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夢見るHard Winds
Act11・風が吹いた日

 

 翌朝…4月5日。

 
 まだ夜の明け切らぬ丘の上に、土を掘る音が響いていた。

 アレクとミスター・カーターが2人で人間が横たわれる大きさの穴を掘り終えた。人間が中に入って立つと腰の辺りまで入れる深さがあった。

 
 その中にキャシーとリーア、ジミーの3人が隙間なく野の花を敷き詰めた。
 キャシーがアレクの方を向き直ると、アレクもゆっくり頷いた。

 ロッドの棺が静かに運び込まれる。
    

 怪我のために見物人に甘んじるしかないリードは今でも夢を見ているかのような錯覚に陥っていた。

「…あ、あの…」
 棺の上にまた覆い尽くす花を置き、土を被せるときになって…キャシーが遠慮がちに言った。

「これ、どうしよう…一緒に入れる?」
 その手には一昨日の晩、一度だけロッドの手によって奏でられたバイオリンがあった。

 みんなは顔を見合わせた。どうしたらいいか考えがまとまらない…その時、

「僕が、もらう」
 ジミーの声が朝靄の中に響いた。

「ジミー…」
 キャシーがかすれる声で弟の方を見た。

「それ、僕がもらう。姉ちゃんは兄貴から懐中時計をもらっただろ? …僕も…何か欲しい…」

 ジミーの必死の表情にキャシーはどうしていいのか分からず、リードとアレクの方に向き直った。

 アレクが静かに言った。
「…ロッドの形見だぞ、大事に出来るのか?」

「もちろんさ」
 ジミーははっきりした口調で言い放った。

「僕、バイオリンが弾けるようになる、そしたらここでロッド兄貴のためにあの曲を弾くんだ…」

 その言葉にアレクは静かに頷いた。その後、ミスター・カーターに目で合図して、ゆっくりとスコップを動かして棺を土の中に収めた。

 その小山の上に一抱えほどもある石が置かれ、その石も花で覆い尽くされる。

 ロッドを見送ったのは丘の上の住人とカーター氏、そしてリーアのみだった。声を掛ければ村中の者が駆けつけてくれたであろう…しかし、静かに別れが言いたくて身内のみの送りにしてしまった。

 ひととき全員はその前に跪いて動かなかった。こうして現実がだんだん身に染みてくると再び、体の中から哀しみが留まることなく溢れ出てくる。やさしい風が頬をかすめるとヒンヤリとした感覚が残った。


「…あのね、キャシー…」
 ややあって、リーアがためらいがちに話しかけた。

「実は…あなたのお誕生日にって、ロッドから頼まれていたものがあるの…こんな時に申し訳ないんだけれど、渡していいかしら?」

 ベージュの平たい箱がキャシーに渡された。両の手にやっと抱えられるほどの大きさのそれは想像よりもずっと軽いものだった。

「開けてくれる…?」

 リーアの言葉に促されて、キャシーは箱の蓋を取った。

 …中から、ラベンダー色のドレスが現れた。

「……」

 キャシーに言葉はなかった。彼女は箱の蓋を手にしたまま、暫くは動くことすら出来ないでいた。

 やがてその目から…もう体中の哀しみは流れ出てしまったと思われたのに再び、後から後から涙が溢れ出てきた。
 リーアはドレスが涙で濡れないようにとそっと箱を受け取り、静かに言った。

「あなたが娘らしい格好も出来ないことをロッドはずっと気に病んでいたのでしょうね…3月の半ばだったかしら、ふらりとうちのお店に訪れて相談を持ちかけられたのよ…」

 彼女は愛おしそうにドレスを見つめた。

「この布地はティレス区のお店から取り寄せたの…とても品の良いタフタなのよ…キャシーはドレスになれていないから余りかさばる布地は可哀想だって。デザインは2人で考えたの…今考えればロッドはとても詳しかったわ…私よりフォーマルドレスの事を良く知っていたわね」

