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…沙羅の章…

其の十一◆萌葱溢ルル野ニ(もえぎあふるるのに)

「…あれ? 沙羅は?」
 翌日、往診から戻った湊が渚に訊ねた。

 午前中は畳の部屋でせっせと刺しものをしていたはずなのに、いなくなっている。

「その辺まで歩いてくるって。昨日も何人かの人に挨拶したけど大丈夫だったから」

「あ、俺もすれ違う人ごとに聞かれたよ…本当に狭い村だからもう全員が沙羅のこと、知っているんじゃないかな?」

「…そうだ、湊くん」

 荷物を降ろした湊が振り向く。

「何?」

「湊くんが高校生の頃とかに使っていた、歴史の資料集はないかしら?」

「…何だよ、突然」
 渚の言葉に府が落ちないように湊は首をかしげる。

「沙羅ちゃんの、海底の国の話を聞いていてね…何だか、「源氏物語絵巻」とかその辺に似ていると思っちゃったのよね。もしかすると沙羅ちゃんの住んでいたお家もああいう寝殿造りのお屋敷なのかもと思って…「平等院鳳凰堂」とか、確かカラーで載っていなかった?」
 渚はうきうきと楽しそうだ。

 …能天気な奴だなあと言うように、湊は軽くため息をついた。

「奥の部屋の本棚に教科書はまとめてあるから…見てみる?」

 奥の部屋…滅多に渚も足を踏み入れたことのない湊の両親が過ごした場所。続き間になっていて後の間には仏壇も置いてある。

「毎朝、お線香を上げたり、お茶を変えたりしないの?」と、渚が聞いたことがある。しかし湊は何も言わなかった。湊が継ぐ前にこの診療所を守っていた両親のことも、村人に聞いて知っているだけだ。

「沙羅ちゃんの…親戚の方とか…どうにか探せないかな…」
 本棚を改めながら、背中で湊に訊ねる。

「…親戚なんて、今更、探してどうすんだよ?」
 湊の方も本棚を指で追う。資料集なんて一体どんな本だったか、思い出せないので背表紙で見つけるしかない。

「…また、そんな風に冷たい言い方して」
 渚はくるりと向き直る。

「だって、沙羅ちゃんのお母さんのこと、お家の方はきっと亡くなられたと思っているでしょう? 彼女が生きていて、その子があんなに大きくなっていたりしたら…きっと、喜ばれると思うんだけど」

「今更、聞かされたって、どうなることでもないよ」

「そんなこと、本人じゃないと…分かるわけ、ないでしょう?」

 渚が自分の方を向いているのは多分気づいているのだろう、それでも湊は本探しを淡々と続けている。渚の話も聞き流している、と言った感じだ。

「湊くん!!」

「…見つけた」
 叫んだ渚に対して、口調も変えずに探し物を差し出した。

「見つかったんだから、いいだろう? ここは苦手なんだ、早く戻ろう」

「あなたは…」
 渚の声がふるふると震えている。

「どうしていつも、そうなのよ!! 落ち着き払っちゃって、何様のつもりなの? 沙羅ちゃんだっていつまでもここに置いておくわけに行かないでしょう? それとも何? 湊くんが拾った縁で一生面倒見ると言うの!?」

 ばん、と本棚をこぶしで叩いていた。

「きゃあ!!」

 驚いて振り向いた湊と渚の間になだれのように本が崩れ落ちた。幸い作りつけの本棚なので崩れたのは本のみ。

「大丈夫か!?」

「う…うん…ごめん」

 ずいぶん古い本までが崩れたのだろう、もうもうと埃が舞い立つ中で渚は呆然としていた。

「あ…あれ?」

 赤い表紙の古いアルバム。そこからはみ出た写真…

「これ…湊くん…」

 渚の視線に気づくと。彼はするりと部屋を出て行った。

 

 

 その野原には一面に蒲公英が咲き乱れていた。春の盛りでまぶしい日差しを浴びたそれは鮮やかに照らし出されている。
 海底の国には蒲公英はなかった。純粋な黄色の群集を見るのは沙羅にとって生まれて初めて。気の早い株が綿毛を付けてふわふわと飛ばしているのももの珍しい。海底では水の中でこんなにふわふわと綿毛が舞うことはないだろうし、咲いたとしても黄色味が淡くなってしまうだろう。

 目に映るものは全て珍しかった。心に焼き付けてしまいたくなる。

 

 昼前は刺しものをしていた。湊と渚に厄介になっているお礼がしたかった。

「それなら、風呂敷にしてもらえるかしら?」

 渚がきれいな桃色の四角い布を出してきた。手毬の模様が印刷されている。

「…こうやって、4隅を結わくの。だからあまり端には模様はいらないかも? 沙羅ちゃんはその刺繍の腕で、食べていけそうね…」 
 くすくす笑い。それでも昨日の浜での寂しい表情が忘れられない。湊の前ではおくびにも出さないあの憂いを含んだ瞳。

