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…沙羅の章…

其の十二◆想思鼠〜ソレゾレノ心(そうしねず〜それぞれのこころ)
…後編…

「…沙羅ちゃんはずっと私と一緒だったわよ」
 渚が戸惑ったように、瞬きをして答えた。

「じゃあ、…もしかして…」

 二人の視線が沙羅の方に向けられる。沙羅は青い顔をして震えていた。

「侍従が…陸の人に見つかっちゃったのかしら…」

 あり得ないことではない、陸の人間に運悪く見つかってしまうことだって無いとは限らない。そして…見つかったってしまったとしたら…。
 元は、と言えば自分の蒔いた種だ。それで自分に関わった人に危険が及んだりしたら…どうしていいのか分からない。

 ガクガクと震える沙羅の肩を湊がそっと支えた。

「…まだ、捕まった訳じゃないらしい。浜の奥は切り立った山林になっていて、そこに逃げ込んだみたいなんだ。今は日中だから幸い、人手が少ない。…もしかしたら…こっちが先に見つけられるかも、沙羅のことは侍従は知っているんだろう?」

「…ええ、もちろん」

 竜王の娘である沙羅の顔を知らない侍従など存在するわけない。

「じゃあ、沙羅が一緒にいた方がいいな」

 そう言うと、湊は沙羅の顔を覗き込んだ。それから、一息ついて…静かな声でこう言った。

「…ごめん」

 短い一言だった…でも肩から伝わってくる湊の手のひらのぬくもりが言葉以上のものを与えてくれた。

 渚がホッとしたように頷いている。沙羅もゆっくりと微笑み返すことが出来た。

「…早く、その場所に連れて行って下さい…村の人より早く、侍従の者を見つけなければ」

 その時の沙羅は小さな15の娘ではない、竜王の姫君の毅然とした表情に戻っていた。

 

 崖の左手を降りるとそこはなだらかな海岸線だ。沙羅が倒れていたのは崖の下の岩場だったらしい。

「…向こうの集落からは海岸伝いに戻った方が早いんだ。丘の道は遠回りだからね」

湊のオフロード・バイクは砂場でも平気で走れるらしい。…とは言っても、今は徒歩だ。バイクの音を立てたら散策中の村人に見つかってしまう。バイクの音を聞くと「湊先生だ」と村人は知ることが出来たのだ。

 

 杉林は海岸線をなぞるようにどこまでも深く広がっている。
 過疎の農村において手入れをする者もなく、荒れ放題の林だ。身丈より高いような枯れ枝が木々の隙間に折り重なっている。足下は枯れた草で覆い尽くされている。これではなかなか足を踏み入れたいと言う気にはならない。

「…捜索中…って、それにしては人気がないけど」
 渚が不思議そうにきょろきょろと、辺りを見渡した。

「…丘の方に応援を頼みに行っているらしいんだ…もしも異形の者が見つかれば、一大村おこしになるだろう…佐竹の親父さんが夢中になっているらしいよ」

「わ、それは…すごそう…」

 佐竹の親父さん、なる人物がどんな人なのかは分からない。でも侍従を見つけようと沢山の人がやってくるの見当が付く。その前に…どうにかしないと…。

 

 3人が恐る恐る松林の中に足を踏み入れようとしたその時、奥の方からガサガサと大きな音がした。

 一斉に音の方向に視線が寄せられる。

 次の瞬間に現れた姿に一瞬息をのんだ3人だったが…沙羅だけが、後の2人とは明らかに違った意味の驚愕の表情で叫んだ。

「…亜樹(アジュ)…!?」

 

 

 まさか…目の前にいる人物が本当にその人だとは信じられなかった。でもあちらこちらが破れた衣、片腕が破れ落ちて傷だらけの腕を露わにした姿にあっても、褐色の肌と赤みがかった髪…自分を驚いた色で見つめる深い緑の瞳の人物は見まがうはずもない。

