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…沙羅の章…

其の四◆杏色ノ夢ヲ見る(あんずいろのゆめをみる)

 亜樹(アジュ)と初めて顔を合わせたのが何時なのか、沙羅(さら)本人にも明確な記憶はない。

 聞くところによれば、自分がこの世に生を受けたのと前後して亜樹はこの竜王の館にやってきたと言う。名実共に彼の育ったのはこの都であり、西南の集落が故郷であるとは言っても一年の大半をこちらで過ごして来たのである。今となっては「竜王の息子」と言ってしまっても全く差し支えないであろう。
  亜樹の側にはあの美莢(みざや)がいつもしっかりと陣取っていたが、それでもある時期までは顔を合わせる機会も話すことも自然に出来た気がする。

 

 ……自分の手のひらまでが紅く染まりそうに思えるのは辺りを包み込む紅い光のせいか、はたまた空を覆い尽くすような実香弥(みかや)の枝達の紅葉のせいか……それがどちらでも、どうでもいいことのように思われる。ただ、全身に紅の色を感じながらじっとその場にうずくまっていた。

「――沙羅?」

 遠慮がちな声が少し遠いところから聞こえた。こちらに来ていいものか、思いあぐねているようである。

「沙羅……」

 かさ、かさ、かさ……と落ち葉を踏みしめる子供の足音がだんだん近づいてくる。それでも沙羅は、顔を上げてそちらを振り向くことが出来なかった。

 やがて足音がすぐ側で止まる。そして少し間を置いてから、声の主は自分の隣りに腰を下ろした様子だった。

 次第にねっとりと濃度を増していく夕刻の気。それが右から左へ、風景をかすめながら流れていく。乾いた落ち葉たちがくるくると舞い踊りながら通り過ぎていく音を聞きながら、ようやく沙羅は顔を上げた。
  水面を通してこの海底の国へ降り注いでくる日差しは天上のそれと比較すると曖昧で鮮やかさがないが、それでも秋が深まり遙か「陸」の上に広がる空が澄み渡っていることが感じられた。他の者はどのように感じているか分からない。だが、沙羅にとって「陸」の世界は母の育った地。こんな風にあちらがかいま見られる場所は、柔らかなかいなに抱かれているような気がした。

「どこに行っちゃったのかと思った。皆、心配しているよ。手分けして、方々を探してる」

 そう言ってこちらに視線を投げかけたのは、まだ年少の頃の亜樹であった。茶色がかった柔らかい髪を背中まで伸ばした沙羅に対して、彼は西南の集落特有の豊かな赤味がかった髪をしている。褐色の肌の中、澄んだ濃緑の瞳が心配そうにこちらを見つめていた。

 沙羅にとって一番古い亜樹との記憶のひとつである情景……一昔も前になろうというのに、あの日の全ては昨日の出来事のように思い出すことが出来た。

「もう辺りの気が冷たくなるよ、早く帰らないとまた熱が出る」
  ひとつひとつ選ぶように、ゆっくりと暖かい言葉が伝えられる。

 幼い頃の沙羅は病気がちで良く熱を出した。自分の中に濃く流れている「陸」の血が、海底の全てに上手く適応しないのかも知れない。特殊な「気」で包み込まれているとは言え、やはり彼の地と同じように生活することは不可能である。……そのような中で自分の母はだんだん身体が弱っていき、肌が青白いほどに透き通っていった。それは子供の目から見てもあまりに痛々しいほどに。

「……父上がお嘆きになっていらっしゃるの。……でも私、どうやってお慰めしたらいいのか分からなくて」
  沙羅は途方に暮れた声で呟いた。目元がまたじんわりと潤む。

「華繻那(カシュナ)様が亡き正妃様のことを想われてお嘆きになられるのは、当然のことだと思うよ。多分……もう少しの間は、誰にもどうにも出来ないんじゃないかな」
  沙羅より三歳年長である亜樹は、少しは世の中のことを知っているように答えた。

 母がこの世を去って三月余りが過ぎようとしていた。この地では亡くなってから百日後に墓地への納骨が行われる。それをもって「喪」が明けるのである。后を失ってからの竜王・華繻那は誰の目から見ても痛々しいほどにおやつれになっていらっしゃる。それでも政務はどうにかこなしてはいたが……その姿も胸を突くような寂しさを漂わせていた。
  もちろん新しい后を迎えるようにとの働きかけがなかったはずもない。特に亜樹の故郷である西南の集落からの強硬な態度は凄まじかった。事実を受け入れることすら難しいような心境に、あまりの仕打ちである。