 リーアの言葉に何か答える者はなかった。

 皆俯いたまま…哀しみをこらえているようだった…

「ありがとう…リーア。大切にするね…」
 キャシーはやがて涙を拭うと静かに言った。

 ゆっくりと上がっていく朝日の朱がロッドの上の花々を燃えるように照らし出していた。



「…俺、タウンに行くよ」
 皆、食欲がなかったがそれでも形だけの朝食を摂った後…アレクは仲間達を前にしてきっぱりと言った。

「アレク!?」
 リードは驚いて叫んでいた。

「こんな時に…何たって、そんなこと言うんだよ? 大体、仕事はどうするんだ?」

「…仕事なんて…」
 アレクは自嘲気味に笑い出した。

「昨日のダークさんの話を聞いたろう…? クレール・P・ドリアンは静養中だというじゃないか。セイジュ・S・モートンはもう視察のために汽車でこちらに向かっているはずだ…手薄なんだよ…今がチャンスなんだ。馬を飛ばして一昼夜あればたどりつけるだろう…」

 みんなは息を飲んだ。

 リーアは真っ青な顔でアレクを見つめていた…しかし彼女に言葉はない。

 アレクも皆を見渡した時、リーアのところで視線を止めた。しかし、やはり言葉はなかった。

「…僕も、行く!」
 ジミーが叫んだ。

「僕だって、リカルドにだったら乗れる、一緒に行くよ!」

「ジミー…」
 キャシーは両手で自分の口を覆う。彼女も次の言葉は出なかった。

「リード、キャシー…お前達はここに残ってくれ。悪いが、自分たちの身は自分たちで守るんだ…もう、ロッドはいないのだから。リーアはダークさんを…頼む」
 アレクは皆に指図した。彼は何も言わなかったが、ジミーを連れて行く決心をしたらしかった。2人ずつに分かれる…それが決断だった。ダークじいさんは錯乱して手の付けられない状態だ。ゴーストの手先になったダーネスがあの様な最期を迎えたのだ、ダークじいさんだってどうなるか分からない、ゴーストには情けなどないのだ。



 アレクはひとりで馬屋に来ていた。丘の上には馬はリカルドしかいない。自分が乗る馬が必要だった。

「…やはり、来たか…」

 馬小屋を覗いていると背後から声を掛けられた。

「…レイフ」
 アレクは声の方を振り返った。他の誰でもない、アレクにとってポリスでの一番の友、レイフその人が立っている。
 村で唯一の馬屋はレイフの父親が経営していた。だからここに来れば彼と顔を合わせるかも知れないことは分かっていた。

 …それでも来るしかなかった…時間がないのだ。

「お前、肩の怪我は大丈夫なのか? …無理をして行ける距離じゃないだろう…?」
 アレクは驚いて長年共に過ごしてきた友を見つめた。

 しかし、レイフはそれ以上、何も言わずに馬屋を見て回った。
「…親父には言わないでおくから、こいつを連れて行ってくれ。俺だって門前の小僧だ、いい奴は分かるんだ」

 言葉の出てこないアレクに向かって、レイフは静かに微笑んだ。

「……」
 アレクは何も言わないまま、手綱を受け取った。

「そう言うことなら」
 背後から、今ひとりの声がした。

 2人が振り向くと、そこに立っていたのは…ミスター・カーターであった。
「私にも一頭、あつらえてくれるかね?」

 いつの間に後を付いてきていたのだろう、彼は静かな目で2人を見据えていた。

「ミスター…」
「アレク、いくらロード区で山道の訓練をしたとは言っても…やはり道案内は必要だと思うよ。私を連れて行きなさい」
「…でも…」

 さすがのアレクも何が何だか分からなかった。今ここで、この男を信じて良いものか、悪いものか…静かな目の色からは何も語られず、判断が付かない。
 ここはもう、自分の勘に頼るしかなかった。

「…お願いします…」
 少しの間を置いて、アレクは決心したように頭を下げた。実際、道案内無しでは不安もあった。

 そんな彼の姿をカーター氏は静かに見つめていた。



「…お前には、銃は預けない」
 出発の前、アレクはリードに向かってそう言った。

「でも、兄貴…」
 アレクとジミーが決死の覚悟でタウンへ行くのだ。自分一人が何もしないわけには行かなかった。

「…よく考えるんだ、リード。お前の足では動けない。不本意であったが仕方ない。…この家を守ってくれ」

 リードの肩に置かれた手にグッと力が込められた。

「くれぐれもヤケを起こすんじゃないぞ…いつもロッドが言っていたことを思い出すんだ」
「ただ…風のように…」
「そうだ、風のように…生きていくんだ。死を見るな、生きることを考えろ、俺達もそうするから…」

