TopNovel秘色の語り夢・扉>沙羅の章・3



…沙羅の章…

其の三◆紺瑠璃ノ草原(こんるりのそうげん)

 東の庭先は外界の影響を受けやすい地だと言われている。

 沙羅(さら)の住まう海底国は陸上の人間が「深海」と呼ぶ水底にある。竜王である華繻那(カシュナ)が結界を張り、外部の人間には見えないように細工されていた。
  東の庭の果てには海流というものが流れ込んでおり、陸上での季節の移ろいに合わせて微妙にこの地の気候を変化させていた。
  この地には竜王神殿の他にいくつかの庶民の住まう集落が点在している。その一番大きなものが「西南の集落」であり、追随しているのが「北の集落」であった 。そこに向かうのは海底人とは言えただ海の中を歩いていけるわけではない。竜王により結界を張られた細道を往来するようになっていた。
 
  南所の果てに西南に向かう南街道門がある。そして東所の果てには北や東に向かう街道門が置かれていた。

 

「やはり、お召し物を替えて正解でしたね……」

 静かにそう沙羅に話しかけたのは、竜王の一の侍従と称されている多岐(タキ)であった。多岐の一族は北の集落をもまとめ上げていると言われている由緒正しい家柄である。ここの集落の者達は香の栽培や加工を一手に引き受けるほか、竜王の廷内でも多くの侍従・侍女が任に付いていた。

 その言葉を聞いた沙羅は小さく声を立てて笑った。

「……何かおかしなことを申し上げましたか?」

「……だって」

 主に代わって多奈(たな)が静かに答えた。

「それはこの重ねに焚きしめられた香のせいでしょう、御祖父様」

 合点がいかぬ多岐の方は、きょとんとした表情のままである。

「香が……? それが如何いたしましたか」

「だって多岐……」
  沙羅は顔を上げると多岐の方を見た。還暦を過ぎたという老人の穏やかな瞳がこちらを見つめている。幼き頃から慣れ親しんだ、大好きな色であった。

「これは合わせ香でしょう? ……天真花と舞夕花の。私がまだ幼き頃に、多尾(たお)が特別に合わせてくれたものだわ」
  沙羅は多岐があつらえてくれた桃色の重ねを愛おしそうに撫でながら静かに言った。

「そう言えば、そうでしたね……」
  ようやく承知したように、年老いた侍従は感慨深く頷いてみせる。目元に寄ったしわが何とも優しい雰囲気を醸し出していた。

「多尾は私が寂しくないようにって、父上と母上の香を合わせてくれたのだわ」
  しみじみと、昔を振り返るように沙羅が呟く。そう、……幸せは何もかもあの頃に置き去りにしてきた。こんな風に気付けばもう後戻りが出来ないほどに遠いところまで来てしまっている。

「大叔母様の香の調合はいくら教えていただいても、真似できないんですものね…」
  多奈も感慨深そうに言った。

 多尾は多岐の末の妹であり、多奈にとっては祖父である多岐の妹、と言うことになる。もともとは若くして竜王という地位に就いた華繻那付きの侍女のひとりであったが、縁あって沙羅の母君である沙緒(さお)の身の回りの世話を任された。現在は役職そのものは沙羅付きの侍女の長であったが、実は東所の侍女の元締めとも言われている。多岐の妹であったが、年は離れており…四十に今少し、と聞いていた。

「昔話が……楽しそうだね。ほら、花畑に出てきた様だ」
  前を歩いていた華繻那が微笑みながら振り返って、後の者に教えた。

 

 一同の目前には見渡す限りの腰の高さぐらいまでの草原が広がっていた。

 両の手で包み込もうとしてもなお余りあるほどの広大な草原は普段は緑色一色である。しかし今は花の盛りであるため…濃紫の敷物を一面に広げたように見えた。しなやかな草をかき分ければ 、細い茎の先に並んで咲いている小さな花…舞夕花(まゆか)。
  先ほどの亜樹(アジュ)の花畑は観賞用でささやかであったが……ここは香の採取を目的とされた栽培園なので広さが違う。また独自の肥料を与えられているため、花の色も際だっていた。

 

 舞夕花の草原の間の細道を抜けるとそこは王族の墓地になっている。双になった石造りの塔の間をすり抜け、華繻那の足はぴたりとある一角で止まった。

 手にしていた色とりどりの庭の花を活けた後、着物の汚れるのも構わずに地に跪き……暫く手を合わせて目を閉じ、微動だにしない。その広い背中を、沙羅は何とも言えない気持ちで見つめていた。

