Novel Top秘色の語り夢・扉>紫峰のしずく・10


…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-10-

 

 

 水場の近いこの辺りは、こうして夜も更ければ思いがけないほどに涼しげな気が流れ込んできたりする。

 

 すでに辺りは夏の盛りを迎えていたが、同じ集落の中でも場所が違えばかなり過ごしやすさに格段の差があるらしい。これくらいの時節であれば、大臣家では全ての戸を開け放たなければ休むことも出来ぬ寝苦しさである。幾夜も重ねた独り寝のうちには、このような過ごしやすい地で暮らしていける者たちも存在したのだと恨みがましい気持ちまで募った。
  自分は本当に何ひとつ知らぬまま、今まで生きてきたのだ。ただ殿上人であるあの御方の元に輿入れすることだけ、それ以外にどんな選択肢があったというのだろう。世界は広く、そこに生きる民たちは気性も肌の色も皆違う。同じ種族であってもここまで差が出るのだから、他の集落に行けばまた驚くべき事実に出会うことになるのだろう。

 もしも落ちぶれてこのようなところまで流れ着かなかったら、一生それに気付くことはなかった。

 

「どうしましたか。このように思いがけなく早く舞い戻って参りましたのに、喜んで頂けないのでしょうか? ――否、牛車などと面倒なものは使わず、自らで馬を駆り一刻でも早くあなたのお顔を見たかったですよ。こんなにも恋い焦がれていた私を前にして、そのようにつれなくなさるとはひどい御方ですね」

 この期に及んで、まだ減らない口がものを言う。いつの間にか彼は燈花よりも縁に近い場所に当然のように腰を据え、その口元には笑みさえ浮かんでいる。燭台の灯りに照らし出され、さらに陰影を際だたせたその表情はどこまでも悠然としていた。

「――あなたは、私の甥などではないでしょう。どうして、そのような嘘を仰るのです?」

 一体、どこから斬り込んだらいいものか。それを思いあぐねていた。もう少し遠回しに探りを入れることも考えたが、もはやそんなゆとりもない。かろうじて絞り出したのは、隠し立てのない真を付く一言だった。

「……ほう」

 どこまで自分を馬鹿にするつもりなのだろう。意を決したひとことをこちらが放ったというのに、なおも男の態度は変わらなかった。このままいつものように煙に巻かれてはたまらない。今日という今日は、全てをはっきりとさせて貰わなければこちらも我慢ならなくなっている。怒りに燃えた視線を返せば、男はそれすらも受け入れる如く薄い笑みを浮かべた。

「久しぶりに昔話に花を咲かせるのも一興かと存じましたが……、そう言い切られてしまっては仕方ございませんね。そのお美しいお顔に恐ろしい青筋が立っているのも、頂けません。困りました、どうすれば愛しい姫君はご機嫌を直してくださるのでしょう……?」

 

 ゆっくりと、男の袂が揺れる。

 ふわりと緩い流れがそこから広がり、次の瞬間に部屋の中を照らしていた炎のほとんどが消える。――否、残ったのはただひとつ。ふたりの間にあるそれだけだ。

 

「――さて、何からお話し致しましょう。とは言っても、それほど内容があるわけではありませんよ。姫君が何をお察しなのかは知りませんが、あまり難しくお考えになっていらしても拍子抜けをするだけでしょう」

 部屋には目の前の男と自分以外誰もいない。間者でもどこかに潜んでいれば話は別だが、そのようなこともあまり心配することはない。大がかりにするまでもないのだ。もしも本気で掛かれば、この男ひとりでも丸腰の女子の息の根を止めることも容易いことであろう。

 それでも、わざわざ膝を詰めて声をひそめる。密談でも始めようと言うような様子であった。

「でも……、あなたは大臣家の者ではないわ。それだけは確かよ。……わたくしの考えは間違っていて?」

 男は燈花の言葉に声を出して返答はせず、その代わりにゆっくりと深く頷いた。

「いえ、間違いはございません。私のような者が大臣様の息子を名乗るなど、とんでもないことでございますね。でも、こればかりは致し方ございません。そう言うことにしておかなくては、約束を違えることになるのですから……」

「……約束?」

 男の放った意外な言葉を、燈花は知らず反芻していた。それを見た彼は満足げにまたひとつ頷いてみせる。一度振り返り、障子戸を静かに開いた後、またゆっくりとこちらに向き直り姿勢を正した。

「畏れ多くございますが、西南の大臣家の長子――すなわち姫君の甥御様と私とは、立ち姿などはかなり似ていると皆から口々に言われているのですよ? ただし……あちらは面差しが御父上様にうりふたつと評判ですからね、背格好と後ろ姿に限られるのではございますが」

