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…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

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 夏の盛りにあって、次々と目の前に広げられていく秋装束。その錦絵のような美しい光景を、扇の風を送られながらぼんやりと眺めていた。

 夫である人の身につけるものを整えるのは正妻としての大切な務めのひとつである。いくら他にあまたの女子が囲われていようと、この仕事が他人の手に渡ることはあり得ないのだ。とはいえ、竜王妃となるべく教育を受けてきた燈花が習得しているのは、都の風土や気候に合わせた衣の合わせ方だけである。一年を通して心地よく過ごしやすいこの地では、まとうものも変わってくるのだ。

「そうね、左手のお色の方が夏月さまにはお似合いでしょう。下襲(したがさね)はもう少し濃いめにして頂戴」

 出しゃばって余計な口を挟んでは、かえって無知をさらけ出して恥をかく。だから延々と続くやりとりは、年配の侍女が目の前に差し出してくるふたつのうちのどちらかを何となく選ぶに留まっていた。もともとどれをとっても夫となった男にはそれなりに似合うものばかりが用意されている。ただその量がかなり多いので、選択するまでだ。

 落ち着いた物腰の侍女は心得たもので、自分からは口を出さずに仕事を進めている。それにしても相変わらずのふんだんな品揃えである。敷地の中には蔵なども見当たらない様子であったが、このように大量の衣を一体何処に隠しているのだろう。いや、それよりもまずはその入手先が分からない。
  館の主人である男やその妻である自分だけに留まらず、侍女たちの装いもただ人としては出過ぎたものである。一体どこから、何のためにこのような品をあつらえる必要があるのだろう。

 忙しく立ち働いている侍女たちの後ろには、まだいくつもの大きな行李が置かれている。そこには多分館主の正妻である自分や、他に寵愛を受けている女子たちの装束が詰まっているのだろう。まずは自分が選び、残ったものを姿を見せない女子がまとうのだ。そう考えた瞬間に、燈花の身体中に鳥肌が立つ。しかしそのような態度をあからさまに出せるはずもなかった。

 ――もしも、あのまま都に上がっていたなら。

 未だにそのように考えてしまうこともある。華やかに見える王族の世界も、その裏側は殺伐としたものだと聞いていた。国中から送り込まれたあまたの側女(そばめ)たちと寵を争い戦い続けなければならない。それが自分に課せられた宿命だとは分かっていても、勝ち取れなかったときの屈辱を思い眠れぬ夜もあった。
  だが、それがあっても憧れて止まぬ都の全て。きらびやかな装束、華やかな女子たちの微笑み、正妃としての自分を見つめる羨望の眼差したち。

 きっと都にあってはやはり今頃このように秋装束を整えているのだろう。そして心を込めて色目を合わせた美しい衣をまとってくださるのは、殿上人であられるあの御方。そのお姿を一目見た者たちは、さすがは西南の大臣家の姫君の目利きだと囁きあう。ようやく自分のことが正当に認められる日がやってくるのだと、信じて疑わなかった。

 だけど、実際のこの身は。ただ人の男の心を惑わすことすら叶わないではないか。こちらが拒めば強引に力ずくでも突き進んでくるのが当然なのに、何故あんなにもあっさりと引き下がるのだろう。それだけこちらに魅力がないと言いたいのか、人を馬鹿にするのにも程がある。

 

「どうしたの? ……顔色が優れない様子ね」

 ふと肘置きから身を起こし、傍らの侍女に声を掛けた。そう、西南の兄の館からただひとり自分に付いてきたあの年若い侍女である。二、三日前から少し様子がおかしいなとは感じていた。気には掛けていたのだが、務めそのものはきちんとこなすのでそのまま様子を伺っていたのである。だが、今日は一段と気分が優れないように見受けられる。

「笹(ささ)、無理は良くないわ。こちらは他の者に任せて、あなたはもう休みなさい」

 これには自分でも驚いたのであるが、この館に嫁いでくるまでその侍女の名も呼んだことがなかった。もちろん彼女が他の侍女から呼ばれるのを聞いて、名はとうに知っている。でも、自分の身の回りの世話をしてくれる者は多くいたし、そのひとりひとりをわざわざ名指しで呼ぶことなどなかった。

「い、いえっ……大丈夫です。ご心配には及びませんので……」

 気丈にも首を横に振るが、その顔からは血の気が引いている。ここ数日は蒸し暑い日が続いたので、体調を崩したのかも知れない。もちろん彼女が側からいなくなることは不安であったが、無理をさせて寝込まれては大事になる。しばらくののち、彼女は顔見知りになった館の侍女に付き添われるように部屋へと下がっていった。

