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一度解放してしまった心は、その後どうしても元通りに戻ることはない。 己の気持ちがどこにあるのかをしっかりと確認したとき、燈花はもうどんなことをしても我が心を偽ることは出来ないと悟った。緩やかな気の流れが寝所の薄布を揺らしただけで、男が戻ってきたのかと目覚めてしまう。そのように眠れぬ夜を過ごし、もう長い時間ひとりで過ごしてきた気がする。でも改めて思い直してみれば、夫である男が出仕した朝から三日しか過ぎていないのだ。
ああ、何てこと。わたくしは、一体どうしてしまったのでしょう……? 日に幾度となくつま弾く琴の音は、そのまま男を求める思慕の心であった。広い対のあちらこちらに、つい先刻まで彼がそこにいたような懐かしい気配が漂っている。こうしているうちにも渡りの向こうから、急ぎ足でやってくる足音が聞こえるのではなかろうか。 再びお目にかかれたその日には、もうこの想いを抑え込むのはやめよう。どんなにみっともなくはしたない姿になっても構わない。男の心も身体も全て我がものにしてしまいたいと切に願った。 懐かしい笑顔が柔らかな灯りに照らし出され、こちらを振り向く。その時こそ、この真の心をお伝えしよう。それでもまだ男が我が手を振り切り愛人の元に行くと言うならば、その時は彼の行く手を阻んでしまえばよい。何があってもここはお通しすることは出来ぬとにじり口の前に立ちはだかり、今宵はどうしてもお側にいて欲しいと告げよう。 ――と、心強く思った次の瞬間には、もう臆病心が顔を出し始める。 夫である男が時折見せる、まるで別人のように優しい表情。あれこそが、周囲の何者をも欺く手腕なのであった。誰もが疑う余地のない程に完璧な演技であるから、自分も心を許しそうになる。だが彼の心の深い根の部分は全く分からないままではないか。 お相手がかの竜王様であるならば、大勢の女子の中で寵を争うのも一興かと考えていた。この上なく高貴な身の上の御方であるのだから、ひとりの女子で物足りないのは当然のこと。お手つきの女子が増えるからこそ、この海底の国も栄えていくと言うものだ。それに御子を産み上げた側女(そばめ)の実家がある集落も栄える。そのようにしてこの国は成り立ってきたのだ。 ――だが、自分の夫はただ人ではないか。いくらあのように畏れ多くも王族の真似事のような暮らしをして贅の限りを尽くしているとはいえ、その立場が変わることは万に一つも有り得ない。己の身の上をわきまえ、慎ましく過ごすのが賢い者のすることだろう。それをわざわざ危険を承知で道を外そうとするなど、愚かしいもこの上ない。 しかしながら、あの男はどこまでも堂々と我が道を貫くつもりであるらしい。わざわざ西南の大臣の実妹である自分を側に置き、全てを明るく知らしめた上でさらに高飛車な行動に出る。彼に掛かれば、この身など儚いもの。もしも強く欲したところで、無惨にもうち捨てられてしまうのではなかろうか。 確かに今の生活に不満はない。何もかもが満たされ、この上ない心の平安を手に入れた。……でも。 どうして、人はこのようにさらなる上を求めてしまうのだろう。いくら一豪族の正妻として家の者たちから大切にされても、それだけではもはや飽き足らなくなっている。このように立場や権力があっての取り持ちは、長続きすることはない。一度風向きが変わればすぐ、周囲の者たちは手のひらを返したように冷たくなる。
もしも夫との不仲を大臣である兄に訴えれば、離縁するのも容易いことであると思う。 この身を大切に愛情深く扱ってくれる男は他にいくらでもいるはず。そのような者の元に身を寄せた方が、どんなにか満ち足りた実り多い日々を過ごせるであろう。あの兄であっても、自分をいつまでも今の男の元に置こうとは考えていない。その時期が少しばかり早くなったとしてもなんら支障もないはずだ。 今まで、そのような庶民の者たちのような感情など無縁のものだと考えていた。良家同士の縁談は、家と家との駆け引き。互いの損得が上手く釣り合うことこそが大事なのである。「駒」として生きることにも、燈花は少しの疑問すら感じていなかった。
――この感情は怒りなのだ。そう考えることで、どうにか己の心を納得させていた。大臣家の姫君として、一国一の女子とうたわれた身の上として、どうしても負けることは出来ない。
他の男のものではなく、あの男の心が欲しい。そのために自分はここに留まり、戦い続けなければならないのだ。
◆◆◆◆◆
