TopNovel秘色の語り夢・扉>沙羅の章・5



…沙羅の章…

其の五◆御納戸茶ノ祠(おなんどちゃのほこら)

「……そうなの、それは心配なことね」
  針を止めて、沙羅(さら)は思案気に小首を傾げた。

 ふたりはまた式服の仕上げをしていた。ぱっと見にはこれで十分とも思えるのだが、やはりひとつひとつ確認すると、再び手を加えたくなる。微妙な色目を差し足しては様子を見る、そんな根気のいる作業が続いていた。窓の外には昼間の明るい風景が広がっている。

「多尾(たお)は頑張りすぎなのよ、忙しいのも分かるけど……、御館の薬師(くすし)様のものは一通り試してみたのかしら?」

 長年の太り過ぎもたたって、多奈の大叔母にあたる多尾(沙羅付きの侍女達の長)の腰痛はひどくなるばかりだという。今朝などは、寝台から身を起こすにも人を呼んだという程であるからただ事ではない。

「それが……大叔母様の腰痛には東の祠のおばばの作る薬しか効かないんです。でもあそこまで出掛けて行くにはそれなりに暇が取れるでしょう? なんだかんだと理由を付けては、後回しにしている様子です」

 祖父の妹に当たる人ではあるが、実際の年齢は母親といくつも違わない。多奈にとっては「都にいるもうひとりの母親」という感覚なのであろう。公には上役と部下と言うことになるが、私事になれば身内としての気の置けない関係であるようだ。実の娘のようにあれこれと世話を焼いているらしい。ほほえましいやりとりが、目に浮かぶようだ。

「そうなの……東の祠のおばば様はその腕は確かであるけれど、気むずかしいことでも有名ですものね。代わりの者を行かせても決して薬を渡してくれないと聞くわ。だから、あなたが出掛けたところで無理だと思うわ」

「そうなんです、そこが問題で……」
  多奈もそのことは承知しているらしく、大きく溜息を付いた。

 まあ、周りが急き立てたところで、多尾本人が誰の目から見ても多忙きわまりない日常を過ごしていることは明らかだ。折しも女主人である沙羅の婚礼の儀が控えているのである。山積みになる厄介ごとは片づけても片づけてもそのあとから押し寄せて来るほどあった。暇を貰い薬を取りに行く暇がないというのも、あながち嘘ではないだろう。

「……私が行きましょうか、確かこのあとは何の予定もなかったわよね?」
  沙羅は今思いついたように言った。

「おばば様も私のお願いならば、聞き入れてくださるかも知れないわ。久しぶりにお顔も見たいし……」

 その提案に、多奈は困った表情で答えた。

「でも……そんな。私たち使用人が姫様にご用を申しつけるなど、もってのほかですわ。それに、私も本日中に片づけなければ行けない用事があれやこれやあって、お供も出来ませんし……」

「大丈夫よ。多尾の薬のことはついで、ということにすれば。それほど危ない道行きでもないもの、心配はいらないわ。この針仕事は暗くなってからでも出来るのだし」

 沙羅は糸を布の裏に出すと、表に響かないように注意しながら返し縫いをした。多奈が差し出した握りばさみを受け取り、最後の始末をする。簡単なように見えるが、その行程もひとつ間違えば全てを台無しにしてしまうのだ。そこは細心の注意を払わなくてはならない。

「そろそろ……でございますわね」
  いつもながらに鮮やかなその手元。それを静かに見つめていた多奈が感きわまったように言う。

 

 沙羅が気の遠くなるほどに月日を掛けて刺し進めた文様は、今や布地から溢れんばかりに美しく施されていた。七歳で針を多尾より教えられてから、それはずっと続いていたのである。おぼつかない手元の頃は、袖奥の目立たない簡単な文様から始め、八年近い歳月を経てようやくここまで辿り着いた。
  正式な場で用いる特別の刺し文様は、その道の熟練達が何人も集まっても有に五年は掛かると言われている。たったひとりでここまで完成させたのは、神業と言っても良いだろう。