 これ幸いに連日後添えの話を持って押しかけてくる人々。たったひとつの安息の場であったはずの東所にさえ、今や沙羅の居場所はなかった。こうしてひとり、庭の隅でぼんやりと一日を過ごすしかなかったのである。

「亜樹、お里からお母上がいらっしゃっているんでしょう……? あまりお目にかかれないのだもの、早く戻らないとお寂しく思われていらっしゃるのではないかしら」

 以前から不思議に思っていたことだ。亜樹は母君である翠の君様が、お里であるこちらにお戻りになったときも、あまりお側に上がろうとはしない。亡くしたばかりの母を今なお恋しく思っている沙羅には、とても考えられないことであった。

「う〜ん……」
  彼もそんな沙羅の問いかけに、首をひねっている。あまりそのことを深く考えたこともない様子であった。

「母上、と言っても……年に何回もお目に掛かる方ではないし。西南の両親も他の兄弟も、僕にとっては何だか本当の家族じゃないみたいなんだ。一番上の兄上は側女(そばめ)の子で母上と余り年が変わらないんだ。それも何か変でしょう……?」

 実際、今年八歳の亜樹の母親が同じ長兄(要するに正妻の子、と言うこと)はもう二十を余程過ぎていて、集落を越えて政務を司る大臣家の若い力として勢力を持っている。それに亜樹には母親が同じ兄弟だけで八人、側女の産んだ子を合わせると二十人近くの兄弟がいるのだ。ひとり子の沙羅から思えば、もう何が何だか分からない状態である。

「僕にとっては、恐れながら、華繻那様や沙緒様の方が本当の父上と母上みたいに思えるんだ。ずっとお側にいたんだしね。美莢も口うるさくて嫌だなと感じることも多いけど、それでも母上よりはずっと近い人みたいに思えるよ」

「じゃあ、私は亜樹の妹になるの?」
  とてつもない秘密を知った様に沙羅は両の目を見開いた。少し、頬が紅潮している。

「……そうなるね」
  亜樹も優しく微笑み返した。

「何だか、嬉しいな。本当に亜樹が兄上になってくれたら楽しいだろうね」

「美莢には内緒だけどね」

「また、叱られてしまうものね」
  ふたりは顔を見合わせると声を立てて笑った。

「……久しぶりに、見た」

「え?」

「沙羅が笑ったところ」

「そうかなあ……」
  沙羅は真顔に戻って、両手で自分の頬を覆った。

「ずっと、泣くのを我慢したみたいな顔だったよ」

「……」
  沙羅には答える言葉が見つからなかった。母親が亡くなってからというもの、自分を取り巻く気が全て悲しみの色に包まれているのである。肌に刺すほどの痛々しい空気にさらされて、もうそれが当然のことになりつつあった。

 

「ねえ沙羅。いいもの、あげる」

 突然の言葉に沙羅が驚いて顔を上げた。

「ちょっと手を出して、……よく見ていてね」

 沙羅の両手を亜樹の手が包み込む。自分の手に暖かい何かが浸みてくるような気がして、それから沙羅は自分の両手の中に不思議なものを見付けた。

「なあに……? これ」

 それは蜂蜜色の透き通った小さな光の珠だった。子供の手のひらにも乗るほどの大きさ。綺麗な球状のそれは、今、沙羅の手の中で暖かい光を発している。そして、やがてさらさらと崩れるように手のひらへと吸収されていった。

「良かった、ちゃんと出来た!」
  亜樹は嬉しそうに叫んだ。

「……今の、亜樹がやったの?」
  自分の両手に微かに温もりの残りを感じ取りながら、沙羅は訊ねる。

「この地は華繻那様が結界を張っているから人々は生活出来るんだよね? 僕も竜王になるんなら、それを習得しなくちゃいけないでしょう? まだ教わったばかりだったんだ。あのね、結界を張る力の元は人を大切に思う心なんだって」

