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…沙羅の章…

其の六◆菜ノ月ノ満ツル頃(なのつきのみつるころ)

 蜜柑色の灯りが揺れる渡りのあちらから、今日最後の拍子木の音が聞こえる。

「……姫様、もうお休みになられませんと」
  小さな欠伸をかみ殺したあとに、多奈(たな)が眠そうに言った。

 主人の沙羅に付き合って、こんな時間まで一緒に刺しものをしていたが、彼女は今日一日も多忙な日程をこなしてきたのだ。睡魔に襲われるのも無理はない。

「あなたはもう休んでいいわ、私ももうすぐひと区切りがつくから」
  沙羅(さら)は一度手を止めると多奈の方に向き直り、静かに言った。もう就寝用の衣替えは終えているので、多奈に残された務めはない。

「左様でございますか……、それではお先に失礼致します」
  先ほどから幾針も進んだあとのない重ねの袖をきちんと畳んで立ち上がると、多奈は静かに一礼した。

「お休みなさい、ゆっくり疲れを取ってね」

 これが竜王である沙羅の父、華繻那(カシュナ)となるとお付きの多岐(タキ)は跪いて申し上げる。沙羅と多奈は乳兄弟の間柄で歳も程近いので、その辺りの礼は簡略にされているところもあった。

 

 灯り取りの蝋燭が揺れる渡りに多奈が消えてしまうと、沙羅はようやく溜息を憚ることなく付くことが出来る。心の中は色々な思考が入り乱れ、もはや収拾が付かなくなっていた。針でも刺して気を紛らわせないことにはどうしようもない状態であったのである。

 今日の東の祠で起こった一連の出来事を、腹心の侍女に話すことは出来なかった。先におばばの元に亜樹(アジュ)が来ていて鉢合わせしたことくらいは告げたが、それくらいである。南所を毛嫌いしている多奈のことだから、詳細に打ち明けたりしたら火に油を注ぐことになりかねない。ただですら、自分の婚儀のことで忙しくしているのだ。これ以上、余計な心配を掛けては申し訳ない。

 多尾への薬を手渡したときに、ふと思い出しておばばの話をした。

「へえ、あのおばば様に作れないお薬があるなんて……! 陸に滞在出来る秘薬ですか、何だか謎めいていて素敵ですね。それがあれば、私も陸に上がれるのでしょうか」

「……多奈、陸に行ってみたいの?」
  初耳だった。この地の者は「陸」に対して嫌悪の色を露わにするものがほとんどなのである。いくら自分のすぐ近くにいてくれる侍女とはいっても、例外ではないと思っていた。

「私……青い空と言うものが是非見てみたいと思います。あと、月というものが夜の空を照らしていて、それが丸いというのは本当なのでしょうか?」

 多奈はキラキラと瞳を輝かせ、幾らか頬を紅潮させていた。その隠し立てのない好奇心に、沙羅はふうっと溜息をついてしまう。

「……多奈、余りそう言うことを口にしない方がいいわ。これからあなたも私と一緒に南所へ移ることになるんでしょう? こんな話をあちらの人たちのお耳に入れたら……それこそ、困ったことになるわ」

 主人が珍しく眉間にしわを寄せて厳しく制するので、多奈はハッとして口をつぐんだ。そして、そのあとふと思いついたように、続ける。

「私は…南所に置いていただけるんでしょうか?」

 そのあまりにも神妙な顔つきに、意外な気がした。沙羅が南所に移る際に、いくらかの侍女は伴っていいと言われている。もちろんあちらにも溢れるほどの使用人はいるのだが、やはり慣れ親しんだ顔がないと気が休まることがないだろうという父・竜王の配慮であった。それが覆されることなど、ありはしない。

「あちらには、美莢(みざや)様がいらっしゃいます。竜王様に気付かれぬよう、何か仕掛けてこないとも限りません」

「……あら、心配のしすぎよ」
  沙羅は余りに神妙な多奈の表情が可笑しくて、くすくす笑った。

「あなたは竜王の一の侍従、多岐の孫でしょう? それを知って悪さをする人がいるはずもないわ」

「……そうでしょうか?」
  まだ喉の奥の方でもごもご言っている。しっかりした気性の女子ではあるがやはり心配であるらしい。

 

 そんなやりとりを思い起こしながら、また窓の外に目をやる。

 昼間は眩しいばかりの春の盛りの庭も、夜の闇に包まれた今は不気味な位の静寂に包まれていた。すう、と流れが入ってくる。それに合わせて沙羅の髪は抵抗することなく揺らいだ。

 ――こんな風に。

 沙羅はふと考える。こんな風に静けさの中で、あとどれくらい時を刻めば良いのであろう……。

 南所への輿入れによって、生活が急変することは考えにくい。やはりこんな風に多奈と2人で静かな夜を過ごすことになるのだろう。でも、その多奈がいつか自分の元からいなくなったら……?