 何も沙羅が手がけていたのはこの上掛けひとつではない。もうすでにいくつもの重ねの裾模様や壁飾りを立派に仕上げていた。その腕の良さに加えて、仕事も速く正確なのには手習いの師も口を揃えて褒めそやす。しかも、それは刺しものだけには留まらず、香の調合も筆の習いも教える立場の者が驚愕するほどの上達ぶりであった。
  沙羅自身は、何もそれらを極めようと必死に努力してきたつもりはない。こちらに住まっていても、公務に就くわけでもなく暇をもてあましているのだ。お付きの侍女である多奈以外には話し相手もなく、怠けているように見えるのも困るからとやってみただけのこと。
  それに。どんな言葉で誉められたところで、比べる対象も見あたらない。たとえ誰かと競い合ったところで、殿上人である自分の身分がこれ以上どうなることでもないのだ。

 

◆◆◆


 東の祠までの道のりは長い。

 まず竜王の庭園の東にある街道門から出て、そこから深海の中に張られた「結界」の道を延々と進んでいくことになる。普通に歩いて片道半刻(一時間)の道程であったが、沙羅はこの遠出が気に入っていた。人も寄りつかぬ場末であるから、不用意に誰かとすれ違う心配もない。

 そのような場所にわざわざ祠を奉るにはそれなりの理由がある。その先には、「陸」への通用門があり、おばばはいわばそこの「番人」であった。しかし「門」という名前がふさわしくないほどに、そこは何時も堅く閉ざされたまま。いわば「禁」の場所とされている。
  この門の開閉には海底の王である竜王の承諾が不可欠で、それをもっておばばの手で開門されることとなる。だが、それは度重なることではなく、一生のうちに「通用門が開けられた」との知らせを聞くことは二回か三回あれば多い方らしい。
  沙羅自身も生まれてこの方、そんな話を耳にしたことはなかった。それに、もし開門がなされても、その時に「陸」へ向かうのは特別に訓練を受けた侍従が数名だと聞く。ほとんどの民は「陸」を見ることなく一生を終えるのである。

 ――どうして「陸」とは行き来しないのだろう……?

 幼き頃には、何の遠慮もなくそんな質問をすることも出来た。自分の母親が「陸」の人間であるため、何となくその響きは懐かしいものを含んでいる気もしたのである。母が暮らしていた場所、自分たちとはそれほど変わりのない外見の者たちが暮らしていると聞いた。母になかったものは、海底の民特有のエラの耳だけ。その他は何らこの地の者と変わりなかった。
  もしも自由に行き来出来るのなら、どんなに楽しいことだろう。そんな想いすら浮かんでくる。

 だが、その話を耳にした途端、多尾はさああっと青ざめていた。そして、慌てて周囲を改める。その姿にただならぬものを感じた。

「……何と! そのような恐ろしいことをお口になさってはなりません……! 誰か心ない者に聞かれたら、如何致しましょう……? ああ、恐ろしや恐ろしや……」

 とてもその先を訊ねることなど出来ない狼狽ぶりであった。そして、やがて年月を経て、耳に入ってくる様々なうわさ話からその全容が明らかになる。

 今よりずっと昔、もっと世が大らかであった頃には「陸」との交流を求める民もあったと言う。絵巻物でしか見ることの出来ない、異郷の鮮やかな風景。それをひとめこの目で見たいとこっそり出掛けていく輩もいたと聞く。だが、その者たちは誰ひとりとして戻ってこなかった。

「私どもの姿は、「陸」の彼らにとっては異形のものです。古には陸で捕まって、見せ物小屋に連れて行かれた者もいるそうですよ……」

 いつか遠く光る天を仰ぎながら、多尾がそんな風に話してくれた。「陸」で生まれた母を持つ沙羅に、出来るだけ偏見のない言葉で事実を伝えようと思ったのだろう。だが、どんな風に考慮したところで、おぞましい事実が塗り替えられることはない。

