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…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-11-

 

 

 賑やかな宴のさざめき。陽気な歌声が遠く近く耳に戻ってきたのは、しばしの時を過ごしてからであった。

 上客をもてなすそれは、主賓も不在のまま夜通し続いていくのだろうか。表向きは明るく振る舞っている宴席の者たちの心中を考えると、鉛を詰めたようにずしりと胸が重くなる。

 いくつも過ごした夜と同じように、広い奥の部屋にただひとり残される。開け放たれたにじり口から涼やかな気が流れ込み、ふわふわと柔らかい几帳を揺らした。すでに軽い寝着に着替えていたが、その袖も裾も頼りなく後ろへと流れていく。寝所の枕元にひとつ残された燭台の輝きが、燈花の寝化粧を施した美しい顔をゆらゆらと照らし出していた。

 

 ―― どうして。一体、わたくしが何を望んだというの……?

 

 このひと月、自分の夫として振る舞っていた男の信じられない言葉は、未だに飲み込めぬまま辺りを漂っていた。表向きだけではあるが、それでも仲睦まじい夫婦を演じていたふたりである。それなのに通い合うものは何ひとつ存在せず、互いの心がすれ違うだけであった。

 ―― 私が望んだのは、大臣様が大切に囲っていた小鳥を空に返すことだけでした。ほら、……願い通りにあなたはもはや自由の身。その翼でどこまでも飛んでいけるのですよ?

 しっかりした口調で男はそう語った。その瞳はどこまでも穏やかで満ち足りていて、それまで感じていたこちらを見下すような色は微塵も感じられない。大業を成し遂げた者だけが手に入れる心地を、しっかりとつかみ取った自信がみなぎっているようだった。

 しかし、残念ながらそうではないのだ。あの男は大変な勘違いをしている。どうして自分が、自由の身になることを望んだと言うのだろう。大臣家の姫君として生を受け、一族の安泰のために生涯を捧げるのが当然だと思ってきた。そこには己の幸せなど、存在するはずもない。ただ……、今は家長である自分の兄の「駒」となり立派に立ち働くこと。そのためにはこの身がどんなに汚れようと、構うことではなかった。
  そう、初めから何もかもが決まっていたこと。いくらただ人である男がひとりであがいたところで、それが変わることは有り得ない。この先に、どんな運命が新たに待っているかは知らない、でもそれが茨道であったとしても決して躊躇することなく突き進もう。最初から、道は一本しか存在しないのだから。

 ……それなのに、何故。

 どこまでも馬鹿な男だ。勝手に自分自身で話を作り上げ、その通りに進めて悦に入っている。残された者たちがどんなにか嘆き悲しむことか、それを悟ることも出来なくてどうする。昼間、あの薄暗い大広間。そこを埋め尽くすほどに集まった使用人たちの打ちひしがれた姿を見ても、まだ自分が正しいと言い切ることが出来るのだろうか。

  このまま明けぬ夜はない、新しい光が大地を包み込むその時に彼は自分の愛した土地に永遠の別れを告げることになる。
  鍛え抜いた強靱な身体を持つ者ですら耐えきれぬと言われる荒廃した場所で、無事に生きながらえることが出来ないと言うことは、彼自身も承知の上なのだろう。

「それでは、……今宵が最後の」

 ようやく気付いた事実に、愕然とする。

 あれほどまでに待ち望んだ男の帰還、それなのにあまりの驚きに普段通りに容易に手放してしまった。それが当然であるように消えていく背中を、どうして引き留めることが出来なかったのだろう。簡単なことだ、ただ行かないでくれと言葉で制すればそれで良かったのに。

 しかし、男は去った。遠い土地から嫁いできたこの身をとうとう最後まで顧みることもなく、今宵も闇に包まれた庭の向こうに。そして夜が明けて再びその姿を目にするときこそ、永遠の別れの瞬間なのだ。
  ああ、何てこと。今このときも溢れ出るこの想いのひとしずくも受け止めることもなく、何も知らずに我が目の前から消え失せるのか。そんな……、そんなことが許されるはずがない。

 一瞬だけ頬に触れた唇の熱さ、しとねで抱きしめられた腕の逞しさ。額に落ちる吐息、耳元で囁かれる甘い声。夢心地で揺られた胸のぬくもりすら、もう二度と戻らない。

 

 ―― 嫌だ、そんなことは許さない。

 自分は他の何者でもない、あの男の正妻なのである。今宵は何としてでも連れ戻さなければ。誰に遠慮することなどないのだ、あの男の一番そばにいるべきなのは自分に決まっているのだから……!