 ぞく、と背筋に冷たいものが走った。それを払うように大きく頭を振ると、沙羅は立ち上がった。

 先ほど改めた寝着の上に、紅色の厚い素材の綿入れを羽織る。表と裏の間に軽い綿を挟んで所々をずれ防止を兼ねて刺し模様で押さえてあるもので、暖かい割には軽いものだ。こうして寒い夜更けに羽織るほか、寝具の上に掛けることもあった。

 庭先まで出るくらいなら、ひとりでも危険もないだろう。沙羅は続き間から外に出ていった。

 

◆◆◆


 庭に出てみれば、頭上に淡い光を感じることが出来る。それが「陸」では「月明かり」と呼ばれるものであることを、知識としては知っていた。蜂蜜色に染め上げられた庭は昼とはまた違った装いを見せている。影になったところは墨のように黒い。気が冷える夜更けは庭の草にも木の葉にも無数の気泡が付く。それが照らされてキラキラと光っていた。

 慣れ親しんだ風景を、美しいと思う自分がいる。確かにこの身体の中には感情があり、皮膚の下には血潮が流れているのだ。だが、それも何と心許ないものであろう。

 もうすぐ始まる南所での新しい生活。それに必要以上に不安を感じている様子の多奈が不思議でならなかった。彼女は北の集落の長たる一族の直系であり、この都にあっても数多くの縁者が暮らしている。名だたる役職に名を連ねる者も多く、何があってもその足下は揺らぐことはないと思われるのに。

 ――そう。ただひとりの父以外に縁者もなく心細いばかりの自分とは、全く立場が違うのだ。

 

「どうしたのかな、こんな夜更けに」

 ふいに、背後からしっとりとした声が響いてくる。辺りが寝静まった刻限なのを配慮してごくごく小声であったが、その声の主が誰なのかはすぐに分かった。

「父上……もうお休みになられたものとばかり思っておりましたが……?」

 夜の気は濃度が増して重く、身体の周りにまとわり付くように感じる。あまり勢いよく動くと髪や服がなびきすぎてうっとおしいので、動作も自然とゆるやかに抑えられる。普段にもましてゆっくりした仕草で振り向けば、天の輝きに照らされた優しいお顔がそこにあった。

「拍子木の通りに行動するのは、時として疲れるものだ。……私とて、眠れぬ夜もある」

 そう仰りながら、その視線は庭先へと逸らされる。しかし、その瞳に映っているのは沙羅の知らない遠いものであるような気がした。

 一時、沈黙を守ったあと。彼はもう一度沙羅の方へと向き直られる。

「……すっかり、娘らしくなったね」
  漆黒のなめらかな髪が輪郭に沿って流れ落ち、月の光に青く輝いている。

「沙緒もお前の婚礼の儀は一目見たかったであろうな」

「……父上……」
  父・華繻那の心の内に、いつも自分の母親である沙緒の存在があることを沙羅は承知していた。
  その母が亡くなってから、早いもので10年の月日が過ぎている。その間、後添えを迎えることもなく、ひとりの側女も取らずに亡き人だけを偲んでいる父は、沙羅から見てもとても不思議な存在であった。

「父上は……本当に母上のことを大切に思われていらっしゃるのですね」
  軽い溜息と共に、そんな言葉が口をついて出てきた。言い終えてから、何となく恨みがましい口調になってしまったことに気付く。知らず、耳が熱くなって俯いてしまった。

「おやおや……」
  そっと頭上が暖かくなる。華繻那が大きな手を乗せたのだ。

「もちろん、お前のことだって大切に思っているよ」

 それから身をかがめて、沙羅の顔を覗き込んだ。

「お前は、幸せになって欲しいと思っている……心から」

 その闇色の美しい眼がこちらをじっと見つめたまま、静かに揺れている。

「だから、決して無理はしないでおくれ。婚儀のことが意に添わないのなら、今からでも遅くはない。全てをなかったことにしてしまってもいいのだよ」

「父上……」
  静かな、しかし強い想いを抱いたその言葉に、沙羅はただ言葉を詰まらせるだけであった。海底国の竜王である父の言うことだ、本当にそうしようとすれば可能なのである。父の声は神の声――この地の誰も覆すことは出来ない。

