|
其の十◆蒲公英ノ月(たんぽぽのつき) |
ゆうらり。
自分の手のひらが宙を切る。 するりと力抜けするようにほんの小さな力で体が動く。とても不思議だなあとため息。 あまりに自然で、あまりにすんなりと…「陸」に降り立っていた。 「陸」がどんな場所なのだろうかと、幼き頃から時折、思い描いてはいた…母の生まれた、そして育った地。そして…母が捨てた地。 それにしても…手持ち無沙汰だ。 もともとがお姫様育ちで暇な生活には慣れている沙羅も、手を動かすことなく一日を過ごしていると退屈で仕方ない。 日が傾いて来た。窓から見える四角い青空の色がだんだん薄くなっていく。
「沙羅ちゃん…具合どう?」 「今日の診察時間はおしまいになったの、どうする? …ちょっと、歩いてみる?」 もう、布団の上は飽き飽きしていたところだった。沙羅は大きく頷いた。 …それから、ふと思いついたように付け足す。 「…あの、渚さん」 「何?」 「刺しものの…道具があったら、貸していただきたいんです…何か作りたくて」 「刺しもの…?」 「もしかして…沙羅ちゃんが最初に着ていた着物の柄みたいなのかな? 見たことのないようなすばらしい作業だと思っていたのだけど…あれって、やっぱり手作業なんだ」 「…私は、そういうの疎いんだ、じゃあ、佐野おばあちゃんのお店に行ってみよう。手芸やさんなんだよ、小さいところだけど…この界隈で他にないもんね、手芸の材料を置いてそうなところ」 「…お店…?」 何だろう、お店って。聞いたことがなかった。そこに行けば刺しものの材料が揃うんだろうか? 「じゃ、行きましょう…帽子は深く被ってね」 「あ、沙羅ちゃんは勢いよく歩きすぎるみたいだから…ゆっくり歩こうね。またバランス崩して転んじゃうよ」
湊(みなと)の診療所を出るとすぐ、潮の香りがした。自分の身体に染み付いているような不思議な匂い。50mくらい歩いた小高い丘の上から辺りを見渡す。左手側は視界に入りきれないほどのなだらかな海岸線がずっと遠くまで続いていた。もう一方は急な岸壁になっている。切り立った崖のすぐ下は同じ海とは思えないほどの荒々しい波が砕けていた。 「丁度この辺りで潮の流れが変わっているんですって」 「なだらかな海岸と濁流の巻く岸壁しかない。船を出そうにも出せないから、海があっても産業の糧にはならないって、お年寄りたちが言っているわ」 本当に小さな海岸の村だ。家もぽつりぽつり点在しているのみである。 「湊くんの家はおじいさんもお父さんも診療所をやっていらっしゃったんですって。ここからでは町の病院までバスに揺られて、1時間もかかるわ。足腰の弱ったお年寄りにはきついのよ。患者さんの数も少ないし、儲からない仕事と言っても湊くん、きちんと跡を継いでいる。本当に偉いと思うの」
「佐野のおばあちゃん、ご機嫌いかが?」 「こりゃ、渚先生…湊先生とは仲ようやっとりますか?」 「嫌だなあ、おばあちゃん。いつも言っているでしょう? 湊くんと私はそんなんじゃないの。見てれば分かりそうなもんだけど…」 「またまた、そんな言葉で年寄りをからかわないで下さいよ」 「刺繍の…道具を見せて頂きたいんですけど」 「刺繍…? 渚先生が?」 「違うわよ〜私じゃなくて、この子がやりたいんですって…」 「…見たことのない子だね」 「湊くんの親戚の子なの、少しの間…預かることになって」 「ふうん…湊先生の…」 一瞬。 彼女の瞳が揺らいだ気がした…表情が強張る。 しかし老人特有の窪んだ口元がすぐに緩んだ。 「…どんな刺繍をやりたいんですかい? …刺繍にも色々あるんですよ」
