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其の十三◆秘色ノ残影…(ひそくのざんえい…) |
…ずしり。
自分の左肩にのしかかったものが亜樹(アジュ)の身体だと言うことを、分かっていてもなお、信じられなかった。 それが自分の鼻先をスローモーションのように流れたときに、利き覚えのある香りが立った。 …合わせ香だわ… 沙羅は口をきつく閉じたまま、膝の上のものを見下ろした。 ゆさゆさ。 言葉のないまま、それを揺すってみる。意志のない人形のような身体がごろりと仰向けになった。 本当に、…本当に、事切れていくのだろうか? 竜王の結界が張られているとはいえ、やはり海底に棲む者だ。自分が何ともないので、こんなに生粋の海底人にとって「陸」が恐ろしい場所であるとは分からずにいた。 …それを知らなかった訳ではあるまい。 冷たくなった額に張り付いている前髪をかき上げて、耳の下の辺りに手をやった。
沙羅は。 そっと目を閉じると…しばらくそのままの姿勢で静止した。 そして、再び目を開く。迷いはない。 微かな笑みを口元に浮かべたまま、上体を静かに前に倒していく…色素を無くして透き通った白に変わった亜樹の唇に自分の唇を重ねた。
自分の。心臓の音だけが頭の奥に響き渡る。呼吸よりずっと速いその速度に胸が張り裂けそうだ。 いくらかの時間が過ぎて、亜樹の身体がコクリと一瞬、動いた。 その微かな振動を唇が感じ取ったとき…はっと我に返る。
…何故だろう…? 額が妙に重い…。 真っ白に霞んだ視界がゆっくりと角度を変える。すべてが白くなる一瞬前に何かを見た気がした。
「…沙羅」 「もう起きなさい…朝ですよ」 遠い…遠い記憶の果ての声。 「いいじゃないか、もう少し静かに寝かせて置いてやろう…」 「…よろしいでしょうか?」 「多尾の話だと、昨日、遅くまで休めなかったようだ。何でも月の形を確かめると言って…」 「…月の、形…まあ、何でまた…」 「誰か…侍女のうわさ話を小耳に挟んだらしい。真夜中に水面が揺らぎを止めると月の形が見えると…」 「そんな…そんなことがございますか?」 「無理だろうなあ…私も一度も見たことがない、東の祠のおばばも同じように申すであろう」 「…まあ」 くすくす。 明るい笑い声が重なり合う。 「では…今少し…。せっかくお父上がお戻りになったのに…、お土産を見せたらどんなにか喜ぶでしょう」 優しい音が遠ざかっていく…目を開けなくちゃ。 そう思ったとき、他の方向からまた同じ声がする。 「沙羅…」 ああ、どうして目が開かないのだろう…? 「あなたは幸せになるのですよ…」 そう言いながら優しく髪をなでられる。 「どこにいても…誰といても…幸せになれるの。だって、幸せの素は沙羅の心の中にあるんだもの。…忘れないで…心をちぎって生きないで…」 脳裏に白が強く焼き付く。そこから透明な光が絶え間なく流れ出てくる。眉間に痛みが走った。
「…沙羅!」 ようやく開くことが出来た視界のすぐそこに、見慣れた顔があった。 「…亜樹…」 体勢が逆になっている、自分の身体が亜樹に支えられていることに気付いた。 「どうしてお前が倒れるんだよ、まさか陸の大気が身体に合わなくなったとか?」 「…ごめんなさい、もう、大丈夫みたい…」 上体を起こして気付く。いつの間にか帽子は取れ、結っていた髪もほどけていた。 今更ながら羞恥心が芽生える。 今日はきちんと紅も付けてない。
「沙羅、…お前…」 ビクンと身体が硬直した。 「自分では飲み下さないで…俺に薬を飲ませたんだな? どういうつもりなんだよ!? …こんなことしたって、何の得にもなりゃしない、どうせまた少しすれば症状が出てくるんだ。ちょっと命が長らえたところで…」 「だって…」 「亜樹が、死んじゃうと思ったんだもの…」 そうなのだ。亜樹に強引に口に流し込まれたおばばの秘薬。 「でも、いくらかの間は元気でいられるはずだわ、そのうちにあなたが海底に戻る方法を考えれば…」 「馬鹿っ!!」 大きな怒鳴り声にはっとして顔を上げる。 「お前、陸の人間になれないじゃないか!? 何のために俺が薬を届けに来たんだよ? …目先の同情に引っかかって、すべてを台無しにしていいのかよ!?」 「でも…!」 「亜樹の命には代えられないじゃない!? …陸の人間みたいになれなくたって、私は生きていけるわ。でも亜樹は今死んじゃったらおしまいなのよっ!? …次期竜王がいなくなっちゃったら困るじゃないの!?」 「…だから…! もう、戻るつもりはないと言っただろう? 次期竜王なんてまた仕立てればいいだけだよ、誰だってなれるんだ。でも薬はもう手に入らない、どうするんだよ? …吐き出そうにも…」 そう言うと亜樹は自分の身体を改めて眺めていた。沙羅の視線も同じように亜樹の姿を捉える。
着ている衣や髪は乱れているものの、赤髪も射抜くような濃緑の瞳も生命がみなぎっていた。体中を覆い尽くした黒紫の斑点も跡形もなく消えて、顔色も元通りの褐色に戻っている。薄暗い洞窟の中、淡い光に照らされていてもその生命力は迫り来るほどだ。…おばばの薬の効力だ。
