ心に穴が開いたようで、全く実感が湧かない。ロッドに対する親しみを疑ってしまうような心もとなさであった。

 アレクの話ではワーグス署長の計らいでロッドはゴースト一味の諍いに巻き込まれて、人違いで殺されたんだと言うように村人に話されているという。どうしてわざわざそんな創作を署長がするのか分からないが…どちらにせよ、自分たちの過去に村人が疑問を抱かないことは幸いだった。

 

 ロッドの死を悼んで、多くの村人が弔問に駆けつけてきた。

 時計屋の主人などは自分の息子が死んだような嘆きようであった。

 そんな知り合いたちに静かに対応している自分が…自分でないような気がリードはしていた。

 

「ドクター…」
 寝室の戸口の所にいつしかキャシーの姿があった。

「心配かけて…ごめんなさい…」
 そう言うと彼女は静かに目を伏せた。

「お仕事あるんでしょう? 私たち、大丈夫だから…もう戻っていいよ…」

「キャシー…」
 ドクターはそれ以上の言葉を発することがどうしても出来ないでいるようであった。

 荷物をまとめると、ドクターは静かに丘を降りていった…

 

「…大丈夫か…?」
 リードは自分の隣の椅子に腰を下ろしたキャシーに話しかけた。それはそのまま自分に語りかけているような言葉だった。

「リード…」
 キャシーはそれだけ言うとリードの肩にもたれかかった。
「そのままで…いてくれる…? 少しの間」
「…ああ…」

 キャシーの目からようやく涙が溢れてきた。ロッドの死を聞かされても彼女は放心したように泣くこともわめくこともせずにいたのだ。村人たちの忍び泣きの中で丘の上の住人が涙を見せない様子は奇妙に映ったかも知れない…哀しみが余りに深いと涙を出すことすら忘れてしまうのだと言うことをリードは初めて知った。リードの目からもまた、あたたかいものがあとからあとから溢れ出てきた。

 

 自分たちは今、最愛の人にして最大の支えであった人を失ったことになる。
 セイジュ・S・モートン伯の来訪もロッドの思慮があれば乗り越えられると信じられた…しかし。

 もう、どこを探してもロッドはいないのだ。
 生きているような亡骸は目の前にあってもそこにはもう、ロッドの心は宿ってない。あの銃声と共にロッドの心までが消し飛んでしまったのだ…

 …ロッドはどこにいったんだろう…?

 肩から伝わってくるキャシーの温もりは何だかとても懐かしかった。あの夜…クーデターの夜に出逢った小さな少女はリードが声を掛けたとき、初めて声を上げて泣き出したのである。それまでの緊張が解けたかのように肩を震わせる小さな温もりにリードはあの時、血の繋がりを越えた何かを確かに感じた。

 自分たちは他人でありながら…他人なんかじゃなかったんだ。血の繋がりだけでは計り知れないもっと深いところで丘の上の5人は確かに結びついていた気がする…

「リード兄貴ィ…」

 ジミーが部屋に入ってきた…続いてアレクも。

「…カーターさんとリーアは…?」

「俺たちだけでお別れをした方がいいだろうって、ミスター・カーターが」

 リードが顔を上げるとアレクが泣き笑いの表情で答えた。

 アレクとジミーはロッドを挟んでリードとキャシーと向き合って座った。

 

 しばらくの間、ロッドの亡骸を囲んで4人は言葉もなく座っていた。

 やがて。

 意を決したようにアレクが胸の前で手を組んだ。
「明日の朝、ロッドとお別れしよう…」

 後の3人は驚いたようにアレクを見つめた。

「ロッドは今まで俺たちの為に色々してくれた、支えになってくれていた…ちゃんとお別れしないといけない」

 …全くその通りだった。

「こんな日は、いつか来るはずだったんだ。もしかしたら俺達のだれでもこうなる確率はあったんだ…ロッドの死を無駄にしてはならない…」

 そこまで言うとアレクは黙ってしまった。

 アレクの中に何か考えがあるようである。でも彼はそれを口にしなかった。気付いていた後の仲間も…聞こうとはしなかった…。

 