客人が訪れる間とこの奥の対とはだいぶ離れている。うっかりとうたた寝などをしていると、誰かが訪ねてきたことにも気付かずに済ませてしまうことすらあった。それなのに、今日は勝手が違っている。見れば昼前までは庭仕事をしていた下男たちも姿を消している。 「……何事ですか。どなたか大切なお客人がお出でなの……?」 そんな知らせは聞いていなかった。でも予定が急に変わることもある。もしも表までお出迎えをするなら、人を呼んで衣を改めなければならない。そう思って訊ねても、使用人たちは皆、曖昧に首を横に振るだけ。 「お方様は……ご心配なく。今しばらく、こちらでお待ちくださいませ」 その表情からもただ事ではないことが感じ取れるというのに、何故隠そうとするのだろう。そのような態度を取られてはかえって気になるというもの。とはいえ強く出るのもはしたないと考え、しばらくはただ悶々とひとり過ごしていた。
夕暮れを迎える頃には、いよいよ辛抱がならなくなる。馴染みの侍女を呼び止めてことの次第を訊ねようとした矢先、表の方で馬のいななきが聞こえた。その瞬間、屋敷全体が水を打ったように静まり返った。 ――え? ……これは、どういうこと……? 燈花自身も、知らぬ間に浮かせかけた腰を元の敷物の上に戻していた。馬鹿な、……そんなはずはない。元通りに肘置きに身体を預けようとしたが、上手く行かなかった。しばらくは身体の震えをしずめるだけで精一杯。その間も渡りを進んでくる足音は皆無であった。まるで全てが自分という存在を置き去りにしたままで過ぎていく。 何故、……どうしてなのだろう。そんなはずはないのに……! もしも自分の予想が正しいのだとしたら、今のこの状況はおよそ許されるものではない。こう思えば、胸奥ではいくつもの爆発が起こり、行き場のない怒りが一面を覆い尽くそうとしていた。しかし、ここで感情に負けてどうするのだ。今まで数えきれぬほどの理不尽な立場にも耐えてきた自分である。大丈夫、立派に立ち振る舞ってみせよう。 ようやく気を鎮めて立ち上がる。そして重い重ねを引きずるように進んでいった。
幾重にも折れていく渡りはどこまでも長く果てしなく続くように思われる。 遠目に見ればわずかな距離だが、目の錯覚を利用した不思議な造りになっているのだ。柱を立てて屋根を付けただけの吹きさらしの場所であるから、手入れの行き届いた長く豊かな髪はさらさらと伸びやかに気流に乗って広がっていく。 ――こんなふうにしたところで、何のためになるというの。 もちろん、夫である男は些細な変化にもすぐに気付いて褒め称えてくれる。そのあまりのはしゃぎようには、近くにいる侍女たちが呆気にとられるほどであった。だがそれも表向きだけのこと、人払いをしてふたりきりに戻ってしまえば全ての夢から覚めてしまう。
ようやく表の対まで辿り着く。 ぴっちりと戸を閉め切った向こうは、初めての夕べに婚礼の衣装をまとった部屋であった。普段であれば、昼間はすっかりと開け放っているはずの場所。その向こうがひっそりと静まり返っているのも不気味である。 「……?」 少し先に、指が入るほどの隙間があるのを見つけた。横に戸をずらせば、どうにか向こうが覗けそうである。そっと手を添えて音を立てぬように押し開く。次の瞬間、燈花は思わず声を上げそうになった。 ――これは……どういうこと? 色とりどりの衣をまとった男女たち。その広間には、館に仕える全ての使用人が集まっているように見受けられた。皆が一斉に上座の方を向いて座り、うなだれている。中にはすすり泣いている様な姿もあった。一体何事かと、皆の視線の先を見上げたとき――。
「まあっ……! お方様、このような場所にいらしては困ります。どうぞ、お部屋にお戻りくださいませ……!」 突然後ろから衣を引かれる。ハッとして振り返れば、年配の侍女がそこに立っていた。自分に接するときに身につけているきらびやかな衣ではなく、質素な装いに改めている。手にしていた茶道具を一度下に置くと、彼女は強引に燈花を促した。 「えっ……、でも。あれは……!」 しかし、こんなことでひるんでなるものか。侍女の力は相当に強かったが、燈花も必死にあらがった。大きくかぶりを振れば、朱の髪が辺りに美しく広がって行く。 今見たばかりの全てが、燈花の心をひどく混乱させていた。全てを説明して事実を知らしめてくれるまでは、どうにも収まりがつかない。そう思って強い心で見つめた相手は、驚くほどに落ち着いた笑みを浮かべていた。 「申し遅れましたが、今宵は西の地に出向く特別の御方がこちらの館を宿になさいます。お方様もただ今ご覧になりましたでしょう……、大臣家ゆかりの御方ではございませんか。西の地で開墾の指揮に当たるお役目をお上から申し使った、お方様には御兄上様のご子息でいらっしゃいますよ。お噂通りのご立派な御方にございますね、必ずや大きな成果を上げられるとお見受け致しますわ……」 さらさらと小川の流れのように涼やかな声を、燈花はとても遠くで聞いているような気がしていた。その言葉のひとつひとつは整然としていてとても分かりやすい。だがどうしても心が受け入れようとはしないのだ。
