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…沙羅の章…

其の十三◆秘色ノ残影…(ひそくのざんえい…)
…前編…

…ずしり。

 自分の左肩にのしかかったものが亜樹(アジュ)の身体だと言うことを、分かっていてもなお、信じられなかった。
 座ったまま少し上体を後ろに反らすと、それは沙羅(さら)の膝へどっと雪崩落ちる。
 生気を失った腕の片方は剥き出しのまま地面に叩き付けられた。一度軽く弾んで静止する。

 それが自分の鼻先をスローモーションのように流れたときに、利き覚えのある香りが立った。

 …合わせ香だわ…

 沙羅は口をきつく閉じたまま、膝の上のものを見下ろした。
 あの夜…館での最後の夜に、最後の仕事として…天真花香と実香弥の香を合わせたもの。
 藍色の重ねに焚きしめられているのだろう。でも海底で利くのと違う…もっと迫ってくるような強い香りに思える。

 ゆさゆさ。

 言葉のないまま、それを揺すってみる。意志のない人形のような身体がごろりと仰向けになった。
 両腕は黒に近い紫色に変わっていたが、顔色は一面に粉を吹いたように白かった。それが異様に感じられるのは普段の彼が褐色の肌をしていたからに他ならない。
 
 両の頬に手を当ててみる。…冷たい。

 本当に、…本当に、事切れていくのだろうか?

 竜王の結界が張られているとはいえ、やはり海底に棲む者だ。自分が何ともないので、こんなに生粋の海底人にとって「陸」が恐ろしい場所であるとは分からずにいた。
 だからこそ、禁区とされていたのだろう…海底人にとっての敵は陸の人間ではなく、この地の大気そのものであったのである。

 …それを知らなかった訳ではあるまい。
 竜王たるべき存在になる者として、誰よりも深くそのことを知っていたはずだ。

 冷たくなった額に張り付いている前髪をかき上げて、耳の下の辺りに手をやった。
 かすかではあるがそこが震えているのを指先が捕らえる。

 

 沙羅は。

 そっと目を閉じると…しばらくそのままの姿勢で静止した。

 そして、再び目を開く。迷いはない。

 微かな笑みを口元に浮かべたまま、上体を静かに前に倒していく…色素を無くして透き通った白に変わった亜樹の唇に自分の唇を重ねた。


 

 自分の。心臓の音だけが頭の奥に響き渡る。呼吸よりずっと速いその速度に胸が張り裂けそうだ。
 堅く閉じた瞼の裏の赤い血潮の流れをひりひりと感じていた。

 いくらかの時間が過ぎて、亜樹の身体がコクリと一瞬、動いた。

 その微かな振動を唇が感じ取ったとき…はっと我に返る。
 沙羅は慌てて亜樹から離れた。

 

…何故だろう…? 額が妙に重い…。

 真っ白に霞んだ視界がゆっくりと角度を変える。すべてが白くなる一瞬前に何かを見た気がした。


 

「…沙羅」
 耳元をくすぐる心地よい振動。

「もう起きなさい…朝ですよ」
 …誰だろう…?
 渚さんじゃないな…多奈…? でも多奈はこんな話し方はしないはず。

 遠い…遠い記憶の果ての声。
 早春の淡いぬくもりの様な音色にもう一つ、音が重なる。

「いいじゃないか、もう少し静かに寝かせて置いてやろう…」

「…よろしいでしょうか?」
 なおも困り切ったような声。

「多尾の話だと、昨日、遅くまで休めなかったようだ。何でも月の形を確かめると言って…」

「…月の、形…まあ、何でまた…」
 軽いため息。自分にかけられた重ねが静かに直された。優しい香りが鼻をつく。

「誰か…侍女のうわさ話を小耳に挟んだらしい。真夜中に水面が揺らぎを止めると月の形が見えると…」

「そんな…そんなことがございますか?」

「無理だろうなあ…私も一度も見たことがない、東の祠のおばばも同じように申すであろう」

「…まあ」
 くすくす。

 くすくす。

 明るい笑い声が重なり合う。

「では…今少し…。せっかくお父上がお戻りになったのに…、お土産を見せたらどんなにか喜ぶでしょう」

 優しい音が遠ざかっていく…目を開けなくちゃ。
 きちんと瞼を開けて…声の主を見なくちゃ。

 そう思ったとき、他の方向からまた同じ声がする。

「沙羅…」

 ああ、どうして目が開かないのだろう…?
 もどかしい。

「あなたは幸せになるのですよ…」

 そう言いながら優しく髪をなでられる。

「どこにいても…誰といても…幸せになれるの。だって、幸せの素は沙羅の心の中にあるんだもの。…忘れないで…心をちぎって生きないで…」

 脳裏に白が強く焼き付く。そこから透明な光が絶え間なく流れ出てくる。眉間に痛みが走った。


 

