TopNovel秘色の語り夢・扉>沙羅の章・7



…沙羅の章…

其の七◆緑青ノ、泡雨湧キ立ツ(ろくしょうの、あわあめわきたつ)


 螢火(ほたるび)の言葉通り。翌朝、朝餉の前に美莢(みざや)に伴われて、馴染みの側女が亜樹(アジュ)の部屋を訪れた。

 

 これから長い道中を行くので短く着物の裾を合わせ、これも短い袖から見える両の手には白い手袋がはめられていた。慣れない道中をゆく者は、杖をつきながら歩く。その時にすれて手の皮が剥けないようにするためであった。

「……長いこと、お世話になりました。本日、西南の大臣様のお指図により、里へ戻らせて頂くことにあいなりました」

 浅黄色の重ねは彼女の勝ち気そうな顔色を青く見せる。普段は揺るぎない自信に満ちた瞳も「西南の集落」特有の紅い髪と褐色の肌も、今朝はその艶を潜ませている。秋茜(あきあかね)は神妙な声で亜樹と傍らで彼の着替えの手伝いをしている螢火に挨拶をした。

「この女子も、すでにいい歳ですから。次期竜王様の側女ともなれば、この先、嫁ぎ先にも困らないでしょう」
  サバサバとした口調で美莢は彼女の傍らでこう告げた。その言葉にも力無く、秋茜は俯いている。しかし、やがて彼女は意を決したように顔を上げると、必死の形相で美莢に願い出た。

「あの……最後に、上様と二人きりにさせては頂けませんか? もうこの先は、再びお顔を拝見することも叶わぬ身分になるのですから……」

 その言葉に螢火はあからさまに不服そうな表情になり、訴えるような視線を美莢に向けた。

「……宜しいでしょう。では、しばし席を外しましょう。――螢火?」

「はい……」

 さすがに美莢は螢火の意にも屈することはない。元服の日より、長年亜樹に仕えてきた側女に対する心遣いは忘れていなかった。

 こう言われては螢火も従うしかない。他の者に悟られぬように口惜しく唇を噛みしめたまま、美莢に続いて部屋を出て行った。

 

 二人が渡りの向こうに見えなくなるのを確認していたのか、自分の意向が受け入れられた秋茜はそれでもしばらく無言のまま控えていた。辺りがすっかり静寂を取り戻してから口を開いたが、その声も普段とは比べものにならぬほど小さく留めている。

「上様……御館を退出する前に、是非とも東所の姫様にお目にかかりたく……。宜しいでしょうか……?」

 その意外すぎる言葉に、驚きの色の瞳で亜樹が見つめ返す。秋茜の表情には普段と変わらない、力強さが戻ってきていた。

 

◆◆◆


「……あなたは?」
  多奈の後を付いて部屋に入ってきた女子に、沙羅はとても信じられないと言うように声を上げた。薄桃色の重ねの下に濃いピンクのうす衣が覗く。春爛漫の衣を纏ったこの地の姫君は記憶を手繰るように小首を傾げた。

「確か……南所の」

「秋茜に、ございます」

 椅子に座した沙羅に対して、彼女は床に跪いて言葉を述べる。ああそうかと、ようやく沙羅も合点がいった。以前は良く、亜樹について館の行事に出ていた古株の侍女である。いや、侍女というのは表向きのこと――この者も「側女」として送り込まれたひとりに他ならない。沙羅にとっては「宿敵」とも言える存在であった。

 だが……それならば何故。他の対の侍女がこのようにかしこまって訪れることなどあまり例のないことだ。言付けならば、部屋付きの侍女に告げれば済むこと。わざわざ部屋に招き入れ顔を合わせることもない。なおも訝しげに見つめる沙羅に、彼女はさらりと当然のように告げた。

「本日、お許しを頂いて里へ下がることとなりましたので。無礼とは存じましたが、このようにご挨拶に参りました」
  そこまで言うと、しっかりとした視線を座したままの姫君に向ける。濃緑の瞳、朱と呼ぶに程近い髪がやはり亜樹と重なる。間近で見るその色に、沙羅は軽い目眩を覚えた。