 こう言うとき……父親と共に墓参りに来ると、沙羅はどうしていいのか分からなくなることがある。お慰めしていいものか、または見て見ぬ振りをしたらいいものか……父の心情に流れるものは余りにも深く、娘とはいえ入る余地も残されていない。それは供に付いてきた多岐や多奈も同じようだった。

「……待たせたね。皆も沙緒と話をしてやってくれ」
  やがて華繻那はゆっくりと面を上げると一同の方を向いて静かに微笑んだ。

 胸が締め付けられそうになるほどの切ない表情に沙羅はただ黙って頷くしかなかった。

 

◆◆◆


「……父上は」
  戻り道、また舞夕花の細道を通り抜けながら、並んで歩く華繻那に沙羅はポツリと呟いた。

「何かな?」

「父上は母上がお亡くなりになった後、どうして後添えをお迎えにならなかったのですか? ……母上のご存命中も唯のひとりの側女もお取りにならなかったと聞いておりますわ。そんなに母上が恐ろしかったのでしょうか?」

 思いも寄らぬ言葉を発した娘の顔を華繻那はまじまじと見つめた。

「……以前、そなたの母がまだお元気だった頃、その本人から丁度同じようなことを言われたものだよ。どうしたか? また口の減らない侍女どもが何か噂しておったかな?」

「聞きたくなくとも…至る所で耳にしてしまいますわ。皆、私の婚礼を前にして一層、舌がなめらかに動いているようです」

 沙羅は自分の両耳を塞いで見せた。その格好に華繻那は軽く笑い声を立てた。

「幼いそなたには……あの母上がそのような怖いお方に見えていたのかな?」

「そうではございませんが……いえ、むしろその逆で。とても控えめな方だと覚えておりますわ」

 沙羅の生母である沙緒は元々は陸の人間だったと言う。結界を破ってこの地に落ちてきた娘とこの地の王である華繻那が互いに惹かれ合い、とうとう周りの反対を押し切って華繻那は娘を自分の后として迎えた。なかなか御子に恵まれず……三度の受胎でようやく沙羅がこの世に生を受けた。しかしその後も体調が戻らず、とうとう沙羅が五つのお祝いを迎えて間もなくの頃、お腹の子と一緒に亡くなったと聞いている。
  沙羅には母の記憶などほとんどなかった、ただぼんやりとした幻影で母は自分の中に息づいているのだった。

「……当時、私が西南の集落の大臣家の娘と婚礼を控えていた、と言うのはもちろん存じておるな?」

「それはもう、耳にたこが出来るほど。亜樹の叔母君――お父上大臣様には妹君に当たられるお方でしょう?」

 これこそ侍女達の格好の話のネタであった。最大の権力者のひとつである大臣家の息女、と言えばまたとない良縁である。幼き頃より竜王の后となるべく育てられたこの娘は、見目麗しくしっかりした気性で誰から見ても竜王の正后として不足する点は見あたらなかった。

「あの縁談には大臣家も、そして西南の集落から遣わされていた当時の侍女長も並々ならぬ力を注いでいたからな。私よりむしろ沙緒の方が色々と辛い思いをしただろうね」

 静かな口調でそう語ると、華繻那は花園に目を向けた。遠目に見るとただの緑の草原であるがこうして傍らから見下ろすとさながら紺瑠璃色の海原である。柔らかく風に揺れる様は天女にも踊り子にもたとえられる。舞夕花の香は今では沙羅の香とされているが、以前は竜王の后であった沙緒が好んで身につけていた薫りである。

「……その上、子供にはなかなか恵まれない。私としては子供はもし授からないならそれでもいいと思っていたが、そうもいかないらしい。毎日のように大臣家と侍女長から側女を迎えるようにと訴えられたよ。とうとう、最後には沙緒を正妻の座から下ろしたらどうかとまで言われたな……」

