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…沙羅の章…

其の十二◆想思鼠〜ソレゾレノ心(そうしねず〜それぞれのこころ)
…前編…


 どんな、…言葉を発したらいいのか見当も付かない。
 たった今、扉を開けた瞬間に耳に飛び込んできた言葉が沙羅の心を突き抜けていた。

 目の前には、少し距離を置いた湊と渚が棒立ちのままでこちらを見ている。しばらくの間、声を上げるものもなく、三点を結んだ緊張の糸が張られていた。

「…沙羅、ちゃん…」
 無表情なままで何も語ろうとはしない湊を横目で見ながら、おずおずと渚が声をかけてきた。

 ただいま、と言えばいいのだろう…でも乾ききった口の中は声を出すことが出来ない。口元は自分の意志とは無関係に震えるばかりだ。

 

 先ほどまで聞いていた老婆の告白は沙羅の胸に深く響いていた。もちろん母が入水に至った原因もショックではあった。しかしそれだけでは済まされない、その後の周囲の人々が味わった苦悩に打ちのめさせられていたのだ。

 

 怯えるような瞳になった沙羅に対して、湊の視線は冷たく無機質である。心をどこかに置いてきてしまったように、沙羅を見下ろしていた。

「…あ、あの…」
 ごくごく小声で、ようやく絞り出す。膝がガクガクしてくる。

 目の前にいる人間たちは自分の倍近くの歳月を生きてきた者たち、父親といくらも歳が違わない。ただですら遠慮する間柄なのに、こうして嫌悪に近い視線を向けられていてはたまらない。 
 今まで生きてきた海底国での人生に置いて、冷たい視線も罵声も慣れすぎていたはずだった…なのに、どうだろう。この足下が地に着いていないような絶望感は…

 その声に反応したように、湊の声が再び狭い診療室に響いた。

「沙緒伯母さんが…あんな死に方をしたから、どんなにたくさんの人間が苦しんだか…」

「ちょっと、湊くん!!」
 言葉を遮るように、渚は叫んだ。でも湊の言葉を止めることは出来なかった。

「沙羅が…お前が倒れているのを見つけたときは…伯母さんの亡霊を見ているのかと思った。ぞっとするほど似ていた…もちろん、俺は伯母さんに直接、会ったことはない。あの人は…親父が小さい頃に…亡くなっていたからね、俺が知っているのは写真の顔だけだ。でも、あの人のことは聞きたくなくなるほど、繰り返し聞かされてきた…」

 湊はカツカツと靴底を鳴らしながら、沙羅の目の前を通り過ぎて窓辺に向かった。空はいつの間にか青の色が消え、沙羅の心中そのままに黒雲が覆い尽くしていた。窓の外に目を向けたまま、低い声で再び話し出した。

「…伯母さんが…あの岸壁から身を投げたとき…親父はまだ、10歳だった」

 沙羅の後ろ、開かれたままの扉から湿気を含んだ冷たい風が流れ込んできた。

 

 

 月の無い夜…黒々と渦を巻く荒い波の果て、どこから空になるのか見極められない。
 背中を向けてうずくまったままの若い女性…親父にとってはかけがえのない、歳の離れた姉。柔らかい明るい茶色の髪が流れた背中が小刻みに震えている。声を殺して泣いているのだろう…近寄りがたい雰囲気が辺りに漂っていた。

「…おねえちゃん」
 それでも、声をかけずにはいられなかった。

 両親の仕事は昼夜を問わず忙しく、急患が出れば診療所の医師である父親と看護婦であった母親は真夜中でも山を越えたところまで出かけて行った。そんな時にいつもそばにいてくれたのが、姉だったのである。いつも明るい笑顔で、時にはおどけて見せることもあり…両親の不在の寂しさを紛らわせてくれた。

 その姉が…こんなに打ちひしがれている。

 さっきまで両親と姉の間でどんな話し合いが行われていたか、子供の自分には把握出来てはいない。でも両親の言葉が姉を悲しませたのには違いない。…あんなに泣きじゃくる姉を見たことはなかった。

「…渓(けい)…くん」

 暗闇に白く浮き上がったカーディガンの背中が振り返る。真っ赤に泣きはらした目が痛々しい。それでも親父を瞳に捉えた彼女はゆっくりと微笑んだ。そっと肩に冷たい手が置かれる。

「こんなに冷えるのに…外に出ちゃ駄目でしょう? もう寝なさい、明日寝坊して学校に遅れると大変だよ」

 いつもの優しい響きだった。でもどこかが違う気がした。

「…おねえちゃん…逃げなよ…」

「…え?」
 姉は大きく目を見開いて、不思議そうな表情で親父を覗き込んだ。

「とうきょうに…昭にいちゃんがいるんでしょう? きっと助けてくれるよ! あんな奴のところにお嫁に行っちゃ、駄目だ!」

 元地主の息子が姉にしつこく言い寄っているのは知っていた。人を人とも思わない蔑む眼をした許せない奴…姉は昭にいちゃんと幸せになるはずだったのに、あいつがにいちゃんをこの村から追い出したんだ。渓は昭が好きだった。昭を想う姉のまぶしい瞳も好きだった。