「初めはお断りしようと思ったのですよ。ただでさえ、姫様は色々とお疲れなのに、その上に心労を重ねられるのはたまりません。何度もそう申し上げたのですが……」

 多奈が口を尖らせて言葉を挟む。

「今まで、任を解かれてお里に下がることに決まった南所の者が、わざわざ姫様の所までお目通りを願うことなどございませんでしたもの。でもこの方はどうしてもと仰って下がりませんし、亜樹様からのお口添えも頂いているそうですので、私と致しましてもこれ以上は……」

 沙羅と同様に、多奈自身もまた、秋茜の奇妙なこの行動には疑問を抱いている様子であった。

 まあ、この頃の南所は何やら不穏な空気に包まれている様子である。館の侍女達の噂を聞きつけてきた多奈によれば、この数日前にも篝火という側女が里へと帰されたらしい。古参の侍女はそのほとんどが任を解かれたと聞いていて、他人事ながら不思議なこともあるものだと思っていた。
  ただ、その一因には「竜王様の姫君がお出でなる忌々しい場所などにはお仕えしたくないと思うのも当然」という思いがあるとまことしやかに囁かれていると言うので、何もかもが自分に不都合なように巡ってくるのだと情けなくなってくる。とはいえ、今更そのようなことをいちいち気にしていては身が持たないのであるが。

「……亜樹が口添えを? それで、あなた……」

 一体何を、と言いかけたのを、秋茜の手が素早く遮った。

「――お静かに。ひとことだけ、申し上げます」

「え?」

 真剣な眼に射抜かれて、沙羅の身体はその瞬間動きを封じられていた。年の頃はすでにはたちを越えているであろう、匂やかな女らしさをたたえた輪郭の中で濃緑の瞳がすがる様にこちらを見ている。

 秋茜はおもむろに沙羅の手を握りしめた。彼女は道中用の白手袋をはめたままだったが、それごとしっとりと汗で濡れている。

「お気を付け下さいませ。……姫様、あの女はただの人ではありませぬ。お許しがあればご婚礼の後も姫様をお守り申し上げたかったのですが……それももはや叶わなくなりました。どうか、私のこの言葉をお忘れになりませぬよう――」

 指先から、秋茜の身体の震えが直に伝わってくる。それが恐怖なのか、憤りなのか解せない沙羅であった。

 

◆◆◆


「一体、何事だったのでしょうか」
  秋茜を表まで送って戻ってきた多奈が、しきりに首をひねりながら言った。

「……」
  沙羅もまた黙ったまま何も告げることが出来ない。手のひらには先ほどまでの震えと湿り気が未だに残っているようだ。

「――さあ、姫様」
  いくら考えていても埒が明かないので、多奈は思いを吹っ切るように話題を変えた。

「とうとうご婚礼の儀は三日後から始まります。丸三日の長丁場ですから、気を強く保って乗り越えてくださいましね。――もう程なく、上掛けも仕上がりますね?」

 優しく励ましてくれる侍女に応えるように、沙羅も明るく微笑んだ。

「そうね、もうちょっと仕上げに刺してから。その後は返し衿を付ければいいの。頑張れば、今日中には仕上がるわ」

「それは宜しゅうございますっ!」

 多奈は自分のことのようにうきうきしている。それから彼女は何を思ったのか、すっと神妙な顔つきになると辺りを見回して小声になった。

「あの、姫様。私、出来れば叶えたい夢があるんです!」

「……え?」

 一体何事かとこちらがかしこまったというのに、当の本人はもう瞳を輝かせている。

「姫様の御子の乳母に是非、名乗り出たくて。そうするにはどうしたらいいのか、ここしばらくずっと思案しておりました!」

「そ、そう……」
  余りの勢いに、沙羅は飲み込まれてしまいそうになる。何を言い出すのかと思えば……、しかし馬鹿らしいと一笑するには相手が真顔過ぎる。

「この一連の儀式が終了いたしましたら、私もささやかに祝言を挙げる運びになっております。乳母のことは東所の侍女達が皆、狙っていることですが頑張りますわよ、私!」

 両の手で握り拳を作って気合いを入れる多奈に、沙羅は思わず苦笑してしまった。

 