 遙か遠い昔語りを、淡々と話されていく。押さえたその口調だからこそ伝わってくる悲しさが、しっとりと辺りの気を染めていく。

「それで、母上は何とおっしゃったのですか?」
  どんな風に訊ねたらいいのか、言葉が探せない。自分の心も締め付けられるようだと沙羅は思った。

「……泣いて嫌がった、とでもお思いか?」

「……皆はそう申しております」
  少しばかり怒りを含んだ声で、沙羅は言い捨てるように言った。

 死してなお、上様を手放そうとはしない悪女――沙羅寄りである北の集落の多岐一派の者は別として、沙緒・沙羅母子を快く思わない者はこの館内の大多数を占めていた。

「……本当に。真実とはいつの世も上手く伝わらないものだね」
  華繻那は寂しそうに微笑んだ。

「沙緒は初めから正妻の座など望んではいなかったよ。……私を好いてはくれていたようであったが、私の立場が悪くなるようなことはしようとは思ってなかったようだ。子が授からずに悩んだときは自ら側女を迎えるようにと私に訴えてきたし……死の床にあってなお……」

「……父上?」

 華繻那は目頭に手をやった。流れ落ちるその袂が小刻みに震えている。

「沙羅に……弟や妹をたくさん産んでくれる後添えをどうか迎えるようにと……臨終の際まで……」

 

 泣いていらっしゃるのだろうか、と沙羅は息を飲んだ。何もかも自由になる自分の司る世界で……どうしてこのお方はこうして亡き者をこんなにも懐かしむのであろうか。

 

 暫くして、ようやく顔を上げた華繻那は潤んだ眼で娘の顔を見た。

「……残念ながら、その母の必死の訴えをも叶えて差し上げられなかったがね」

 沙羅はそんな父親の笑顔を見て、それきり何も言えなくなっていた。だが、言いたいことは余りあったが。

 

「上様……!」
  お屋敷の方から、小走りにひとりの侍女がやってくる。たっぷりした身体を揺らしながら現れたのは、先に話に上がっていた沙羅付きの侍女の長である多尾であった。

「……あらあら、皆さんお揃いで。あの、上様。衣装係の者が祭典の際の御衣装について、上様のご意見を賜りたいと先ほどからお帰りを今か今かとお待ち申し上げております」

「左様か、今参る」
  華繻那は重ねを翻すと短く言った。昼餉の後は公務はないと聞いていたが、このように前もって決まってない雑務はいつものことである。

「……丁度いいわ、多奈も来てくれるかしら?」

 今後のこともあるから、あなたも色々お話を伺っておいた方が宜しいわ……そんな風に多尾は付け足して促した。

「では、兄上。沙羅様をお部屋までよろしくお願いいたします」
  多岐が笑顔で頷くと、皆の後について多尾はそそくさと引き上げていった。

 

◆◆◆


「相変わらずの奴だなあ。……あのように気ぜわしく動き回らぬように、普段から厳しく言い聞かせてはいるのですが……」
  さすがの多岐も目をぱちくりさせながら、大きく溜息を付いた。

「沙羅様も慌ただしくて申し訳ございません」

「いいえ」
  神妙に詫びる多岐に、沙羅はゆっくり微笑んだ。

「多岐のおうちの皆がいてくれるから、私はここで寂しくなく暮らしていけるのではないですか。心強く思っております」

「そうおっしゃって頂けると、こちらも肩の荷が下りる気分でございます」

「……ねえ、多岐」

「何でしょうか?」

 沙羅は花園に目を向けたまま、静かに言った。

「母上は……きっと、お幸せだったのでしょうね」

「……何をおっしゃるのかと思いましたら」
  多岐は小さく笑い声を立てた。

「お屋敷の皆は父上をとんでもない変人だと噂しているわ。生涯、唯ひとりの女子を愛し続けるなんておよそ高貴な身分の方がする事じゃないって……でも父上はそんなことお気にもなさっていないご様子よ」

 沙羅とて、この地に生まれ育った者として、一通りの道理は身につけている。高貴な殿方が何人もの妻を娶ることもそう珍しいことではないのだ。だいたい、目の前にいる多岐であっても、正妻の他に幾人もの側女(そばめ)を抱えている。

「そう言う意味では……恐れながら上様は恐れを知らない御方ですね。私もその昔、驚かされたものです。沙緒様をお迎えになることは喜ばしいことと承知しましたが、まさか側女のおひとりも頂かないとは……さすがにどうしたものかと焦りましたね」