「それで、……その者たちはどうなったの? 無事に戻って来たのでしょう……?」

 不安げに訊ねる幼い姫君に、しかし優しい侍女は首を横に振った。

「この地の者にとって、陸の空気は濃すぎると言われています。ひとたび「陸」に上がれば、途端に気分が悪くなり――半日もすれば呼吸をすることも困難になって死に至るとされています」

 それ以上、多尾は何も言わなかった。沙羅も訊ねなかった。

 

  陸からの気候の影響をもっとも強く受けるとされている東の果て。そっと見上げれば、遥か上空にゆらゆらと揺らめいているものが見える。目を凝らさないと感じ取れないほどの微かなそれが「海面」であるらしい。

 ――あの向こうが、母上の故郷なのだわ。

 おばばへの土産の朱花(しゅか)の幾枝かを手に、沙羅は祠への道をゆっくりと進んでいった。

 

◆◆◆


 昼なお暗い鬱蒼と茂る森の一番奥まで進むと、その突き当たりにおばばの守る祠がある。ぬかるんだままの足下には、柔らかく揺れる背の低い草も所狭しと生えていた。赤子の手のひらほどの大きな葉をこちらに向けて揺らしているものもあり、あまり凝視していると意識を持ったもののように思えてくる。
  その中のいくつかは、おばばとその弟子たちが栽培している薬草なのだ。何度も教えて貰ったはずなのだが、それでも未だにそうではないものとの区別が付かない。従って、出来るだけ草を避けて歩くしかなかった。
  祠向こうは結界の果て。吸い込まれそうに遠いそこは、濃い青緑に揺らいでいる。その不思議な色彩からここは「御納戸茶(おなんどちゃ)の祠」とも呼ばれていた。

 石を高く積み上げて作られた双の高い塔を抜ければ、横穴の洞穴に手を加えて造られた果ての祠へと辿り着く。その入り口には蔓草が垂れ下がり、さながら化け物屋敷の様子である。だが沙羅は少しも臆することなく中へと入っていった。

「おばば様、こちらにいらっしゃるの……?」

 ぐつぐつと、何かを煮る音が奥の部屋から聞こえてくる。そちらをのぞくと、背の低い腰の曲がった老女が火を焚いたかまどの上でなにやら大きな鍋をかき混ぜているところだった。その者は沙羅の方を一瞬振り返ったが、またすぐに視線を鍋に戻す。
  草木染めの土色がかった着物を幾重にも重ね、柿色の濃淡のある細い帯が巻かれている。裾は動きやすいように足首の当たりまで捲り上げられていた。何て事ないように見える装いではあるが落ち着いた中に色目合わせのすばらしさがかいま見える。年を重ねたおばばのような趣味人でなければ出来ないものであった。

「そろそろ……お出でになる頃じゃないかと思っておりました、姫様。多尾様の薬なら、すでにこちらに用意できてございますよ」

 かき混ぜる手を止めることなく、低い声でおばばは言った。沙羅はこちらが何も告げぬうちに全てがすっかり整っているという不思議に、毎度の頃ながら驚かされる。

「おばば様は……どうしてこのように何事も見通してしまわれるのかしら……?」
  いつもの定位置の椅子の上に腰を下ろすと、沙羅は溜息混じりに呟いていた。

「今更、何を仰います。それは当然のことでございましょう。このばばは占者でありますれば――この世のことのほとんどは見通せてしまうのでございます。こんな風に姫様がお越しになることは、もう三日も前に思い描いておりましたぞ」
  おばばは満足そうに微笑むと、鍋を離れてお茶の支度を始める。あっさりした物言いであるが、やはりその口元は嬉しそうだ。

「姫様も、たいそう御丈夫になられましたな。今年はまだ、ばばの熱冷ましをお使いになることもございませんし……お上も安堵しておられることでしょう」

 館にあっても、ほとんどの者から冷たい視線を浴びせられている日常。このように真に暖かみのある言葉を掛けてくれる存在は本当に貴重であった。さばさばした言い方ではあるが、無駄な飾り気のないことがかえって清々しい。