「陸から見ると…こんな風に海は波打っているのですね…」 佐野の店で糸や針、木枠と布地を幾らか購入した。引き出しから次々に取り出される糸を見て、沙羅は驚いた。海底国では植物で染色されるので色も限られている。見たことのない色々に夢中で選んでしまった。 かさかさと花たちが重なり合う音を聞きながら、しばらく口をきくこともなく海面の動きを目で追っていた沙羅はため息とともに言葉を発していた。 多尾の話で海底国から仰ぎ見るはるか頭上の「空」の果てに「陸」があると知っていた。月も太陽もその存在を揺らめく光の帯にして沙羅のところに届けてくれていた。きっとこの海面のずっと深くのどこかに…皆の住まう楽園があるのだろう。 静かな繰り返される波音はその地を沙羅の心に甦らせる。水彩画に水を落としたようなにじんだ風景。蔭りを潜ませた音のくぐもった世界。 何処が、私の住むべき場所なのだろうか…、そんな思いが心を横切る。 皆はどうしているだろう? 「婚の儀」はどうしただろう…おばばや多奈は皆から責められていないだろうか。…父上は。 そっと目を伏せる。 …甘んじていたら良かったのか…? あの状況に。自分が目を閉じて耳を塞いでさえいたら、一生をあの地で終えることが出来たかもしれない。何より華繻那は…亜樹(アジュ)との婚儀を取りやめても良いと言ったではないか。 …すべては沙羅本人の意思にかかっていたのだ。 「…沙羅ちゃんは…」 「海底の国にどうしてもいたくない理由があったのでしょ? 自分の故郷を捨てるなんて生半可な決意で出来るものじゃないもの」 海底国から逃げてきた、とは言った…しかし、婚礼のことや亜樹のことまでは話す気にならなかった。話したところで理解してはもらえないだろう。 でも。 どうして…逃げ出してしまおうと思ったのか、自分ですら分からない。 「…いたくなかった、みたい。よく覚えてないの」 「そうねえ、そういうときの思考回路って…自分でも良く分からないものだものね」 それから髪をまとめていたバレッタを外す…ふわりと髪が後ろに流れる。渚の髪は緩やかなウェーヴを描いていた。それは髪の色とともに人の手によって施された結果であったが、沙羅には知る由もない。髪を下ろした渚は少し幼くなった感じがした。 「私もね…ここへ来るのは、大きな決心だったんだ」 驚いた表情になった沙羅に淡い微笑を投げて、静かに渚は言葉を続けた。 「カバンをひとつだけ持って…夜逃げ状態だったな」 「…湊さんに、誘われたんじゃ、なかったんですか?」 「もともとは2人とも研修医を終えて、大きな総合病院で勤務していたの。ここなんかとは比べ物にならない大きな建物がたくさんあるところ、人もたくさん住んでいるから患者さんもひっきりなしだった。私の家からもそんなに遠くなかったわ。無理をすれば通えないこともない距離。それなりに充実したやりがいのある毎日だった…でも、湊くんはある日突然、いなくなっちゃったの」 夕日が渚の輪郭を浮かび上がらせた。長いまつげに灯が宿る。 「お父さんが亡くなって、そのままこの診療所を継ぐことになったらしいの。しかるべき手続きもすべて済ませて。ただ…私や仲間たちには一言もなかった。そういう人なの。自分のことも全然喋らないし…人のことも聞かない。患者さんに対しているときだけ、優しい目になるの」 渚が。 一体、何を語ろうとしているのか、沙羅には分からなかった。沙羅の目から見ても湊と渚はとてもお似合いだと思っていた。 「…上手くいかないわねえ」 夕日はますます赤みを増していく。渚がこちらを向くと丁度逆光になる。暗くなった表情の中身が読めない。 「戻ろうか、そろそろ湊くんも戻ってくると思うから。今日はみんなでおいしいもの食べよう」 もう一度、海を振り向く。待ちぼうけをしているようなヤグルマソウが少しうなだれながら潮風に揺れていた。オレンジ色の満月が海の向こうから昇りだしている。驚くほどに大きくて不気味にすら感じられる。 「月が…丸い」