「…冷静沈着な多岐ではあっても、驚くことはあるのね?」

 さすがの竜王の一の侍従ですら、泡を吹いた一件であったらしい。沙羅はくすくすと笑いながら、言った。

「それは……ものには限度というものがございますれば……」
  多岐は暮れかけてきた天を仰ぎ、一息ついて続けた。

「かたちだけでもいいと申し上げたんです。側女として上様のお側に上がるだけでも、女子本人はもちろん送り出した実家の栄えにもなります。いえ、それだけでは留まりますまい、ひいてはその集落全体の誉れにも。そう申し上げても……あの上様はとうとうご承知下さらなかった」

「どうして……」
  沙羅は小首を傾げて、小さく溜息をこぼした。

「ねえ、多岐。どうしたら母上みたいになれるのかしら……」

 泣き出しそうな瞳でこちらを見つめる姫君に、多岐は優しい眼差しで応えた。

「……亜樹様のことでいらっしゃいますか?」

 彼女は問いかけには応えないまま、俯くしかなかった。考えても考えても想いがまとまらない、見目形が似ていると誰もが口を揃える母なのに、どうして同じように生きることが叶わないのだろう……?

「御案じなさいますな」
  やさしい語り口で多岐は沙羅を諭した。

「あんなに仲のよろしいおふたりであったのですから……必ずや、再びお心は通じますよ」

「でも……」
  沙羅は長いまつげの向こうに紫の色を感じていた。

「昔はそうだったのかも知れないわ。でも今は、そうじゃないもの。だって……亜樹は」

「また側女をお迎えになったそうですね」
  さらりと彼は言った。出来るだけ感情を排除した、そんな感じで。

「それが何だとおっしゃるのです。沙羅様は誰が何と言おうが正妃様になられるのですよ? それにあなた様の後ろには私たちが付いております、強気に構えていらっしゃっていいのですよ」

「ありがとう……」
  沙羅は弱々しく笑顔を返した。

「――それに」
  多岐は思い付いたように言葉を付け足した。

「何より大切なのは、沙羅様ご自身のお心ですよ。沙羅様が一番だと思うことをなさればそれで宜しいのです。姫様はすぐに周りに合わせようとなさる、始終そうではお疲れになってしまわれるでしょう。このときばかりは御両親を見習われたら宜しいんですよ……」

 多岐がどうにかして自分を慰めてくれようとしているのは分かっている。だから沙羅はただ頷くしかなかった。

 

◆◆◆


 自室の前で多岐と別れてから、沙羅はぼんやりと庭を眺めていた。双の瞳に輝くばかりの春を映し出しながら……その心は物思いに沈んでいく。

 

 亜樹は現竜王・華繻那の姉君の御子であるから、沙羅には従兄に当たる。華繻那が側女も取らず、お世継ぎは沙羅ひとりだったため、西南の集落では次なる手を打ってきた。長い歴史の中で女の竜王が存在したこともあったが、いかんせん沙羅は陸の人間との混血である。そのため王族としての異質な力が弱いと言い切るのだ。さらに言うなら強力な後ろ盾もない。上に立つ者として、時としてそれは致命傷となる。
  彼らはどうにかして自分たちの息の掛かった側女を送り込もうと画策した。だが、それには当の竜王が首を縦にしない。
「そうならば」と言うことで、まだ正后である沙緒の存命中に亜樹を送り込んできたのだ。もし、この先お世継ぎに恵まれない場合は亜樹を次代の竜王にとのことであった。母は王族の者であるから血筋には不足もない。

 余りにもあからさまな嫌みだったが、華繻那はそれを甘んじて受け入れた。彼にとって、我が子が世継ぎとして次代の竜王になることをそれほど望んではいなかったのだ。 

 

 亜樹と沙羅は3歳違いで年回りも丁度良かったためか、2人を娶せようと言う話は早くから出ていた。 沙緒・沙羅母子を憎らしく思っていた西南の集落の者達もこのことについては不思議なほど肯定的であったのである。でもその実は沙羅の竜王の御子としての身分を欲しているだけであったが。
「正后などお飾りも同然、お世継ぎは我が集落の女子の腹から」と亜樹の御父上の大臣も御母上の翠の君様も公言して憚らなかった。

 2人の婚礼の儀はもう10日後に控えていた。亜樹も数え18になり竜王としての教育も順調に進んで来ていた。まあ、現竜王が三十半ばとまだまだお若いため、すぐに代替わりが行われることはない。それでもこの婚礼を期に竜王の片腕として亜樹がだんだんその頭角を現し始めることは間違いなさそうであった。

