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…沙羅の章…

其の八◆生生流転(せいせいるてん)

「上様、こちらにお出で下さいませ」

 翌朝、着替えを済ませて寝所から出た所を美莢(みざや)に呼び止められた。その口調にたとえようのない違和感を感じる。彼女がいつものように自分に何か小言を言いたいのではないと察し、亜樹(アジュ)は不思議な面持ちになった。
  乳母である美莢と言う女人は、まるで己の務めが主人である亜樹に事細かに小言を言うことだと思っているかのように思える。ふっくらとした唇が開くたびに、そこからは新しい言葉が次々に飛び出すと言っても過言ではないのだ。だがしかし、ただ今の彼女は口も重く、言葉を発するのも疎ましく思っているかのように見える。

 先ほどまで着替えを手伝っていた螢火は、朝餉の盆を取りに行くと席を外していた。美莢はわざわざ、その頃合いを見計らったかのように自分に声を掛けたのではないか。そんな思惑すらが胸に宿る。

「こちらを……」

 目の前に差し出されたのは、うす茶色の畳紙(たとうがみ)に包まれた、一抱えほどの包みであった。ひと目でその中身が衣類であると分かる。

「先ほど、こちらを東所の――姫君の侍女である多奈(たな)が届けて参りました」

 亜樹が包みの紐に手をやると、もうそこはすでに一度ほどかれている。先に包みが美莢の手で開封されたことは明らかで、彼女のただならぬ様子はこの中身を見たことにあるようだ。
  がさがさと紙を開く行為ももどかしく、中身に辿り着いたとき。亜樹の指先は瞬時に硬直していた。

 ――何という、ことであろうか。

 彼の目の前に現れたのは、婚礼用に東所で準備すると言った上掛けであった。

 艶やかに輝く深い緑の織物を覆い尽くすように、色とりどりの文様が描き出されている。その全てがおよそ現実にお目に掛かることのないと思われるほどの見事な造形。見る者の魂をそのまま抜き取り、幻想の中へと引きずり込むほどの出来映えである。
  大輪の花があり、さざ波があり……しかし、何にも増して素晴らしいのは背に一面に施されたつがいの鳳凰の文様だろう。それらは今にも羽ばたきそうな活き活きとした様子でいっぱいに羽を広げ、その羽毛のひとつひとつまで余すことなくさし込まれていた。さながら本物の羽を縫いつけたかと見まがうような見事な仕上がり。柔らかな動きと共に惜しげもなくまき散らされる金粉がこちらまで飛んでくるような錯覚を覚えた。

「あちら様のことをこのように申し上げるのは、いささか口惜しゅうございますが。私もここまで見事な上掛けを未だ、拝見したことがございませんわ」
  そう告げた美莢は、未だ自分を捕らえた衝撃から立ち直っていない様子である。言葉をなくしてそれをただ見下ろす主人に対し、彼女は覇気をなくした声で続けた。

「全く……このようなことがございましょうか。その上、誠のことかは存じませぬが、多奈が申すにはこちらは全て姫君おひとりのお手で仕上げられたものだとのことです。まさか、あちら様にここまでの才がおありになるとは……」

 亜樹はゆっくりと布地の上に視線を泳がせていく。沙羅の針の手つきに熟練したものがあると言うことは、先の祠で見てすでに承知していた。日常的に嗜んでいなければ、あそこまでの鮮やかさはないであろう。しかし、このような刺し文様まで見事にこなしてしまうとは。

 亜樹の心の中に。

 沙羅とふたりだけの秘密の時間が思い起こされる。確かにあの時、沙羅は自分の上掛けを作ると言った。でもそれは無邪気な子供の言葉でしかなかったはず。

「御針の仕事には刺した者の心映えが包み隠さず表れてくると申します。お姿は見えずとも作品を見ればそのお方がどのような御気性の持ち主なのか知るは造作のないこと。ああ、……何としたことでしょうか。しかし、――あちら様もだいぶお悩みになった様子ですね」

「何故、お前にそんなことが分かる?」

 亜樹の問いかけに、目の前の乳母は静かに布地の文様の上を指し示した。

「全ては針目が語ってくれます。ご覧あそばせ、こちら側はまだ慣れぬ針使いで、たどたどしくもとても楽しげに刺されております。多分、御針を持たれて程ない頃の作品なのでしょう。お小さい姫君には余り見えない袖の奥の方から進めるように手ほどきをされたのでしょう。そして、こちらはつい最近の新しいもの。このように、――針目が泣いております」

 その神妙な言葉にも、亜樹はただ首をかしげるしかなかった。

「そのようなことがあるか? ……俺には全てが見事なばかりの仕事としか見受けられないが」

「まあ」
  久方ぶりに母親の面持ちになった美莢が、主に対して優しく微笑む。

「亜樹様はやはり殿方でいらっしゃいますね。この先人の上に立たれる御方ならば、雅なことにも明るくなくてはならないと申し上げておりますのに」

 その言葉を受けて、亜樹はもう一度、問題の箇所を眺めてみた。しかし、やはり何も感じ取れない。

「それから、こちらも」

 今度は刺し文様の綺麗な布地に包まれたものが差し出された。両手で抱えられるほどの大きさ。コトリ、という鈍い音から中は固いものが入っているのが分かる。包みを解いてみれば、やはり中から出てきたのは陶器の壺。中身は多分、香であろう。上掛けの端切れを使って作られた包みに入っているのも粋な演出である。