「おや。少しばかり、お顔の色が優れぬご様子。館の行事が立て込んでいてお疲れだろうから、気付けの薬草を煎じてみましたよ。味はそうひどくないはずだから、お召し上がりください。気に入れば、あとで弟子の誰かにでもお部屋に届けさせましょう」

 おばばの皺だらけの小さな手が大きな鉄瓶を軽々と持ち上げ、高い位置から器用に三つの器につぎ分けた。

「まあ……とても良い薫り」

 差し出された器を手に取ると、沙羅はそれを口に含んだ。薬、と言われると一瞬は身構えてしまうが、ほとんど香り付けをした茶と変わらない飲み口である。丁度いい温度に冷まされており、すんなりとのどを潤していった。何か温かいものが身体の隅々まで行き渡り、心の奥に詰まったものが溶けていくような錯覚も覚える。
  落ち着いた草木染めの色達に美しく装飾された祠の中は、それだけで何とも気が安らぐ。子供の頃から大人の目を盗んではここに来て、微かな薬草の匂いを感じながらくつろぐのがお気に入りだった。自分を責め立てる者のいない小さな空間こそが沙羅の安息の場所だったのかも知れない。
「姫様のお姿が見えなくなったら、まずは東の祠を探す」が東所の侍女達の合い言葉であったほどである。薬草を練り込んだ浅黄色の蝋燭から暖かい光が放たれ、祠全体をゆったりと照らしていた。

 

 この数日、夢見も悪く塞ぎがちな日々が続いていた。

 あの衣装あわせから三日、南所の主と顔を合わせる機会はなかった。だが、噂好きの館の侍女達は憚ることなく新しい南所の側女(そばめ)の話に花を咲かせている。それを耳にせずに過ごすことなど、無理な相談であった。それどころが、彼女たちはわざと沙羅に聞こえやすいように囁きあい、その反応をおもしろがっている風なのである。
  あの螢火という侍女は、今までのあまたの側女(そばめ)達とは明らかに扱いが異なる様子でだったそれまでなら乳母である美莢が伴われて参内していた場にも、今は新参者のはずの侍女がぴったりと付き添っているのだと言う。彼女が参内してわずか五日の間に、南所に上がっていた三人の側女が任を解かれて西南の集落へ帰っていったというから大変なことだ。

 何かが確実に変わり始めている、それを承知しても自分の力ではどうすることも出来ないのだ。それに今更、どうして皆が期待するように取り乱したりすることが出来るだろう。ただ、自分は何もかも、与えられたことを受け入れるしかない。それが父の子として生まれた自分に課せられた使命だ。

 幾度となく自身に言い聞かせている、だからもうそろそろ吹っ切れてもいいはずなのに。やはりあの夢見の名残がいつまでも続き、沙羅を惑わせている。遙か昔に置いてきた幻影を未だ抱き続けているなどと、誰にも知られてはならぬことだ。

 

「何だか、落ち着いたわ。おばば様、ありがとう。ばば様に作れない薬なんて、この世に存在しないのでしょうね」

「それが――そうでもないんですがな」
  老婆は何かを含んだ微笑みを浮かべて、で沙羅を見つめた。

「これは、ここだけの秘密にしてくださいまし。このばばにも……未だ成功したことのない妙薬がございますよ」

 思いがけない発言であった。瞬きを何度も繰り返したあと、口を開きかけた沙羅を、おばばは制する。人差し指を自分の口元に当てると、また喉の奥でくくっと笑った。

「海底人が…何日かの間、陸で生活出来るように呼吸機能を整える薬でしてね。古書を読み興味が湧いたんで何度か試みたんだが、ついぞ成功の目を見ない。もしかしたら、一生かかっても作り出せないかも知れませんな」