「人を……思う?」

「そう、誰かを大切に思う心が育つと竜王の力も大きくなるんだって」

 沙羅はもう一度、自分の手のひらを見つめた。そこにはもう何も見当たらなかったが、暖かな心地は今なお残っている。

「じゃあ、今の……亜樹の心?」

 その言葉に、亜樹はこの上なく嬉しそうに応える。

「うん、これからもっともっと大きな珠を作れるようになるから。そしたら、また見せてあげるね」

「本当?」

「だから……」
  亜樹はそこで、大きくひとつ深呼吸をした。まるで自分の心を確認しているように。

「もう、余り悲しまないで。このままだと沙羅は悲しみの鬼に捕まってしまうよ」

「私が? ……父上が、じゃなくて?」
  沙羅は驚いたように聞き返していた。どうしてそんなことを言われるのか、全く信じられない心地で。

「ほら気付いてなかったでしょう」
  困ったように微笑んだ亜樹は先に立ち上がると、沙羅に手を差し出した。

「沙羅は、悲しい目で周りを見ているから……だから悲しいことばかりが映ってしまうんだよ。華繻那様も東所の侍従達も皆、悲しみの中から前を見ている。それに気付かなくちゃ」

 ゆっくりと手を引かれて立ち上がる。何だか周りの風景がさっきまでとは変わって見えた。

 

「あのね、沙羅」
  戻り道、歩きながら。わざと視線を逸らした亜樹が、おずおずと話し出した。

「華繻那様がおっしゃったんだけど……もしも僕がこれからきちんと竜王の教育を習得して立派な大人になれたら、沙羅をお后に下さってもいいって」

 突然の言葉に、胸がどくんと高鳴る。でもそれは、誰も知らない秘密の宝物を見つけたときのような、くすぐったくて誇らしい誰にも知られたくない心地だった。

「私、亜樹のお后様になるの……?」

 見つめた亜樹の顔は俯いていて表情が見えない。夕方の光のせいかそうでないのか頬が紅く染まっていた。

「あ、……そうだ! もちろん、沙羅がいいって言ったら、だって……」

 亜樹は思い出したように慌てて付け足した。その恥ずかしそうな言い方が嬉しくて、知らず顔がほころんでくる。

「じゃあ、私。その時は、亜樹の上掛けを仕立ててあげるね!」

「え……?」
  今度は亜樹の方が聞き返す番だ。

「あのね、古より婚礼の式服の上掛けを仕立てるのが最高の女子のたしなみとされているんだって! この間、多尾(たお)が教えてくれたの。私、御針を持てるようになったら頑張って刺しものしちゃうね。今から頑張れば、絶対に間に合うはずだもの……!」

 灰色に埋め尽くされていた心に、雲間からうっすらと光が差し込んでくる。少しずつ少しずつ、心が晴れていく、そんな気がした。

「でも……。竜王の式服の上掛けは、普通の刺し模様じゃないんだよ。華繻那様の上掛け、何度も見てるでしょう?」

 それはもちろん沙羅も承知していた。布地が全て隠れてしまう程に丹念に刺し込まれた刺し文様はこの地の熟練の技術を全て駆使したようなすばらしいものである。どんな腕達者たちが束になって掛かっても、仕上げるまでには長い歳月をかけなくてはならないと聞いていた。だけど、その時の沙羅には何だか出来そうな気がしていたのである。

「大丈夫よ、美莢がびっくりして腰を抜かしちゃう様な凄いのを仕立てちゃうから。……だから、亜樹も一生懸命頑張って、立派な竜王様になってね! 絶対だよ……!」

 それは八歳と五歳のあどけない約束だったのかも知れない。誰も知らない、ふたりだけの。

 

「亜樹のお后様になったら、ずっと一緒にいられるね」

 館への戻り道、沙羅がポツリと言った。すぐに亜樹の声が応える。

「そうだね」

 長い長い影が目の前に伸びていく。こんな風に手を繋いで歩いているところを見つかったりしたら、亜樹の母上の翠の君様も、乳母の美莢も仰天して引き離すと言うことをふたりは承知していた。

 

 情景はにわかに変わる。

 沙羅は自分の身体が瞬く間に成長したことに気付いていた。もう数え切れないほど見た夢のひとひらであり、今更驚くことではない。……ああ、また、あの時の夢だ。そう思うゆとりすらあった。床に届くほど伸びた薄茶の髪が5年の歳月を告げている。十歳の自分がそこにいた。

 辺りは真夜中の闇に包まれている。春とは言え、少し肌寒い夜……でも、その時の沙羅は何も感じられなかった。
  こっそりと寝所を抜け出してやってきたのは天寿花の林。まだ花は開き始めたばかりで、初々しい気に包み込まれている。ここは東所の竜王の寝所からほんの少しの距離にありながら死角になっており、人目に付きにくい。それでもなお、思いを巡らして闇に溶けてしまいそうな濃い藍の重ねを寝着の上に羽織っていた。水色の模様が花吹雪のようにうねっているのを感じながら足早に林の奥まで辿り着く。