「アレク…」
 2人のやりとりを少し離れた所から見つめていたリーアがそっと声を掛けた。

 アレクは手綱をリードに預けると、声の方を向き直った。

「気を付けて…待っているわ」
 リーアは必死に笑顔を浮かべているようである。肩が震えていた。

「…行ってくる」
 アレクは両手でリーアの顔を包んで視線を止める。そのまま彼女の背に腕を回して短いキスをした。

「ジミー、ミスター・カーター、出発しよう」
 長い巻き毛を翻して、そう言い放ったアレクはもう丘の上の新リーダーの顔であった。


「私、村の様子を偵察に行ってくるわ」
 3頭の馬が見えなくなるまで見送ったあと、キャシーはリードとキャシーの方を振り返って勝ち気な笑顔で言った。

「…また! そんな危ないこと言い出す!」
 リードがすぐに反論した。
「さっき、アレクが言ったばかりだろう…危ないことはしないようにって。ゴーストは何考えてるか知れないけど、俺達のことえらく敵視してくれちゃって…今日だって何か手が回ってるかも知れないだろ?」

「それならここにいたって同じ事よ。大体…アレク兄さんはレイフの好意で怪我で動けなくなってることになってるんでしょう? 誰かがお見舞いにでも来たらどうするのよ、いないのばれちゃうじゃない?」

「そりゃそうだけど…」
 キャシーひとりに危ないことはさせられない。かと言ってリーアに行かせるのも危険すぎる気がする…自分は動けない。

「明日のこともあるでしょう? イルミアおばさんに話を聞いてこなくちゃ」

「ちょっと、キャシー!」
 リードはイライラしながら言い返す。
「…お前まさか…まだ、レイオスの給仕に行くつもり何じゃないだろうな!?」

「だって、頼まれちゃったもの…」

「それだけは駄目だ! 今日のことは仕方ない…でも明日のことは断ってくるんだ」

「ひどい…」
 キャシーは唇を噛んで、リードを睨んだ。

 その時。

「キャシー…あなたが行くなら、私が行くわよ」
 リーアがしっかりした口調で言い放った。いつもの彼女からは考えられない程、強い言い方である。

「イルミアおばさんだって、こんな状況で給仕をしろとは言わないわ…悪いことは言わない、無茶はしないで」

 ロッドが死に、アレクが去った今…リーアは年長者の自覚を持ったようであった。

「分かった…」
 2人に強く言われてはさすがのキャシーも言い返す言葉がない。渋々と頷いた。



「…ごめん、アレク兄貴」
 昼近くなって、岩場で一服しているときにジミーが申し訳なさそうに口を開いた。

「…何、謝っているんだよ?」
 アレクは不思議そうに首を傾げて弟の方を見た。

「ミスター・カーターが一緒に行ってくれるなら、本当は僕は残った方が良かったよね…」

「…そう言われれば、そうだけど。何だよ急に…」

「僕…あそこにいたくなかったんだ…」
 ジミーは崖の下にあてどなく広がる森を見つめながら言った。

「ジミー…」

「じいさんが悪くないのは分かってる。僕のことを一番に考えてくれたこそのことだって…でも…許せないんだ」
 ダークじいさんが自分のことを思って、したことなのだといくら思ってもジミーはどうしても許すことが出来なかった。

「それで、俺に付いてくることにしたんだ」

「うん…」
 ジミーは決まり悪そうに頷いた。

「まあ良いじゃないか」
 アレクは静かに微笑んで、ジミーの頭に手を置いた。

「もう、だいぶ来てしまったんだし…お前もロード区を走る経験をするのも良いだろう。…疲れたか?」

「ううん」

「ミスター・カーター…そろそろ先に行きましょうか?」

 アレクはカーター氏に声を掛けて立ち上がった。

 カーター氏もまた、ひとりで物思いに沈んでいた。とても声を掛けて理由を聞ける様子ではないように思われた。

 皆、ひとりずつが抱えきれないほどのそれぞれの心の荷物を持ち合わせていた。



「おや、キャシー…いいのかい? 出てきても…」

 キャシーが果物屋を覗くと、イルミアが大きく目を見開いた。
 いつもなら軽い調子で明るく言葉をかけてくれる果物屋のおかみさんであるが、さすがに今日はしんみりした面もちでキャシーを見つめている。