「陸で、生活を……?」
  沙羅はおばばの言葉を必死に反芻してみた。だが、どうしても合点がいかない。

「でも、……それはあまり使い道がなさそうよ。数日、陸に上がったからと言って、何かの特があるの?」

「まあ、やはり。そうですかな……」

 ふたりは額をすりあわせるほどに顔を寄せて、ひとしきり笑いあう。そして、しばしの沈黙が辺りを静かに包んだ。

「姫様は……」
  やがて静かな口調でおばばが再び話し出した。

「こんなにもお若くて、お美しい。その上に、誰にも負けぬほどの才がある。何をそのように気に病んでおられます、もっと堂々となさって宜しいのに。……ほら、この花のように」
  そこまで言うと、おばばは水差しに活けた溢れんばかりの花を愛でながら微笑んだ。

 この部屋に入った瞬間から、不思議に思っていた。何故、自分の香にも使われている舞夕花(まゆか)が最初から部屋に活けられていたのだろう。確かおばばは、薬草の生育に差し支えるからと祠の周辺では薬草以外の草木の栽培を避けている。誰かがわざわざ切り花を持ち込む以外、ここには余計な花などないはずなのに……。

「ねえ、おばば様。もしかして、他に誰か……お客様がお出でなの? そう言えば、器がひとつ余っているわね」
  沙羅がそう言って首を傾げると、茶色の髪がさらりと肩を流れていく。歩いてくるので軽装がいいと思って、蒲公英色の薄い初夏の重ねに着替えて来た。自分の髪や肌の色とよく似合う色である。下に重ねたのは若草色、微妙な濃淡で幾重にも重ねてみた。

「……そうさね。ここにお出でになるまでには、お会いになっておられないのですな? 久しぶりなので祠の外を歩いてくると仰っておられたが……ほら、お戻りだよ」

 その言葉が終わる頃、祠の入り口で物音がした。

 

「なあ、おばば。――これでいいのかい? さっきお前が言ってた薬草は……」

 明るい藍色の重ねを翻して入ってきたその者の姿を人目見るなり、沙羅は手にしていた器を滑り落とすかと思われるほどの衝撃を受けていた。
  ……何てこと! どうしてここまで来て、この男に会わなくてはならなかったのか。とはいえ、ここは東の祠。おばばの前なので派手な言い争いは避けたいものだ、とにかくは早く退散することだろう。

「これはこれは……お姫様。また、お珍しいところでお目に掛かりましたね?」
  低い天井に身をかがめながら入ってきた声の主は、当然のように沙羅の隣の席にどかっと腰を下ろした。辺り一面に天真花の薫りが漂う。丁度出口を塞がれてしまったかたちになり、沙羅はどうすることも出来ず俯いた。

「おやおや……相変わらず、つまらないことで仲違いでもなさっておいでかな?」

 沙羅が声の主、亜樹にひとことも返さないのを見て、おばばは面白そうに言葉をかける。そうしながら、亜樹に先の薬湯の器を差し出した。一礼をしてそれを受け取った彼は、うまそうに音を立てて一気に飲み干していく。空になった器を戻すと、彼はにっこりと微笑んだ。

「いえね、俺の方は是非仲睦まじくして頂きたいところなんだけど……姫君のご機嫌が宜しくないご様子でね。何かいい処方薬はないだろうか、おばば」

「ちょっと!」
  人を馬鹿にするにも程がある、気付けば大声で切り返していた。おやおや、と言う面もちで亜樹が自分の顔を覗き込む。

「そんなに目くじら立てずとも宜しいでしょう。そのように怒りを露わになさっては、お美しい天下の姫様のお顔が台無しになりましょう……」
  亜樹はこちらが不快感をあらわにしたところで、何とも思っていないのだろう。嬉しそうに微笑みすら浮かべている。

「ほらほら……」
  先ほどからふたりののやりとりを見ていたおばばが、思いあまったように会話の中に割って入ってきた。

「全く……噂の通りじゃな。御婚礼の儀を間近に控えられたご両人が相も変わらず仲違いとはね。これでは南所の将来が思いやられると言うものでございますよ」

「そんな……。おばば、私はただ――」

 沙羅が尚も口惜しそうに何か言おうとするのに、おばばはゆっくりと首を振って制した。

「沙羅様、亜樹様、ここはおばばの祠じゃ。皆を安らかに導く薬を処方し、この地の将来の安泰を占う神聖な場所にあって……このようにお二方とは言え騒ぎを起こされては困りますぞ。ケンカならよそでやっとくれ、ここに居られる間は仲違いも休んで貰わないとな。ほれ、もうすぐ美莢様の薬も出来上がりましょう。今しばらくは、そこで昔のようにおばばの処方術を眺めておられればいい」

