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…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-12-

 

 

 描かれていたのは、抱えきれぬほどの白い花を手に微笑む自分の姿であった。

 その背後にも満開の花枝。それは、この地では夏の終わりが見頃だと言われている、「朱雀」の庭の白鳳の花に違いない。降り注ぐ花びら、柔らかく広がる朱色の髪。

 それまでにも、はにかむ表情を捉えた絵はいくつもあった。だが、これは明らかに違って見える。真っ直ぐにこちらに向かい今にも飛び出してきそうな勢い、こぼれるような笑み。そこには憂いも不安も微塵もなく、ただ目の前の人を心から受け入れ素直な気持ちをいっぱいに伝えているように思えた。何て満ち足りているのだろう、何て幸せそうなのだろう。

「――嘘。こんなの、わたくしではないわ」

 愛らしい微笑みに、たとえようのない違和感を感じていた。だから、思ったままを口にしてしまう。知らずに自分の頬がこわばっていくのが分かった。

「ええ、……そうですね。その一枚は残念ながら、私の空想で描いたものです。本来ならば、今少しの時間をあなたと過ごせるはずだった。せめて、あの花が咲く頃まで……。いわば、こちらは夢の中のあなたと申し上げましょうか。でも、大丈夫です。いずれ必ずあなたはこの絵のようになられます。その場に立ち会えないのは誠に残念ですが、――こればかりは致し方ございませんね」

 落ち着いた声でそう告げながら、男はこちらに腕を差しのべてくる。

「実は今夜もその絵にもう少し色を加えようと思っていたのです。どうしても、何かが足りない。そう思いながらここまで参りました。さあ、時間がありません。それを、どうぞこちらへ」

 半紙ほどの大きさのそれを手渡すことなど造作ないこと。だが、どうしても燈花にはそうすることが出来なかった。紙の端が折れ曲がるほどに握りしめ、その腕を大きくふるわせる。さらに頑なにかぶりを振れば、頬に掛かる髪も乱れて辺りに散らばっていった。
  箸を上げることもなかった夕餉の後に、寝装束に改め髪も念入りに梳いて整えてあった。自分の動きに合わせて素直すぎるほどに舞い上がる髪。西南の大臣家に住まっていた頃はもっと重く歩みを妨げるほどのものであったはず。この地では高貴な身分の女子は例外なく幾枚も衣を重ね髪を身丈よりも長く伸ばすものだが、それは己が身をしがらみの中に自ら結びつけているようにも見えていた。

 軽やかになったことが、かえって心許なく不安を募らせる。自由にどこへでも羽ばたいていいと籠の扉を開けられたところで、目指す場所も見つからない。それどころか与えられた羽を自在に動かすことすら出来ないのだ。

 がんじがらめに身動き出来ない状況に置かれることで、平穏を保っていた。自分の夫だと名乗る目の前の男は、燈花が大切に掴んでいたものを何もかも取り上げようとする。

「……姫、如何なさいました。そのような紙切れ、あなたにとっては何の価値もないもの。さあ、早くお渡しください。私にとってはこの上なく大切なものなのですから……!」

 そう告げる言葉が本心から出たものだと言うことは、容易に感じ取れる。
  自分に渡して欲しいと強く望みながら、それでも彼は無理強いをして取り上げることはしなかった。そうすることで、ただの紙切れであるそれが破けでもしたら困ると言うのだろう。だが、そんな躊躇いにすら、燈花は苛立った。

「嫌っ……! 渡しませんっ、何故このようなものを後生大事になさると仰るのっ……! こんなの、わたくしではないわ。あなたも分かっているはずだわ、ここに描かれているのはとんでもない偽物でしょう……っ!」

 たとえようのないほどに口惜しかった、行き場のない気持ちが身体の中を駆けめぐっていく。こちらを少しでもなだめようとしたのだろう、肩に添えられた手も乱暴に振り払った。

「お止めくださいっ、……ああ絵が……!」

 男が何を伝えたいのかは分かっていた。ぼろぼろと再び頬を流れていく雫が、やがて柔らかい紙の上に落ちていくつもの丸いにじみを作っていく。水溶性の顔料で描かれたそれは、あっという間に見る影もなくなっていくだろう。どうにかそれを阻止しようと袂で覆い隠そうとするその腕も忌々しかった。

「嫌、嫌っ……! こんなのは嫌っ! 許さないわっ、絶対に――」

 ふわり。

 肩から掛けていた頼りない衣が舞い上がる。それが足下にずるりと横たわったその時、燈花は自分から男の胸に飛び込んでいた。
  そのような行為は女子として、はしたなく許されることではないということはもちろん承知の上。それでも――、もはやそうする以外に己の気持ちをつなぎ止めておく方法を思いつかなかった。

「わたくしは、この先どんなに時を過ごしてもこの絵のように微笑むことなんてないわっ、そんなことは叶えられるはずもないのです! 何故っ、あなたはこのようにお心をお隠しになるの? 一番大切なものをわたくしにくださらなくて、そのままでいいと思っていらっしゃるのですか……!」