 ……御子なんて、望んだって叶うこととも思えないのだけど……。

 嫌でも、あの螢火のことが頭を過ぎる。亜樹が今までになく親密に扱っているという新しい側女。そのために歴代の側女達がお役目を解かれて次々に里へ帰されているというのが本筋であろう。今朝、事実上の側女頭だった秋茜が去った後、南所の新しい女主人は彼女を置いて他には考えられなくなっている。

『……負けませんわよ、わたくしは』

 衣装合わせの時の、鋭い言葉が胸を刺す。負けるも、何も――沙羅は多奈に悟られぬよう小さく吐息を漏らしていた。
  張り合われるほどのものを自分は待ってない、かつてはあったのかも知れないが今はもうどこかに行ってしまった。

 

 今日は特に暖かい。気の暖まったこんな日は昼間でも木々から気泡が次々に湧いてきて、天に昇る雨のごとくこの地を覆い尽くす。樹はひとつの気泡を我が身から離すとすぐに次の泡を吐き出す。
  真っ白にけむった森のてっぺんを眺める。余りの勢いに辺りの気がゆらゆらと儚げに揺らめき立っている。点の果ては覆い尽くされた気泡達で目を凝らしても仰ぎ見ることが出来なかった。

 この身が震えるほどの生命力を感じる。あの気泡の一粒ずつが、生物の呼吸なのだ。春先は木々の芽吹きの時なので一年の間でも一番鮮やかな泡雨を見ることが出来る。いつ終わるとも思えない自然の営み。自分の存在が余りにもちっぽけで心許ないと沙羅は感じていた。

 

◆◆◆


 その日も何かと慌ただしく、あっという間に夕刻を迎えていた。

「これから、客座にお出でになると仰るのですか?」

 夕餉の膳を片づけながら、多奈が驚いて顔を上げた。その表情に信じられないという気持ちをべったりと貼り付けたまま、女主人の落ち着き払った姿を見つめている。

「返しの所に裏の衿を付けないと行けないでしょう? 下に着る袿(うちき)の色を合わせてみたいの」
  沙羅としてはもう自分の中で決定した事柄である。話がこじれる前に実行してしまおうと、さっさと支度を調えていた。そこに慌てた多奈の言葉が追いかけてくる。

「でも、この前にしかとごらんになったでしょう? 私も覚えております。確か、淡い緑ではございませんでしたか?」

「それはそうだけど……」

 沙羅は軽い溜息を付く。思っていたとおり、多奈はやはり難色を示してきた。渡り続きとはいっても、客座はこの東所の寝所よりかなりの距離がある。そこへ続く長い渡りは、こうして日が落ちた後は余り侍従の往来もなく、ひっそり静まり返っている。
  館内とは言え、残念ながら治安が良くない。ついこの間も西南の集落と北の集落の下男の間で小刀を抜く不祥事があったばかりだ。もっとも、この事件は酒を飲んで暴れ回った西南の方が一方的に斬りつけて来たとのことで、公平な立場の目撃証言もあり、大事には至らなかった。気流に乗ってそこら中に鮮血の匂いが浮遊したと人づてに聞き、沙羅も眉をひそめたものである。

「それでも、やはり本物を見ないと。淡い緑と言っても、白く淡いのか黄みがかって淡いのか。あの時は慌てていたので、良く覚えてないの。あちらに渡してしまってからではもう直すことは出来ないし、私としても最後の最後で後悔したくはないわ」

 多奈の忠告ももっともであるが、こちらとしても引くことは出来ない。気の遠くなるような歳月を経て、ようやく完成する婚礼の上掛け。自分に出来る最高の仕上がりにしたい。その想いは、多奈には必ず伝わるはずだ。

