|
其の九◆天色ノ朝(あまいろのあさ) |
…乾いた、音がする。
何かを叩くような音…そして、うなり声と鈴の鳴る音…耳元でそれらが一斉に鳴り出したような感じ。 ハッとして瞼を開いた。白い天井が見える。見たことのない白い球状のものがそこから「生えて」いた。 「…えっ…!?」 ゆっくりと、思考を巡らす…ええと…私は… 「あら、気が付いた…!?」 四角い仕切られた空間の中にいるのかと思ったが、どうも出入り口があったらしい。薄暗い室内に明るい光が入ってきた。…眩しい… 「良かった〜大丈夫…? 何処か痛いところはない?」 声の方を振り向くと、はっきりした顔立ちの綺麗な女子が立っていた。明るい焦げ茶の髪を後ろでひとつにまとめている。耳元にくるくるまとわりついた後れ毛も可愛らしかった。白い面白い形の服を着ている…。 「起きたなら、カーテンを開けましょうね…気分はどう?」 履き物を脱いですたすたと突き当たりの壁まで歩いていく。壁、とばかり思っていたところが実は布に覆われていて、その向こうに透き通ったもうひとつの壁が現れた。向こうが透けて見える硝子で出来た壁だ。さらにそれは左右に開いて…すうっと冷たいものが流れ込んできた。 「あら、今日は風が冷たいわね」 …思わず視線が吸い寄せられる。 硝子の壁越しに見たことのない空の色が広がっていたのだ。青い…本当に青の布で覆ったような空。 「ちょっと、失礼…いいかしら?」 「うん…顔色もいいし、熱もないようね?」 両手で頬を包み込む。ヒンヤリとした滑らかな感触が伝わってくる。首の辺りの触診をしながら優しい眼差しが急に真剣な色に変わる。 「…どう? 立てる? …もうちょっと横になってる?」 「…ここは?…」 身体を不自然さが包み込む。 「…あ、やっぱり。言葉は通じるんだ、良かったわ〜ここは湊(みなと)くんのやってる…岩森医院と言うお医者さんよ、自宅兼診療所、なの。私は、春日、渚(かすがなぎさ)、一応外科医。…あなた、名前は…?」 「…沙羅…」 「あっ!?」 この女子…渚は何処かおかしいと思ったら…耳が…小さい…。…と言うことは… 「…沙羅…ちゃん…?」 「きゃあ!! …来ないで!!」 「…あなた…陸の…人間! …いや! 近寄らないで!!」 「…どうしたの…? 驚いた?」 ガクガク震えている沙羅に対して、渚は大した動揺もなく冷静だ。大きく目を見開いて、哀れみを伴った黒い瞳で少し離れたところから沙羅を見つめた。余り近寄ると、沙羅が怯えると思ったのかも知れない。 「だって…陸の人間は…私たちを見せ物にするんでしょう!? 異形の姿をしているから…」 「…ちょっとお…見せ物って…21世紀の今日に不似合いな表現ねえ…。それにそうなら、最初から警察にでも突きだしているわよ…。あなたの事は湊くんと私しか知らないの。村のひとに見つかったらそりゃ、騒ぎになるでしょうけど…」 「こんなこと急に言われも…信じられないかも知れないけど。とにかく、昨日の晩、急病人が出て往診に言った帰り道で湊くんがあなたを見付けたのよ。岩場の影に倒れていたんですって。…携帯で連絡してきたの、すぐに着替えを持って来てくれって。夜中に着替えをもってこいなんて…何事かと思ったわよ。…ここまで来たら、あなたがいたの」 「…あ」 「それ、私の服なの。丁度ぴったりね…とは言っても…沙羅ちゃんは私よりずっと若いわね、いくつ?」 「…15に、なりました」 「…わ、中学生!? ほとんど私の半分だわ…」 それから、沙羅の緊張が少し取れてきたのを感じ取り、側まで近づいてきた。 「…そりゃあね。あなたを最初に見た時は驚いたわよ…世界広しとは言え…本当にひと以外の亜人種が…存在するとはね」 「…私を信じて、話してみない? 何があったのか。…駄目かな…?」 香じゃないのに。 この人からは優しい香りがする、と沙羅は思った。柔らかい視線が自分を包み込む。今までの全身に張り付いていた慢性的な緊張までもがほぐれていくような気がする… 「陸の人間を信じてはなりません」と多尾は言った。 …でも、今の自分には何を信じて、何を疑ったらいいのか分からない。 「…ええと…」