「…食べるものも食べていない、と言う感じだね。まあいいや、一服してあたしも一緒に何か頂くか…」

 そう言うと、前掛けで手を拭ってから手元にあったオレンジを取って、キャシーに手渡した。それから小さなテーブルトレイを出してその上でオレンジを器用に8つ割りにする。

「あんたのも切ってやろう」

「ありがとう…」

 オレンジを渡すときに一瞬、指先が触れた。かすかな温もりに反応してキャシーの心が揺れる。でもそれは溢れるところまではいかず、留まった。

「これは南の国から来た奴で味がいいんだ、お上がり…」
 イルミアはトレイをキャシーの前に置くと、自分も一切れ取って皮を剥がして口に含んだ。オレンジの強い香りが辺りに広がってゆく…キャシーはオレンジの一切れを手にすると皮を取った。小さな香りの粒が明るい日差しに照らし出される。甘い香りが指先に残った。

「兄さんが」

 誰に話しかける感じでもなく…キャシーが独り言のように言葉を発した。

「兄さんが、いなくなっちゃうなんて、思ったことなかった」

 もはや絶命していたロッド。

 背中から狙われて銃弾は心臓を的確に捕らえていたらしい。
 丘の上に運び込まれた彼の体はすでに温かさを失っていた。

 思えば…何とも悠長に生きてきたことだろう。大体、どうしてこんなに命を狙われなければいけないのかが全く分からないキャシーである。
 無理もない。クーデター以前の記憶はほとんどなく、両親のことを懐かしもうとも、ジミーに話してやりたいと思ったとしても何一つ浮かんでこないのである。聞くところによると他の女の子達はその位の…5,6歳ぐらいの記憶ならいくつか持ち合わせている感じだ。タウンからの逃亡の日々はそれだけ壮絶で心に大きく食い込んでしまったんだろう。…それすらも思い出せないが。

「ロッドも…自分が死ぬとは考えてなかっただろうよ」
 イルミアは3切れ目のオレンジを取りながら静かに言った。

「あたしもね、これからお節介ながら嫁の世話でもしてやろうかと考えていたんだよ。だって、ロッドがいつまで独り者だったらアレクとリーアが困るだろう…あの2人だってそろそろ一緒になった方がいいだろうしね」

「…そんなことまで、考えていたの?」
 キャシーは意外だった。村の人たちが自分たちの心配をしていてくれたなんて。

「そりゃそうだよ」
 イルミアはきっぱりと言った。

「あんたらはあたし達にとって、子供も同然だろう。心許なくて危なっかしくて…自然と目がいっちゃうんだよ」

「……」

「あたしも嫁いだ娘のアリーにたいぶ、嫌みを言われたよ…キャシーのことばかり考えて娘の自分は二の次だって」

 丘の上の9年間はキャシーにとって、そのまま生きてきた人生だったと思える。そりゃ、普通とはちょっと違う。学校だって飾り程度にしか行っていない。でも…幸せだったと、思う。

「…しばらくは、元気も出ないだろうが…心を落ち着けてゆっくり休みなさいよ」

「分かった」
 キャシーはスカートを叩いて、立ち上がった。


「…モートン伯が着くのは、明日の3時頃だってさ」

 次にキャシーが向かったのはポリスだった。アレクのことはレイフが上手に話を付けてくれてあるはずだった。

 ポリスの建物の入り口をためらいがちに覗いていると、近くにいたレイフが気付いてくれた。

 彼は素早くキャシーの所まで歩いてくると耳元でモートン伯の情報を教えてくれた。

「…署長にも会っていく?」

「…ううん、今日はみんな忙しそうだし、いいわ」
 キャシーはかすかに微笑みを浮かべて答える。

 …謎が多すぎる。

 モートン伯のことももちろんだが…アレクから朝の馬屋での話を聞いても、レイフが自分たちのことをどこまで把握しているか計りかねる。
「どんなに親しくなった者にも決して心を許してはいけない」と言うのはロッドの繰り返し言っていた言葉だった。冷たく突き放した言い方に思えるが…実はロッドなりの配慮だったのだ。自分たちは政府から追われている人間だ。親しくなりすぎれば相手の者にまで被害が及ぶかも知れない…そんな事例は聞き飽きるほど知っていた。何人もタウンの生き残りと関わりを持てば不幸になることは分かり切っていた。