 

 ――やはり、慣れぬ地にやってきて気が張っているに違いないわ。

 ここでの様々な出来事は大臣家での暮らしとは何もかもが異なっている。それに戸惑っているのは自分ひとりではないのだ。そう思えば心強い。こうして早いものでひと月近い日々を過ごし、初めは袖を通すのも恐ろしかった身分にそぐわない刺し文様の衣にも慣れてきた。だが、やはり未だに謎は解けぬまま目の前に立ちはだかっている。
  先の侍女を始めここに仕える全ての者たちが、自分と夫である男との秘密を知らない。この頃では何かにつけて遠回しに「体調にお変わりはございませんか?」などと訊ねられるのも面白くなかった。一体何を期待しているのか、考えるのも煩わしい限りである。

  こちらで過ごす毎日がさりげなく心地よいものであるが故、さらにその心奥にあるものが知りたくなる。このようにわざわざ大臣家の鬼姫を取り込んだのには、相応の企みがあるに違いない。そのことをおくびにも出さずに表面上は平穏な毎日が過ぎていくのだ。それが何とももどかしくてならない。

 このまま何事も起こらずに時が過ぎていくのだろうか。全くもってふざけた話である。王族の真似ごとをしようなどと、どうして思いついたのだろう。このような贅を尽くした暮らしをしていては、どんなに豊かな蓄えがあったとしても瞬く間に底をつくというものだ。まったく愚かしいことである。

 

 沈みゆく泥船に最後まで付き合う必要はない。この場所に留まるのはあとどれくらいのことだろうか。

 

◆◆◆◆◆


 朝、目覚めれば男の姿が傍らにある。それが当然の日常になりつつあった。

 まるで一夜を睦まじく過ごした恋人のように、男の眼差しは甘く優しい。だがそれは、自分の身体を通り過ぎて別の女子に向けられたものに相違ないのだ。それすらも忘れそうになる一瞬がおぞましい。腰ひもを一度解き結び直すその間に、男の胸に顔を埋めて耐えることにも慣れた。それなのに震えの止まらぬ我が身。肌が触れあうほどの距離にいる男にはそれが分かっているはずだ。

 ぎゅっと瞼を閉じて、衣擦れの音だけを聞いている。大きな羽に抱き取られた身が、そのまま宙に浮かんでいきそうな気分だった。

 

「……午後から、少し遠出をしてみませんか?」

 珍しくゆっくりと朝餉を摂っているなと思っていると、男は不意にそんな風に切り出す。このところは日中は任された領地を回るために不在のことがほとんどであり、明るいうちに戻ることも稀であった。
  それでは本日は館に留まっているのだろうか。不思議なこともあるものだと驚きの方が先に来て、なかなか言葉が出ない。箸を止めたままでぼんやりと見つめる燈花に男は軽い笑い声で応えた。

「深窓の姫君と呼ばれたあなたですから、外歩きなどには不慣れでしょう? 本来ならば牛車でも出すのが当然でしょうが、それではあまりに大袈裟に目立ちすぎて良くないと思います。どうです、私が手綱を取りますから、馬で参りませんか?」

「……は?」

 その申し出には少なからず驚かされた。男は自分の乗る馬に、燈花を一緒に乗せようと言うのである。そのような荒々しい真似をさせて良いと思っているのか。こちらは牛車ですら片手で足りるほどしか使ったことがないというのに。

「ご心配なさらずとも、途中で振り落としたりなどは致しませんよ。それとも――さすがの西南の姫君も馬にお乗りになるのは恐ろしいと仰いますか?」

 そこで男が声を立てて笑ったので、お付きの侍女たちもつられるようにくすくすと笑い声を上げる。ただそれだけのことなのに、燈花は何とも言えない疎外感を味わっていた。
  目配せし合いこそこそと囁きあう者たち、あの中にきっと夫の愛人はいる。未だにその存在を突き止めることは出来ぬままであるが、それはもうほとんど確信に近い思いであった。

「いえ、ご心配には及びませんわ。喜んでご一緒させて頂きます」

 ここで逃げるわけにはいかなかった。自分はこの男の正妻なのである。もしもここで自分が誘いを断れば、他の者が伴われるかも知れない。ただ気楽な野歩きに相手が必要なだけなのだろうから。そうしてくれた方がどんなにか気楽か知れなかったが、かといってそのような行為を許せるはずもない。こちらにも自尊心というものがあるのだから。