「それは困りましたね……。婚礼の御衣装を保管してある納庫は、客座の奥の北所の神座に程近い部屋になりますわ。もちろん、扉番がきちんと守っているでしょうから、そう怪しい者は立ち入れないでしょうが……」

 窓の外は一瞬ごとに藍の深みの帯が立ちこめてくる。こうして思案している時間も惜しいのだと多奈は承知した。

「かしこまりました、私もこちらを片づけましたらすぐに追いかけましょう。ええ、ゆっくり歩いていてくだされば、すぐにでも追いつきますよ」

「ありがとう……」
  沙羅は嬉しそうに上掛けと返し衿の織りの端切れを手にすると、そそくさと部屋を後にした。

 

 我が父の竜王の館とは言っても、沙羅は未だ足を踏み入れたことのないところが多い。 

 沙羅が竜王である父と共に住まう「東所」、お客と対面する館中央の「客座」――そして海の神を奉った北所の「神座」には儀式の折には何度か足を運んだ。でもそれは特別の場合のみに限られていて、通常は出入りすることもない。特に禁じられているわけではないが、あまり目立つ振る舞いはしないほうがいいと自分の部屋にばかり留まっていることが多かった。
  遠方の客が館に滞在する期間に寝所とする「西所」と次期竜王である亜樹の住まう「南所」にはいまだ足を向けたことがない。

 もとより異郷の「陸の娘」を母親に持った沙羅にとって、この館の何処にも気の休まるところはなかった。母に好意的であった多岐(タキ)・多尾(たお)の実家である「北の集落」の者達は親身になって尽くしてくれていると思う。しかし、歴代の大臣家を持つ「西南の集落」の勢力の方がどうしても勝る、北の集落は竜王の従順な家臣としての位置に徹していたからだ。
  竜王家と西南の大臣家との血縁関係はそのまま政への強い発言権となる。だがしかし、どんなに西南の者たちが沙羅のことを嫌おうと、彼女の「竜王の娘」としての地位だけは逃すことはなかった。

 改めて考えるまでもなく、西南の集落出身の亜樹の后となるより北の集落の家臣の元に降嫁する方が沙羅にとっても平穏な未来であったであろう。彼女の父である竜王もそれを視野に入れていないわけではなかった。多岐の息子や孫…すなわち多奈にとっては叔父や従兄弟に当たる者達の中には心映えの良い優れた若者が多くある。

 しかしその提案には、他ならぬ西南の集落の大臣家が難色を示してくる。「姫君を降嫁させては、北の集落の勢力が嫌でも膨らんでしまう」と言った、はなはだ彼らの自己中心的な思惑の中、沙羅の将来の道は決められていったのだ。

 あまり館の外に出ることもなく、相応の自由も与えられず。この館のどんな女子よりも優美かつ繊細な衣装を纏いながら、今現在の沙羅には何の決定権もないのであった。

「……せめて、御衣装の色目くらいは自分で見極めたいわ」

 心の中で何度も何度も反芻する。

 亜樹の式服の袿の色目は彼の側女である螢火が当然のように合わせてしまった。一応、沙羅にお伺いをたてはしたが、そのすんなりと当然のようにとりおこなわれる行動が自分の今後を暗示していたような気がしてならない。

 亜樹にとって、故郷の香りを色濃く持った女子、螢火。その名の通り、儚げに見えながら、見る者の心を捉えて離さないものが秘められている気がしてならなかった。

 

◆◆◆


 客座の扉番に開扉を求めると、寝ずの番に入ったばかりの彼は一瞬、顔を曇らせた。それを自分の軽々しい行為に対する嫌悪であると、沙羅は理解する。美しく伸ばされた茶の髪と陶器のように白く艶やかな肌、整った顔立ちの高貴な衣装に身を包む娘が誰であるか――名乗らずとも扉番にとっては瞬時に分かったであろう。