「じゃあ、そこまで送るよ」
 レイフは人なつっこい笑顔でキャシーを促した。

 物思いに沈んでいたキャシーはハッとして少し笑顔を作った。

「…不思議に思っているんでしょう?」
 歩きながらレイフはキャシーにしか聞こえない小声でポツリと言った。

「…え…?」
 急に話を振られて、キャシーは戸惑った。

「アレクから聞いてるんでしょ、俺が朝…親父に内緒で馬を貸したこと」

「ええ、それは」

 …この人は、何を考えているんだろう…どこまで知っているんだろう…様々な考えがキャシーの心の中で渦巻いていた。 
 でもいくら思いを巡らしたところで、分かるものでもない。レイフの心はレイフの中にあって…キャシーの取り出せるものではないのだ。 

 キャシーは顔を上げてレイフを見た。
 …穏やかな表情の若者が映った。

「…何かさあ…気になるんだよね」
 レイフは照れたように笑って、黙ったままのキャシーに再び話しかけた。

「アレクって、自分のことも何も話さないから…つい、気をもんで手を貸したくなっちゃうんだ。いつかの、リーアのこともさ…」

「リーアの…?」

「あれ、聞いてなかった?」
 レイフは、それじゃ、言わなきゃ良かったかな?…と言うように頭をかいた。

「実のところさ、俺もリーアのこと好きだったんだよ。君たちが来るより半年早くあの親子は村に来たからね…思い続けた時間なら絶対負けないと思うよ」

「…そうなの」
 初耳だった…大体、キャシーはアレクとリーアが付き合いだしたきっかけとかそう言うのも聞いてない。ただ、ポリス入隊の時と同様、ロッドに強く非難を受けていたのは知っている。そう言う時のアレクはいつもになく強情で…ロッドの意を聞き入れないのだ。何がそんなにアレクを強くするのか、キャシーには不思議でならなかった。

「…まあいいや。恋敵にあんなマネをしたのは一生の不覚だったと思うよ。詳しく言うのは辞めるけどさ…今回のことも、何だか力になりたくなったんだよね」

「……」

 キャシーには沈黙を守るしかなかった。申し訳ないとは思うが、明日のモートン伯の到着できっと、何かが変わるような気がしていた。だからもう1日、…詫びるような気持ちだった。


 レイフに見送られて、帰途についたキャシーは空を仰いだ。
真っ青に晴れ渡った空には白い雲がポッカリと浮かんでいた。

 モートン氏の到着が、午後3時…

 それまでに。

 アレク達一行はどこまで行けるのだろうか…?

 キャシーは答えを探して流れゆく雲を見続けていた。



 早馬の伝令は1日足らずでロード区を駆け抜けるという。そうは言ってもこちらは訓練と言っても名ばかりの演習しかしたことのないアレクに「リカルドだったら」どうにか乗りこなせるジミー、ミスター・カーターは2人の目から見たら結構、いい腕をしているとは思うが…所詮、素人集団だ。

 朝早くリース村を出て、セルア区をまっすぐに北へ縦断し、ロード区に入った。実際に走るのは馬だが、上に乗っている人間の方も体力は大いに消耗する。休憩を取りながら走り続け、日が暮れる頃、小さな山小屋にたどり着いた。

「ここは…?」
 きれいに整頓された室内を見回して、アレクは不思議そうにカーター氏に訊ねた。

 人が住んでいる様にも見えないが、荒れ果ててもいない。ごくごく最近に人がいた気配が感じられた。

「ああ、夏の間は山仕事をする人の仮住まいになっている所さ。こうして山道にあるから、ロード区を行き来する者が自由に泊まれるようになっている…きれいに使うのがマナーだけどな」

「へえ、ベッドも2つ用意されているよ」
 ジミーが楽しそうに言った。

「山道の往来は万が一の事を考えて、複数の人間で行われるものだからな…」
 そう言いながら、アレクは窓の外を見た。

 ロード区も山岳地帯の西側には冬でも雪が積もらない。海からの季節風を受けるためだ。カーター氏の先導で雪のない、それでいて極力、最短ルートになる道を選んできた。彼の土地勘は冴えていた。