「ほほう……、これは頼もしいですね。さすが私が見込んだ御方だ」

 男は挑発的な眼差しで微笑むと、器に残っていた汁を一気に飲み干す。彼は燈花の怒りを込めた瞳など、少しも気に掛けてはいない様子であった。

 

◆◆◆◆◆


 気丈に振る舞ってはみたものの、やはり馬上の荒々しさには耐え難いものがあった。

 野歩き用に質素な装いに着替え表庭に出れば、男はもうすっかり準備を終え馬の世話をしている。がっしりした体付きのそれは毛並みも良く、青年の年頃のように見受けられた。これならばふたり分の重みを乗せてかなりの距離を走っても大丈夫だろう。力強い体躯とは裏腹に、とても優しそうな目をしていた。
  下男が手綱を持ち、夫が先にその背にまたがる。踏み台を用意して貰って、恐る恐る後に続いた。普段の乗馬よりも幾分後ろに彼が座り、その前の部分に横座りをする体勢になる。男装束でまたがるのが一番安定するのは分かっていたが、どうしてもそこまですることは出来なかった。

 侍女たちの口から、夫である男はかなりの乗馬の上手だと聞いていたが、その話に偽りはなかった。小高い丘の上に立った館から、一気に坂道を駆け下りる様はどのように言い表したら良いのだろう。少しでも身体が左右にぐらついたりすれば、そのまま地に打ち付けられるのではないかと恐ろしくてならなかった。そうなってしまえば、頼る人は馬上にいる男の他にはいない。背に腹は代えられず、その衣を引きちぎれるほどに強く握りしめた。
  平坦な道に降り立ってみても、さらに蹄の音が勢いを増すばかりである。しっかりまとめたはずの髪もいつしか解け、辺りにふわふわと舞い上がっていく。ようやく男の胸から顔を上げれば、そこは豊かな実りを待つ広大な耕地であった。あちこちで忙しく働いている民たちが、こちらに気付いて背を伸ばす。その視線を感じ取ったのか、男はますます誇らしげな表情になった。

 

 昼下がりの傾きかけた日差しは柔らかく、夏の盛りを忘れさせる。

 一刻ほど休むことなく走り続け、たどり着いたのは耕地の途切れた先の広い平原であった。さらさらと腰の辺りまで夏草が伸び、かき分けた先には小川が流れている。その傍らの細木に男は馬を繋いだ。そして腰に付けた袋から竹筒を取り出すと、清らかな流れのなかにそれを浸す。辺りを飛び交う羽虫たち、その心地よい羽音が耳に涼やかであった。

「どうぞ、……さすがにお疲れになったことでしょう。初めてにしてはご立派ですよ、途中で音を上げるものとばかり思っておりましたのに」

 その言葉は憎らしかったが、喉の渇きにはかえられない。無言のまま竹筒を受け取ると、静かに飲み干した。とても冷たく、そして信じられぬほど甘い水である。思わずもう一杯を自らの手ですくい取ろうと身を乗り出すと、男は喉の奥で笑ってその仕事を替わってくれた。

「仕方がございませんわ、あのように皆の前で笑い物にされてはたまりません。全く、何をお考えになっていらっしゃるのやら……」

 そう言葉を突き返しつつ、慌てて乱れた髪や衣を改める。かなりしっかりと着付けて貰ってはいたが、何しろ長時間の馬上である。涼やかに見える男の額にも玉の汗が浮かんでいた。慌てて手にしていた筒を差し出すと、彼はそれを笑顔で受け取り新たに水を汲む。一気に飲み干した後、ゆっくりと立ち上がって辺りを見渡した。
  広い野に他に人影はなく、急に心細さが胸を襲ってくる。全ての雑音から離れた場所、今まで生きてきた中で初めてとも思える光景であった。始終誰かに監視され、あれこれと言葉を掛けられる。そんな当たり前の日常が、あっという間に遠ざかっていく。何とも不思議な心地である。

「ここが私が任された領地の丁度中央に当たります。どうです、こうして見ると見事なものでしょう」

 ――何ということであろう。燈花は思わず目を見開いた。

 男の身につけているのは、下男とも見える装束である。それなのにみすぼらしいはずのその身なりであっても、その姿は堂々としてどこから見ても立派な領主のものであった。
  他の兄弟たちも皆似たような顔立ちをしていたが、ここまでの力強さは感じられない。夫であるこの者が不在であっても、彼らは足繁くあの丘の上の館を訪れた。特に末の弟になる者は身軽な身の上でもあるからなのだろう、何かのついでと言ってはあれこれ手みやげを携え毎日のように顔を見せる。こちらが心苦しくなるほどに、皆温かく親愛に満ちた心で接してくれた。
  彼らにはなくて、この男にあるものとはいったい何であろう。いくら頭の中で思いを巡らせても、未だその答えはなかった。

 ――このどこかに金でも埋まっているのではないかしら……?