「…すまない、ちょっといいかな? みんな」
 遠慮がちにドアが開いて、ミスター・カーターが顔を覗かせた。
「新聞屋の…おじいさんが来ているんだけど」

「遠慮して頂こうと思ったのだけど…ダークさん、何だか取り乱していて…ごめんなさい、入れてさしあげていいかしら?」
 リーアもおずおずと言った。

 今まで2人は身の置き所なく、丘の上の入り口のところで待ってくれていたらしかった。

 アレクがさっと仲間を見回して、ひとつ頷くとカーター氏の方を向き直った。
「いいですよ、どうぞ」

 すると、新聞屋のダークじいさんが転げるように部屋に飛び込んできた。

「と、と、とんでもないことに…本当に、本当に、とんでもないことに…」

 彼は部屋に入るなりベッドの脇に膝をついて、わあっと顔を両手で覆って泣き崩れた。

「じいさん…」
 ジミーがなだめるように声を掛ける。
「そんなに泣かないでよ…ロッド兄貴はもう帰ってこないんだよ…」

「だが…だが…! わしが、わしが…ああ、本当にとんでもないことを…」

「…じいさん…?」
 ダークじいさんの言葉にジミーはハッとした。
「今なんて言ったの?」

「すまない、ジミー。ロッドが死んだのはわしのせいなんじゃ、…あの男が…あの男が…お前のことだけは助けてくれると言うからっ…!!」

「ちょっと、ダークさん」
 アレクがさっと立ち上がって、つかつかとダークじいさんの傍らに跪いた。

「…その話、詳しく教えてくれないかい?」

 アレクの言葉にじいさんは顔を上げる。

 そこには硝子の彫刻のように固まった…恐ろしい形相のアレクの顔があった。

 

 ダークじいさんが、まだリース村のポリスに在職していたダーネスに声を掛けられたのは数ヶ月前のことだった。例のごとく養子話を持ち出して、ジミーにこっぴどくやられた彼は路地でうなだれているところだった。

「…あの男は優しそうに言ったんじゃ…何か訳ありだなあと。わしは思わず今までのいきさつを包み隠さず話してしまったんじゃ…そうしたらあの男、お前達は政府から追われている人間だと言うじゃないか、わしは仰天して…」

「政府から追われている…? 本当にそう言ったのか?」

「そっ…そうじゃ…」

 アレクの鋭い言葉に半ば震え上がるようにダークじいさんは何度も頷きながら言った。

「じゃが、わしは懇願した…ジミーだけは助けて欲しいと…男はそれを聞き入れるかわりに、わしに協力を求めてきたんじゃ…」

「いったん、村を離れたのもダーネスの作戦だったのか?」

「上の人間に知らせると言っていた…わしはお前達の行動を始終報告しておった…」

 

 皆の顔が凍り付いた。アレク、リード、キャシー、ジミー…そしてミスター・カーターとリーアも悪夢のさなかにいるような面もちだった。

 

「だから…人の気配はしても、不審な人物はいなかったんだ…」
 リードが今更の事ながら、呟いた。

「じゃあ、今朝、兄さんがあの時間に丘を降りるのも…」

「あの時間に…時計を運ぼうと提案したのもわしじゃ…まさか、あの男が人違いをしているとは思わなかった…」

 幸いなことに。

 こういう状況に置かれても、ダークじいさんはワーグス署長の作り事を信じていた。

 …だが、ダーネスは…最初から丘の上の5人が中央政府にとっての危険因子だと睨んでいたと言うことに相違ない。ダークじいさん以外の者はそれを確信していた。

 

「馬鹿!!」

 突然。

 ジミーが大声を出して、立ち上がった。

 ダークじいさんはびっくりして彼の方を見た。

「じいさんの馬鹿!! どうしてもっと早くこのことを打ち明けてくれなかったんだよ!! そりゃ、僕はじいさんの話を断ったよ!? でも…じいさんのことは大好きだった…なのに…なのに…」

 ジミーはそのままダークじいさんの前に泣き崩れた。

「ジミー」
 アレクが短く言った。
「今、そんなことを言ったって仕方もない。辛いのは分かるが我慢しろ」

 そして落ち着かせるように何回もジミーの背中をさすった。

 やがて彼の顔から兄の優しさが消え、きつい表情に戻ると厳しい口調で言い放った。

「…ダークさん…ダーネスは誰に情報を流していたんです? 正直に話してください…このままではあなただってすぐにダーネスと同じ運命ですよ…!」

 ダークじいさんは余りの恐ろしさにアレクの方を見ることが出来ず、震え上がったまま黙り続ける。そこでアレクは畳み掛けるように続けた。

「…ジミーが…どうなってもいいんですか…!?」

「それは…!!」
 じいさんは観念したように顔を上げた。

 

「…クレール・P・ドリアン…ゴーストの首脳だ…」

 じいさんの消えそうな声が…しかし静まりかえった部屋の隅々まで響き渡った。

 

 …さすがのアレクも次の言葉が出ない。
 それは他の住人にあっても同様であった。

「彼は今、タウンとロードの区界にある別荘で休養している。持病が悪化したらしい…」

 

 外はいつかすっかり日が暮れていた。

 春まだ浅いリース村に冷たい夜風が吹き渡る。
 それはまるで昨日の晩、聞いたあのレクイエムのようであった。

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