 これから衣装合わせあり、式次第のおさらいがあり……その忙しいさなかに新しい側女が迎えられたという。

 聞くところに寄れば、沙羅の母君の沙緒がこの地に「落ちて」来たのは華繻那の婚礼の儀のわずか半月前であったと言われている。何もかもが整って式の当日を待っている状態だったのであろう。その後の周囲の混乱は想像に余りあるものがある。沙羅自身、いきなり后の座を横取りされた御息女の心情を思えば他人事ながらも胸が痛む。

 そして、さらに思うのだ。今回のことはそれに対する西南の大臣家の仕返しに他ならないのではないかと。

「まあ、人の心に鍵は掛からないし……」
  沙羅は自分に言い聞かせるように声に出して呟いた。

『あんなに仲のよろしいおふたりであったんですから…』――そう多岐は言ってくれた。でもそれはもう何年も前のことだ。あの亜樹などに話したら、それこそ鼻で笑い飛ばされそうである。

 

 沙羅は一息つくと通用口から部屋に入っていこうとした。と、同時に。どこからか楽しそうな談笑の声が響いて来るのに気付く。
  何だろうと振り向いてみると、南所の方から一組の男女がやってくるのが見えた。男が前に立ち、女は控えめに後に続く。ふたりの間にただならぬものを感じた沙羅は足を止めて立ちつくした。

「おや……沙羅か」
  男の方は遠目でもすぐに分かっていた。自分の婚約者であり、次期の竜王である亜樹だ。素知らぬ振りをしようにも、ついつい視線は亜樹の後ろに控えた女子に行ってしまう。それに気付いても悪びれる様子もなく、自然な素振りで亜樹は言った。

「――紹介しよう、今日我が南所の侍女として任に付いた螢火(ほたるび)だ。よろしく頼むよ」

 亜樹に促されて沙羅の前に進み出た女子を見て、沙羅はドキリとした。

 柔らかくウェーブを描いた髪を長く伸ばして伏せ目がちに微笑む娘は今まで見てきた亜樹の側女のどれとも比べようのない気品に満ちていた。ゆるやかに顔を上げた螢火はまさに咲きほころんだばかりの大輪の花のごとく微笑む。そこには愛される者の満ちあふれた幸せが宿っていた。

「沙羅様……お話はかねがね伺っておりますわ。本日より亜樹様のお側に上がる光栄に授かりました、螢火にございます。ふつつか者ではございますがどうぞよろしくお願いいたします……」

その一連の行為に飲まれそうになるのをかろうじて踏みとどまりそうになりながら、沙羅は必死に次の言葉を探した。だが型どおりの言葉すら、口に浮かばない。それが敗北を意味していると思うとさらに情けなくなった。

「じゃあ、沙羅。東の庭を案内して戻るから……さあ、行こうか、螢火」

 亜樹が自然に螢火の手を取り、天寿花の林へと入っていく。そんな一部始終を沙羅は呆然と見送っていた。

 

「相変わらずのお手の速さでございますわね……」
  いつの間に戻っていたのだろう。傍らに立つ多奈が憎々しげに呟いた。

「姫様……あの女子、ただ者ではございませんわ。何でも翠の君様が御身ずからお選びになった方だそうで……どうも亜樹様には従妹様に当たられる御身分の方とのことです」

「そうなの……どおりで」

 あの優雅な身のこなしも、竜王の姫君である沙緒を前にして臆することなく挨拶をこなす様も頷ける。それに……従妹、と言えば、身分上はともかく亜樹にとっては沙羅も螢火も同じ位置づけになるのだ。

 沙羅は重ねを翻して亜樹達の消えた林に背を向けた。茶色がかった長いまっすぐな髪が勢いよく宙を舞う。誰からも誉められる美しい髪……しかしそれこそも何の効力もない。大切な人をつなぎ止めるにはあまりにも儚い限りだ。

「……あ、沙羅様」
  慌てて多奈は後を追う。

 

 これは予感。

 何もかもがあの新しい側女に叶わない気がしていた。刹那。大きな鉛が心の奥深くに埋め込まれたことを感じる。どうしてそんな感情が起こってしまうのかすら、その時の沙羅には分かりかねていた。


「紺瑠璃(こんるり)」…紺色の瑠璃のような色。濃い紫みの青。仏の髪や仏国土などの色として経典に見える。【色の手帖(小学館)より引用】
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