 男の身体は想像以上に硬く、ひどく緊張しているのが衣の上からでもよく分かった。このようにすがりついても抱き留めてくれることもなく、ただ立木のように呆然としている。
  そのような振る舞いはどこまでも燈花の心を傷つけた。だが、そうなってもなお、止まることは出来ない。わずかばかりの時間しか残されてはいないこの状況で、躊躇いなどはもはや必要ないのだ。

「姫っ、どうか落ち着かれてください。……困ります、こんな」

 必死の力でしがみついているというのに、男は難なくそれを振りほどこうとする。負けてなるものかと襟元をぎゅっと押さえつけると、燈花は怒りを込めた眼差しで男の戸惑う瞳を射抜いた。

「どうして、……あなたはわたくしを幸せにしてはくださらないのですか? いくら、この先なんの心配もなく生きながらえることが出来たとしても、それが何の得になりましょう。兄の館にいて、竜王様とのお話もなくなって、わたくしがどんな想いで過ごしていたか。この先どこでどんな風に生きていこうと、もはや同じことです。あなたの真心を頂くことがなければ、わたくしは……屍も同然ですわ」

 一気にそこまで伝えると、その瞬間に身体中の力が抜けてしまった。自分をどうにか奮い立たせていたものがもろくも崩れ去る。自分がどんなにか頼りない存在であったか、何も確かなものもなく今まで生きてきたことが、痛いほど思い知らされる。
  こんなにも想いが溢れているのに、それを伝える術を知らない。本当はもっと上手な方法があるはずだ。多くの女子たちはすでにそれを知っていて、幸せになることが出来る。でも、誰も教えてくれなかったその術をこの場でどうして思いつくことが出来るだろう。

 いつの頃からか、抱いていた恋心。最初はくすぶっているだけの儚い熾火だったものが、知らぬうちに大きく胸を覆い尽くすほどに燃え広がっていた。

 ――だが、ここまでなのか。これ以上はやはり進むことが出来ないのか。

「姫……いけません、もうおやめください」

 憐れみなのか嘆きなのか。低く食いしばるような声が、男の口から漏れた。

「ご存じの通り、私はもう先のない人間です。心を残して旅立つことは出来ません。それに……あなたの心を縛り付ける権利もないのですから。どうか、私のことはお忘れになって、いつか必ず幸せになってください。案ずることもございませんよ、あなたほどに素晴らしい方に心を奪われない男などいるはずもないのですから」

 もう何ひとつ残っていないと思っていた。それでも最後の力を振り絞るように、目の前の衣を強く握りしめる。そして、また力なくかぶりを振った。

「……嫌……」

 

 この男には他に愛する女子がいるものとばかり思っていた。

 もったいなくも大臣家の姫君を頂くことになった身でありながら何たることだろう。初めはそのことに怒りを覚え、到底許すべきことではないと考えた。もしもすでにねんごろになっていた女子がいたとしても、その者とは手を切り自分を迎え入れるのが当然であったのに。そんな誠実さなど微塵もなく、それどころか自分は少しも間違っていないとうそぶくのだ。

 だがしかし。それは日を重ねるごとに、深い嘆きに変わってゆく。表向きは眩しいほどに大切にされ、誰からもそれを認められながら、その実は裏切り続けられている我が身。それでも男に対する憎しみに心が埋め尽くされ支配されているうちは良かった。それなのにいつしか頑なな想いも溶けていく。後に残った真の心に愕然とした。

 幼くして両親と死に別れ、それからあとは心から打ち解けられる存在など皆無であった。たくさんの者たちに囲まれ大切に扱われながら、すがる相手もとうとう見つからないまま。長いこと、ひとりきりの心をもてあましてきた。自分でもそれが当然のことと思いこみ、不満も苛立ちも忘れていたのに。

 ―― 一体、わたくしに何が足りぬと言うのだろう……。

 姿を見せることもなく、影でこの身をせせら笑う者がいる。自分がどんなに腕を伸ばしても手に入れられないものを容易に我がものとしている存在。脅威を覚えながら、どうすることも出来なかった。権力をかざしたところで、屈するような男ではない。その潔いほどの心映えに、心を奪われてしまったのだから。

 

「夏月さまは……毎夜、こちらにいらしていたのですか? このような寂しい庵で、夜が明けるまで過ごされていたのですね……?」

 夏の夜にしんと静まり返った荒れ野。この場所に佇めば、人も獣も全てが寝静まった孤独の中にただひとり取り残された心地がする。自分が寝所のしとねの上で眠れぬ夜を過ごしていた頃に、やはりこの者も同じ想いを抱いていたのだろうか。

 ああ、どうしてあの時。にじり口から出て行く人を引き留めることが出来なかったのか。もっと早く、しっかりと心を重ね合わせる手段は確かにあったのに。それをみすみす逃してしまうとは。

「――はい」

 男は観念したように、ゆっくりと頷いた。

「このように無様な姿をお見せすることなくやり遂げることが出来ると考えておりましたのに。あなたがとんでもない思い違いをなさっていることは承知の上でしたが、それならばかえって幸いと思っておりました。……この通り、情けない男をどうぞお笑いください。美しい衣をいくつ重ねて着飾ったところで、到底あなたに似合う身の上になれるはずもないのですから」