「……迷惑を掛けますね。用を済ませて、すぐに戻りますから」

 自分が扉の奥に入っている間、この男は重責を背負うことになる。もしも沙羅に大事があったその時には、全てが彼の責任となってしまうのだ。

 遠慮がちに扉の向こうに消えた後に、舞夕花(まゆか)の残り香が漂う。沙羅がここに今、いたことを物語る何よりの証拠であった。

 今までの渡りには灯り取りの蝋燭が揺れていたが、人気の消えた客座には暗闇が立ちこめるのみだ。手にした灯りを行く手に掲げながら、沙羅は用心深く足を進めた。

 奥まで来ると、北所の御簾越しに明るい灯りが漏れてくる。神座の無数の灯り取りは始終灯されているのだ。それを番する巫女と目があった。北の集落の出身を意味する黒い髪の年若い娘は親しみを込めて笑顔で一礼した。沙羅も微笑み返す。そのまま左手に折れて納庫の方に入っていけば、目的の部屋はすぐそこだ。

 

「……え?」
  沙羅の歩みが一瞬、止まった。

 どういうことだろう。誰もいないはずの納庫の奥から灯りが漏れている。衣装を整えた所ではなく、……その奥の。

「だあれ……? 多奈、先に来ていたの?」

 扉番は中に誰かがいるとはひとことも言わなかった。首を傾げながら、そこに足を踏み入れようとして――沙羅は今までに感じたことのない激しい嫌悪感に見舞われた。

「あなたは……」

 信じられない、と言う表情で立ちつくす沙羅に対して、その人影は至って冷静に、何食わぬ顔でこちらを向き直った。

「あら、……これは沙羅様。こんな夜更けにどうされましたか? とても高貴な御方の振る舞いとは思えませんが……」

 柔らかに笑顔が作られる。しかし、怪しげな蝋燭の灯りの中、それはそこはかとない陰湿さを含んでいる。闇に惑うような墨の衣装をわざわざ着込み、そこにいたのは――亜樹の側女、螢火であった。

「このような場所で、あなたこそ何しているの? こちらは、王族の機密文書の……門外不出の」

 沙羅が納庫に入ってきた物音に、螢火の方もかなり驚いたのであろう。足元にはたくさんの紙切れが散らばっていた。――間違いない。その一枚を拾い上げた沙羅は、思わず震える声で叫んでいた。

「これは! ……あなた、これをどうするつもりだったというの!?」

 視線の先にある螢火の顔は少しも動揺していない。取り乱すのは沙羅の方で、対する螢火は涼やかな微笑を変わらずその顔に浮かべている。

「――あら、どうにも致しませんわよ」

 それから螢火はわざとらしく自分の衣の袖を翻した。

 瞬間に、沙羅は先から感じていた嫌悪感の意味を悟ることになる。そうだったのか……、そうであったのか。

「あなた、……どうして、私と同じ香を」

 正確には、そうではない。私とよく似た香、と言った方がいいのは分かっていた。自分が用いている舞夕花(まゆか)の香には少しの香りの深さが足りない。利く者が利けば……その違いがはっきりと感じ取れる。まがい物だからこそ余計な香りが混ざり込み、扱い慣れた沙羅にとっては忌々しいものとしか思えなかった。

 どちらにせよ王族にしか許されてない、王族にあっても降嫁したとしても自分以外の家族に振る舞うことは許されていない香を用いているのだ。次期竜王の側女とはいえ、御子をお産み申し上げた者でなければ到底許される行為ではない。

「……何を、そのように驚かれるのやら」

 螢火は驚愕の形相を崩せない沙羅が可笑しくてしょうがないというように、くすくすと笑い声を上げた。

「亜樹様が……これを私に、と。やはり、香は付けてふさわしい人間が用いるものですわ」
  彼女は勝ち誇った笑顔で沙羅を見据える。

「話を、すり替えないで!」
  立っていられないほどの衝撃に耐えながら、沙羅は気を強く持って切り返した。

「誰に断って、ここに入ったというのですっ!? あなた、一体……!?」

「別に……そのようにお怒りにならなくても、程なく退出いたしますわ。お騒がせして、申し訳ございません。私の姿がないと、亜樹様は心配なさって大変なことになりますの。今頃、そこここを探されていらっしゃるでしょうから――」