「ミスター・カーター…ここはどこら辺になるんです?」

 暖炉に火を起こしていたカーター氏が振り向いた。
「そうだなあ、もうロード区の半ば以上…3分の2ぐらいは来ていると思うよ。結構なハイペースだ…あれ、ジミー…?」

 見るとベッドに腰を下ろしたジミーはそのまま倒れ込んで寝息を立てていた。

「…よく頑張ったと思いますよ」
 アレクが兄の顔でジミーの寝顔を見つめた。子供だと思っていた少年もいつしか少しずつ大人びてくる。そんな成長の過程を垣間見るような輪郭だった。

「遠乗り、と言っても俺やロッドが休みの日に半日ぐらい走る程度で…馬ぐらいは乗りこなせるようにしてやろうと思っていましたが、なかなか時間もとれないままで…」

 こんな状況になって、初めて長い時間を共に過ごせた気がする。何とも皮肉な事だった。

「君は…」
 ジミーの寝息を確認しながらカーター氏はアレクに訊ねた。

「私が何者か分からないままで、怖くはないのかい?」

「は…?」

 静かな、それでいて張りつめた語り口にアレクの身体にも緊張が走った。

「この何日か、君たちのことを観察させてもらっていた。君は丘の上の小屋の仲間の中でも人一倍、猜疑心の強い人間だと推察されたが…よく私を連れてくる気になったね」

「仕方ありませんよ」

 パチッと薪のはじける音が響く。

 アレクの輪郭が赤く照らし出される。

「あなたがおっしゃった通り、俺とジミーだけではタウンまでたどり着けるかいささか不安であれば…もう、自分の勘を信じて見るしかないでしょう?」

 その言葉にカーター氏の口元がわずかに弛んだ。

 窓の外の暗がりを見やり、そのあと彼は話題を逸らした。

「…あっちはどうなっているだろうね…」
「さあ…」

 本当に。

 どうなっているか何て想像も出来なかった。

 キャシーが危ないことに首を突っ込まないように、リードに念を押してきた。リーアだって自分の意をくんでくれたはずだ。

 そう信じたくてもアレクの脳裏にはあの朝、ダーネスの顔を見た瞬間の恐怖が甦ってくる。思わず組んだ両腕に力が入った。

 どこに敵が…自分たちの息の根を止めようとしているものがいるとも限らないのだ。

 正直、カーター氏をあっちに残してくることも不安だった。そう言う意味ではアレクはカーター氏を信用しきっていないのだ。

「…命は、ひとつしかないものだね」
 カーター氏がそっと語りかけた。

「不安なのは…君も私も…後の皆も…そしてゴーストにしたって同じ事だろう」

「……」

「クレール・P・ドリアンがどうして山あいの別荘で静養しているか分かるかい?」

「いえ…」

「あそこは道なき道の果てにある。別荘までの道は一本しかなく警護も容易なんだ。…奴自体が死の恐怖に追われている」

「…そう言うもんなんでしょうか? こんなに沢山の悪事を働いた者達が…」

「彼らはクーデターの起こった夜の2日後に全員公開処刑されることになっていたんだよ…」
 カーター氏はテーブルに肘をついて手を組んだ。その表情にうっすらと笑みが浮かぶ。