 ――しかし。

 すぐに別の思いが沙羅の心を押しとどめる。御館の者達がこんなにも取り忙しく準備を進めてくれているのだ。すでにあまたの集落へも書状が送られ、当日には遠方からの列席者も数多く集うと聞いている。すでにことは動き出しているのだ。それを、自分の我が儘だけでひっくり返すことは許されない。

「そんな……ご心配には及びませんわ」
  沙羅は華繻那を安心させようと、精一杯の笑みを浮かべた。

 その後、ふたりはしばらく互いに話しかけることもなく、静かに庭を眺めていた。再び口火を切ったのは沙羅である。

「父上が……母上とお過ごしになったのは、どれくらいの年月であったのでしょう……?」

「そうだな……」
  華繻那は一度言葉を切って、心の中で静かに思い起こしているようであった。

「…お前が産まれるまでが三年、それから五年――八年、と言うところか」

「短くはあったでしょうが……お幸せな年月を送られたのでしょうね」

 瞼を閉じて、沙羅もゆっくりと数えてみる。
  亜樹は自分が産まれるのと前後してこのお屋敷にやってきたと聞いている。そうであれば、物心付く前から彼のの元服の日まで十年近くを一緒に過ごした計算となる。穏やかな優しい時間、あの時間が幸せでなかったとは思いたくない。

 ――そうだ、自分はもう、充分に幸せな時を過ごしていたのだ。
 
  そう思った瞬間に、目頭が痛くなった。無理に堪えると鼻先がつんとする。静かに俯いた沙羅に華繻那は静かに語りかけた。

「私自身はお前の母と共に生きて……本当に充分すぎるほど、幸せであったと思っている。でも沙緒は、彼女の方はどうだったのだろうか、今でも分からなくなることがある」

「そう……なのですか?」
  夜の気を通して、父の辛い心境が冷たく流れ込んでくるような気がする。いつも穏やかに微笑んでいる人、決して自分を崩したりはしない人。だがそんな父であっても、人としての哀しみをやはり持ち合わせているのか。

「沙緒は……やはりこの地に留まるには身体がもたなかった。病がちであったし、あの様に早くに亡くなってしまったのだからね。早い時期に陸に帰していたなら、もっと長生きできたかと思うこともある」

「……」
  どんな言葉を返したらいいのか、分からなかった。悲痛な心の叫びを聞きながら、それを受け止めることすら叶わない自分。ああ、なんと非力なのだろう。

「それでも……ひとつだけ、確かなことがあるのだよ」

 空一面に広がる光の揺らめきを背に浴びて、その顔は暗がりになった。でも影になっても尚、緩やかに流れる闇の帯達の中で穏やかな瞳の竜王は静かに微笑んでいた。

「私の中に――ここにいる彼女は、いつも微笑んでいるのだ。在りし日と少しも変わらず」
  そう言って、華繻那は自分の右手を胸に当てた。

 ああ、と。沙羅の心が内側から声にならない叫びを上げていた。

「……母上は、やはりお幸せだったのですね。この地で最後の一時までを、お幸せに過ごされたのですから」

 華繻那は静かに微笑むと、もう一度我が娘の顔を真っ直ぐに見つめた。

「だから、お前も……幸せになって欲しいと切に願っている、忘れないでおくれ」

 華繻那は懐かしい人と同じ色の愛娘の髪を静かに整えるとその肩に両の手を添えた。

「愛する者たちがいつも笑顔でいてくれることが、私にとっての一番の幸せであるのだから」

「……はい」
  心の中にチリチリとなる何かを秘めたまま、沙羅はしっかりと頷いた。

 

◆◆◆


 同じ頃。南所の庭も、やはり黄金の光に満ちていた。

「亜樹様」

 その輝きを時折眺めながら南所の寝所で書物に目を通していた亜樹は、背後からの声に顔を上げた。

「相変わらず、ご熱心でいらっしゃいますのね。美莢様から、こちらを……」

 見ると、ゆるやかなウエーヴを描いた髪の穏やかな笑顔の螢火(ほたるび)が、茶道具の盆を持って戸口から入ってくるところであったて。彼女もすでに寝着に衣を改め、袴の帯を前でしどけなく結んでいる。

「ああ、ありがとう。君ももういいから、あちらで休みなさい。私に構わなくていいのだよ、慣れぬ日々で疲れておるだろう」
  一瞥した後、すぐにまた向き直り、書物に目を落とす。

 