「…沙羅!」

 ようやく開くことが出来た視界のすぐそこに、見慣れた顔があった。

「…亜樹…」

 体勢が逆になっている、自分の身体が亜樹に支えられていることに気付いた。

「どうしてお前が倒れるんだよ、まさか陸の大気が身体に合わなくなったとか?」
 ぶっきらぼうに、でも心配してくれてる気持ちは十分感じ取れた。

「…ごめんなさい、もう、大丈夫みたい…」
 額に手を当てながらゆるりと起きあがる。さっきまでのけだるさが嘘のように消えていた。

 上体を起こして気付く。いつの間にか帽子は取れ、結っていた髪もほどけていた。
 髪がみっともなく乱れているのだろう。そうでなくても陸の気にさらされた髪は数日の間にその輝きを失っていた。…どんなにかみすぼらしい姿になっているだろう…。

 今更ながら羞恥心が芽生える。

 今日はきちんと紅も付けてない。
 香も焚きしめられるはずもなく…きっと多奈が見たら、どんなにか仰天するだろう。
 
 こうして、海底の同種の者を前にするとあまりの恥ずかしさに俯くしかなかった。

 

「沙羅、…お前…」
 少し非難めいた声が頭の上から降ってくる。

 ビクンと身体が硬直した。

「自分では飲み下さないで…俺に薬を飲ませたんだな? どういうつもりなんだよ!? …こんなことしたって、何の得にもなりゃしない、どうせまた少しすれば症状が出てくるんだ。ちょっと命が長らえたところで…」

「だって…」
 洞窟の底に壁にびっしりと生えた苔が亜樹の作りだした光で照らされているのを見つめたまま、沙羅は力無く呟いた。

「亜樹が、死んじゃうと思ったんだもの…」

 そうなのだ。亜樹に強引に口に流し込まれたおばばの秘薬。
 飲み下せば人間になれる薬…それを口に含んだまま、飲み込むことは出来なかった。
 ほんの少量のこの薬でどうなることでも無いのかも知れない。でもほんの少しでも亜樹がその命を永らえることが出来るなら…

「でも、いくらかの間は元気でいられるはずだわ、そのうちにあなたが海底に戻る方法を考えれば…」

「馬鹿っ!!」

 大きな怒鳴り声にはっとして顔を上げる。
 見たこともないような恐ろしい形相の亜樹が自分を睨みつけている。

「お前、陸の人間になれないじゃないか!? 何のために俺が薬を届けに来たんだよ? …目先の同情に引っかかって、すべてを台無しにしていいのかよ!?」

「でも…!」
 言葉が口をついて飛び出してきた。

「亜樹の命には代えられないじゃない!? …陸の人間みたいになれなくたって、私は生きていけるわ。でも亜樹は今死んじゃったらおしまいなのよっ!? …次期竜王がいなくなっちゃったら困るじゃないの!?」

「…だから…! もう、戻るつもりはないと言っただろう? 次期竜王なんてまた仕立てればいいだけだよ、誰だってなれるんだ。でも薬はもう手に入らない、どうするんだよ? …吐き出そうにも…」

 そう言うと亜樹は自分の身体を改めて眺めていた。沙羅の視線も同じように亜樹の姿を捉える。

 

 着ている衣や髪は乱れているものの、赤髪も射抜くような濃緑の瞳も生命がみなぎっていた。体中を覆い尽くした黒紫の斑点も跡形もなく消えて、顔色も元通りの褐色に戻っている。薄暗い洞窟の中、淡い光に照らされていてもその生命力は迫り来るほどだ。…おばばの薬の効力だ。