 誇らしげな眼差しにつられるようにぐるりと四方を見渡してみたが、燈花の心に浮かんだのはそんな浅ましい物思いであった。どうにかして、この化け狐の尾を掴んでみたい。そう焦るばかりの日々が続いている。頼みの兄からの文などもなく、このままでは気が触れてしまいそうだ。自分よりも一枚も二枚も上手の男は、そう易々と手の内を晒すとも思えない。

 目をこらさなくてはならぬほど遠くではあるが、丘の上の館も確認することが出来る。馬を使って二刻で突っ切れてしまう土地を「広い」と言い切ってしまうことは難しいと思われたが、男は意外なほどに満足げな表情であった。この土地にしっかりと根付き、毎日を生きている。金と名誉にまみれた大臣家の人々には一生掛かってもつかみ取ることが出来ないものをすでに彼は手中に収めているのだ。
  確かに西南の大臣である兄は、あまたの人々から敬われ恐れられている存在である。だが、皆が見ているのは兄の大臣としての地位でしかない。もしも全てを取り去ったあと、兄には何ひとつ残るものはないのではないか……?

 この土地の人々は、誰もが余所者の自分を温かく迎え入れてくれる。それも全て、夫であるこの男の存在があってのことなのだ。ああ、ここにあっては自分の生い立ちなど恥ずかしいばかりである。いくら立派な実家を後ろ盾に持とうとも手習いに長けていても、それが何の役にたつものか。野に咲く花の名も満足に知らず、時節の儀式には戸惑うことばかり。このままでは館の女主人としてやっていけるか分からない。
  もしもこの場にひとり取り残されたとして、誰が自分を助けてくれるだろうか。この身を「駒」としか捉えていない兄夫婦には、情けなど微塵も期待出来ない。再び使い物にならないと分かれば、そのときはうち捨てられるだけ。

 

 いつしか頬を撫でる気流が、夕暮れの涼やかなものに変わっていた。俯いたままの燈花の髪を静かに揺らし、通り過ぎていく。さやさやと草の揺れる音、鳥の啼き声。

「……ほら、ご覧なさい。あれが我が領地の宝、紫峰の夕映えです。まるで、山が勇ましく燃え上がっているように見えるでしょう……?」

 いざなわれるように、ゆっくりと振り向いていた。

 ああ、あれは。輿入れの日、傍らの侍女が自分に告げた美しい風景である。あのときは絶望の中にいて、そのようなものは眼に収める気分にもならなかった。……そして。今再び、さらに深い嘆きの中にいて、その姿は変わらずにそこにある。

 何と美しい山脈であろう。幾重にも連なり、近くに遠くに連なりあっている。「紫峰」と呼ばれるにふさわしいその姿。白く霞む向こうまで柔らかな色に染まっていた。そして、夕暮れにあって。その優美な輝きはますますその色を際だたせている。普通ならば、朱に照らされれば朱に染まるもの。だが、ここは違う。しっとりとした色味がますます濃くなり、間近に迫ってくる心地がする。

 自然の作り出した、この世にひとつだけの色。神の手に導かれたかのように、見る者の心を虜にする。幾度となく話には聞いていた。だがこうして目の当たりにすれば、人の伝える言葉など何とも浅はかであると言うことを今更ながら思い知らされる。

「ええ、……誠に。噂以上に美しいですわ」

 高い場所で結われた髪には一寸の乱れもなく、きりりとした首筋に美しい流れが落ちていく。夫である男の背を見つめながら、それだけ告げるのがやっとであった。いつしか目の前の全てが、白くぼんやりと霞んでゆく。

 

 ほろほろと頬をこぼれる雫。溢れる意味すら分からず、燈花は目の前の人に悟られぬようにそれを袂に隠した。


つづく(050729)


 


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Novel Top秘色の語り夢・扉>紫峰のしずく・7