 鼻につく香が自分の目の前を通り抜け、そのまま戸口から出ていこうとした。

 

「待ちなさい……!」

 慌てて、その後を追った沙羅は戸口を出たところで足を止める。

「……どうかしたか?」

 何と間の悪いことであろう。そこにはこの状況を少しもわきまえていない亜樹が、きょとんとした表情で立っていた。螢火を探していたというのは本当らしい。手には灯りを持ち、鮮緑に金の刺し文様の重ねをゆったりと掛けている。その下はすでに寝装束であった。

 彼は、しばらくはこの不思議な取り合わせの2人を交互に見比べていた。

「亜樹っ! この者は――」

 沙羅が思いあまって叫び声を上げようとしたとき、それよりも早く螢火が亜樹の腕に素早くしがみついた。

「おっ、恐ろしゅうござました。姫様が……わたくしを激しく罵倒なさって……わたくしは、御衣装を改めに参りましただけだとご説明申し上げましたのに、全く聞き入れてくださらないどころかあらぬ言いがかりを付けられて。よく、この螢火をお救いに来てくださいました……!」

 彼女は亜樹の胸に顔を押し当てて、しくしくと泣き声を上げる。その震える肩に当然のように腕を回しながら、亜樹はこちらを向き直った。その顔には嫌悪の色がありありと浮かんでいる。

「ちっ、違うわ! ……この者は、王族の文書を……」

 必死にそう告げながらも、立場の悪さを悟った沙羅はだんだん声が小さくなっていく。この状況では何を言ったところで聞き入れてもらえぬに違いない。

「そうではございません! その引き出しに何があるのかなんて存じ上げなくて……ぶつかった拍子に書類を床に散らげてしまって。……それだけなのに、沙羅様は……!!」

 対して、強い味方を付けた螢火の方は遠慮もない。勝ち誇ったように自分の正当性を延々と述べると、さらに強く亜樹に抱きついて大きな泣き声を上げた。その声が客座内に響き渡る。

 どこからともなく、気の流れがすいっと入ってくる。亜樹と螢火の髪をなびかせたそれは、そのあと沙羅の長い髪を大きく膨らませた。

「……俺の大切な侍女に、変な言いがかりはよして欲しいな」

 冷たい表情で亜樹がそう告げる。

「姫様の憤りをこのか弱い者に向けられては敵いません。――今後はこのような事のなきように」

 それから、顔を螢火の方に向けると、人の変わったように優しくこう言った。

「怖い思いをさせたね……。さあ、恐ろしい姫様は置いておいて、早く私たちの寝所に戻ろう」

 

◆◆◆


「――沙羅様!!」

 どれくらいの時がたったのであろう。暗闇のあちらから多奈の声がする。

「如何致しました!? ……今、こちらを出て行かれる亜樹様と――あの、沙羅様っ……?」

 いつの間にか…その場に倒れ込んでいたらしい。乱れた自分の髪をかき上げて、沙羅はゆるゆると頭を上げた。

「姫様……」

「大丈夫よ、――本当に何でもないの」

 まるで何事もなかったかのように。我が身を心から案じてくれる多奈に対して、沙羅は自分でも驚くほど静かに微笑むことが出来た。

「――戻りましょう、あちらから私の灯りを持ってきてくれる?」

 

◆◆◆


「ありがとうございます…本当に…亜樹様があの場に来てくださって…」

 螢火は溢れる涙を拭いもせず、自分を見上げている。しかし、亜樹の心の中には螢火とは相容れない、全く違う思考が渦巻いていた。
  足早に客座を出てから幾らか歩くと、亜樹は、感激したように顔を紅潮させた女子に対して冷たく言い放った。