 渓の言葉を聞いていた姉はゆっくりと微笑んだ。消えていきそうな淡い微笑み。

「…駄目よ、渓くん」 
 彼女は渓の頭を優しくなでた。

「渓くんは…大きくなったら、お父さんの跡を継いでお医者さんになるんでしょう? この小さな村にもお医者様は必要よ。…でも、今、私があの男に逆らったら…私たち家族はここにいられなくなる…」

「そんな…」

 大きな瞳に見つめられて、そこから視線を逸らすことなく、彼女はなおも続けた。

「渓くんは…きっと立派なお医者様になるわ、この村のみんなを助けてあげてね」

「…でも、おねえちゃんは、どうするの? …あいつのお嫁さんになってもいいの!?」

 …駄目だよ! 絶対それだけは駄目! 姉の両腕を鷲掴みしして訴えた。

「…お姉ちゃんは、大丈夫。ごめんね、渓くんに心配、かけちゃって」

 しっかり握りしめていたはずなのに…乱暴な素振りもなく、するりと姉の腕が抜けた。

「…もう、おやすみ。私はもう少し…ここにいるから…」

 姉の目に涙はもう無かった。ゆっくりと背を向ける…風もないのにふうわりと髪が宙を舞った。


 

「…翌朝、目覚めた親父は、沙緒伯母さんがあそこの崖から身を投げたことを知った。信じられない面もちで現場に駆けつけると、そこには綺麗に揃えられた靴と遺書が…」
 湊は忌々しげにカーテンを引いた。

 

「…親父は伯母さんの言葉通り、ここの診療所の医師になった。俺の母親は父がインターン時代に知り合った看護婦だった…」

 

 

 姉が入水した後の家は…火が消えたように冷え切ったものになった。父親は酒を過ごして暴れるようになる、母親はそんな彼の暴力に黙って耐えていた。診療所の経営は順調だったが…父親は始終、自分を責めていた。それは母親も…渓自身も同じことだった。
 沙緒がそこまで思い詰めていたとは誰も知らなかった。…思えば、昭が去っていったとき、彼女の中の何かが壊れてしまったのかも知れない。でも、…気づくことが出来なかった。

 

 

「診療所経営に陰りが出始めたのは…俺が生まれて、間もなくのことだった。山を越えた街に総合病院が進出して来た。立派な設備で…綺麗な建物、ここの患者もみんなそっちに流れていってしまった。開店休業状態が続いた…親父にはその病院から仕事の話も来た、…でも親父はここから出る気はなかった、信じられないほどにこのちっぽけな診療所に固執した…そのせいで、母とは口論が絶えず、とうとう母は…渚は村の人から聞いただろうけど、うちに出入りしていた業者の若い販売員と逃げてしまった…」

 沙羅は自分の身につけていた服の袖をぎゅっと握りしめた。噛んだ唇からは血の味がした。

「勝手に死んだ伯母さんは良かっただろうよ…でも、遺された者のことを考えたらそんな軽はずみなことはしなかっただろう。うちの家族だけではない、伯母さんの恋人だった昭さんだって…自責の念に駆られて自殺したそうじゃないか。…佐野の…おばあさんだって…」

 湊の食い入る様な視線が沙羅をじっと見据えた。

「…母親が出ていった後…仏前にあった伯母さんの写真を叩き割ったんだ。あの時の…おばあさんの悲しそうな顔が子供心に忘れられない。その後、おばあさんが伯母さんの写真をすべて俺の目に届かないところに片づけた。…忘れたかったのに…お前が…またこうして…どうして…」

 沙羅も湊の眼を見つめ返した。強い光を放つ瞳の奥が心なしか震えている気がした。

 

 大きく広げられた何かが遠く遠くに去っていき、支えるものの何もない空間が自分の周りを満たしていく。

 

「あの…」
 気を抜けばその場に倒れてしまいそうな心中のはずなのに、沙羅の透き通った声が湊にまっすぐに向かった。

「…少し…もう少し…、歩いて来ます」

 駆け出す気力すらなかった。体で支えていた扉がゆっくりと押し戻される力に逆らわず、自分の体をゆっくりと外に出した。

 ばたん、と扉が閉じた。

 

 