「……亜樹!」
  小さく叫ぶと、彼の方もすぐに大樹の陰から姿を現した。

「何だか……凄く、久しぶりに、顔を見た気がする」

 あたりにふわふわと漂う吐息は白い。沙羅の言葉に反応して、亜樹は悲しげに微笑んだ。ゆらりと濃緑の瞳が揺れる。

「……ごめんね、元服の儀式の準備が忙しいんだもんね。それに今まで以上に西南の人たちが出入りするようになってきて。今は仕方ないんだよね……、それにしても翠の君様がいらしているのに、良く出てこられたね」

 こちらからいくら話しかけても、彼が何も言わないまま悲しげにしているの。ひそりとした心地に、沙羅は胸が痛んだ。

「寒かった……?」

 亜樹の重ねがしっとりとしているのに気付いて、沙羅は彼の両手を自分の両手で包み込んだ。どんなにか長い時間ここに佇んでいたのだろう、氷のようにヒンヤリとした感触が伝わってくる。

「元服の儀式が済んだら……もっと会えなくなる」

「え?」
  沙羅はようやく発せられたひとことに驚いて顔を上げる。そこには生まれてからずっと、兄のように慕い続けたただひとりの人間の顔があった。

「俺、元服したら……南所に移されるんだって。あそこは次代竜王の住まい所になっているから」

「そうか、……そうよね」

 亜樹はこの地を治める竜王になるべく、長い間父の元で教育を受けている。現竜王の姉の子と生まれも申し分なく、気質も優れており……このまま行けば現竜王である華繻那様に優るとも劣らぬ主君になれるだろうと今や誰もが疑わなかった。
  沙羅は竜王のただひとりの姫君である。そんな自分が次代の竜王候補の亜樹の后になるであろうと言うことは、この地の全ての人々が承知していることであった。それなのに、将来を約束されたはずのふたりが仲むつまじくすることは許されない。どうしてこんな不可思議なことが起こるのか、それは西南の集落と沙羅の母である「陸」の人間・沙緒との深い確執があるからであった。

「でも……いつか、必ず。必ず、華繻那様のお許しを頂いて沙羅を南所に迎えるから」

「亜樹……?」

「必ず、……だから待っていて」

 いつになく思い詰めた表情。沙羅の記憶にある自分をまっすぐに見つめる亜樹の瞳はこんな風にゆらゆらと悲しげに揺れている。それが最後に見た「心の通った」亜樹の視線であったから。

「……離したくない、明日が来なければいいのに――」

 ゆっくりと背中に回された腕に力がこもる。やさしい実香弥の薫りが辺り一面に漂った。

 

 

「……姫様?」

 聞きなれた声にゆっくり目を開ける。辺りはすでに、朝の光に満たされていた。

「ああ、お早う。多奈(たな)……今日の予定はどうなっていたかしら?」

 ゆっくりと身を起こす。けだるさが全身にまとわりついている。いつもそうだ、この夢を見た後は何とも言えない脱力感が襲ってきて数日、落ち込んでしまう。

「衣装合わせでございましょう、私もご一緒いたしますわ。昼前の行事ですから、早々にお支度をして朝餉を召し上がってください」

 この頃、見なくなったと思ったのに……やはりいよいよ婚礼の儀が近いせいだろうか。決して果たされることはないあの日の約束に、未だに囚われている自分が情けなかった。

 

◆◆◆


 衣装合わせは館の中央に位置する「客座」で行われることになっていた。広い板張りの床が、たくさんの衣装を広げるのに丁度良いのである。季節ごとの衣替えの際にも重宝されて使われる場所であった。

 普段身につけている一通りの装束とは異なり、正式の儀式の時にはさらに多くの衣をまとうことになっていた。幾重にも袿(うちき)を重ねた後、上着を掛け、最後に上掛けを羽織ることになる。下には長い袴を着けるのだ。この海底の地では、男女の区別なく大体同じような装いになっていた。
  幾重にも重ねられる着物の色目を綺麗に合わせることが重要で、その為にも幾度も行う衣装合わせは不可欠であった。さらに今回は婚礼の儀であるからしてふたりの色目がぴたりと揃うことも重要である。色目合わせには布地同士の色の釣り合いはもちろん、本人の肌映りも大切である。その為に当日の主役がふたり揃う必要があった。