 アレクは机の下でグッと手を握った。

 外を風が流れた…窓がガタガタと鳴る。

「さあ」

「少し休もうか…夜明け前に出発した方がいい…」

 アレクは顔をこわばらせたまま、返事が出来なかった。

 そんな若者の姿を一瞥して、カーター氏はさっさと長椅子に横になって背を向けた。



「…起きなさい」

 耳元で声が響く。

「もう出掛けた方がいい、日が昇らない方が行動しやすい…」

 アレクははじかれたように起きあがった。
 いつまでも寝付けなかった気がしたが、そこは慣れない遠乗りの疲れでいつしか寝入っていたらしい。

「やだなあ、兄貴はこう言うときも寝起きが悪くて…」
 すっきりした表情のジミーが明るく笑った。

 さすがに早起きが身に付いている人間は違う。

「もう、馬たちもスタンバイオッケーだからな!」

「少し、走ってから朝の食事をとろう…少しでも進みたい」

 カーター氏の声に頷くと、アレクは上着を着込んだ。



「夜が明けたわね…」
 リーアの声が静かに響いた。

 なかなか深くは寝付けず、うとうとしていると辺りは明るくなってくる。

「眠気覚ましに濃いコーヒーでもいれるね」
 キャシーが立ち上がった。

「今日もいい天気だな…」
 リードがベッドの脇の窓を大きく開いた。

 4月6日…。

 とうとう、モートン伯到着の当日の夜が明けた。

 不思議なほど安らかな風景が丘の下に広がっていた。 



「これは…!?」

 途中休憩を入れて、走り続けること数時間…朝靄の晴れてきた山中を3人は走っていた。木々の間、かろうじて馬が通れる程の細道が続いている。山男達が仕事をするために使うだけの余り知られていない道であった。

「何なんですか? これは…」
 カーター氏が何も答えず、どんどん中へと進んでいくのでアレクは再び呟くように言った。

 アレクが慌てるのも無理はない。

 靄の晴れきったはずの森に再び白い空気が漂っている。

「ミスター・カーター…これ…」
 ジミーも不安を隠せない表情で訊ねた。

 馬たちも嫌がってだんだん足取りが重くなってゆく。

「この辺で…馬を下りて置いていこう。あと少しだ…」

「カーターさん!」
 アレクはたまらずに叫んだ。

「どうしてこんなに煙が辺りに充満しているんです!?」

 アレクとは対照的にカーター氏は静かに微笑んだ。

「それは…どこかで何かが燃えているんだろうよ…」

 まるでガラスの破片を集めたような目の光りにアレクとジミーは息を飲んだ。

 ジミーは何も言わずにアレクの方を見た。
 明らかに動揺しているようである。

「さあ、別荘はすぐそこだ。急ぐぞ!」
 カーター氏は素早く身を翻す。

「ジミー、続くぞ!!」
 アレクは思い切ったように叫んだ。


 進めば進むほど、煙が濃くなっていく。出来る駄目身をかがめて煙を吸わないように注意しながら3人は進んだ。躊躇する2人に比べてカーター氏の足取りには迷いがない。吸い寄せられるように煙の元へと向かっているようだ。

 やがて木々が途切れて、崖っぷちに辿り着いた。

「火事だ!!」
 ジミーが大声で叫んだ。

 そこには大きな建物があり…見るところ、クレール・P・ドリアン氏の別荘と思われた。何と言ってもそこに向かっていたのだから、最終地点は間違いないだろう。

「…大体、時間通りだな…」
 低い声でカーター氏は呟いた。

「ミスター…」
 ゾッと背筋が凍り付くのを感じながら、アレクはカーター氏の方に向き直った。

 アレクの視線には構わず、カーター氏の言葉は続く。

「ドリアンは青いガウンを着ている…彼が最近、お抱えのお針子に作らせた新品で気に入っていたはずだから間違いないだろう…アレク、銃は?」

 カーター氏の視線は逃げまどう人々の波を追っていた。

「ここに…」
 アレクは素早く懐中から自分の護身用の銃を取りだした。

 その瞬間、肩に激痛が走る。

「…大丈夫か!?」
 うずくまったアレクにカーター氏が駆け寄る。

 そしてまた素早く視線を崖下に戻した。

「ミスター・カーター…あれじゃない…!?」
 目を凝らしていたジミーが不意に叫んだ。彼の指し示す先にお付きの者に介添えされた初老の男がいた。自分一人では上手く動けない様子だ。

「アレク!!」

 カーター氏の声にアレクは銃を構えようとした。

 でも痛みのせいでどうしても焦点が定まらない。

 焦ったアレクにカーター氏の声が突き刺さる。

「アレク、その銃を貸しなさい!」

「でも…」

 アレクはそれだけは出来ない、と思った。
 護身銃は自分だけのものだ、誰にも使わせることは出来ない。今、カーター氏に手渡すことだけはならない。

 すると、仁王立ちになっていたカーター氏が厳しい表情で再び叫んだ。

「アレキサンダー様! その銃をお渡し下さい…!! あなたにその引き金を引かせるわけには行きません!!」

「カーター…さん…!?」
 アレクは驚いて顔を上げ、声の主を見た。

 今までで一番、真剣な表情のカーター氏の両眼が自分をまっすぐに捕らえている。

「お貸しください、さあ! …早く!!」

 次の瞬間…辺りに大きく銃声が響き渡った…

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