「…お式もつつがなくおすませになり…大役、ご立派に果たされまして誠におめでとうぞんじます…」 竜王宮殿…南所。窓の外で揺らめくのは漆黒の闇の気。冷たい水で辺りは満たされている。自分の寝所に戻ると急に力が抜けていくようだ。濃緑の式服の上掛けを丁寧に肩から下ろした。 眼に星のようにキラキラしたものをたたえて頬を高潮させた女子を亜樹は静かに見下ろしている。柔らかなウェーヴは先ほど送った父親と同じ色。…自分と同じ色。朱花の色だ、と言った者がいた…はるか昔の記憶。 沙羅がこの地から姿を消して、1週間が過ぎていた。その7日間の間に西南の集落の来賓を迎え入れ、3日3晩に渡る「婚の儀」はつつがなく執り行われた。 …自分でも良くやった方だと思う。西南の集落の両親・親戚もみんな褒め称えていた。ただ…彼が「良くやった」と思うのは執り行われた儀式の出来ではなかった。こういう精神状態できちんと行うことが出来た自分に驚いているのだ。 「…上様? …いかが致しましたか?」 彼女は跪き、主人を見上げる。亜樹の方は大樹のように背筋を伸ばして立っている。 「…大臣家のこと、お前の父君のこと…色々調べさせてもらった」 「は…? おっしゃっている意味が存知かねますが…」 その視線を疎ましげに遮るように、分厚い文書を突きつける。それはこの1週間、多岐の息子である多矢が必死で調べ上げた事実が詳細に記されていた。 「調べは全てついている、華繻那様にもご報告申し上げた。…蛍火(ほたるび)、お前は王族の機密文書の流出を円滑に行う手助けするために送られてきたんだな?」 「そんな…」 蛍火は心底驚いた様子で亜樹の着物の裾にしがみ付いた。 「上様…まさか、私がそのようなこと…お疑いになっていらっしゃるんですか? そんな、ひどいですわ…どうして、上様のお顔を汚すようなことを私が致しましょう? そのような事実は全くございませんわ!」 すすり泣きで主人の非情を責め上げて、蛍火はなおも続けた。 「私のことをそのように貶めるものは…すなわち、亜樹様を貶める輩ではございませんか? …どうか引っ立てて罰してくださいませ! …私は…ただ、上様の御為にのみ生きております。断じてそのようなことはございませんわ!!」 泣いてすがる…従妹。再会した当時はそれでも故郷に里帰りしたときの懐かしい面影を見て親しみをもった。 「…今の上様はもはや名実ともに次期竜王様です。竜王様の姫君をお后様をお迎えになられた今、もう誰はばかることはございませんわ! どうぞ良しなに…」 「いい加減に黙りなさい、自分が恥ずかしくないのか? お前は…」 その瞳は真冬の月よりも冷たい光を放ち、身を翻して蛍火の腕を解いた。 「あ…」 彼女はそのまま冷たい寝所の床に倒れこむ。 「大臣家とお前の実家のも追ってしかるべき制裁が言い渡されること、覚悟するんだな。今から大臣家の旅の御車を追って戻られるが良い」 そのままくるりと視線を窓の外に向ける。 その背中にくぐもった声が響いてきた。 「…驚きましたわ…すっかりと、竜王家の飼い犬になられて。御自分がお恥ずかしくはないのですか?」 「…何…?」 振り返ると先ほどからは考えられないようにきつい目をした蛍火が口元に笑みさえ浮かべて起き上がっていた。ゾッとするような妖艶さに一瞬、亜樹の身体が硬直する。 「元服の前には側女を迎えないとダダをこねられたと言うではありませんか。…ようやくその気になられたと思いましたら…いえ、私の口から申し上げることではございませんが。現竜王様の唯一の御失態をよりによって真似られることはございませんでしょう? 馬鹿馬鹿しいにも程がありますわ!」 「この期に及んで、聞き苦しいぞ!」 しかし、目の前の女子はそんな主人を前にしても少しもひるむことはない。 「…戻れとおっしゃるなら、戻りましょう…でも」 「でも?」 「もう、沙羅様は2度と御戻りにはなられませんわよ」 さらりと紅色の重ねが宙を舞う。蛍火の濃緑の瞳が妖しい色を放つ。 その言葉にはさすがの亜樹も顔色を曇らせた。 「何処に行かれたかは存じませんわ…でも、これだけは断言致しましょう、沙羅様は2度と上様の元には御戻りになられません」 「な、なんでお前如きにそんなことが言える!! 沙羅の何を知っていると言うんだ!」 