 くすくすと低い忍び笑いが漏れる。何と無礼な物言いかと思うが、事実であるなら致し方あるまい。燈花は口を一文字に結んだまま、湧き上がる感情を抑えるのに必死であった。

「されど、彼はさすがに大臣様の見込んだだけのことはある素晴らしい人材です。あの大臣家にあって、傲ることなく的確な政(まつりごと)を行える頼りになる御方と言えましょう。跡目様でいらっしゃる正妻腹のご子息など、彼の足下にも及びません。側女腹であるのが惜しまれるところですが、かえって身軽に動ける点では幸いかも知れませんね。
  これからのこの集落は彼の采配次第でしょう。家臣たちの間では皆そう思っております。御父上の大臣様とて、同じお心かと……。ですが、今回のことは逃れようがございません、いくら西南の大臣家が王族と深い縁があるとは言え、それとこれとは話が別。さすがの大臣様でも、どうすることも出来ませんね。白羽の矢の立った御方が、正妻腹の御子でなかったことも災いだったでしょうし」

 燈花は男の話をゆっくりと追いながら、遠い実家のことを思い出していた。額に手を当てれば、忘れかけていた記憶がありありと蘇る。

 ああ、その話は良く耳にしていた。兄嫁はいつでも自分の産んだ跡目が心許ないことに腹を立てていたと思う。誰の目から見てもその差が歴然としているのを承知しながらも、やはり母としての立場がそれを許さなかったのか。
  兄が別格に思っていたその生母も、あの手この手を使ってとうとう屋敷から追い出してしまったと聞く。もともと好色であった兄ではあるが、女子に対してあのように見境がなくなったのはその女子を手放してからだと言われていた。初めての女子であったと聞いているから、その思い入れも特別であったのだろう。

 今回の指揮官の話にしても、裏で兄嫁が手を回していたと噂する者も少なくない。それを知っていても、誰もどうすることも出来ないのだ。

「……しかし、もう決まってしまったことでしょう? 今更、そのような話をしてどうなることでも……」

 それは何気なく口をついて出てきた言葉であった。だが、自分の声を聞き取った瞬間に、燈花の顔色が変わる。何か……大切なことを見過ごしているような気がしてならない。その答えを見つけようと目の前の男に視線を移せば、彼はやはり静かな笑みをたたえたまま。

 ……だけど。まさか。

 そのようなことはない、あってはならない。自分の内側から、そんな叫び声が飛んでくる。しかし、一度湧き上がってしまった疑惑は、次第にはっきりとかたち取られていく。口にするのもおぞましい、だがもうこれ以上、自分ひとりの胸の内に秘めていくことは出来なかった。

「まさか……、あなたが身代わりに……?」

 昼間、渡りで自分を制したこの館の侍女の言葉が鮮やかに蘇る。彼女は確かに言った、広間にいる男が大臣家の息子であると。西果ての地に開墾の指揮官として遣わされるその人だと……。

 そのような馬鹿げた話があるわけない、どうかすぐに否定して笑い飛ばして欲しい。たとえようのないおぞましさが身体中を駆けめぐり、じわじわと浸食されていく思いだ。

「さすが、聡明な姫君ですね。すぐにご承知くださるとは、有り難いことです。こちらも余計な説明に時間を割かなくて済みますしね」

「そんな……」

 願い虚しく、あっさりと告げられてしまう。わなわなと震える身体をかろうじて支えながら、燈花は混乱の極みにある頭の中をどうにか整理しようと試みた。

 確かに。

 あの兄なら、それくらいのことはしでかしそうな気がする。形代をでっち上げ、その者を身代わりに任地に遣わす。指揮官の任期は約一年、その間だけ実の息子をどこか安全な場所に隠しておけば良いのだから。牛車での移動であれば、御簾の内を悟られることもない。その事実を知るものは、かなり限られるであろう。もしかすると、兄嫁ですらそれを知らされていない可能性もある。

 ……でも、信じられない。

「そんな、……そんなことが許されるはずがないわ。あなたの後ろには立派な一族がいらっしゃるではないの、皆が納得するはずもないでしょう。いくら、横暴な兄の言葉であっても、あなたの御父上がそれを聞き入れる義理はないわっ、そうでしょう……!?」