「…ふうん…」 沙羅の話を聞いても、渚は未だ、半信半疑の様子だ。この文明の時代、海の中に王国があると聞いても、ピンとくるわけもない。 「…で、沙羅ちゃんは、そのおばばさまの薬が届いたら、普通の人間になれるの? 海底人じゃなくなるのね?」 「…そうみたい…私はもともと半分がこっちの人間だから」 渚はもう一度小声で「不思議ねえ…」とつぶやいた。 「じゃあ、薬が届くまで大人しくしていればいいんじゃない、少しの間ならどうにかなるって。私たちに任せておいて!」 …信用していいのか、分からない。ここには多奈がいない、父である竜王・華繻那もいない。今まで自分を守ってくれた者とはもう会うことはないのだ… 渚の明るい笑顔を見ても、沙羅は心の底から信用することは出来なそうだった。まあ、薬が届くまで…そうすればこの海底人の姿ともおさらばだ。
ぎゅっと、毛布を握りしめる。心の中が冷たいもので覆われているのは明らかだった。
「じゃあ、私は仕事しているから…患者さんが来ているときは顔を出しちゃ駄目よ。今日、湊くんは町営病院の診察日なの。私がここを1人で切り盛りするから、1人にしちゃうけど…大丈夫よね?」
渚が部屋から出ていってしまうと…沙羅は大きく溜息を付いた。溜息までが部屋中に響き渡るようだ。さっき、渚がくるりと背中を向けたとき、さら、と流れた髪がすぐにすとんと下に落ち着いたのに驚いた。この地はゆらめきがない。すっきりした乾いた気の中だ。 「姫様…」 そっと目を閉じると昨日の晩の多奈の顔がくっきりと浮かんでくる。 客座の奥の納庫から、沙羅の灯りを探して戻った多奈はそれを手渡しながら、いつになくしっとりと重々しい声色で言った。 「…私…思ったのです。おばば様は海底人が、陸で数日過ごせるお薬を作れると言ったそうですよね? …それを姫様がお飲みになったら…どうなるのだろうかと…」 「…多奈…?」 気心の知れた侍女が何を言っているのか、沙羅には初め、分からなかった。 「…お逃げ、下さいませ…沙羅様」 「…何…? 逃げるって…?」 ますます分からない。でも多奈の方には迷いもない。 「陸へ…お逃げ下さい…」 呼吸が止まった。 「…多奈…? …どうして、そんなことを言うの?」 陸に、行けなんて…正気なんだろうか? 「…ここにいたのでは…どうしても西南のものの力から逃れることが出来ません…口惜しいですが、私たちの一族がどんなに頑張ったところでたかが知れてます。…それに」 多奈はぐっと口をつぐんでしまった。次の言葉を口にするのをためらうように… 「私…母から聞いております。西南の人間達は…どんな手を使っても、自分たちが優位に立てるようにと画策すると。…沙緒様も…大分、お悩みになられたそうですし」 母の名を出されると、沙羅はどうしていいのか分からない。 「時間がありません…こちらは私がどうにか致します、姫様は…どうかお幸せになってください。この地にいらっしゃってはそれが叶いません…」
あの時…どうして、そう言う気になってしまったのか分からない。 ゆらりと。 心が揺れた…陸へ…行けば何かが変わるのだろうか…? 母が自らの命と共に捨てたその地で、本当に何かが掴めるのであろうか? 何より…あの場から…逃げ出したかった。
「…正気、でございましょうね? 沙羅様…二度とお戻りになることは出来ませんよ?」 背丈の倍以上ある大きな門に手をかけて、おばばは重々しく言い放った。 「我が儘を言って…ごめんなさい、ばば様…」 「…まさか、上様にお許しもないまま…開門を行うとは思わなんだ…これも業のなせる技だろうかね…」 「……」 門は細く身体がするりと入るくらい開けられた。 「まっすぐ、歩いてお行きなさい…私も正直、行ったことがないのでちゃんとしたことは言えないんだ」 門の向こう側は黒々とした気流のうねりが飲み込まんばかりに立ちはだかっていた。 「薬は3日ほど、かかります…それよりかかるかも知れません…。そうしたら侍従の誰かに持たせます。それまでは陸の人間に決して見付からぬように…ご注意下さい。薬の完成をこちらでお待ちいただいて、館のものに見付かっても行けませんからね…」 逃げたってどうなるものでもない、そんなこと分かっていた。