 刺しものをしていると、どうしても竜王宮殿での生活が思い出される。そして、…ずっと手がけていたあの上掛け…

「多奈は、南所にちゃんと届けてくれたかしら? …亜樹は式典に着てくれるのかな…」

 自分でもあの上掛けは頑張ったと思う。何しろ針を持ってからずっと携わってきたのだ。あれを刺さない日が来るとは信じられなかった。

 遠い記憶の中で…東所にいた頃の亜樹だったら、あの上掛けを手にして喜んでくれる姿が想像できる…でも今の亜樹はどうか分からない。
 元服の日を境に人が変わってしまった亜樹。最初は驚いたし、何か気に触ることでもしたのかと色々気をもんだ。でもそのうちにそれが当たり前になってしまう…亜樹と自分の間に流れる冷たいものが日常になってしまった。

「お待ちしておりますよ」

 あの日…占いおばばの祠から戻る途中で、確かに亜樹はそう言った。

「どうぞ、ご心配なく南所にお出で下さい…姫君を歓迎いたしますよ」

 あの時は。亜樹の思いがけない行為に気が動転していた。心臓も胸から飛び出る程だったし、頭の中もぐちゃぐちゃになってしまっていた。

 今も。唇に手を当てると震えている気がする。

 …でも…

 亜樹は自分のものにはならないのだ。それを思い知ってしまった今は…

 無心になって取り組めると思っていたのに、刺しものの最中に色々と考えてしまう。全てが嫌になって、出てきたはずなのに…今でも亜樹の顔が浮かんでくるなんて、どうかしている!!

 

 ため息をついた沙羅にここを教えてくれたのが渚だった。

「ちょっと…そこの…」  

 背後から、声をかけられてびくりとする。 
 恐る恐る振り返ると、昨日のお店のおばあさんが立っていた。腰を曲げて木の杖をついている。

「こんにちは」

 多くは語らなくていい、誰かにあったら挨拶をしてれば…そう教えてくれたのも渚だった。
 一度、ぺこりと下げた頭を再び上げると、老婆は泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。

「あの…」

「…沙緒ちゃんっ…!?」

 そう言った途端、おばあさんがその場にしゃがみこんでしまったので、沙羅は慌てて駆け寄った。

 心臓が高鳴る。

 …どうして? …母上の…名前?

「おばあさん? …大丈夫!? どうしたの?」

 彼女はしばらく苦しそうに喘いでいたが、ようやく落ち着いてきたらしく絞り出すような声を出した。

「…ああ、声まで似ている…」

「どうします? …湊さんを呼びましょうか!?」

 沙羅の細い腕にもすっぽりと入ってしまう様な小さな体…信じられないくらい軽かった。

「大丈夫…」
 老婆は沙羅の手を支えにどうにかその場に腰を下ろした。

「私には…心臓に持病がありましてね…いつものことなんですよ、もう大丈夫です」

 それからハッキリした視線で沙羅を捉えた。海底人だとばれたらどうしようと胸が高鳴ってしまう。

「あんたは…湊先生の、親類の者だと言ったね」

「はい…」

 狭い村では話がややこしくなるので、手っ取り早くそういうことにしようという口裏合わせが行われていた。

「沙緒ちゃんの…訳ないんだけど…どうしてこんなに似ているんだろうね、血筋かな」

「あの…沙緒…さんて? おばあさんのお知り合い?」
 出来るだけ、平静を保って訊ねる。

 でも、老婆の口から出てきたのはあまりにも信じられない言葉だった。

 

「沙緒ちゃんは…私の幼なじみ…仲の良い友達だった」

 沙羅はしばらくの間、自分が呼吸することすら忘れていた。

 

 どうして…このおばあさんが母上の友達…? 母上は生きていたとしたら…今、お幾つになられただろう。でも、まさかおばあさんにはならないな、父上だってまだお若いのだし。

 悪いと思いつつも、ついおばあさんを凝視してしまう。しわしわの顔…小さくなった手、細い腕…。

 それでも…「沙緒」という人が自分と似ていると言うことは本当らしい。母のことで知っているのは「沙緒」という名と…自分と似ていると言うことだけ。もしも別人だったとしても…親しみを持ってしまう。

「おばあさん、その話…良かったら聞かせてくれませんか?」
 なるべく自然に、ようやくこう訊ねることができた。

「ああ…」
 老婆はしわがれた小さい手で自分の顔を覆った。

「沙緒ちゃんは…沙緒ちゃんは…私が殺したも同じなんだ…」
 手のひらの下から涙が溢れ出ていた。

「…ごめんなさい、おばあさん。無理しないで、話さなくていいから…」
 沙羅は慌てて老婆の肩を支えた。

「いいや…」
 彼女は静かに首を振った。

「聞いとくれ、お嬢さん…今まで誰にも話さなかった…今になっては私以外に真実を知るものもない…」

 