 一度振り返り、渡りを確認する。こちらから呼ばなければ、誰かが渡ってくることはない。変わらぬ静けさにホッと胸をなで下ろし、今まで向こうを覗いたこともなかったにじり口から闇の庭へと忍び出た。

 

◆◆◆◆◆


 月の光が天を染め上げ、その元にある夜の風景は冴え冴えとして足下もしっかりと確認することが出来る。一度は提灯も持たずに出てきたことを後悔したが、少し歩みを進めれば少しも気にならなくなった。

 

 あの男は一体どこに消えたのだろう……。

 

 いつか手を引かれ渡った太鼓橋の上で、ふと立ち止まった。だが次の瞬間には、もうその答えを見つけることが出来る。庭草はしっとりと夜露に濡れ、その上に真新しい足跡がどこまでも続いていたのだ。それを辿っていけば、必ず前を行く人の元に迷うことなく行き着くことが出来るはず。

 このように供も連れず、まして夜更けに表を歩くことなど今までは考えられないことであった。
 こちらに移り住んでからは大臣家での暮らしが嘘のように自由に庭を歩くことが出来るようになったが、それでも外歩き用に衣を改めて出向けば、何人もの侍女があとから付いてくる。
  さらに今は目をこらさなければ行く手を確認することも叶わぬような闇の中。他に足音もなく、静まり返った庭は日の中とはまるで別世界である。このまま森に入り込めば、異なる世界へといざなわれて行きそうだ。

 月の位置が変わらぬうちにと急ぎ足で進みながら、その一方で燈花の心はだんだん重く沈んでいく。

 男が最後の夜に共に過ごしたいと願うのは、やはり彼が誰よりも愛おしく思う女子であろう。もしやその者を密かに任地へと伴うつもりではないだろうか。今頃ふたりで旅支度などしているかも知れない。
  そんなところに今更飛び込んで、自分は一体何がしたいというのだろう。自由を手に入れたことでもう十分ではないかと冷たく振り払われたそのときには、もう返す言葉すらみつからない。もしも夫であるあの男を心底恋しく感じているのなら、もっと以前にきっかけはあったはずだ。それを後送りにしてきたのは紛れもなく自分自身。愚かにも程がある。

 道は暗い森の中に消えて、とうとう足下もおぼつかなくなった。衣が後ろに取られ、迷いと共に引き戻そうとする。何度も木の根に引っかかりそうになり、そのたびに肝を冷やした。何て馬鹿なことをしでかそうとしているのだろう、もう戻ろう、戻った方がいい。とうとうただひとつ信じていた己の心までが、反旗を翻そうとしていた。

 

 ―― その刹那。

 ちらちらと、木々の枝の向こうに明るい光が見える。期待を込めて進むと、森の途切れたその向こうに小さな庵が確認出来た。山から流れ落ちた水が沢をつくり、静かに流れてゆく。冴え冴えとした月明かりの下に、凍えるようにそれは立ちすくんでいた。

 

「……あ……」

 ゆらりゆらり。今にも消えそうな光は、幾重にも広がることはない。もしかするとたったひとつの燭台でしのいでいるのだろうか。

 あと少し、もう少しでその場所にたどり着くと言うのに、なかなか足が前に進まない。恐ろしかった、あのささやかな引き戸をこの手で開くのが。だが、ここまで来たのに引き返すことは出来ない。もう明日という日は存在しないのだから。今宵、ただ一夜しか残されていないのだ。

 ようやく、戸に手が掛かる。その時、押しつぶされそうな恐怖と共に燈花の中に残っていたのは、あのつれない男への深い思慕の心であった。

 

◆◆◆◆◆


「え……?」

 思いがけないほどに軽い力でそこは開いた。だが、どうしたことだろう。部屋の中を覗き込んだ燈花は気の抜けた声を漏らすことしか出来なかった。

 目の前に格子窓がある。それ以外は明かり取りの見当たらない一間だけのその場所に、人の気配はなかった。部屋の中央には囲炉裏が設えてあったが、そこに火を熾したあとはない。ただ、隅にゆらゆらと燭台がほのかな光を放ち、つい先ほどまでここに誰かがいた痕跡を残していた。

 

 ―― 逃げられたのだろうか、すでに自分があとから付けていたことを悟られていて……?