 

 それだけ言い終えると、老体に似合わず素早い動きで立ち上がる。そして大股で部屋を横切って、またかまどの前に立った。片手で蓋を開けたので、うっすらと甘い香りが部屋中に漂う。

 この香りには覚えがある。昔、まだ亜樹が元服前で東所を寝所にしていた頃……ふたりでおばばのところまで取りに来ていた薬だ。幸せだった頃が、ふわりと蘇るような錯覚に胸がちくりと痛む。
  亜樹は「翠の君様」の末の息子に当たる。その御方は御年五十才を迎えられると聞いている。堂々としてご立派な御方であるが、やはり年相応の老いもちらりと見え隠れするようだ。対して美莢は亜樹の乳母になったときまだ初めての子を出産したところだった。今もまだ四十には乗っていないであろう。

 まだまだ、先が長く皆が期待を寄せるお方が、人知れずしておばばの薬の世話になっている。このことを知るものは南所にもそう多くはないだろう。あの方はそんな風に弱い部分を人に見せるような性格ではない。

 ――婚儀のあとは、何かと顔を合わせる機会も多くなるんだわ。今から、気の重いこと……。

 亜樹の乳母である美莢には、あまり良い思い出はない。それどころか、始終口うるさく罵られ、すっかり萎縮してしまったと言っても良い。亜樹が元服して南所に移ってしまった当初は、それはそれは寂しかったが、その一方であの乳母に会わずにいられる幸運に感謝していた。

 だが、それはあちらとて同じ想いであろう。心を砕いて寄り添えば誰彼となく分かり合えるというのは、理想論でしかない。西南の血が一滴でも流れている者は、自分のことを敵(かたき)のように思うことはあっても、親しく接しようと思う者などいなくて当然だ。それなのに、この婚儀は進められようとしている、全ては体裁を取り繕うために。

 こんな風に並んで座っていたところで、会話などあるはずもない。そうなのだ、南所に迎えられても自分にはどこにも居場所などない。分かっていても、皆が望むことならば受け入れるしかないのだ。ここで異を唱えたところで、何が変わることもないのだから。

 

 ……そう。

 信じることなど、初めから望まなければ良かったのだ。期待するから裏切られる、深く思うほどに打ち砕かれる。だから、もう何も……。

 ただ、怖かった。これ以上、何かを壊されてしまうことが。だから、訊ねることなど永遠に出来ない。あの頃は短すぎると思った時間が、息詰まるほど長いものに思えていた。

 

◆◆◆


「どうぞ、お先に。あなたの方が足が速いでしょう、私には構わずにどうぞ」

 祠をあとにして。沙羅は薬の包みを手に小さく溜息を付く。暗くなる前に館に戻りたいと沙羅がいとまを切り出すと、亜樹もそれに続いたのだ。こちらが意識して避けているというのに、どうしてこのようにつきまとうのだろう。

「同じ場所に帰るなら、そのように突き放すこともないでしょう? 何を拗ねていらっしゃるのやら」

 亜樹はこちらが何と言おうと、涼しい顔だ。ゆっくり歩くのが悪いのかと思い小走りになれば、こちらの歩みにあわせてぴたりと付いてくる。一体、どういうつもりなのか、考えるのも疲れてしまった。いくつかの分岐があるなら違う道を行くことも出来るが、あいにくここは細い一本道だ。他に選択肢はない。

 

 しばらくの間は、ふたりとも無言のままで歩いていた。

  自分の視線はまっすぐに前を見つめているはずなのに、隣りを行く亜樹の髪がなびいている様がはっきりと見える気がする。元服から早五年。こんな風に肩を並べて歩くことも普通の感じで話すことすらなくなっていた。