「…湊くん」
 責め立てるわけではない、渚の憂いを含んだ静かな声が湊の背中を叩いた。

 背を向けたままの湊は何も答えない。それには構わず、彼女は自分の上着を手にした。

「…沙羅ちゃんのところに、私、行って来るから…」

 渚が扉の向こうに消えた後、ようやく湊はくるりと向き直った。たいして広くもない見慣れた室内がどこまでも広がる未知の空間に見えていた。


 

 頭の上は灰をまぶしたような雲。影になった部分は漆黒に近い色で、そこから落ちてくる雨は墨のように黒いのではないだろうか…沙羅自身は「雨」と言うものが空から落ちてくるのだと言う事実を体感していない。どうして先ほどまでのうららかな晴空がこんな色になってしまったのか不思議だった。

 昨日のヤグルマソウの花の中に隠れるようにしゃがみこんだ。かさかさという音が耳をくすぐる。目前に迫る海の色も空の色と同じく灰の色に変わっていた。彩度を落としたうねりが崖下にぶつかって大きな振動をここまで伝えてくる。白いしぶきがやけに鮮やかに映った。

「…良かった、ここにいたのね」
 頭上から声が降ってきた。

「渚…さん」

「隣に座って…いい?」

 

 沙羅が何も言わずに俯いているのをそっと見て、渚は体ひとつ分のすきまを空けて、自分も赤紫の花の中に腰を下ろした。そして黙ったまま、視線を波しぶきの向こうに向けた。

 厚い雲に覆われていても、夕方陽の傾きは何となく感じ取れる。西の雲がうっすらと赤い色を見せていた。

 

「湊くんの言ったこと…ショックだった?」

 波音に消し去られそうな遠慮がちの声に沙羅は静かに頭を振った。

「…当然の…ことだから。母上がしてしまったことでたくさんの人が長い間…苦しんできたなら、それを責められたところで弁解は出来ないもの」

「沙羅ちゃん…」

 この世界の「音」はあまりに鮮やかに耳に届く。風に乗って伝わってくる渚の声は色々な想いを乗せてきた。

「私ね、駆け出しとはいえ一応医者だから…患者さんの臨終の瞬間には何度も居合わせたわ。事故や病気で亡くなる時だって、遺された肉親知人の悲しみは計り知れないわ…ましてや自ら命を絶ったとしたら…確かに肯定できることではないわね」

 ぴくん、と沙羅の肩が震えた。それを見てから、渚は再び話し出した。

「でもね…そうは言っても、いくら過ぎてしまった過去を悔やんだり、責めたりしたところで…なんの解決にもならないわ。もう、起こってしまったことは変えられないから」

 そうでしょう…? と渚は俯いたままの沙羅に視線で語った。

 

「私…陸に来たらいけなかったのかな?」

 沙羅は波の動きを見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「私が、湊さんの前に現れなければ…湊さんは「過去」を封印したまま、生きて行けたのに…」

「…そう言う風に、考えたら駄目でしょう? あのね、沙羅ちゃん…物事には「もしも」はないの、起こりうることにはすべて理由があるものなのよ。湊くんと沙羅ちゃんがこうして出逢ったことにも何かの必要性があったのよ…それにね?」

「…それに?」

 その時、初めて沙羅は渚の方に向き直った。二人の視線が合う…渚は静かに微笑んだ。

「湊くんは、「許す」ことを知っている人だから」

「…許す? …渚さんって、湊さんのことを何でも知っているようなんですね」

「…だてに10年も一緒にいる訳じゃないわ…、私、湊くんのこと、ずっと見ていたもの」
 渚のまっすぐな視線が沙羅に向かう。瞳の奥に何かが横切った気がした。

 

「あれは…大きな総合病院にインターンとして入った年のことだったわ。中年の女性が…湊くんを訪ねてきたの。地味な服装の大人しい女性だった。取り次ごうとしたけど…彼女を遠目に見た湊くんが、会いたくないって」

 渚は小さくため息を付いた。

「…仕方なく、お引き取りいただいたんだけど…その人、次の日も、また次の日も通ってくるのよ。病院のみんなも一体、何者なのかと思っていたわね。湊くんは聞いても黙り込んだままだし…で、半月くらい通った後、その人は諦めたのか来られなくなった」

 渚の話の合間に波の割れる音がする。

「それから、1週間ぐらいたってから…夜、喪服で病院寮の中庭に佇む湊くんを見かけたの。彼…泣いていた…その時、初めて気づいたの。…お母さん、だったのね…後から聞いた話だと、末期ガン…病気で死の間際だったらしいわ」

 そして、辛そうに額に手をやった。

「…私の気配に気づくと…湊くんはぽつりと言った、『間に合わなかった』って。一言だけだったけど、感情を表に出さない寡黙な人だから言葉の重みを感じたな。…多分…心の中ではとっくに許していたのよ、でもそれを伝えることが出来なかった。いくら悔やんだところで、死んだ人に心を伝えることなんて出来っこないの」