 湊と渚も…彼の大きなエラの耳を見て、沙羅と同種族だと言うことに気付いただろう。

「…沙羅…?」
 信じられないような声を出したのは向こうも同じだった。

「なんで…あなたが…ここにいるのよ!?」

 沙羅の声に非難めいた棘を感じたんだろう、亜樹は怒ったように一瞬、こちらを睨むと、ぷいと視線を逸らしてしまった。

「ちょっと! 御公務はどうしたのよ? …式典は!? 皆は…知っているの? …何しにしたのよっ!」

 亜樹は何も答えない。
 なおも叫ぼうとした沙羅の背中から…渚のおずおずとした声がした。

「…沙羅ちゃん…あのう…もしかしなくても…お知り合い、だよね?」

 その時。

 向こうの方からどやどやと大勢の人の足音が響いてきた。

「まずい! …沙羅、村の人が戻ってきた。とりあえず、身を隠していて!」
 仰ぎ見た湊が早口に告げる。

「林の奥の…山のすそ野に横穴があるんだ、そこに隠れていて。あの人たちにはうまく誤魔化すから!」

 そして素早く沙羅の手に小型の金属の物体を握らせた。

「…携帯電話…使い方は話したよね、人気が無くなったら連絡するから…出て来ちゃ、駄目だよ。…さ、早く!」
 そこまで告げると強い力で沙羅を松林の中に押しやった。

「…沙羅! 早く! …見つかる!」
 小声だけど、鋭い命令調。すぐそこまで人気が迫っているらしかった。

 一瞬、思考が止まった。
 身体も硬直したまま動かない。

 そんな沙羅を見たのであろう、湊は素早く走ってくる人たちの群に駆けだしていった。

「…湊先生…!!」 
 人々の中心にいたのが「佐竹さん」だった。議員上がりのやり手で、村人からの人望も厚かった。70を有に過ぎていたか、ちゃきちゃきとした身のこなしは50代でも通りそうだ。

「先生も聞かれましたか? …すごいんですよ! うちの鈴木が見たんです。輝く衣をまとった異形の者を…すごいことですよ! この話が広まれば、観光客だって期待できます。なんとしてでも生け捕りにしたい! 今夜は夜を徹して捕獲に当たるつもりです」
 息も荒く、相当興奮している様子だ。

「…それでしたら…あっちの方にそれらしい影を見ました。崖の向こうの集落の中ですが」

「そうですか!? …有り難い、ありがとうございます!! …おい、何人かは浜に残れ! 後の者は私に付いてきなさい…」
 佐竹は大声で采配を振るうと、あちらに走っていった。

 でも、浜には10人ほどの人間が残っている。

 木の陰から見ていた沙羅に気付いた渚が「早く行きなさい」と眼で合図した。

 

…それでも。沙羅はどうしていいのかまだ分からず、立ちすくんでいた。

 これで目の前に現れたのが侍従であったら、迷わず湊が言った場所へと向かったであろう…でも、どうして…亜樹が…亜樹なんだろう。

 沙羅にとって…心の中から排除したかった…ただ一人の存在…。

 ふいに。戸惑っている沙羅の手を亜樹が引いた。

「…何、するのよ!?」
 ごく小声で叫ぶ。

「…とにかく、言われた通りにするしかないだろう!?」

「放しなさいってばっ!?」

 …振りほどこうにもあまりの力の強さに抵抗がきかない。目の前に立ちはだかる木々たちの間を縫うようにして、亜樹は林の奥へ奥へと沙羅を引っ張って進んでいく。

 かすかでも音が響いてしまう。それを誤魔化すために湊と渚が浜の人間の注意を引いてくれているのが感じられた。風に乗って緩やかに会話が聞こえてくる。

「助かったな…」

 走る背中から亜樹の声が飛んで来る。

「俺、あいつらに姿を見られているんだ…後ろ姿でも…見られたら、おしまいだ」
 
沙羅は背筋が凍り付いた。

 自分は帽子を被っている、渚の服を借りているし…湊の親戚だと素性も確かだ。

 でも亜樹の方は…身に付けた衣もさることながら、髪の色も瞳の色もこの村の人間たちとは全く違っている。それだけでも「異形の者」と思われるのに十分だ。

 

 辺りがだんだん暗く、枝たちはさらに鬱蒼とした怪しい雰囲気を強くしていく。乾いた空気を吸い込んだせいかぜいぜいとした呼吸が激しくなり、もう立っていられないと思えてきたとき…目の前に切り立った山肌が現れた。

