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其の十三◆秘色ノ残影…(ひそくのざんえい…) |
「え…沙羅(さら)…本当に…」 亜樹(アジュ)は沙羅の腕を掴んだまま、かすれるように呟いた。 「ごめんなさい」 口をついて出てくるのはこの言葉しかない。でも、戻りたくはない…沙羅は潤んだ瞳で亜樹を見つめたまま、静かに言った。 「…そうか」 「そうか…そうだよな…」 「……」 「俺の后になるのが嫌なんだもんな…だからお前は逃げたのだから…。ならば…沙羅?」 濃緑の瞳が再びこちらに向けられた。無言のまま反応する。 「…俺の后にならないなら…帰る気になるのか?」 「…え…」 亜樹の口からそんな台詞が出てくるなんて信じられなかった。…亜樹もそう考えることがあったのか…。 「館の者も…華繻那様も、みんな心配している。お前に戻ってきて欲しいと思っているよ。もしも…お前にその気があるんだったら…いいじゃないか。館に戻って、お前の人生を好きなように…」 「そんな…そんなこと、出来ない…!」 「沙羅…?」 「私は嫌! …戻りたくないの! だって…海底に戻ればあなたがいるじゃないの!?」 「…何だって?」 「私は…亜樹のいないところに行きたいの! …あなたがいるところなら…帰らない…」
どうして、こんな言葉が口から出てくるのだろう…しかし、自分の心から湧き出てくる言葉なのだ。それは確かだ。目前に佇む亜樹がどんなにか傷ついているか…十分に承知していた。何故なら…あの夜、客座で自分が亜樹から受けた傷と同じものだったから。 あんなに苦しい想いをしながら、どうして同じように相手を傷つけられることが出来るのか? 自分の中にどろどろとしたものが渦巻いている。差し伸べられた手を弾くように相手を拒否している…どうして…どうして?
自分で自分を抑えきれなくなっている沙羅の憔悴した姿を、じっと見つめていた亜樹はやがて…静かに話し出した。 「じゃあ、俺が…戻らなければ、いいんだな?」 「それは…」 …違う、それは違う… 心の中では叫んでも、音にならない。もしもそれが本当なら、どうしてさっき、亜樹の命を助けてしまったのか? …助かって欲しいと思ったから…。そのくらい、分かってくれないのだろうか?
「…なら、簡単じゃないか。世話になったな…」 「…あ、亜樹…? どうしたの? …ちょっと! どこ行くのよ!?」 「…待ってよ! 祭壇は逆の方向でしょ? …あなたが戻らなかったら、海底のみんなが困るじゃないの…!?」 亜樹の足が止まった。ゆっくりと振り返る。…凍り付いた表情に言葉が詰まる。 「…また! そう言う話になるのかよ!?」 「あ、…亜樹…」 「お前も結局、そうなのか!? …次期竜王の俺が大切なのか!? みんな、そうなんだ…俺は竜王候補である前に…俺なのに…」 辛そうに呟いた瞳が揺らぐ。 「…そんなに言うなら、見せてやるよ」 「…え?」 「俺が、…俺である姿を…」
ゆっくりと大気が流れ出す。…陸にいながら、まるで懐かしい地にいるように二人の髪がうねり出す。自分の意志とは関係なく、さらさらと流れてゆく髪に視界が遮られる。
「どこに行くの…」
髪の流れの向こうに亜樹の背中が遠ざかる。薄暗い洞窟の中でそれは徐々に闇に消えて行くようだ。
「どこに行くのよ! …止まりなさいよ!?」
まるで声が届かないかのように…。
「亜樹!? …待ってよ!」 「…あ、そうか…」 …亜樹の、紫の匂い袋…それは小さな叫び声をあげて、沙羅の両の手に収まった。 「さっきの、お返し…俺が外の奴らを引きつけておくから…その隙に、戻るがいいよ」 「…亜樹!?」 彼の瞳は驚くほど穏やかな色をして、沙羅に微笑みすらかけてくる。 「あ…」 「亜樹…!」
…唇が…震えて止まらない。すぐそこまで来ている言葉が、喉の壁に張り付いたままで音にならない。でも、言わなくては…今、伝えなければ…沙羅は苛立って、湿った地面を指でかいた。苔と土の混じり合った生臭いにおいがする。
「…行かないで…!」 「私から…もう、離れていかないで…」
がくりと力が抜ける。沙羅の身体はその場にうずくまってしまった。
…そうだったのだ… 今、自分の中の想いに初めて気付いた。 亜樹の存在が苦痛だったわけではない。側にいながら視界にすら入らない自分の存在が嫌だったのだ。それでも東所と南所に住区を分けている間は良かった。でも、これから亜樹の后となって南所に入ったら…嫌でも他の女子との落差を感じて行かなくてはならない。 …それが辛かった。竜王の娘として産まれて、次期竜王の后となることを周囲から当然のこととされていた人生の中で…とっくに悟っていなくてはならなかったのに…「甘い」と言われようが…幻想でしかないものに捕らわれたままになっていた。
「…沙羅…」 ゆっくり頭を上げる…目の前は着物の膝の辺り。今まで道無き道を駆け抜けてきたため、美しい刺し文様に泥が飛び散り、裾もぼろぼろにほつれている。 でも沙羅は両手を伸ばすと、構わずにしがみついた。着物に頬を強くこすりつける。 「…さ、沙羅? …ちょっと、おい…」 「…お願い…そばにいて…」 「…今、その命を捨てちゃうくらいだったら…私にちょうだい。少しの時間でもいいの、私だけを見ていて…」 それは。沙羅自身が封印してきた想い。求めても求めても届かないものならば、想うことも止めてしまったら楽だと思っていた。忘れた振りをして隠し通すことに慣れすぎて…どれが自分の感情なのかすら、判別できない。 自分たちは。 ただ、ひとりの人に愛されたいと願う子供の心を抱いたままで…強がっていたのか?