「ふふふ、御可愛らしいですわ…我が御主人様は」 「何もご存じないのは亜樹様の方ですわ…私には沙羅様の御心なんて手に取るように分かります、…同じ女子、なのですから」 スルスルと。衣擦れの音を残して蛍火は去っていった。その場に残された亜樹は改めて自分の両腕を見た。…そこには当然のことであるが、何も残ってはいなかった。 蛍火の高笑いがしつこく耳に残る。 …いつか、あなた様は…私にした仕打ちに深く後悔なさるでしょう… 振り切るように大きく頭を振る。その後、重い身体を支え切れなくなり寝台へと倒れこんでしまった。そこには散らばった文書と…沙羅の残した上掛けが大きく波打つように広がっていた。
「…亜樹様…」 背後から先ほどとは違う声色がする。重い頭を上げて振り向くとそこにいたのは静かに佇む我が乳母である美莢だった。 「大儀でありました…まさか蛍火ともあろうものがそのような…私も迂闊でございましたわ」 自分の故郷である西南の集落でひそかに行われていた「竜王家の秘伝の香」の情報の横流し疑惑。多矢の調べ上げた証拠は詳細で逃れることは出来ない。香の調合が明かされるだけならまだ良かっただろう。しかし大臣家はそれを悪用し、闇で高値の売買を行っていたのだ。法外な値段に吊り上げて香を販売する。それでも欲しがる輩が後をたたなかったため、その横行は手を広げる一方であった。私腹を肥やして、それによりまた肥大化する大臣家の勢力。食いちぎられる前に露出して、不幸中の幸いだったのかもしれない。 「…このような時に…何ですが…」 「新しい側女のことをご相談申し上げようと思いまして…」 「今は、止めてくれよ! …そんな話!!」 話し出した美莢の言葉はすぐさま断ち切られる。しかし、そのようなことでひるんでいては亜樹の乳母は務まらない。美莢の方も負けていなかった。 「そういうわけには参りませんわ。…亜樹様は御無事に正妃様をお迎えになられました、後はお世継ぎの問題です。…実体のない御后様ではお世継ぎは望めませんわ。これはもはや西南の集落や大臣家様とは無縁のことです。次期の竜王様として、何分、お役目を果たされますよう…」 「うるさい!!」 亜樹は自分でも気づかないうちに大きく肩で息をしていた。心臓が波打っている。 「…何が、世継ぎだ! 何が、お役目だ! …そんなに言うなら、今ここに沙羅を連れて来てくれよ!!」 言ってしまってから、しまったと思う。美莢の前では明かしてはならないこと…そうであったのに。 恐る恐る乳母の方に向き直ると、意外なことに彼女は静かに微笑んでいた。 「よくぞ、おっしゃいました」 「え…」 しかし、すぐに美莢の表情は静かに曇ってしまった。 「でも、少し遅かったようですね…御心はあまりにすれ違ってしまっては元に戻らないんですよ。沙羅様は…もういらっしゃらないのですから…」 その言葉に静かに目を伏せる。全くその通りだった、…全てが手遅れなのだ。 ゆっくりと流れる気が今夜は一段と冷たく心にまとわりついてきた。
「…ホント、上手なものねえ…」 人数がいるのだから、ということで(と言っても沙羅を含めて3人だが)鍋を囲んだあと、早速、買ってきた道具を広げて沙羅は手慣らしに小さい文様をひとつ刺した。さっき、浜で見たヤグルマソウを思い出して鉛筆で下絵を描き、1時間余りで5本の花を仕上げた。 「手に慣れないお道具だから…そんなに上手に行かなくて…」 「そんなことないわよ〜ねえ、湊くん?」 「あ、ああ…そうだね」 湊は細かい字を読むときだけメガネを使う。軽い遠視らしい。 「あ、何見てたの? …芹沢先生の論文? 何かいいことおっしゃってる?」 2人が沙羅の知らない話で盛り上がっているので、ふと視線を外に向けた。 月は高く上っていた。先ほどより小さく、黄色味を強くしている。 「月が…丸い」 |
「蒲公英色(たんぽぽいろ)」…タンポポの花のような色。あざやかな黄。タンポポはキク科の多年草。【色の手帖(小学館)より引用】 |