 …私たちはこの小さな村で生まれた時から一緒だった。沙緒ちゃんは小さな頃からはきはきした明るい子で頭も良かった。色白のきめ細かい肌に茶色がかったやわらかい髪…澄んだ瞳…女の私から見てもときめいてしまう様な美しさだった。

 高校はふたりで街まで歩いた。…戦後の混乱…自転車なんて金持ちしか持ってなかった。1時間以上かかる長い道のりも沙緒ちゃんが一緒だったら、楽しかった。とにかくよく笑う明るい子で…そのくせ、人の心を察するのが上手かった。…もちろん、恋人だっていた。あいつは生徒会長、沙緒ちゃんは生徒副会長…まあ、お約束だろうね。

「…恋人…」
 沙羅は息を呑んだ。そうだったのか、母上にはちゃんと陸に…

「で、その人と別れちゃったの?」

「…そんな、簡単なことじゃない…」
 老婆の声は一段と低くなった。

 その頃、村には元地主の…地主だったのは戦前の話なんじゃがな…威張りくさっとる輩がいた。金の力に物を言わせて、自分の思うままに村人を動かしていた。

「そこの…やさぐれ息子が…金だけで入れる大学を出て戻ってきた。父親の事業を継ぐためにな。そいつが…よりによって、沙緒ちゃんに目を付けたんじゃ」

 …もちろん、沙緒ちゃんはそんなものの言いなりになんてならなかった。
 その頃、私たちは高校を出てそれぞれの進路を選ぶことになった。私は自分の家が店をやっていたので、簿記の学校に行った。沙緒ちゃんは…本当は、上の学校に行きたかったのだろうね、でも家の家計を考えるとそういうわけにもいかないようだった。高校の担任なんかは嘆いていたね、東京の医大にだってすんなり入れるような実力を持って…結局、沙緒ちゃんは看護学校に行くことにした。

「本当に嫌になるわ、しつこいったらないの!!」
 久しぶりに帰りの時間が一緒になった。沙緒ちゃんはブックバンドでまとめた教科書を抱えて頬をぷっくりと膨らませた。

「昨日なんてね、夜にあいつの父親が家に来て…どうしたと思う? 札束を出したのよ、ボンと」

「…札束…」
 私は店屋の娘だったけど、そんなものは見たこともなかった。

「オタクの診療所は経営が苦しいでしょう? こちらで援助させていただきますよ…ですって! 馬鹿にするにも程があるわよね! もちろん、父さんは付き返したわよ、あんな汚れたお金、頂けますかっていうの!」

「昭(あきら)君は…なんて言ってるの?」  
 …昭って言うのが沙緒ちゃんの恋人の名前。浪人生だった。その名前が出ると、沙緒ちゃんはパッと頬を染めた。

「…もちろん、笑っているわ。私だって、昭君以外の人なんて考えられない! …でも、大学を出て…あ、まずは入る方が先だけどね…長いわよね。昭君は学校の先生になるんですって、そうしたらここに戻ってくるわ」
 あいつの名前を出すときの沙緒ちゃんはまぶしいくらいにキラキラしていた。

「だが…すぐに沙緒ちゃんの夢は…壊されてしまったんだ、昭が…あいつが村から姿を消してしまった」

 そのころ、昭の家は経営が傾いていて倒産寸前だった…そこに、あの薄汚い元地主、つけこんで…借金の肩代わりをしようと提案したらしいんだ。昭の父親は藁にもすがる思いでその条件を汲んだ。一家は村から姿を消すこと…そして。

「…昭は沙緒ちゃんから手を引くこと…」

「ひどい…」
 お金で人の心を買うなんて。そんなことはあっていいわけじゃない。それはお金なんてものを日常で使っていなかった沙羅でも容易に分かることだ。

「…でも、ひどいのはそれだけじゃなかったんだ…」
 老婆は諦めたような切ない表情で青い空を仰いだ。

 昭が去った後、沙緒ちゃんは表面上は明るく振舞っていたが、心はかなり傷ついていたようだった。よく、あの岸壁に佇んで泣いていた。私は声をかけることも出来なかった。何故って、もしも沙緒ちゃんは私が声をかければ無理にでも笑おうとするから。静かに泣かせて上げるくらいしか出来なかったんだ。

 …そして。

 老婆はまぶたを閉じた。

「…あの日、薄暗くなった細道を私は家に急いでいた。背丈より伸びた草が道の両端に枯れたまんま突っ立っている不気味な所だった。いつでもその場所は知らずに早足になる。もののけでも本当に出てきそうだからな…」