 

 沙羅が多奈を伴って客座に入ると、亜樹の方はもう先に到着していた。入室した沙羅に気付いて彼は薄い微笑みを浮かべるが、何となく意識して目をそらしてしまう。彼の傍らには昨日紹介されたばかりの新しい侍女がいて、かいがいしく着替えの世話をしているところであった。彼女の方も沙羅に気付くと、何ら臆することもなくゆっくりとした仕草で会釈した。

 その後もあちらのふたりは、時折楽しそうに笑い声まで上げながら色目を合わせている。聞く気などなくても几帳を挟んだ隣同士では、どうしようもない。やがて上着まですっかり着用し終えたのだろう、主人である亜樹を待たせて、螢火だけがすっと沙羅たちの方へ歩み寄り、几帳越しに言葉を掛けてきた。

「本日はまだこちらに上掛けが参っておりませんが……深い緑と伺っておりますのでこのようで宜しいでしょうか? 是非、沙羅様のお言葉を頂きたく存じます」

 支度を手伝っていた多奈の方が、すっと対応に出る。そして、彼女が口を開こうとしたその時、あちらから亜樹の声が響いてきた。

「おいおい、螢火。上掛けの話はお姫様には分かりっこないよ。どうせ北の集落の熟練師にでも頼んであって見たことも触れたこともないのだろうからさ」

 その言葉には、すぐさま多奈が何か叫びそうになった。その袖口を引いて、沙羅が素早く制する。

「いいのよ、存分に言わせておきなさい」

「でも、姫様……」
  心優しい侍女は、尚も口惜しそうに唇を震わせている。

「私の方ももういいわ、あとは衣の色を互いに合わせれば良いのでしょう。あなたはその辺りを片づけてちょうだい」

 

 未だ憤りがおさまらない多奈ではあったが、主人の言葉には黙って従う他はない。彼女が沙羅の元から少し離れたそのとき、何かを拾うような仕草で螢火が沙羅の程近くに歩み出た。

「……負けませんわよ、わたくしは」

 沙羅はハッとして彼女の顔を見つめ返した。しかしその表情は、穏やかで控えめなままである。たった先ほどの言葉の方が、空耳だったと思えてくるほどに。

 愕然とした沙羅を残して、螢火はさっさと自分の主人である亜樹の元へと戻っていった。

 

 多奈の手を借りて、身につけた装束を一枚一枚確かめながら。沙羅の想いは明け方の夢の続きに飛んでいた。

 

◆◆◆


  亜樹の元服の儀が滞りなく執り行われたあと。

 沙羅の耳に飛び込んできたのは彼の元に早速、西南より側女(そばめ)が召されたと言う現実であった。たとえようのない悲しみが胸を覆ったのは事実。でも次代の竜王ともなれば側女を取ることはごくごく自然のこと、致し方ないと承知したつもりだった。

 ――でも。沙羅にとってそのことよりももっと信じられない出来事がその後、すぐに起こったのだ。

 

 竜王教育を現竜王の華繻那から直々に受けるため、元服の後に南所に移ってからも亜樹は頻繁に沙羅の住まう東所へとやってきていた。その時は多くの侍従を引きつれていることが多く、なかなか以前のように気軽に声を掛けられるような雰囲気ではない。
  ある日、彼がひとりで東所の中庭を歩いているのを見付けることが出来、沙羅は喜び勇んで早速部屋から飛び出していた。

「亜樹……!」

 たかだか数日、顔を合わせなかっただけなのに信じられない程に懐かしく思えた。やはりこのように離れて暮らすのは辛い、早く一緒になれないものだろうか。それが容易い道ではないと知りながらも、互いの気持ちだけはいつも確かめ合いたいと思った。……しかし。

 彼は沙羅の声に反応して一瞬、確かに顔を上げた。だが、すぐにさらりと視線を逸らして、何事もないように去ってしまう。

 

 ――どうして……?

 沙羅の心の叫びは、もはやかつての優しい従兄に届くことはなかった。それ以来、2人の距離は確実に広がっていく。そしていつの間にか、とうとう互いの心が全く分からないところまで遠のいてしまったのであった。


「杏色(あんずいろ)」…熟したアンズ(杏子)の実のような色。くすんだ黄赤。アンズはバラ科の落葉小高木。【色の手帖(小学館)より引用】
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