「何故、今頃このようなものが。添え物のようなかたちにございましょうか」

 すでに亜樹には決まった香がある。彼女はそう告げたかったのであろう。だが、これには亜樹の方が思い当たる節がある。

 ――まさか、合わせ香を。

 刹那、亜樹は顔色を変えて立ち上がる。

「如何なさいました? ――上様!?」

 ただならぬ形相に驚き声を掛ける乳母を振り切って、気が付けば渡りに飛び出していた。

 

◆◆◆


 息を切らせながら東所への扉まで辿り着くと、すでにその向こうはただならぬ気で溢れている。

「これは……亜樹様」
  自分の姿に気付いた多矢(タヤ)がすぐにこちらに飛んできた。すぐさま足下にかしこまって跪く。さすがは多岐の子、どこまでも穏やかな身のこなしである。だが、隠そうとしても動揺している様子はうかがい知れる。

「これは……どうしたことか?」

 早朝だというのに、東所の使用人たちは男も女も皆険しい形相で右往左往している。何か惨事が起こったことはもう隠しようがなかった。

「はい、それが……」
  しかし多矢は端切れ悪く、言葉を濁した。すっきりと聡明な姿で亜樹の前に進み出た昨晩の姿とは、だいぶ具合が違う。その背後に侍女の甲高い声が響いた。

「……そちらには、おられませんか? では、庭先の方をもう一度――」

 ――まさか……!?

 亜樹はなすすべもなく、己の唇を噛んだ。やはりおかしいと思ったのだ、輿入れの際に持って来るようにと告げたはずの香だけが届けられる。それを見た瞬間、心の奥で何かが粉々に砕ける如く一番悪い予想が脳裏を過ぎっていた。どうにかそれが間違いだと信じたい、それだけの想いでこの場所までひた走ったのである。

「沙羅か、まさか、沙羅に何かあったと言うのかっ……!?」

 足元でうなだれるばかりの多矢に対して叫ぶ。しかし彼にはもう、その答えを告げる気力も残っていないのか。乱れたままの髪が、ことの重大さを物語っていた。

 その時。

 亜樹の視線の先を見慣れた顔が横切った。他の者たちが皆動揺して忙しく動いている中で、ひとりだけ動きが鈍くぼんやりと放心状態にあるのが印象的ですぐに目に留まったのである。

「多奈!!」

 足下の男はそのままに、素早くその者に駆け寄っていた。ねっとりした朝の気に重ねの袖も裾も後ろに取られる。彼女の方は亜樹を見た途端、急いでその姿を隠そうとした。しかし、ここでは亜樹の体力の方が遙かに勝っている。すぐにその袖に追いついた。

「――お前、知ってるんだな!? 沙羅は、何処へ行ったんだ、お前なら居所を分かっているのであろう……!?」
  決して逃げることがないようにその腕をきつく掴んで、亜樹はいつになく声を荒げた。

「わっ……私は、何も存じ上げておりませぬ! どうか、お離し下さいまし!」

 多奈の方もきつい口調で必死に応戦する。しかし、亜樹はさらににじり寄った。

「そんなはずはないっ、お前なら必ずや何かを知っているのであろう!?」

 強い視線に耐えきれず目を逸らした多奈ではあるが、やがてきっぱりと言い放った。

「そのように……仰るということは。あなた様には何か、お心当たりがございますのでしょうね……?」

「何!?」

 このように言い切られてはどうにもならない。痛いところを突かれた亜樹が不意に手の力を抜いた。するりと多奈の腕が抜ける。赤く跡の残った腕をさすりながら、しかし彼女は勝ち誇ったように微笑みすら浮かべていた。

「ほおら、ご覧遊ばせ……」

「多奈!? お前はっ、一体……っ」
  これは何としたことだろう、自分でも押さえきれぬ程の禍々しい感情が湧き出てくる。このまま頭に血が上って、どうにかなってしまいそうだ。

「――何事だ、朝から騒々しいな」

 不意に背後に響き渡る声。静かに諭すような声に、すっと感情が引いていった。

「これは、華繻那(カシュナ)様……」

 振り返って跪くと、目の前に柔らかな白い装束が見える。今朝はまだ、寝着より召し替えられておられないのか。漆黒の髪の竜王は、静かに亜樹を見下ろしていた。

「どうしたのだ、このように弱い者に手を上げて。亜樹、お前は次期の竜王として、立派に役目をこなさなくてはならぬだろう。それが、このように、我が東所で乱心などとは、見苦しいも甚だしいぞ」

 きっぱりと言い切られたその言葉通りの自分の行いに、ただただ恥じ入るばかりである。だが、こちらとしても、真実を知る権利はあるではないか。沙羅は他の誰でもない、自分の妻となるべき女子なのだから。