 叫び声がした。女の…聞き覚えのある。こんな場所で…まさか。

 次の瞬間に…私の目の前に何かがごろんと転がり出て来た。

「…今でも心臓がつぶれる思いがする、あの時を思い出すと…」

 私は驚きのあまりに倒れるかと思った。

「亜希子…」

「沙緒ちゃん…」

 驚いた、という一言では片付けられるものではない…沙緒ちゃんはブラウスもスカートも泥まみれで髪もほつれたすごい姿だったから。それに…ブラウスのボタンは無理に引っ張ったようにみんな引きちぎられていた。

「…あの…一体…」

 何となく…娘の私でも何が起こったか想像がついた。それが現実感としてハッキリさせられたのは次の瞬間に…もうひとりの人影が…現れたからだった。

「…抵抗するからだよ、ま、所詮は女だからな…。楽しませてもらったよ」

 血の気が引くとは…このことだと初めて気づいた。出てきたのはあのやさぐれ息子。

「これでお前は俺のもんだ、こうして証人もいることだし…」

 ぎらついた眼で見つめられるとこっちまでどうにかされそうな気がした。

「…違うの! 亜希子!! …そんな、そんなことしてないんだから!!」

「よく言うよ、この期に及んで」

 ふたりの姿を私はしばらく見つめていた。でも身体の奥底から湧き上がってくるものが抑えられなくなった。

「きゃああああああ〜〜〜!!!」

 どこからそんな声が出たのか分からなかった。快活な沙緒ちゃんに対して私は幼い頃から大人しやかな性格だった。引っ込み思案でもあった。でもあの時はまるで気が触れたような大声が腹の底から出てしまった。

 そのまま、家への道を一目散に駆け出した。振り向きもしなかった。ただ、ただ、恐ろしいばかりだった。

 

「…次の朝…早く、沙緒ちゃんがあの岸壁から身を投げたと聞いた。どうしてあのときに沙緒ちゃんを救えなかったのかと思ったら…」

「おばあさん…」
 沙羅はどうしていいのか分からなかった。ただ、老婆の肩を抱くことしか出来なかった。

「あの男はあの後、まるで鬼の首を取ったように沙緒ちゃんとのことを村中に触れ回ったらしい。沙緒ちゃんは家に戻って、あれは未遂で、自分は断じてそんなことになってないと両親の前で泣いて訴えたと言う…でも、今ならともかく…あの時代だからね。先生…お父さんも、こうなってしまった以上はあの男の元に嫁ぐか、さもなくばこの村を出るしかない、と言ったらしいんだ。だから、沙緒ちゃんは…」

 そこまで言うと。老婆は憑き物が落ちたかのようにゆっくりと微笑んだ。それからその眼をふわふわと飛んでいく蒲公英の綿毛に移した。

「…沙緒ちゃんの一件があった後…村人たちはようやく一丸となって元地主をこの村から追放した。昭は…沙緒ちゃんの最後を知った後…自殺したらしい。私はとうとう、嫁ぐことなくこの歳になってしまった。幸せになりそうになると…沙緒ちゃんの泣き顔が浮かんできて」

 沙羅は何も言えなかった。この老婆の話す「沙緒ちゃん」が母であると言う確証はない。しかしどうしても母であるとしか思えない。話が合いすぎている。

 それにしても。母の陸でのことが分かったと言うのに…何だろう、この後味の悪さは。

 沙羅は老婆の視線を辿って、自分も長いこと飛び立っていく綿毛を見ていた。

 

「これって…沙羅ちゃん…? まさか?」
 渚は震える手で色の変わった写真を拾い上げた。

「沙羅のわけないだろう? それ、人間じゃないか…親父の、姉貴」
 湊はいつになく乱暴な言い方で吐き捨てるように言った。

「伯母さんって…じゃあ、沙羅ちゃんは…でも歳が合わないわね。それにしても、似てる…」

「そんなもの、元のところに戻してきてくれよ。見たくもない…!」

「見たくもないって…湊くん、その言い方って…」
 ひどいじゃないの、と続くはずだった言葉は喉の奥で止まってしまった。

 恐ろしい形相の湊が渚を睨み付ける。

「沙緒伯母さんは…この家を不幸にした張本人なんだ!!」

 その言葉が湊の口から飛び出した瞬間…診療所の扉が開いた。

「あ…」 
 渚の声がかすれる。

 そこに立ち尽くしていたのは、…沙羅だった。


「萌葱色(もえぎいろ)」…芽が出たばかりの草木の色。黄緑。「萌葱」はネギ(葱)の萌え出る色の意であるが、後世の当て字。草や木の若芽が萌え出る色でもあるところから、「萌黄」「萌木」と書く。【色の手帖(小学館)より引用】
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