 

 煙に巻かれたような口惜しさが胸奥から湧き上がってくる。

 また、してやられたのか。やはりあの男はキツネの化身であった。どうしても尻尾を出すことはない。どんなにこの腕を伸ばそうとも、するりするりとかわされてしまう。

「ひどい……どうしてっ……!」

 堰き止めることの出来ない嘆きが、やがて頬を流れ落ちていく。思えば馬鹿げたことをしたと思う。こんな風に我を忘れて、愛人の元に出向く夫の後を追うなど情けないにもほどがある。正妻たるもの、どんなに夫に顧みられず捨て置かれてもうろたえてはならない。どっしりと腰を据え、どこまでも悠然と振る舞うべきであったのだ。

 だが、どうして。

 このように最後の夜にすら、ひとり取り残されている我が身を許すことなど出来なかった。あの男が自分に与えてくれたのは見せかけだけの偽りの愛情、周囲の者たちの目を欺くためだけに見せた表向きの顔。それなのに……それでも、諦めきれなかった。それが自分の作り上げた偶像でしかないとしても、他に何もないのだから。

 何故、追い求めたのだろう。決して手にはいることのないぬくもりだと知りながら。こんな寂しい夜更けに、ただひとり我を忘れてしまうほど、恋しくて恋しくて仕方なかった。なりふり構わず心が先走り、後先考えることも出来なかったなんて。

 

 ああ、愚かなこと……!

 もういい、このまま儚く朽ち果ててしまいたい。たったひとつの希望さえ、この胸には残らないのだから。ただひとりの存在を心から愛おしむことを覚えてしまった心は、もう二度と元には戻らない。生まれ落ちたときから必死にすがりついていた地位も名誉も、今となっては何の意味も成さないのだ。

 暫くは上がり口にうずくまったまま、どうすることも出来なかった。このまま身体中の水分が全て流れ出て、カラカラに乾いてしまえばいい。変わり果てた亡骸をあの男が見れば、少しは哀れに思ってくれるだろうか。そんな希望すら、抱くことが愚かしい。どうしてもあの心は手に入れることが出来ないのに。それを知っていて、何故自分は諦めることが出来ないのだろう。

 

 ……かさり。

 どこかで乾いた音がした。思わずハッとして、顔を上げる。

 初めは庵の外を歩く人が何かを踏みしめた音なのかと思ったが、そうではない。それは、部屋の奥から響いてくるのだから。何か小動物でも悪戯をしているのだろうか、その考えもすぐに打ち消される。

 部屋の片隅、先ほどは目が慣れずに暗がりとしか思えなかったその場所に、漆塗りの文箱が置かれていた。半開きになったその奥から、白い紙切れがのぞいている。戸口から流れ込んできた気に、その端が揺れていた。まるで、こちらにお出でと招いているかのように。

 ―― 何……?

 光の消えた瞳でそれを見つめ、のろのろと立ち上がる。ほんの数歩しかないその場所まで歩むことすら、永遠の道のりに感じられた。
  ようやく辿り着き、膝をついて蓋を取る。箱の中には手習い用の和紙をいくらか厚くした紙がぎっちりと詰まっていた。一番上の一枚を取り出してみると、なにやら人の輪郭のようなものが描かれている。その次も、またその次も。途中からは夢中でそこに見入っていた。

 ……何故? どういうことなの、これは。

 あとからあとから、それは枯れることのない泉のように新しい一枚が出てくる。それは燈花の衣の上に、床に流れた髪の上に、ばらばらと散らばっていった。

 

「困りましたね、―― のぞき見とは頂けません。このように夜歩きなどなさって、高貴な姫君ともあろう御方がなさることとは思えませんが」

 突然の呼びかけに、燈花は青ざめた頬のまま振り返った。

 開いたままの戸口に、男は出立のいでだちでただひとり佇んでいる。その手には、今汲んだばかりなのだろう、重そうにかかげる水桶があった。

 