「…沙羅」 空を切る両の手…でもそれは一瞬の間だった。 次の瞬間にはしっとりとしたものが自分を抱きすくめているのに気付く。 「…会いたかった…」 「…お前が竜王宮殿からいなくなったと聞いたとき、どうしていいのか分からなかった…もうすぐ、だったのに…」 「…え…?」 「本当に…最後にひとめだけでも会えるならいいと思った。…でも…お前の顔を見たら…やっぱり無理矢理にでも連れ帰りたくなってしまった。お前の意志なんて関係ない…だって」 そっと頬に手が添えられる。 「沙羅を、いつだって一番好きなのは…自分だと信じているから…」 「亜樹…?」 にわかには信じられない…自分は夢を見ているのだろうか? 繰り返し見てきた、天寿花の林での別れの夜がそのまま続いているような…あれからの月日が全部、夢だったのではないかと錯覚してしまうような… 熱を帯びた視線に捉えられる…そのまま吸い寄せられるように唇を重ねた。
「…私…怖かったの…亜樹がだんだん違う人になってしまうようで…前みたいに話もしてくれないし。それに…」 「ごめん…」 「離れていて…守り通せる自信が無かったんだ…俺は竜王宮殿に移されたときから、西南の民の監視を受けていたようなものだ。故郷と言っても、ほとんど親しんだ記憶もない地なのに…皆、俺を優秀な持ち駒に仕立てようと必死だった…それに気付いていたのに…逃れられなかったんだ。…側女のことも…」 その言葉を聞いた瞬間、沙羅の心に再び冷たいものが流れてきた。次期竜王の亜樹にとって側女の存在は当たり前なのに…心の中で未だ拒否し続けている。でも、表面上は平気な顔をしていた…。 「元服の儀式の前に…母上がお出でになって…側女の話をされた。俺が断ると…どうしたと思う? …次の日…可愛がっていた犬が変死した…原因は分からないことになっているんだけど…あの日、実は俺、ふざけてお膳に並んでる沙羅のお食事のお菜を失敬して食べさせたんだ」 「え…」 「信じられなかった、誰からか俺たちのことを聞いたのだと思う…西南の人間にとって、集落の女子が世継ぎを産むと言うことが大切だったから…でもまさか…」 …毒を、盛られたのだ。その日のお膳は子犬の死によって破棄されたので事なきを得たが… 「沙羅が南所に来てくれれば…体を張ってでも守ろうと思ってた…でも、あのままだと…母上は何を企むか分からない。館に出入りする西南の人間は皆、母上の息がかかっている…だから悟られることなく、言うことを聞いているように思わせなくちゃいけなかった」 「ううん…」 「皆から言われていたわ…父上は特殊なんだって。だだ一人の女子を生涯思い続けるなんて、狂気の沙汰だって…いいの、気にしてないから…」 「でも、ひとつだけ心に決めていたことがあったんだ…沙羅に俺の子供を産んで貰うって…もちろん、世継ぎも…他の子も…みんな」 「え?」 「…まさか、沙羅まで変な噂を信じていたんじゃないだろうな…」 「誰だって…おかしいと思うわよ。10人以上の側女が上がりながらお世継ぎが無いなんて…」 「じゃ、すぐに証明できるよ? なんなら、ここで、でも? …とりあえず、沙羅は立場上はもう俺の后なんだしね…」 「き、きゃっ! …やめてよ!」 「…もう」 真っ赤になってしまった頬を両手で覆って座り込んでいた沙羅に、立ち上がった亜樹が優しく手を差し伸べた。 「…行ってみようか? …祭壇に」 「うん…」 手を引かれて…素直に心のままに頷くことが出来た。
「…わ…」 「これは…」 二人は言葉を失って、顔を見合わせた。 「神座の…祭壇と、本当によく似ているわ」 無数の蝋燭こそは灯されることもなかったが、それようの燭台も用意されている。細かい細工を施した石の彫刻が洞窟の一番奥に現れた。 …手を伸ばしてみると透明な壁が波紋を描いて押し戻される。 「…これが…湊さんの言っていた…入れないっていうのかしら…」 沙羅の丈に余る髪が祭壇から吹く風に後ろになびいている。ふわふわとした動きは艶めかしい海底のものとは違っていた。乾いた大気にさらされた横顔もいくらか幼く見える。 同じように赤髪を揺らしながら、吸い込まれるように彼女を見つめていた亜樹は、やがて何かを思いついた。 「…これが…使えるんじゃないかな」 懐の匂い袋から「護り石」を取り出す。先の壁に掲げるとそこの場所だけが切り開かれたように空間を開けた。 二人は恐る恐る、足を踏み入れた。
