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閉ざした瞼の裏側からも容易に感じ取れる、朝の輝き。 背中に回る腕の存在を知りながらも、なかなか眠りの淵からはい出すことが出来なかった。昨日の遠出がこの身に心地よい気だるさを残しているのだろうか。男の規則正しい呼吸が頬を震わせる。髪を梳いていた指先が、やがて静かに離れた。 「本日から、しばらく留守にします。私が戻るまで、しっかりとこの館を守ってくださるよう、お願い致しますよ?」 ゆっくりと腕が解かれていく。さらりと衣擦れの音が耳元をかすめ、燈花はようやく瞼を開いた。閨の中までの満たす光が眩しすぎて、思わず目を細めてしまう。視界の向こうの男は静かな微笑みをその口元に浮かべ、真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめていた。
――留守にする……とは、どういう意味なのだろうか。
寝起きの頭ではすぐに思考を巡らすことも出来ない。男の告げる言葉の意味をどうにか探ろうとその表情を覗き込めば、彼は軽い笑い声と共にかすかな吐息を漏らす。着崩れた寝装束の襟元を直しながら、しばしの間をおいて再び口を開いた。 「そのように驚かれるとは、嬉しい限りですね。きっとあなたのことですから、私が不在を告げればどんなにお喜びになるかと口惜しく、なかなか切り出すことも出来ませんでした」 彼は静かに立ち上がると、鴨居の上から下がっている鈴を静かに引いた。柔らかな音色が渡りに広がってゆく。これが夫婦だけの部屋に侍女を呼ぶための合図であった。 「何、あなたの兄上様の元への月に一度の出仕です。……正確な日程はあちらに上がってみなければ分かりませんが、ほんの七日ほどのことですよ。私のような身軽な立場では、それほどの重要なお役目を申しつかることもございません。すぐにこちらに舞い戻れることでしょう。 几帳の布を上げて、自分の夫である男が出て行く。ゆるゆると身を起こしながら、その背が影となり遠ざかっていくのをぼんやりと見つめていた。
言われてみれば、造作ないこと。 この地で一定の身分のある者であれば大臣家への出仕は当然のことである。むしろお呼び立てがあることを名誉なことだと思わなくてはならないだろう。高い身分の御方から目を掛けられると言うことがどんなに重要であるか、それを知らぬ者はない。一族の繁栄のためにも願わない者などいないはず。 だが、どういうことなのだろう。実妹である自分を一家臣にわざわざ輿入れさせることも、普通には考えられないことである。もしや……、兄はすでに何かを知っているのだろうか? まさかとは思うが、あの兄のことであるから侮ることは出来ない。
――ああ、これから暫くはあの男に振り回されることもなく、気楽な日々を送れるのだわ。
几帳の向こうでは先ほど呼ばれた侍女たちがすでに集い、あれこれと夫に世話を焼いている様子である。その笑い声を聞きながら、今一度ゆっくりと横になった。 そうなのだ、あの者の妻になったと言っても何が変わったわけでもない。ただ住み処が変わり、自分を世話してくれる顔ぶれが変化しただけ。何の代わり映えもない退屈な日常が延々と続いている。 「しばしの辛抱だ」……と兄は言った。時が来れば自分には新しい務めが待っていることを暗にほのめかしながら。兄の腹の中には何か考えがある、それは確かなのだ。
「……あ……」 ハッとして、身を起こす。少し横になるつもりだったのに、いつの間にかまどろんでいたらしい。気付けば辺りはすっかり静寂が戻り、物音ひとつしない。慌てて几帳の表に出てみたが、そこももう何もかもが綺麗に片づけられた後であった。
――何と言うことだろう。あの男は正妻である自分に声も掛けずに出掛けてしまったと言うのか。
じわりと手のひらに汗が滲み、次の瞬間にはたとえようのない屈辱が胸にこみ上げてきた。確かに普段のお出かけならば、部屋で見送るだけになっている。本来妻という立場にあるならば、夫である男が館から出るときには門先まできちんと見送るのが当然であると教えられていた。 行き場のない怒りに任せて渡りに飛び出せば、遠く表庭の方から馬のいななきが聞こえてきた。その声を聞いて、ハッと我に返る。 ……そうだ、これは昨日の馬のものに違いない。聞けばあれは夫がとても可愛がっている馬だという。どこへ行くにも、ほとんどはそれを使っていると。