「……なぜ、香を用いている。そのようなもの、お前には許されてはいないはずであろう?」

「あら……?」
  螢火は悪びれる様子もなく、無邪気な表情で告げた。

「これは、ただの匂い袋ですわ。いわば、子供の玩具のようなもの。亜樹様ともあろうお方が、利き違えるなんて」

 親しげなその言葉にも亜樹の表情は崩れない。

「もう、ここまで来ればいいだろう。先に戻りなさい」

「……え? 亜樹様はどうなさるのですか」

 螢火は、慌てたように後に続こうとする。

「亜樹様がお出でになるところ、私はどこまでもご一緒いたしますわ。そのように、美莢さまからも申し遣っております」

 しかし、亜樹はその行動をさっと制した。

「……戻りなさい、ひとりで足りる用だ」

 いつになくきつい口調に一瞬ひるんだ彼女であったが、すぐに気を取り直しかしこまった。

「承知いたしました。――それではお部屋でお待ちしております」

 その言葉に鬱陶しそうに振り向いた彼はさらに冷たく突き放す。

「もう、今宵は自室に戻って良い。――きっと遅くなるから」

「はい……」

 今度は螢火も静かに引き下がった。主人の背を見つめる螢火の口元がだんだん上がってゆく。

 

 そして。

 亜樹が沙羅が今いる客座ではなく、まっすぐに東所の竜王の寝所に入っていくのを見届けてから静かに自分の部屋へと戻っていった。

 

◆◆◆


「――多岐? ……多岐はこちらか?」

 竜王の寝所に夜更けに訪れるのだ、少し遠慮がちに亜樹は言葉をかけた。その声に誘われて、侍従の寄り所から顔を出した下男がぎょっとした顔になる。慌てて舞い戻った彼は、すぐに主を呼んできた。

「おや、……これは、これは」
  思いもよらぬ顔が訪れたと驚いているのだろう。竜王の一の侍従である多岐は、ちらりとこちらを伺うように鋭い視線を一瞬放ち、そのあと静かに笑みを浮かべる。

「如何致しましたか? ……このような場所までいらっしゃるとはお珍しい」

「お前に、調べて欲しいことがあるんだ」

 難しい話はこの際抜きにしようと言わんばかりに、亜樹は開口一番真っ直ぐにそう告げた。

「――私に、でございますか?」
  ますます合点がいかないと言うように、多岐は静かに言葉を返す。

「どういうことでございましょうか。それならば、南所にも優れた方がたくさんいらっしゃいますでしょう。わざわざ私などにお声を掛けるまでもなく」

 その言葉は極めて正当だ。もしも彼以外の人間に頼んだとしても、同じ言葉が即座に戻って来るに違いない。しかし、亜樹は静かに頭を振った。

「あそこの者達には頼めない」

 その言葉に多岐は何かを察したように、厳しい表情に変わった。

「承知いたしました…しかし、私は竜王様の家臣、この時期に目立った立ち回りは出来ません。――そこで、……」

 彼は後ろを振り向くと、目で合図を送る。傍らにいた若い男がすぐに気付いて、亜樹の前にやってきた。床に跪き、静かに頭を垂れる。

「……私の息子です、この者をお使い下さい」

 己の前に礼を尽くす男を見て、亜樹は少し驚きの色をその表情に浮かべた。多岐の息子というにはあまりに年若い。その表情を見て取った多岐がちょっとはにかんで告げた。

「……末の息子でありますれば……お恥ずかしゅうございます。しかし、きちんと学ばせておます故、必ずや亜樹様のお力になりましょうぞ」

 さらに、その者が面を上げたとき、亜樹の記憶の中で細い糸が繋がっていく。何故、思い出さなかったんだろう。遠い日の夕暮れ、まだ自由だったあの頃。

「多矢(タヤ)にございます。久方ぶりにお目に掛かります……亜樹様」

 亜樹と幾らも歳の違わない様に見受けられる多矢は、北の民特有の黒髪を後ろで結わえ穏やかな笑顔で静かにこう言った。


「緑青色(ろくしょういろ)」…緑青の様な色。くすんだ緑。緑青は、銅などに生じる緑色のさびの総称。緑色の顔料としても用いる。【色の手帖(小学館)より引用】
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