「あれかな…?」

 そう呟いた亜樹の声がかすれているのに気付いた。走ったせいもあるだろうが、呼吸もひどく荒い。

 沙羅はふと見上げた…眼に飛び込んできたのは 、紫に近い色に変わった亜樹の顔だった。

 え? …と思った瞬間、ぐらりと彼の身体が揺れた。

「…亜樹!? どうしたのよ!」

 慌てて支えた沙羅にぞっとするほど冷たい身体がのしかかってきた。

「…とにかく、中に入ろう…」
 傾いた体制を立て直すと、亜樹はしっかりとした口調で言う。でも声そのものは本当に辛そうだ。

 一歩足を踏み入れる。なぜかどこからか磯の香りがした。

 洞窟の中は浸み出た山水で苔が生え、ぬるぬるしていた。足場も良くないし、何より入り口から向こうは暗闇で何も見えない。

 歩き出した足がすぐに止まってしまった。…どうやって中に進んで行けばいいのだろう?

「ちょっと…いい?」

 そう言うと亜樹は沙羅の肩に自分の左手を置いて呼吸を整えた。それから右手を手のひらを上にして広げ、小さく何かを唱えた。すると沙羅の顔の前に明るい光の珠が浮かび上がった。ちょうど灯り取りの燭台のように辺りを暖かく照らし出す。

「すごい…」

 自分の顔が暖かい光にてらてらと当たっているのを感覚で感じ取った。

「…良かった、陸でも作れた」
 ホッとしたようにそう言った亜樹の身体が、またゆらりと倒れかける。さっきよりももっと体温が無くなった気がする。

「亜樹…?」

「もう少し、奥に行かないと…」

 そう言いながら、彼はうずくまったまま動けなくなっていた。
 さっきの行為が彼の身体にひどい負担になったのだろう。

 

 自らが作り出した光に照らし出された亜樹の姿を見て、沙羅は血の気が引いた。彼の露わになった腕にぽつぽつと紫の斑点が浮かんできていた。

「…これ…」
 いつか聞いた多尾の言葉が脳裏に甦る。…『この地の者にとって…陸の空気は濃すぎるんです。気分が悪くなって…半日もすれば呼吸をすることも困難になって死に至ります』…

「…お前、すごいな…本当に。陸の血を引いていると、この乾いた気の中で全然平気でいられるんだもんな…」
 かすれた声で喘ぎながら、亜樹は言った。

「…何しに、来たのよ」
 そんな亜樹をじっと見据えて、低い声で沙羅は言った。それはここに至るまでずっと心の中を満たしていた疑問の心に他ならない。

「私を…連れ戻しに来たの? 婚礼の儀にいないと困るから? …だとしたら、私は戻らないわよ!」

 そうだとしても。亜樹本人がわざわざ出向くなんて、どうかしている。訓練を受けた侍従たちとは異なり、屋敷生活の長い亜樹にとって、「陸」での身の置き方など分かるはずもない。無鉄砲に走ればそれだけ早く体力は消耗し、禁断症状は早く出てしまう。

「…馬鹿言え…儀式なんてとっくの昔に終わったよ」

「…そうなの」

 また、時空の歪みが生じたらしい。今度は海底の時間の方が早く流れたようだ。…ちょっと気抜けする。

「…大体…どうして逃げ出したお姫様をわざわざ連れ戻すんだよ。お前が戻らないと言うことぐらい分かってる」

「じゃあ…どうして…」

 こんな危険な真似をして、と言う表情の沙羅をムッとした顔で亜樹は睨み付けた。

「どうしてって…お届け物だろ? ほらよ、おばばにお前が頼んだもの」

 ぽおん、と何かが亜樹の手から飛んだ。両手で包み込むように受け取る。

「…これ?」

 茶色いガラスの瓶にコルク栓がしてある。片手に包めるほどの小さな小瓶。中には黒っぽいねっとりとした液体が入っている。

「おばばが、言ってた。丁度、仕上がったところだからこれから侍従に申しつけて陸へ届けさせるって。…だったら偶然、居合わせたんだし、俺が届けても同じかなと思って」

「同じかな…って」

 そんな軽々しく言っていいものではない。次期竜王が禁を破って「陸」に上がってしまうなんて…あってはならないことだ。

「…私、あなたに持ってきて欲しいなんて思ってなかったわ、侍従の誰かで良かったのよ。早く…あなたを海底に戻さないと…でも、浜の周りには村の人たちが囲んでいるだろうし…」