「…どうした?」 頬を生ぬるいものが静かに下降する…輪郭を伝ったそれがぽたぽたと手の甲に落ちてきたとき、沙羅は初めて自分が泣いていることに気付いた。 …リン… 深い洞窟の奥まで微かな音が響いた。 「…あ…」 これは…遠い昔から肌身離さず持っていたもの。海底を出るときもどうしてもこれだけは手放すことが出来なかった。 「…なんだ…」 「お前も、ちゃんと持っていたんだ」 そう言って彼が懐から取り出したのも…同じ、鈴の付いた匂い袋だった。でも色が… 沙羅は驚いて目を見開いた。 「…何故…亜樹が、同じものを持っているの…?」
「…覚えてないのか…?」 「これは華繻那様の…お土産だったんだ、俺と沙羅に…お揃いで…」 「そうだったの?」 知らなかった。物心付いた頃には当然のように身に付けていた。 「じゃあ」 「交換したことも覚えてないんだな?」 「交換?」 「…これ、本当は華繻那様、紫を沙羅で、緑を俺に持ってきてくれたんだ。でも、沙羅が緑の方がいいって…」 ごくごく幼いときのことなのだろう。3歳年長だった亜樹の記憶にはあっても自分の中には残ってない。 「…緑が俺の瞳の色、紫は沙羅の瞳の色…離れていても一緒にいられるようにって…何だ、覚えてもいなかったのか。…いいんだけどさ」 「…ねえ、ところで…これの中身を見たことある?」 「いや…開けちゃ駄目だと言われていたから…」 「私も、なの…でも匂い袋なのにあまり香らないし…変だなあと思っていたのよ。開けてみない?」 「いいけど…」 それぞれがきつく縛られた紐を解く。爪の先で少しずつ解いていくと…いくらかたつうちにするするとほころんだ。 「あ…」 「…母上…」 一体…誰が、いつこんなものを忍ばせたのだろう? …肌身を離したこともないのに、寝入っている間? …まさか、最初から? 胸が詰まって顔を上げると、亜樹の方は呆然としたようにこちらを見ていた。 「…これ、…」 それは他でもない「護り石」であった。
「凄い! あったじゃないの!? …これで戻れるわ! 後は浜に陸の人がいなくなったら…」 「おい…」 亜樹が何かを言いかけたとき…けたたましい電子音と共に赤いランプが点滅した。
「あ…」 「わ、沙羅ちゃん!!」 「良かった〜湊くん、携帯を渡して…電波が届かなかったらどうしようかと思っちゃったわ…そっちは大丈夫?」 「…は、はい…どうにか。あの、渚さん…そちら、人が少なくなりました?」 「それがね…夕方になって、どんどん人数が増えているの。野次馬も来て…何でもこれから何日もここで張っているみたい。出てこられる状態じゃないわ…」 「…そう」 「あ、沙羅? 洞窟まで着いてる?」 「湊さん!?」 「思い出したんだけど…その洞窟って、『竜王の祠』と呼ばれていたんだ。子供の頃、何度か探検したことがある。確か一番奥に祭壇があるんだ…何かが邪魔して、それには触れなかったけど…磯の香りがして…何か沙羅たちに関係あるんじゃないかな?」 「…竜王の…祠…?」 「俺たちももう少し人がまばらになったら、何かの言い訳して入ってみるよ。先に行ってみてくれる?」 「…う、うん!」
「…どうした? …何なんだよ? 独り言なんかぶつぶつ言って…。それ…音がしていたな…」 「離れた人と会話できる…陸の御道具なの」 「へえ…」 「…竜王の…祠?」 「うん、この奥にあるんだって…もしかしたら、何かあるかも? だって名前が…ね、行ってみよう!?」 沙羅はさっと立ち上がった。慌てて後に続く亜樹も水中と少しも変わらないように軽い身のこなしだ。まったくさっきまで死にかけていたのが嘘のようだ。 「亜樹、戻れるよ…本当に良かった! 私も肩の荷が下りるわ…」 その言葉に亜樹の歩みはぴたりと止まった。 「…肩の荷が…って…、もしかして、お前…戻らないつもりなのか?」 沙羅が立ち止まって振り向いたときには、2人の間にだいぶ距離があいてしまっていた。 「え…?」 「…だって…そのつもりで、陸に来たんだから…」 「そんな姿で…この地で生きて生きられないだろう? 誰かに見られたらどうするんだ!?」 「…分かってくれる人だっていたわ。これからだって…あの…きっと…」 沙羅は消え入りそうな声で反論する。自分の言っていることに自信がないのだ。 渚が、自分の容姿を見て見ぬ振りしているのを知っていた。異端の者だと思っている、自然に接していてくれるようでも。 俯いた沙羅の元に亜樹は大股に歩み寄った。 「沙羅…帰ろう、俺と。お前の国へ…」 強い力で片手の手首をきつく捕まれた。 「帰って、くれよ…」 沙羅は静かに顔を上げた。亜樹の視線と自分の視線が重なった。
深く吸い込まれそうなこの瞳を、目をそらすことなく見つめることが出来る日を…どんなにか待ち望んだであろう…でもそれは。それはあの夜に置いてきてしまった感情だ。 沙羅はゆっくりと微笑んだ。そして亜樹をしっかりと見つめて言った。 「…ごめんなさい…、私は、…帰らない」 |
「秘色」(ひそく)…染色で瑠璃色。明るい灰青。(1)秘色は、中国の越国産といわれる青磁の器も言う。唐代に、天子への供進の物として臣下、庶民の使用を禁止したところからの名で、この翠青の色の器との関連は不明。(2)「ひそく」は日本での慣用。「ひしょく」とも。 【色の手帖(小学館)より引用】 |