 小さな名前も知られていないような家柄ならまだしも、月の一族と言えば西南の大臣家の三本柱のひとつ。誰よりも強い発言権を持ち、あまたと仕える家臣の中でも頂点に立つ場所にいると言われている。このように大人しく控えているから表面上は平穏を保ってはいるが、もしも何かあって反旗を翻されたその時にはどんな結果が待っているか見当も付かない。
  たったひと月足らずの関わりであったが、自分の夫である男の一族がどんなにか強い絆で結ばれているかはよく分かっているつもりである。温かな血潮のかよったやりとりは、冷たい人間関係を過ごしてきた燈花にとって信じられないことばかりであった。
  もしも大事な息子に何かあれば、あの領主が黙っているはずはない。一戦を交える覚悟で臨んでくるだろう。その時にはどう見ても大臣家の方が分が悪い。大衆の心がどちらに付くかは明らかであった。

 我が兄であっても、そのことくらいは重々に承知しているはず。それなのに何故、このように話が進んでいるのだ。しかも、自分には何も知らされぬままに。

「……仰るとおりです。もしもこのお話が大臣様の方から出されたものであれば、我が父も兄たちもすぐさま立ち上がったことでしょうね」

「え……」

 何かを含んだ言葉に、燈花はかすれた声で応える。男の視線が、そんな怯える心ごと柔らかく包み込んでいくのを感じ取りながら。

「大臣様の元に出向き、この話を切り出したのは私の方なのですよ。窮地に立たされていらっしゃるのだから、すぐさま飛びついて来られるかと予想していたのですが……かなり疑り深くて参りました。その腹に何を隠しているのかと、だいぶ詰め寄られましたね、でも最後には私の希望を全て聞き入れてくださいましたけど」

 真っ直ぐに、男の瞳が燈花を見つめる。初めてその視線に晒されたその瞬間から恐ろしかった、いつかこの瞳は我が心の隅々まで明るく見通してしまうような気がしたから。

「それに……あなたというこの上ない褒美まで頂くことが出来ました。私のような身分で、あなたのような御方を手に入れることが出来るなど、どうして考えられましょう。たったひと月足らずの夫婦でしたが、このような日々を過ごす栄誉を与えられただけで十分です。この上に何を望みましょうか……?」

 

 一体、何を思ってそのようなことを言うのだろう。燈花にはそれが分からなかった。揺れる濃緑の瞳の奥に、隠されているもの。笑っているのか、泣いているのか、それすらも判断出来なくなっていた。

 ゆっくりと差し出される腕。しかしそれはこちらまで届くことはなく、ふわっと宙を翻った。きらびやかな織り文様を施した袂が気の中を流れていく。

 

「私が望んだのは、大臣様が大切に囲っていた小鳥を空に返すことだけでした。ほら、……願い通りにあなたはもはや自由の身。その翼でどこまでも飛んでいけるのですよ?」

 部屋の天井を仰いでいた手のひらが、やがて彼が先ほど開けた障子戸に向けられた。そこからゆっくりと流れ込んでくる涼しげな気が、長く滑らかな指先に絡みつく。まるで短い舞いのように、いつか男の動作に見入っていた。どうしたらいいのだろう、このままでは全てを承知して受け入れてしまいそうである。

「うっ、嘘よっ……! そんな、……どうしてっ!?」

 自分をすでに覆い尽くそうとしている、おぞましい心地。それをどうにか振りほどきたくて、燈花は必死で叫んでいた。何故なのだ、そんな風に静かに笑っていられる男が信じられない。

 西の果て、最果ての地。

 そこに出向いた者は、指揮官という身分であってもふたりにひとりは生きて戻ってこないと言われていた。もしも幸運にも再び故郷の土を踏めた者もそのほとんどは廃人と化し、人としての再起はないと。
  過酷な気候に身体を壊すだけではない、始終相手にするのは死罪よりも重い罪に処された極悪人のみ。気性の荒い者たちに囲まれ、陰険にいたぶられることも多いと聞く。彼らが隠し持っていた刃の前に倒れる者もあると。そこは言葉では語り尽くせぬほど、壮絶な地なのである。

「冗談でもやめて……! あなたは一族にとって、この館にとって、なくてはならない存在でしょう? それを……どうして。ここにひとりで置いて行かれるわたくしはどうなると言うのです……!」

 館の使用人の誰も彼もから愛され大切にされていた館主。ある日その人が二度と帰らぬ旅に出てしまったとしたら、残された者たちはどうなるのだろう。そして、……自分は?