 沙羅は頭が混乱してきた。どうしたらいいのか分からない。せっかく待望の薬が手に入ったというのに…これを飲めば、「陸」の人間として支障無く生きていけるのに…。

 

「…飲めよ」
 亜樹は強い視線でこちらを見ていた。

「え…?」

「飲めよ、俺はお前が人間になるところを…見に来たんだからな」

 米粒ほどだった斑点はそれぞれが合体するようにみるみる面積を広げていく。亜樹の手の甲まで一面に紫色で染まっている。言葉をひとこと発すること自体が大きな負担になっているはずだ。その声もだんだんと息の方が多くなり、聞き取りにくくなってきた。

「…人間になるところって…海底に戻って、笑い者にしようという訳なの!?」
 苦しそうな姿を前にして、なおも憎まれ口を叩いてしまう自分が情けなかった。

「…いらない、こんな薬! 亜樹が飲みなさいよ、呼吸が楽になって何日かは生きながらえるそうよ。人気がまばらになったら浜に出て、『護りの石』で導いてもらって戻ればいいわ。私は後日また、誰か他の者に届けてもらえばいいから」

 

 涙が滲んできた。そうだ、人間になるのが多少遅れるぐらい何でもない。亜樹は次期の竜王だ。なんとしても無事に海底の国まで戻ってもらわないと行けない。皆に申し訳が立たない。

 

 しかし。亜樹の方は薄く微笑みながら首を横に振った。

「…聞いてなかったんだな…この薬は…占者が一生に一度しか調合できない秘薬なんだ。今回、使ってしまった薬草は…おばばが死んでも、よほどたたないと成樹に育たないんだって」

「え…」

「それに、『護りの石』…そんなもの、持ってこなかった」

「…何ですって!?」
 沙羅は驚きのあまり、もう少しで瓶を落とすところだった。

「…じゃあ、あなた、どうやって戻るつもりだったの!? 護りの石がなかったら海に飛び込んでも戻れないのよ? それは竜王の力を持っても同じことでしょう…」

「…もう、戻るつもりもないから」

「え…何で…」

 意味が分からない。

 しかし亜樹は沙羅の問いには答えようとはせず、血の気の引いた顔で睨み付けて来る。

「早く、飲めよ。…分かっただろう? 俺の命を助けたところでもう、海底には戻れないんだ。だったらお前が念願の陸の人間になれば、いいじゃないか…?」

「そんな…」
 ひどい、そんなことを言われたって…どうしたらいいのか分からない。

「お前が人間になったら、俺の身体を陸の人間の前に持って行けよ。いい見せ物になるだろうよ…早く飲めよ!! …畜生っ…眼がかすんできた…」

 目頭に手を添える。その手もけいれんを起こし始めていた。

 沙羅の手も震えている。それは目前の同種の者が死に至ろうとするのを目の当たりにした恐怖からだった。小瓶の少量の薬だ。たやすく飲み下せるだろう…でも…。

「飲めって! 言ってるだろう! …早くしてくれよ、…」

 亜樹はどこにそんな力が残っていたのか、片手で沙羅の肩を抱くと、一方の手で薬瓶を奪い取った。栓を抜くと沙羅の口元に持っていく。

「…この薬を持っていけば…お前にもう一度、会えると思ったから…だから、来たんじゃないか!?」

 振りほどくことも出来なかった。
 ねっとりした甘酸っぱい液体は沙羅の口の中に残らず流し込まれた。

 瓶が空になったのを見届けると、亜樹の両手は急に力を失ってがっくりと落ちた。


「想思鼠(そうしねず)」…近代以降の文学的な表現による色名らしいが、詳しいことは分からない。うすい紫みの青。【色の手帖(小学館)より引用】
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