「申し訳ございません、……しかし。こちらの取り乱しようは如何したものでしょうか? まさか、沙羅の身に……何か」

 乱れた竜王の姿からも、その内心が乱れていることを窺い知れた。多分、今し方に起こった出来事ではないのだ、未だにお召し替えもされていないことからもそれが推察出来る。しかし、今亜樹の目の前に立つ華繻那は普段通りに湖面のように物静かに、落ち着いた様子にあった。

「何か異変がございましたのなら。何故すぐに、私の元にお知らせ下さらないのですか?」

「ほう……それは何故であるかな」

 まるでとぼけたような言葉に、小馬鹿にされている思いがする。こんな風に簡単に取りなされてなるものか、亜樹は無礼を承知で申し上げた。

「婚礼の儀は明後日です、それまでに沙羅が戻らなかったら如何なさるおつもりでしょう? このような惨事にあれば、我が南所と致しましても他人事にはございません。こちらからも人手を出します、私自身もすぐに……」

「それは、許さぬ」
  だが、しかし。華繻那は驚くほど冷たい口調で言い放った。

「本日は南所から大臣家の皆も参られるのであろう……? お前が出迎えもせずに留守にしてどうするのだ。それに、これはあくまでも東所の問題で、お前にも西南の皆にも全く関係ないことではないか」

「そんな…」
  亜樹には目の前の竜王の言葉が信じられなかった。

「そうは仰いますが、沙羅は、こちらの姫君は、私の后になる御方ではありませんか。…彼女がいなくては、婚の儀は……やはり、人手を増やすのが先決かと」

 その必死の訴えも華繻那の前に見事にうち砕かれる。華繻那は亜樹を射抜くように見つめると静かに言い放った。

「沙羅が間に合わなければ、その時はお前がひとりでとりおこなわれるがよい。西南の方々もお前の晴れ姿が是非見たいとお思いであろう、それに儀を控えて地方の要人たちもすでに大勢都入りしている。お前には皆のために立派に儀式を取り仕切る義務がある」

「華繻那様、……しかし」

「いつまでもこのような場所で油を売っているのは良くない。早く戻って、本日の務めをつつがなくこなすのだ」

 それだけ告げるとくるりと背を向け、竜王・華繻那は寝所へと引き上げていった。そのあとから、幾人もの侍女が続く。これから朝のお召し替えになるのだろうか。

「……亜樹様」
  背後からの声に振り向くと、幾分気を落ち着けた多矢がそこに立っていた。

「ここは、ひとまずお引き取り下さいませ。上様のおっしゃるとおりです、あなた様は立派に儀式を終えられることだけを、第一になさいませ。心中、お察し申し上げます。しかし、大事にあればこそ、ここは努めて冷静に行動してください」

 言われるとおりである。亜樹はうなだれたまま力無く立ち上がった。

 

◆◆◆


「……多奈」

 木陰に隠れるように事の推移を見守っていた多奈は、自分の名が呼ばれてハッと振り返った。

「あなたは、出過ぎた真似をしでかしたようですね」
  厳しい表情の多尾がそこに立っている。彼女にとっては大叔母になるその人は、この都にあっては母にもかわる立場にある者だ。怒りを抑えた声にもとてつもなく鋭いものが感じられる。

「……」
  多奈は何も答えることが出来なかった。多尾の言い分が正しかったからである。

「あなたが他の誰よりも沙羅様を深くお慕い申し上げていて、我が身に替えても大切に思っていることは承知しています。でも一時の感情で事を急ぐとは、高貴なお方にお仕えする者としては失格ですよ。起こってしまったことは仕方ないですが、その口から何か手がかりを語ることはないのですか?」

 多奈はやはり黙ったまま俯くことしか出来なかった。

 沙羅は確かにこの者に対して沈黙を守っていた。しかし、あの場には当事者以外に事の推移を知る者が存在したのである。ひとりは客座の扉番であり、もうひとりは神座の灯りを守る巫女だった。巫女の方は多奈と縁続きの女子であったので、ことの次第を詳しく聞かせてくれた。その時に湧き上がった怒りの大きさと言ったら、一晩をおいた今でも自分の身の震えが止まらないほどである。

「あなたが、何も語りたくないならばいた仕方ありません。姫様も最後は御自分の意志でお決めになられたのでしょう。これ以上、私から言うことはありませんね」

 大叔母の言葉に、多奈はさらに唇を強く噛みしめた。

 ――自分はいつだって、沙羅様のお幸せだけを望んでいる。いつだってそれだけは変わらない……。

 あの亜樹が、あのように取り乱したことは彼女にとってあまりにも意外なことであった。思いがけない出来事に、すでに後悔の二文字が心に渦巻いている。だが今となってはどうすることも出来ないのだ。

 庭先の人影が全て消え失せたことを確認してから、彼女はひとり静かに天を仰いだ。


「生生流転(せいせいるてん)」…「しょうじょうるてん」とも読む。万物は永遠に生死を繰り返し、絶えず移り変わっていくこと。実はさだまさしさんの曲のタイトルから頂きました。ちょっと、ネタ切れ?
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