「…沙羅ちゃん?」 「…はい…?」 「……」 目の前に現れたその人を見て、沙羅は言葉を失った。 浜育ちのせいか、気持ちよく日に焼けた肌…柔らかい髪が伸びかけていた。前髪越し、穏やかな瞳の奥に何かが宿る。 「…良かった、気が付いたんだって聞いたから…」 まるで。 …春の…王様…。 そんな言葉が頭を過ぎる。 「…どうしたの? 驚いた? …もっとも、俺達の方も驚いたけどね。渚に聞いたよ…君はもうじき、その姿を変えられるんだって?」 おずおずと頷く。 たどたどしい態度を見て、湊は包み込むような声で言った。 「…正直ね、どうしようかと思っていたんだ。いくら俺達が医者だったって言ったって…君のその姿は変えられない。人前に出られないんじゃ困るだろうしね…」 くしゃくしゃと顔をほころばせる。 「…当座はここに泊まるといいよ。渚に君の世話は頼んだから、一緒に泊まってもらう」 …何て人なのだろう…言葉のひとつひとつ、仕草のひとつひとつが暖かい風を生むようだ。 「…お医者様、って感じなのよね。湊くんは…」 ぽややん…と呆けてしまった沙羅におかしそうに渚が声を掛けた。 「特にね、子供に人気があるの。…町の方から車を飛ばしてこちらに診察受けに来る患者さんも多いのよ」 表で何かの震える大きな音がする。 びくんとした沙羅に、渚が「バイクの音」と教えてくれた。カーテンの端からこっそりと覗くと…黒いものにまたがった湊が走り去っていくところだった。 「あれ…生きているの…?」 海底国は徒歩が基本だった。王族のみが乗用を許される御車は周りを御簾で覆った手押しの車で力のある侍従が10人以上前後から動かすものだった。それが唯一の乗り物だった。 沙羅の言葉がおかしかったのか、渚はくすくす笑った。 …おもしろいわ、沙羅ちゃんは、とか言いつつ。 「…大丈夫よ、湊君は穏やかな人だけどしっかりしていて信用できるの。…でも昨日の晩は…面白かったわよ〜」 「…患者さんなんて…見慣れているはずなのにね…恥ずかしかったんですって。あなたの着替えが出来なくて、私を呼びだしたのよ…真夜中に着替えをもってこいなんていきなり言われて…私、実は思い切り期待しゃったんだけど…」 「…あの」 「渚さんと…湊さんって…」 「え? …私たち? ええと大学の同期なの。周りはみんな年上で気後れしたんだけど…湊くんは現役だったから同じ歳だったの。それから、腐れ縁、親友ってところかな?」 「…そうなんですか」 「あ、そうだ…」 「さっき、見付けたの…何年か前に流行ったんだ…毛糸の帽子、頭にすっぽり被るの…ほら、これなら沙羅ちゃんの耳も隠れちゃうでしょう? 診療時間が終わったら、その辺を案内してあげる」 厚手の耳の下まで覆われる帽子が渡される。 「嬉しいなあ〜実はね、私、妹がいるの。大学にはいるときに家を出て、それっきり戻ってないから…今は年に何回も会えないけどね」 「…おうちから、通わないんですか…」 「こんな田舎、通うだけで1日かかっちゃうわよ〜」 渚は沙羅がひとこと言うたびに面白そうにケラケラ笑った。底抜けに明るい性格のようだ。 「じゃあ、もう一仕事してくるね。午後は往診…お年寄りの家を回るの…一寝入りしておいていいよ」 ぱたぱたと渚のサンダルの音が遠のいていく。 開かれたカーテンの向こう、青空が広がっている。 「陸の空は…ユラユラしないんだなあ…」 海底人は陸で半日もすると過呼吸になってしまいそれが致命傷になるという。でも沙羅には陸の人間である母親の血が濃く受け継がれているため、何ともない。 海底とは異なり乾いた気は肌に刺さる気もするが…手足が見えない束縛から解かれたような開放感を感じていた。 |
「天色(あまいろ)」…「あめいろ」とも。明るい青。「天色」で「そらいろ」と読むものも文献には多い。「天(あま・あめ)」複合語を作る場合「あま」の形となることが多いので、「あまいろ」の読みがふつう。【色の手帖(小学館)より引用】 |