 渚は立ち上がると傍らの野生のヤグルマソウを何本か手折った。そしてそれを弔い花のように大きく海へと投げ込んだ。
 花は一本ずつバラバラになってしばらく波間を漂っていたが、やがて水底へと沈んでいった。

 その始終を見守った後、渚は再び沙羅の方に向き直った。そしてゆっくりと微笑んだ。

「…沙羅ちゃん、…許されたかったら…まずは許すことだよ。相手のすべてを世の中の諸々を…包み込んで心の中で許すことが出来たなら…その時、人は許されるのかも知れない。と、言っても現実はなかなか大変なんだけどね」

 そしてそっと手を差し伸べた。

「…帰ろうよ、湊くん、今頃…困っていると思うから。心配かけないうちに…」

「渚さん…」
 沙羅は泣き出しそうな眼で渚を見た。

「…母上は…病床にあって、時々ひどくうなされたそうなの…『ごめんなさい』…って繰り返していたって。ずっとその言葉は私や父上に向けられたものだと思ってたの…でも、もしかしたら…」

 思い出の中にうっすらと浮かぶ母の姿。優しい微笑み…でもいつもそれが儚げで痛々しい。

 沙羅の心中をどんな風に察したのか、渚は穏やかな声で答えた。

「…後ろを見ちゃ駄目、これからを見ようよ」

 そう言われても尚、躊躇する。母のしてきたこと、それによって悲しい人生を送らなくてはならなかった人々…湊の心の傷…。母親と瓜二つという自分の姿がどんなにか湊の心をえぐるであろう。そう思うともう戻れないような気がした。

 

「…じゃあ、もうちょっと、海を見ようか」

 さしだしていた手を引っ込めると、渚は困ったように笑って見せた。それから、崖の縁まで足元に気を付けながら進んでいって、そっと下を覗き込んだ。

「この場所は…昔から異形の者が上がる場所と言われて恐れられていたんですって。本当かどうか分からないけど、実際に姿を見た人もいるとかいないとか。昔の文献にはそれこそ、沙羅ちゃんの話じゃないけど…捕らえられて見せ物にされた人もいたというまことしやかな記述もある。…ここと、沙羅ちゃんのいた世界はつながっているのかな…さっき、沙羅ちゃんはもしかしたらここが嫌になって元の世界に戻っちゃうのかと思った」

「…それは…出来ないと思う、ここから飛び込んだところで戻れない確率が高いと思うの。私もおばばさまに二度と戻れないから、と言われた。途中で意識がなくなっちゃたけど…竜王の結界は時空を歪ませるみたい。だから陸と海底で時の流れが変わっちゃったのね…本当だったら、湊さんも渚さんも私よりずっと若いはずだもん」

 単純に計算しても、沙羅と湊は15歳くらい離れていることになる。それが年齢差が逆転しているのだ。3倍の速さの違いがある。

「じゃあ、沙羅ちゃんに薬を持ってきた人は? どうやって戻るの? …用事を済ませて、戻れなかったら困るでしょう」

「ああ、それは大丈夫なの」
 沙羅はにっこりと微笑んだ。少し緊張が解けてきたようだ。表情が明るくなる。

「おばばのところに…『護りの石』があるの。それを抱いて海に入れば…海底の国に導いてくれる…私は持ってこなかったけど」

 …すぐに戻ってくるようなら行かなくていい、門は開けないと言われた。当然だ。竜王の許可もなく禁を破るのだ、おばばにとってもどんな制裁が加えられるか知れない。

 

「何があったんだか…本当に、戻らないつもりだったんだね」

 自分よりずっと幼い…この地においてはまだまだ親のスネをかじりたい放題の年頃。そんな少女が何を思って故郷を捨てたのか、渚には到底、想像が付かない様子だった。

「……」

 海底の国のことを想うと、沙羅はまだ胸が痛んだ。捨てても捨てても捨てきれない気持ちが確かに心の中にある。それが無くなればどんなに楽か…でもそれこそが、自分の存在理由のようにも思える。

 

 目を閉じると…盛りの頃の天寿花の林が瞼の裏に浮かんでくる。…やさしい…悲しい色彩。

 

 その時…耳に届く呼び声がした。

 

「…湊くん…!」

 沙羅よりも早く、渚が声の主に反応した。

「…迎えに来てくれたの?」
 ホッとした、嬉しそうな声。
 
 しかし…湊の方は少し慌てた様子で、沙羅の方を見るとこう言った。

「…浜の方で…村の人たちが騒いでいる…異形の者が出たって。…沙羅が見つかったんだと思って…違ったんだ」


「想思鼠(そうしねず)」…近代以降の文学的な表現による色名らしいが、詳しいことは分からない。うすい紫みの青。【色の手帖(小学館)より引用】
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