 しばらくしてから、彼はもう一度向き直る。そこには先ほどからずっと佇んだままの螢火がいた。変わらず、笑顔をたたえている。

「まだ何か、話があるのか? 何もなければ、もう良い、休みなさい」

 微笑みをそのままに無言で、螢火はスッと数歩、前に進み出てくる。その行動を訝しげに見つめている亜樹に対して彼女は臆することもなくなめらかに話し出した。

「亜樹様……わたくしはあなた様のお側に上がれたことを、心より幸せに思っております。本当に……このようにお側にお仕えして御身のお世話をさせて頂くだけで……」

「螢火……」
  その名を呼んだのは、何も彼女の言葉に同意したのではない。ただ、話を止めようと制したのであった。

 しかし螢火の方は、亜樹の心内など気にも留めない様子で話し続ける。

「亜樹様もすでにご存じでいらっしゃいますでしょう……? わたくしの母は亜樹様の御母上様、翠(すい)の君様の侍女でありました。ある夜、お屋敷にお出でになった大臣様の弟君――つまりわたくしの父に見初められて、そのまま側女になったと聞いています。母にはすでに心に決めた許嫁がいたそうですが、身分のある父の申し出を断ることは出来ませんでした」

「……」

 亜樹はその話を感情のこもらない瞳で聞いていた。そのような話はこの世の中には掃いて捨てるほどある。女子を軽々しく扱うことは快いことだとは思えなかったが、そういう風になっていると言われればそこまでだ。いちいち気遣っていては、気が保たない。

「父の屋敷に入ったものの、好色だった父の側女同士の争いには到底付いていけず、しまいには心労のため体を壊し、わたくしが幼い頃に亡くなっております。その話をお聞きになった翠の君様は、わたくしがこのまま父の屋敷で肩身の狭い思いをして育つのは可哀想だと大臣家に引き取ってくださいました。
  ……臣下の者の子であるこのわたくしを、本当の娘のように可愛がって育ててくださいました。本当にご恩返しも出来ないほどに良くしていただいて……それに、このたびはこのような大変なお役目を与えてくださったのです。――亜樹様……」

 するりと、螢火が肩に羽織っていた重ねが床に滑り落ちる。薄く柔らかな寝着姿の彼女は、しっとりと亜樹の背に抱きついた。

「ずっと、お側に置いて下さいませ……」

 熱を帯びた吐息が亜樹の首筋にかかった。薄い寝着の袖から螢火の腕が露わになる。この女子が何を望んでいるのかは、火を見るよりも明らかであった。

「――まだ、仕事が残っているんだ。今宵はもう、下がりなさい」

 彼女が次の行動に出ようとした刹那、亜樹は鋭い口調でそう言い捨てた。

 弾かれたように螢火が身を離す。彼女ははだけた胸元の衿を整えながら、口惜しそうに唇を噛んだ。その表情は、背を向けたまま机に向かっていた亜樹には幸い見られずにすんだが。

 彼女は床に落ちた重ねを拾い上げると、もう一度、名残惜しそうに亜樹の方を振り向いた。

「――そうですわ。もうひとつお伝えすることがございましたのを、忘れておりました」

 この言葉で、彼女は自分の主人を再び振り向かせることに成功した。

「まだ、何か?」

 鬱陶しそうにしながらもこちらを向いた瞳に花のように微笑んで、螢火は控えめにこう告げた。

「先ほど、美莢様からお言付けを頂きました。明朝、秋茜(あきあかね)様がお里に戻られるそうです。朝一番にこちらにご挨拶に伺うと……」

「秋茜…が?」
  そのような話は聞いていない、今日の昼に会ったときもいつもと違う素振りは見せていなかったのに。亜樹はにわかに驚きの表情になった。

「亜樹様におかれましても、大層お名残惜しゅうございますでしょう。何と言っても、長いことお側にいらっしゃったのですものね。――でも」

 螢火はまるで哀しみを肩代わりするかのように寂しげに俯いて、こう付け足す。

「これからは……お里に戻られた皆様の分まで、わたくしが亜樹様のお世話をさせて頂きますわ」

 勝利の微笑みを浮かべた彼女が再び顔を上げると、もう亜樹は机の方に向き直っていた。

「それでは、お先に休ませて頂きます」

 ――返事はない。

 それでも螢火は動かない主人の背中に鋭い視線を向けていた。


「菜の花色(なのはないろ)」…アブラナ(油菜)の花のような色。緑みの黄。菜の花は、アブラナに限らず、花がよく似ているカブ(蕪)、コマツナ(小松菜)なども一般には区別せずに言う。アブラナは、アブラナ科の1,2年草。菜種、菜の花とも言う。ただし、ナタネアブラの花を色名にするのは比較的新しいことと思われる。…古く「菜種色」とあるのは、その花の色ではなく菜種油の色と考えられる。【色の手帖(小学館)より引用】
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