「…どうした?」
 亜樹の声色が急に変わる。

 頬を生ぬるいものが静かに下降する…輪郭を伝ったそれがぽたぽたと手の甲に落ちてきたとき、沙羅は初めて自分が泣いていることに気付いた。
 慌てて両手で顔を覆って見たものの、溢れ出るものを止めることが出来ない。
 自分でも受け入れられない感情に戸惑って、はじかれたように亜樹から離れた。

 …リン…

 深い洞窟の奥まで微かな音が響いた。

「…あ…」
 沙羅は懐に忍ばせていた匂い袋を出した。それにはごくごく小さな土鈴が付いている。袋は鮮やかなグリーンだった。

 これは…遠い昔から肌身離さず持っていたもの。海底を出るときもどうしてもこれだけは手放すことが出来なかった。

「…なんだ…」
 それを眺めていた亜樹が、軽いため息を付いた。

「お前も、ちゃんと持っていたんだ」

 そう言って彼が懐から取り出したのも…同じ、鈴の付いた匂い袋だった。でも色が…

 沙羅は驚いて目を見開いた。

「…何故…亜樹が、同じものを持っているの…?」

 

「…覚えてないのか…?」
 今度は亜樹が少しがっかりしたように言った。

「これは華繻那様の…お土産だったんだ、俺と沙羅に…お揃いで…」

「そうだったの?」

 知らなかった。物心付いた頃には当然のように身に付けていた。

「じゃあ」
 亜樹の声がふてくされている。

「交換したことも覚えてないんだな?」

「交換?」
 そんなこと覚えてもいない。

「…これ、本当は華繻那様、紫を沙羅で、緑を俺に持ってきてくれたんだ。でも、沙羅が緑の方がいいって…」

 ごくごく幼いときのことなのだろう。3歳年長だった亜樹の記憶にはあっても自分の中には残ってない。

「…緑が俺の瞳の色、紫は沙羅の瞳の色…離れていても一緒にいられるようにって…何だ、覚えてもいなかったのか。…いいんだけどさ」
 多少なりとも傷ついたらしい…そうは言っても覚えてもいないことを蒸し返されても困る。

「…ねえ、ところで…これの中身を見たことある?」

「いや…開けちゃ駄目だと言われていたから…」

「私も、なの…でも匂い袋なのにあまり香らないし…変だなあと思っていたのよ。開けてみない?」
 照れ隠しに遊び心が顔を出した。

「いいけど…」

 それぞれがきつく縛られた紐を解く。爪の先で少しずつ解いていくと…いくらかたつうちにするするとほころんだ。

「あ…」
 沙羅は言葉が続かなかった。そこにあったのは丁寧に和紙に包まれた…一房の髪だった。長い数本をまとめてある。薄い茶色の…おそるおそる鼻を近づけてみると、ほんのりと舞夕花香の香りがする。

「…母上…」
 香は付ける者によって、微妙に変わってくる。亜樹が華繻那の「天真花香」が微妙に合わないように、相性もある。またそれが似合ったとしても、それぞれに違った味わいがある。今、手にした香りは自分の香りとは微妙に違っていた。…この香りをどこかで利いた…そうだ、さっきの幻の中で…あの声の主の…

 一体…誰が、いつこんなものを忍ばせたのだろう? …肌身を離したこともないのに、寝入っている間? …まさか、最初から? 

胸が詰まって顔を上げると、亜樹の方は呆然としたようにこちらを見ていた。

「…これ、…」

 それは他でもない「護り石」であった。

 

「凄い! あったじゃないの!? …これで戻れるわ! 後は浜に陸の人がいなくなったら…」

「おい…」

 亜樹が何かを言いかけたとき…けたたましい電子音と共に赤いランプが点滅した。

 

「あ…」
 湊の携帯だ。沙羅は慣れない手つきで受信ボタンを押した。

「わ、沙羅ちゃん!!」
 向こうは渚、とても嬉しそうだった。

「良かった〜湊くん、携帯を渡して…電波が届かなかったらどうしようかと思っちゃったわ…そっちは大丈夫?」

「…は、はい…どうにか。あの、渚さん…そちら、人が少なくなりました?」
 沙羅はすがるように訊ねた。沢山いた陸の人はどうなったのだろう。

「それがね…夕方になって、どんどん人数が増えているの。野次馬も来て…何でもこれから何日もここで張っているみたい。出てこられる状態じゃないわ…」

「…そう」
 膨らみかけた期待がしぼむ。せっかく護り石が手に入ったところで…浜に出られないのじゃ仕方ない。あの岸壁までたどり着かなくては…とは言っても、ひとりふたりならいざ知らず、何十人も張っていたら無理だろう。