 大臣の息子の形代として任地に出向くことその代償としてこの身が与えられたと言うことは、すでに館の誰もが承知していることなのだろう。皆にとって西南の大臣家の姫君である自分は、皆から大切な主人を奪った憎い存在でしかない。今までは館主の妻であったから相応のもてなしを受けてきた、でもこの先はどうなるか。
  誰もが同じなのだ、立場が変わればその対応も変化する。いつもそうだった、誰もが自分のことが可愛くて、その身を守るために立ち回っていたではないか。

「ご心配には及びませんよ? ……何をそのように怯えていらっしゃるのです。あなたはいつまでも私の愛した大切な御方として、私以上に心を尽くしてお仕えするようにと皆に言い渡しております。あなたは何も案ずることはございません、私がいなくなっても何ひとつ変わることはございませんよ?」

 何を根拠にそのようなことを告げるのだろう、燈花には未だ男の真意が分からなかった。

 きっとこの者は恵まれた幼年時代を過ごし、人を疑うことを知らないままここまでやってきたのではないだろうか。この者に限ってもしやとは思うが、ここは田舎育ちの純朴さが裏目に出たと言っても良い。

 

 今ならば、分かる。どうして兄が臣下の、それも跡目でもない三男坊に自分を降嫁させたのか。自分の息子の身を守るために、彼はこの身を差し出したのだ。しかも、たったのひと月足らずの期限付きで。

 ――時が来れば、お前にはさらに新しい仕事を与えることになる。

 この者が出立した後。間を置かずに兄の使者がこの館を訪れ、彼の地へと連れ戻される。そして、自分はまた兄の「駒」として動き出すことになるのだ。もうその行き場が決まっているのかも知れない、兄の腹づもりはいつも周到であるのだから。

 館の内側にも外側にも、存在するのは自分の敵ばかりだ。とうとう確かなものは何ひとつ消え失せてしまった、この手には何も残ってはいない。

 

「困りましたね、……どうすればご納得頂けるのでしょう?」

 もはや自分の心がどこにあるかも分からず、かぶりを振って美しい髪を周囲にまき散らす妻に、男はやはりゆっくりと静かな口調で告げた。

「何も案ずることはございませんと、申し上げたでしょう。あなたには、……私の子を産んで貰います」

 少し低くひそめた声を聞き取ったとき、燈花は驚きのあまり男の方に向き直っていた。すると、彼はさらに信じられないことを言い出す。

「――お気づきになりませんでしたか? あなたのお連れになった侍女が身籠もりまして……腹の子を我々に差し出してくれると言うのでね」

 

 ……え?

 

 己の頬が凍り付くのを、動かない唇で知った。こちらの驚き加減が伝わったのだろう、男はくすくすと声を上げて笑う。

「嫌ですね、……何か間違ったとんでもないご想像をされたでしょう? 残念ながら、彼女の腹の子の父親は私ではありませんよ。でも、かなり近しい関係の者でしてね――実は、こちらも知らぬ間に我が弟がそちらの大切な侍女を見初めてしまったらしくて。私も打ち明けられたときにはどうしようかと思いました、でもかえってそれが幸いするとは……ね」

 一度は冷たくなった頬が朱に染まるのを感じつつ、燈花は俯いてしまった。

 男が訊ねてきたとおりのことを考えていた自分が恥ずかしくなってしまう。何よりも、あの侍女を一瞬でも疑ってしまったことが情けなくてならなかった。
  でも、……あの娘の相手がこの男の弟、あの秋月という者なのか。言われてみれば毎日のようにこの館にやってきてはくつろいでいたが、あどけない顔の下にそのような腹づもりがあったとは。

「あなたのお産みになるのは、紛れもなく我が月の一族の大切な赤子です。大臣様とはいえ、その子を取り上げることは許されることではございませんでしょう。産み月まではそのようにしてやり過ごすことができますし、その後も産後の肥立ちなど理由を付ければどうにでもなります。
  我が一族を侮っては困ります。もしもあなたが再びあの籠の中にお戻りのなるのを望まない限り、館の皆でしっかりとお守り申し上げますよ。そして、……もしもどこかに飛んでいきたくなったその時は、遠慮なさることもございません。あなたはその時、真に自由な身になられるのかも知れませんね?」

「……え……?」

 思わず聞き返す燈花に笑顔で応えながら、男はゆっくりと立ち上がった。

「いつかあなたが心から想う相手が現れたのならその者とどちらにでもご自由に、と言うことですよ。残念ながら、すでにここにいない私にはお止めする術もございませんから――」

 

 かすかな衣擦れの音が、ゆっくりと遠ざかる。呆然と佇む燈花をその場に残し、男はいつものようににじり口から庭へと消えていった。


つづく(050902)


 


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