 今までも、そしてこれからも。「西南の集落」と沙羅の確執は2人の間に大きな溝を作っていくのだろうか。

 幾らかの距離を歩いて、沙羅はふと気が付いた。

「そういえば。今日は、お供の方がいらっしゃらないのね?」

 亜樹はおやおやと、こちらを振り向いたのが分かる。訊ねてしまってから、後悔した。別にそんなこと聞く必要もなかったのに。

「俺だって、たまには気楽に出掛けたいと思うこともありますよ。……それにしても、噂好きな侍女たちならいざ知らず、姫様のお口からそのようなお言葉が伺えるとは意外でしたね」

 その口元がいつものように意味ありげな笑みを浮かべている。沙羅は少し腹が立ったが、どうにかしてやり過ごした。

「……別に。ただ、ひどく御執心だと伺っているので。片時もお離しにならないのかと思っておりましたわ」

 自分でも馬鹿なことを言ってると分かっていた。だから、早くこの話は切り上げたい。口をつぐんでそのまま歩き出そうとしたとき、またも隣の男はおかしそうに笑い声を上げた。

「……妬いてくださるとは光栄ですね」

 その言葉に、沙羅の顔色が変わった。……何と言うことだろう、勝手に誤解して。自分には少しも関わりのないことで、心を乱すことなんてあるはずもないのに……!

 言葉を返すのも面倒になって、沙羅は口を結んだまま亜樹より前を歩いていった。ゆるやかな気の中にあって、あまり足早になると髪や衣が後ろに引かれる感じになる。それがこの上なく優美な振る舞いだという者もあったが、沙羅にとってはただ煩わしいだけであった。

 ――と。不意に、背後から片袖を取られる。ぐらり、と足下が揺らいで、もう少しのところで前につんのめりそうになった。

「ちょっと、……何するの!?」

 振り返った拍子に身体が後ろに傾き、そのまま背中から亜樹の方に倒れ込んでいた。何ということであろう、すぐさま身をはがそうとしたが、いつの間にかがっしりとした腕に羽交い締めにされてしまっている。これではお互いの力の差は歴然として、沙羅には敵うはずもない。必死に抵抗を試みるが、埒があかなかった。

「ご心配などなされずとも……! 私はおふたりのお邪魔は致しませんわ! 何なりとごゆっくりどうぞ!」

 すぐに。その腕からは解放されるものだと思っていた。またいつもの調子でからかわれているだけなのだと。こちらが近づけばつれないくせに、突き放せばおもしろがってまとわりついてくる。その心ない全てが腹立たしくて仕方なかった。

 でも、どうしたことだろう。沙羅の身体をすっぽり包み込んだ明るい藍色の袖は少しも力を緩めることがない。亜樹は何も言わなかった。沈黙のままでその呼吸だけが耳元に伝わってくる。心の奥底から忘れていた感情が湧き上がってきそうになって、沙羅は慌てて頭を振った。

「……亜樹は、無理して父上の天真花(てんしんか)香を使わなくたっていいのに。実香弥(みかや)の方が良かったわ」

「――え?」
  沙羅の思いがけないひとことに亜樹の腕が少し弛む。

 一瞬の隙に力一杯身をよじって、その手から逃れた。自分の胸が驚くほど波打っているのがよく分かって情けない。

「そんなに天真花の香がお気に召しているのなら、実香弥と合わせて御自分の薫りにされれば宜しいじゃないの。なに粋がって、父上の真似なんかするのかしら? 馬鹿みたい……!」
  動揺を隠すように。沙羅は出来るだけ、話を違う方向に持っていこうとした。それにやはりこの香りを身につけている亜樹は嫌だと思う。何だか本当に別の人になってしまったみたいで。

「……姫様が、直々に合わせてくださるなら考えても宜しいですね。何でしたら、お輿入れにお持ちになりますか……?」
  先ほどの場所にそのまま佇んでいた亜樹が、ゆっくりとこちらに向き直って言った。