「…見て、亜樹…祭壇の裏に…階段がある…」 二人が覗いてみると…石の階段は数段行ったところで…霞んで見えなくなっていた。
「…沙羅ちゃん…」 「渚さん…」 「…やっぱり、普通の人間じゃないよなあ…この壁を越えることが出来るなんて…」 「…本当…見えないのに、はじかれてる…これだけでも十分村おこしになるような現象じゃないの?」 「…戻ることに、したんだね? 沙羅ちゃんは…」 「…え?」 まだ何もいってないのに、と不思議そうな表情の沙羅に渚は微笑みかける。 「…なんで、分かったように言うんだよ? 渚…」 「…分かるわよ…沙羅ちゃんの目が吹っ切れてる…」 「…そう? 俺にはよく分からないけどなあ…」 「お医者様が患者さんの心を汲み取れないようじゃ、まだまだね…」 「あ、あの…湊さん…お願いがあるんです」 「ここに、母上の…髪が入っています。許していただけるのなら…家族の皆さんと一緒にお墓に入れていただけないですか?」 差し出されたお守りほどの小さな布袋を湊は黙って見つめていた。沙羅もそれきり、何も言わずに彼の動向を見守っていた。 「…分かった」 「…ありがとうございます…」 「沙羅ちゃん…」 「元気でね、もう、自分を追いつめちゃ、駄目だよ…」 「…はい。本当に、お世話になりました…ありがとう…」 また、いつ亜樹の身体に異変が起こるか分からない…早く戻った方がいい…後ろ髪を引かれるように沙羅は結界の中にするりと入っていく。 そのやりとりを静かに見守っていた亜樹は、二人と視線があったとき静かに頭を下げた。 天井ががらがらと崩れだした。
「…危ない…!?」 湊は渚を咄嗟にかばって、避けた。 目の前に今まであったはずの祭壇は岩の下に埋もれ、見る影もない。
「…村おこし計画は…これで全ておじゃんね…」
「…あの二人…」 「無事に帰れたのかな…?」 「多分、大丈夫よ?」 「…嫌ね、娘をお嫁に出した父親のようよ、湊くん…」 「…おい、ちょっとそれは、あんまりじゃないのか?」 「あら?」 「…沙羅ちゃんのお父さんはまだ30代なんですって。私たちといくらも違わないわ」 「…そう…なのか?」 「…あれ?」 「…どうした?」 「…沙羅ちゃん…あなたの携帯…持って行っちゃったね? 私の服も着て行っちゃった。刺繍の道具も置いて行っちゃって…沙羅ちゃんの着物も…」 「…病院の経営が苦しくなったら、質屋に出すしかないかな?」 「…やめてよ…」 「あんなもの、人目に触れたら…考古学会が大騒ぎになっちゃうわよ!」 「それもそうだな…」 二人の楽しそうな笑い声がひとしきり洞窟内に響き渡った。
「…携帯…」 「…かけてみようか?」 「馬鹿ね」 「…電波が届くわけないじゃない?」 「…そうか」 洞窟の入り口まで戻ると、湊は名残惜しそうに暗がりの中を振り返った。 「元気出して、湊先生!」 「…沙羅ちゃん…あなたのこと、ちゃんと分かったくれたよ。湊くんも今回は沙羅ちゃんに教えられることが多かったんじゃないかな? …それに」 「…それに?」 「あの二人はきっと、うまくいくわ…」 「…でも、大丈夫かなあ。結構、激しく口論していたみたいだったぞ?」 「…だからじゃ、ないの。…沙羅ちゃん、ずっと感情を押し殺しているみたいだったのに…彼の前だと本心が出るのね。隠せなくなっちゃうのかも知れない…そう言う間柄なのよ、お互いに」 ほんの少し欠け始めた月が頭上に輝く。 |
「秘色」(ひそく)…染色で瑠璃色。明るい灰青。(1)秘色は、中国の越国産といわれる青磁の器も言う。唐代に、天子への供進の物として臣下、庶民の使用を禁止したところからの名で、この翠青の色の器との関連は不明。(2)「ひそく」は日本での慣用。「ひしょく」とも。 【色の手帖(小学館)より引用】 |