「あ、沙羅? 洞窟まで着いてる?」

「湊さん!?」
 携帯が渡ったらしい。

「思い出したんだけど…その洞窟って、『竜王の祠』と呼ばれていたんだ。子供の頃、何度か探検したことがある。確か一番奥に祭壇があるんだ…何かが邪魔して、それには触れなかったけど…磯の香りがして…何か沙羅たちに関係あるんじゃないかな?」

「…竜王の…祠…?」

「俺たちももう少し人がまばらになったら、何かの言い訳して入ってみるよ。先に行ってみてくれる?」

「…う、うん!」
目の前がぱっと晴れ渡った。電源を切る。

 

「…どうした? …何なんだよ? 独り言なんかぶつぶつ言って…。それ…音がしていたな…」
 海底には電話なんてものもない。伝達の手段は文だけだ。沙羅だって最初は面食らった。

「離れた人と会話できる…陸の御道具なの」
 亜樹の驚いた顔がおかしくて、沙羅はくすくすと笑いがこみ上げてしまった。

「へえ…」
 手渡された携帯を見て、首をひねっている。
 子供のような仕草の次期竜王に沙羅は手短に先の2人の言葉を伝えた。

「…竜王の…祠?」

「うん、この奥にあるんだって…もしかしたら、何かあるかも? だって名前が…ね、行ってみよう!?」

 沙羅はさっと立ち上がった。慌てて後に続く亜樹も水中と少しも変わらないように軽い身のこなしだ。まったくさっきまで死にかけていたのが嘘のようだ。

「亜樹、戻れるよ…本当に良かった! 私も肩の荷が下りるわ…」
 光に足下を照らしてもらって。どんどん奥に進んでいきながら、沙羅はうきうきした様子で言った。

 その言葉に亜樹の歩みはぴたりと止まった。

「…肩の荷が…って…、もしかして、お前…戻らないつもりなのか?」
 喉の奥からようやく絞り出したような声。

 沙羅が立ち止まって振り向いたときには、2人の間にだいぶ距離があいてしまっていた。

「え…?」
 ゆっくりと反応する。沙羅は不思議そうに瞬きした。

「…だって…そのつもりで、陸に来たんだから…」
 口が上手く回らない…。

「そんな姿で…この地で生きて生きられないだろう? 誰かに見られたらどうするんだ!?」
 亜樹の声は洞窟内に響き渡っていた。

「…分かってくれる人だっていたわ。これからだって…あの…きっと…」

 沙羅は消え入りそうな声で反論する。自分の言っていることに自信がないのだ。

渚が、自分の容姿を見て見ぬ振りしているのを知っていた。異端の者だと思っている、自然に接していてくれるようでも。
 …そして湊は…彼も自分の姿を快くは思ってくれないだろう。気持ちをどうにか解決したところで、根底にあるものがどうしても沙羅を拒否していくだろう。

 俯いた沙羅の元に亜樹は大股に歩み寄った。

「沙羅…帰ろう、俺と。お前の国へ…」

 強い力で片手の手首をきつく捕まれた。

「帰って、くれよ…」

 沙羅は静かに顔を上げた。亜樹の視線と自分の視線が重なった。
 亜樹の瞳が…本心からそう言ってくれているのだと、何故かこの瞬間、信じることが出来た。

 

 深く吸い込まれそうなこの瞳を、目をそらすことなく見つめることが出来る日を…どんなにか待ち望んだであろう…でもそれは。それはあの夜に置いてきてしまった感情だ。

 沙羅はゆっくりと微笑んだ。そして亜樹をしっかりと見つめて言った。

「…ごめんなさい…、私は、…帰らない」


「秘色」(ひそく)…染色で瑠璃色。明るい灰青。(1)秘色は、中国の越国産といわれる青磁の器も言う。唐代に、天子への供進の物として臣下、庶民の使用を禁止したところからの名で、この翠青の色の器との関連は不明。(2)「ひそく」は日本での慣用。「ひしょく」とも。
【色の手帖(小学館)より引用】
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