気付けばばさばさと衣を振り乱しながら、我を忘れて足を進めていた。 長い渡りを過ぎて、誰の姿もない広間も横に突っ切ってしまう。「敷居を踏んではいけない、大股で歩いてはならない」などと厳しくしつけられてきたことなどこの際忘れてしまうことにした。……ああ、動きづらいこと……! どうして自分は侍女たちのように軽やかに動けないのだろう。 「……あ……?」 すぐにはおもてを上げることも出来ずに、静まりかえったこの状況を聴覚で確かめる。こうなる前に一瞬だけ見た風景、そこには館中の者たち全てと言っても過言ではない顔ぶれが集まっていた。そう言えば、表の戸を開ければすぐに急な階段があったはず。勢い余って足を止めることも出来ずに、自分はそこを転げ落ちてしまったらしい。
ああ、どうしたこと……! 自分は今、何て情けない姿を晒しているのか。集まった皆がどんなにか呆れているかと思うと、このまま消えてしまいたいほどである。
「……姫……!?」 地を蹴ってこちらに向かう草履の音が響いてくる。ようやく俯いていた顔を上げると、手綱を下男に任せた夫が、駆け寄ってくるところであった。戸惑う眼差しが、しっかりと燈花を見つめている。 「お怪我はありませんか? 驚きましたよ、一体どうしたというのですか」 こちらが立ち上がるのを手助けしようとしたのだろう、腕に優しく添えられた手を知らないうちに乱暴に払っていた。何故そんな風にしてしまったのか分からない。でももう気付けば何もかもが嫌になりかけていた。ああ、どうしてこんな風にみっともない真似をしてしまったのだろう。それも皆この目の前にいる男のせいではないか。 きっと、この中に夫の愛人である女子も紛れているのだ。……それなのに……! そう思うとさらに口惜しさに身体が燃え尽きそうになる。怒りの余り溢れ出た雫をかろうじて袂に隠しながら、燈花は必死で呼吸を整えた。こうなったらこちらも意地である、夫の企みになどどうして乗ることが出来るものか。 「しっかりとお務めくださいませ。……無事のお帰りを、心よりお待ち申し上げております」 体勢を立て直せば、どうにか跪いて礼を尽くしているように見えなくもない。みっともなく崩れた顔も、乱れ髪が隠してくれるだろう。どうにかして、この場さえやり過ごせば。あとは部屋に戻って、誰にも顔を合わせずに籠もっていればいいのだから。ああ、どうか今はこちらの気持ちを察して欲しい。上手く取り繕って、合わせてくれないものか。 燈花は必死で祈り続けていた。だが、夫である男はいつまでも立ち去る気配がない。それどころかこちらの姿勢に合わせるように、さらに姿勢を低くして膝をついて来るではないか。一体何処までこちらの気持ちを踏みにじれば気が済むのだ、他に人目がなかったらとっくに大声で罵倒していただろう。それも出来ない今、無言で打ち震えるしかない。 「お疲れなのですからお休みになっていて宜しかったのに……、このように慌ててお出でになって。本当に困った御方ですね。無茶をなさらないでください、これではさらにあなたが恋しくなって、無事に出掛けることも出来なくなってしまいます」 ふわり。 温かい腕が我が身を包み込む。それを振り払う気力も、すでになくしていた。涙に濡れた頬に指先が触れる、不安げな瞳がこちらを見つめていた。 「そのように……、ああ本当にあなたという御方は」
刹那、濡れた頬に触れた吐息。 ほう、という溜息が周囲から聞こえてきた。こちらを気遣うようにゆっくりと手を添えて立ち上がらせてくれてから、静かに腕を解く。その深い緑の瞳が寂しげに揺れていた。
「なるべく……早く戻りますよ? そのときにはどうかいつもの可愛らしい笑顔で迎えてください」 ひづめの音が遠ざかっていく。輝き始めた夏空の下で、燈花はその颯爽とした後ろ姿をいつまでも見送っていた。
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この館に長く仕えているという侍女頭は何でも心得ていて、燈花が女主人として恥ずかしくないように始終気に掛けてくれている。決して出過ぎた真似はせずに、でもこちらが訊ねる前に全てを承知してくれるのは有り難い限りであった。