「そんなこと……。それこそ南所の皆様にお任せいたしますわ。あれほど素晴らしい人材がおそろいですもの、私が出る幕などございませんでしょう?」

 すっと顔を背けその視線から逃れると、沙羅は館のの方向にどんどん歩き出した。

「そうは言っても、夫の身の回りを整えるのは本妻であるお后様のお役目ではございませんか? それをなさらずして、どうするのです。それこそ、こちらにお出でになっても何もすることがなくなりますよ?」

 その亜樹の言葉は充分に沙羅の心に刺し込んだ。冷静なその口調までが突き放されたような決定的な感触を覚えさせる。そうだ、……それこそが彼を始め南所の全ての者たちが待ち望んでいること。西南にとっては憎い女の娘をどこまでもどん底に突き落とそうとしているのだ。そうに決まってる。

 沙羅は袂の奥で握りしめた自分の両手が、白んで震えているのを感じた。
 
「なんとでも仰れば宜しいわ。あちらの方々にとって、私は形だけの后なんですから! その位、初めから承知しておりますわ。あなたなどに言われずとも……!」

 自分でもどうしてこんな事を言ってしまうのか分からなかった。知らないうちに涙まで溢れていた。自分の置かれた立場は分かり尽くしていたはずなのに……どうして今、ここでこんな事を言ってしまうんだろう。これでは白旗を揚げたも同然ではないか。

「それは……無用な心配ですね」
  亜樹はそう言うや否や、沙羅の腕を強い力で引き寄せてその細い身体を自分の腕の中に引き戻した。一体、これはどういうことだろう。必死に反論を試みようと、沙羅が顔を上げたとき。彼は信じられないような行動に出た。

 力強い指先に顎がとらえられたと思った刹那、叫び声を上げる間もない早業で唇がかすめ取られた。何という乱暴な行為であろう。当然の事ながら、沙羅はそれから逃れようとした。でもその力は余りに強くて手には負えない。
  なすすべもないまま……気の遠くなるような、それでいて一瞬のような不可思議な時が流れた。それが亜樹の方から解かれたとき、じっとこちらを見据えてゆっくりとした口調で彼は言った。

「……あなたの事も充分に愛して差し上げますよ。幸い俺は博愛主義でしてね、何と言っても竜王となる者ですから。万人に愛を注げなくてはならないでしょう。ましてこんなにお美しい姫君なら、お飾りではもったいないではありませんか……」

 その言葉が言い終わらないうちに再び唇は塞がれた。今度はゆっくりと……揺らめいていく夕方の淡い日溜まりに溶けていきそうな錯覚さえ覚える。どこかに遠く引きずられていく予感。沙羅は、慌てて正気に戻った。

「ばっ……馬鹿にしないで! あなたなどに情けをかけられたくないわよ!」
  ようやく放たれたて自由に戻った身体を気の中に揺るがせる。ゆるやかな流れの中、一瞬だけ泳ぐように浮遊した。

「……お可愛らしいですね」
  亜樹はなおも不敵な笑みを浮かべている。

「こんなのは、ほんの挨拶の様なもの……さすがに深窓の姫君、取り乱すお顔も初々しいですね」

「何ですって!!」
  沙羅は絶叫に近い声で叫んでいた。もう御館にはだいぶ近いところまで戻っているはず、誰かにこの声を聞かれたら、またなにか噂されてしまうだろう。分かっていても止めることが出来ない。

 

「――お待ちしておりますよ」

 少し歩き始めたあと振り向くと、流れていく長い髪が運河のように沙羅の周りを包み込む。視線の向こうには穏やかに立っている亜樹がいた。

「どうぞ、ご心配なく南所にお出で下さい…姫君を歓迎いたしますよ」

 沙羅は答えなかった。無言で向き直る。一刻も早く、この場を後にしたかった。 


「御納戸茶(おなんどちゃ)」…緑色を帯びたあさぎの染め色で、青と緑の中間色。暗い灰青緑。【色の手帖(小学館)より引用】
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