海底国のあまたの集落の中でも、特に過酷な気候だと言われている西果ての地。気もかなり薄く、健康な者であってもなかなか暮らせるものではないと聞いている。 そんな荒れ果てた地の開墾。そこで鍬を持ち耕していくのは、人の道を外れ重い刑に処された罪人たちであった。もともと不摂生な暮らしをしていた者が多いこともあって、そのほとんどは生きて再び故郷の土を踏めないとすら言われている。しかしそのような場にも、上に立って仕事を先導していく者はやはり必要であるのだ。 では、今見たのが……? いや、そうであるはずはない。だって、あれは……。
「お方様の甥御様でいらっしゃいますから、お目通りしてご挨拶なさるのは当然のことではありますが……その御衣装では困ります。さあ、お部屋にお戻りになってお待ちくださいませ。――だれか……!」 侍女の声は渡りを響いていき、幾人かの者たちがあちらこちらから姿を見せた。大勢の手に掛かってはどうすることも出来ない。収まりどころのない心を抱えたまま、部屋に連れ戻されるしかなかった。
◆◆◆◆◆
あれきり、衣装替えをすることもなく、奥の対に押し込められたまま。あの侍女はさっさと持ち場に戻ってしまい、代わりに数名の者たちが部屋の表で番をしている。これではあっという間に囚われの身の上ではないか、一体何がどうなっているのだろう……? 一刻ほど前に運ばれてきた夕餉の膳にも手を付ける気になどなれなかった。たとえようのもないほど激しい憤りに心は支配され、だがどこへもぶつけるあてがない。
――あれが、兄の長子? ……どうして、そんなはずがないではないの……!
広間の一番奥、上座に座っていたのは、きらびやかな衣装を身につけた立派な体格の男であった。頭には金色に光る冠を付けている。その装いは、遠征団の晴れ装束によく似ていた。 うら悲しい雰囲気で満たされた広間、うなだれる使用人たちに向けられた眼差しはどこまでも穏やかで慈しみの色に満ちていた。膝の上でしっかりと握られた拳は微動だにせず、少しの動揺も見られない。やがて男は部屋を覗く燈花に気付いたのか、静かに向きを変えて顔を上げた。 そう、一瞬であったが、確かに目が合ったのである。しかしこちらがあまりのことに青ざめるよりも早く、彼は何事もなかったかのように静かに目線を下げてしまった。
渡り向こうの広間は夜がすっかり暮れた今では、昼間とはうって変わって賑やかなさざめきに包まれていた。 燈花が部屋に連れ戻されたあとも、しばらく辺りはひっそりとしていたが、夕刻を迎える頃から次第に賑わいを取り戻している。お客人をおもてなしするための宴が始まるのだと、部屋の灯りを付けに来た侍女が教えてくれた。 ――今宵の宴も、あのときのように夜通し続いていくのかしら……? 燈花はこの館に初めてたどり着いた日のことをぼんやりと思い出していた。あれからまだひと月も過ぎていない。なのにもうずっと長いことこちらに留まっているような気がしてならないのだ。さらに実家である大臣家での暮らしはすでに霞の向こう。いくら脳裏に浮かべようとも、すべてがぼんやりとして曖昧になってしまう。
「……あ、お方様」 やはり自分の側にはいつもの侍女が控えていた。苛立ちからか火照る身体にゆっくりと風を送りながら、それでも彼女は何かをすでに知っているように見える。他の使用人にしても同じこと。皆がすっかりと承知していることを、燈花ひとりが何も知らされてはいない。このように爪弾きになっていいものだろうか。 障子戸の向こうを伺っていた笹が、ゆっくりと向き直る。――と、同時に目の前の戸がすっと静かに開いた。反射的に顔を隠そうと広げた扇が、ぱたりと床に落ちる。 「これは……、酒を過ごして部屋を間違えましたかな?」 そこに立っていたのは、昼に広間で見たあの男であった。あれから衣は改めているようであるが、やはり武官の装いで使われているのもかなり派手な織り文様である。ゆったりと肩から床まで流れる重ねに比べ、腰でたくし上げるそれは不規則なひだが出来、さらにきらびやかさを増しているように思われた。 部屋を間違えた、と自分で告げながらも、男は遠慮することもなく部屋に入ってくる。しかも笹と言えば、隅で礼を尽くして頭を下げたまま。何の助けにもならない有様である。 「お久しゅうございます、叔母上――、……いえ」 ひとつ咳払いをして、男は静かに戸を閉めた。刹那、ゆっくりとその顔に浮かぶ微笑み、流れるような身のこなし。それを忘れるはずもない……否。忘れたくても忘れられなくて、ずっと恋い焦がれていたのだ。 「私との約束をお忘れになったのですか? 可愛らしい笑顔で迎えてくださいと申したではございませんか……姫?」
ふと気付けば、いつの間にか煙のように笹の姿が消えていた。表にも先ほどまでの見張りの影がない。宴のさざめきを遠く聞きながら、懐かしい眼差しの「見知らぬ男」を燈花は静かに見つめていた。
つづく(050825)
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