「お方さま、今宵は素晴らしい月夜の様子にございますよ。如何ですか、御館様よりのお琴をお弾きになりませんか? お心づくしの贈り物とご一緒ならば、お気持ちも和まれるのではないでしょうか」 思いがけない言葉に、燈花は驚いて顔を上げた。肘置きに身体を預けたまま気付けばまたぼんやりとしていたようである。あの男がいなくなってからというもの張りつめていた緊張がなくなり、何とも言えぬ空虚な気持ちで満たされていた。今思えば、あの小癪な物言いもここでの暮らしの張りになっていたように思えてくる。 「存分にお手慣らしをなされれば、お戻りになった御館様もどんなにかお喜びになられることでしょう。本当に見事なお品ですわ、このように素晴らしい仕事を私も今までに見たことがございません。本当に腕の立つ職人の渾身の逸品なのでしょうね」 笹は燈花が何も答えずとも、静かに微笑みを浮かべつつ支度をする。以前から不思議な女子だとは思っていたが、この館に移ってからの彼女はさらに違ってきたような気がする。大臣家に仕えていた頃のおどおどとした様子がなりをひそめ、その代わりにゆったりと満ち足りた優しさに包まれていた。
部屋の奥に立てかけてあったままのそれを、下男を呼んで縁の側に設えて貰う。あの日以来、久しぶりに向き合うそれは、月明かりを浴びてさらに美しくその姿を輝かせていた。 用意された爪を付けて弦の上に指を置いてみたが、そこではたと止まってしまう。どうしたことだろうか、物心が付く前から当然のように親しんでいたはずなのに。今は気持ちばかりが高ぶって指先が大きく震え、躊躇ってしまう。 だが今は。このように腑抜けになってしまった心では、親しんだ旋律も浮かんでこない。どれもが指の先を通り過ぎ、どこかに立ち去ってしまうのだ。これではもどかしいばかりで、掴みようがない。
――いけない、こんな風にしていたら怪しまれてしまうわ。
胸に手を当てて、何度か深呼吸をして気分を落ち着ける。そうなのだ、夫となったあの男と自分以外は知らない秘密があるのだ。それを悟られてしまっては、元も子もなくなる。ここでの暮らしを滞りなく続けてゆくために、交わした契約。まだそれを翻すときではない。 瞼を閉じて、じっと耳を澄ます。すると、みずみずしい音色がふいに心に戻ってきた。何だろう、これは。何故かとても懐かしい。つなぎ止めるように必死で指を動かし、思いつくままにかき鳴らしてみる。初めはよそよそしかった音色も、いつか流れるように辺りに美しく響き始めていた。 心を覆い尽くしていたあのたとえようのない憂いも、どこかに過ぎ去っている。何と満ち足りた気分だろう、このような心地は今までに味わったこともない。まるで柔らかく包み込まれてゆくようである。夢中でかき鳴らしているうちに気付けば天の輝きの位置も変わっていた。
「そろそろ、お休みになりませんか? だいぶ夜も更けて参りましたので……」 この者にしては珍しく、小さなあくびをかみ殺している。こちらとしてはさらに気持ちも高ぶって、とてもそんな気分にならないのだが仕方ない。促されるままにしとねに横になってみたが、やはりいつになっても眠気は訪れてくれなかった。 もうすでに分かっていた、自分をいざなってくれたあの優しい旋律はあの男が奏でた笛の音色。それを必死に追いかけるように、知らずに指が動いていた。どこにも行けずに戸惑っていた心までが、いつしか辿り着ける場所を見つけようとしている。 今までにも「もしや」と思う瞬間はいくらでもあった。だが、こちらにも意地がある。何としても認めるものかと必死に踏みとどまっていた。その堰き止めていた心までが、とうとう溢れ出てくる。
――わたくし、恋をしているのだわ。
ずっとその事実から目を背けてきた。何と言っても、相手は初めから自分のことなど気に掛けてもいない男なのである。いいように振り回されてはたまらない。どうにか留まれないものかと何度も堪えてはみたが、気付いたときにはすでに後戻りが出来ない場所まで来ていた。 一瞬だけ唇が触れた頬が、今でも熱い。届くはずもない想いだからこそ、さらに切なさは募った。 新婚の妻である自分を捨て置き、他の女子の元へと夜な夜な通うような不誠実な男。偽りの関係を「契約」だと言い張るほどの開き直りようである。……だが、それも定かではない。よくよく考えてみれば、出逢いからして最悪であった。あのような振る舞いも、全てはこちらが頑なな態度で接するからではないかとも思えてくる。 閉じた瞼の裏に広がる紫峰の風景。愛馬を駆ってあの男が戻ってくるのは、他でもない自分の元なのだ。誰が何と言おうが、この立場は譲れない。だが、この想いをどうやって口にしたらいいものだろうか。
明日の朝目覚めても、傍らにあの男の姿はない。それを知りながら過ごす独り寝の夜は、とてつもなく深く長く感じられた。
つづく(050811)
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