◆◆◆◆◆


「これは……、一体」

 まずは勝手に上がり込んだことに対する非礼を詫びるのが先だと言うことは分かっていた。だが、どうしてもそれが後回しになってしまう。今の燈花には、何枚もの和紙を握りしめたまま、唇を震わせてそれだけの声を発するのがやっとであった。

「いや、……別にご説明するまでもございません。ただの暇つぶしに描き散らしただけのこと」

 男はあっさりとそう告げると、上がり口に腰掛けて足を洗い始めた。その時になって、初めて燈花は自分が泥足のまま部屋に上がり込んでいたことに気が付く。だが、今はそれすらもたいしたことではなくなっていた。

 

 一番上の一枚。

 そこに描かれていたのは、安っぽい婚礼の衣装に身を包んだ、あの日の自分の姿であった。たぶん牛車から降り立ったときはこんな表情をしていたのだろうと思える仏頂面。固く結んだ口元に笑みはなく、冷え冷えとした雰囲気が漂っていた。
  その次は新しい衣装に着替えた一枚。まるでその場にいて写し取ったように、みずみずしくその姿を捉えていた。香油をしっとりと馴染ませて見違えるほど美しくなった髪、ひとめで南峰の一級品だと分かる艶やかな紅。しっとりとした朱の衣にさらに純白の一枚を重ね、それでも寂しげな表情で戸惑っている自分がそこにいた。

 そして一枚、また一枚。

 めくるたびに新しい自分が現れる。何と言うことだろう、いつの間にこのような。しかも腕利きの職人の手によるものと言っても過言でないほどの出来映えである。

 庭を歩いていく姿、琴を前にして戸惑う表情。……そして、あどけない寝姿まで。

 

「いやはや、お恥ずかしいばかりです。とてもお見せ出来る仕上がりではございませんから、このように隠しておりましたのに。わざわざ見つけ出してしまうとは、全く困った御方だ。私の身にもなってください、今までどうにか誰からも悟られずにしたためて参りましたのに……」

 裾の露を払いながら、男は静かに部屋に上がってきた。だがその気配を足音で感じながらも、燈花は未だに手にしたものから目を離すことが出来ない。

 ここに描かれているのは紛れもなく自分自身。でも、誰よりも身近な存在でありながら、このように遠くから眺めるが出来なかっただけに目新しい。
  しかも、驚くことに日を辿るごとにその表情がほぐれ豊かになっていくではないか。初めのうちは一文字に結ばれたまま開くことのなかった口元が、いつか柔らかくほころんでいく過程が瑞々しく描かれている。
  大臣家の姫君である自分を誇りに頑なに己を守っていたつもりであったが、それも自分自身の勝手な思い込みでしかなかったらしい。挙げ句には口元に手を当てて笑い声を上げている姿まで現れて、身が火照る思いになる。男の前でこのような仕草を見せたことなどなかったはずなのに、どういうことなのだろうか。気の置けない客人の接待をしている場面を盗み見したとしか思えない。

 

 ―― これを、この男がたったひとりで描きためていたのだろうか……?

 

 よくよく改めれば、部屋に置かれていたのはひとり分の寝具と絵道具のみ。あとは酒の支度くらいのものか。他の誰かの気配など、どこにも感じられない。そんなはずはない、どこかに別の女を囲っているに決まっている。だが、これだけの絵を仕上げるだけでも膨大な時間がかかりそうだ。とても女子と遊ぶ暇などないようにも思える。

 だけど、……まさか。いや、これすらもこの男が見せるまやかしであるのか。何も知らぬ女子ひとりを欺くことなど、世渡りの上手いこの者にとっては朝飯前に違いない。

 積み上げられた和紙の一番奥、大切そうにしまい込まれた最後の一枚を取り出したとき。燈花はもう何も考えられなくなっていた。

 

「……これは……」

 少し離れた場所に静かに座していた男は、全てを承知した上でくすりと忍び笑いを漏らす。そして少しばかり身をかがめてこちらを見上げた。頬杖をついたその仕草が、いつもよりも彼を幼く感じさせる。

「それは一番の自信作ですよ? 上手いものでしょう……、明日の出立にも必ずや胸に忍ばせて肌身離さずにいようと考えております」

 

 明るく告げるその声は、まるで何か良いことをして誉められるのを待っている子供のように晴れやかに響いた。


つづく(050908)


 


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