 静かに俯いたその横顔は、たったひとつしかない燭台の炎に照らし出され、その美しさを際だたせていた。こんなにも側に、すぐに手の届く場所にいる。なのに心はすれ違うばかり。確かなものを何も残すことなく、旅立とうとしているのか。

「そのような仰りよう……、夏月さまにはお似合いになりませんわ」

 わざと突き放すように、そう告げた。

 自分がこのひと月あまり見てきた男は一体何であったのだろう。いつも自信に満ちあふれ堂々とした様は、西南の大臣である兄にすら勝るものがあった。まっすぐに揺るぎないものがしっかりとその心根にあり、人としてしっかりと自分の力で立っていることを見せつけられる。だからなのだろう。打ち砕かれていく自尊心が、かたちを変えて燈花の心に根付いていった。

 男が未だ、自分の側から離れない理由は分かっている。この手に彼の大切な絵が握られていては、どうすることも出来ないと思っているに違いない。もしもこの瞬間に庵から追い出したりしたら、それこそ大変なことになる。

 だが、この状況をどうして認めることが出来るだろう。自分は今まで鏡に映ったもうひとりの幻影と競っていたのだ。男が己の心の中に作り上げた、自分とよく似たもうひとりの影。触れることも言葉を返すこともないそれを、男は真に想い続けていたのだ。
  確かに、自分はかわいげのない憎々しい態度ばかりを取っていたと思う。だが、そればかりを理由にされてはたまらない。こんな風に心を隠されて、どうして素直に振る舞うことが出来るというのだ。絵筆を取り瞼の裏に残る幻影を追う暇があったのなら、その思いを直に自分にぶつけてくれれば良かったのに。
  どこまでも見くびられたものだ、何と情けないことだろう。最初から手に入れることすら放棄されていたなんて。大臣家の姫君は愛おしむには値しない存在だと、とっくに諦められていたのだ。

 

「もう、宜しいですわ。西果ての地にでもどこにでも、ご自由にお出でくださいませ。すでにあなた様がお決めになったこと、今更わたくしにどうこう言えることでもございません。――しかし、それはわたくしとて同じこと。夏月さまのご希望に添うことは到底出来ませんわ」

 そこまで告げると、燈花は傍らの男を残してゆっくりと立ち上がった。すでに心の全てを埋め尽くす絶望は、ひとしずくの希望すら残してはいない。

 全く、馬鹿げた話だと思う。竜王妃としての将来を閉ざされ悲しみに暮れていたこの身を憐れに思ってくれたのは有り難い限りである。どうにかして救い出そうとしてくれたその気持ちには感謝しなければならない。だがしかし、その代償として自分の命を投げ出すとはどういうことだろう。偽善者と嘲笑われても仕方ない愚行である。
  その命は、彼ひとりのものではないのだ。慈しみ育ててくれた両親、共に領地を守っていこうと誓い合った兄弟、そして……彼を慕い支えてくれた土地の者たち。そんな立場にあって、たくさんの心を踏みにじって自分の心を通すことが本当に正しい道であっただろうか。

 この身代わりの話はもう決まってしまったことで、覆すことは不可能だ。もしも燈花が実の兄である西南の大臣に必死で懇願したところで、冷たくあしらわれてしまうだけ。最初からあの兄は肉親ですら自分の「駒」としか考えてはいない。己の欲のためならどこまでも冷酷に振る舞える者だと言うことは、すでに目の前の男も承知しているところだろう。

 こちらを見上げた眼差しに、鋭い視線で斬り込む。鬼の大臣の妹ならば、自分も鬼になれるはず。そう思いながら、ぎりりと唇を噛みしめた。

「わたくし、あなた様の妻として最後のお役目は立派に果たさせて頂きますわ。西の地へ旅立たれる指揮官様を礼を尽くしてお見送り申し上げましょう。そして……それが済みましたら、すぐに兄の元へ戻ります。やはりわたくしには、汚れたあの場所が一番よく似合いますから」

 

 はらりと、燈花の手元から最後の一枚が舞い落ちた。

 ゆらゆらと男の元に戻っていくそれを、ぼんやりと見送る。そう……出来ることならば、あのように思いの丈を込めてこの男を見つめてみたかった。だが、もう遅いのだ、遅すぎるのだ。すでに夜も更け、残された時間はいくらもない。
  独り寝に枕を濡らした夜、想いを込めて琴を爪弾いた宵。誰よりも何よりも側にいて欲しいと心から願った人は、今この手を振り切り遠く旅立とうとしている。

 思い出の息づいたこの場所で、どうしてこの先暮らしていけるだろうか。通い合う心などなかった夫婦ではあったが、それでもわずかばかりの日々を共に過ごして来たのだ。消し去ることなど許されない夢の中で、永遠の孤独に耐えることなど出来ない。

 

「……姫」

 男の視線は手元に落ちた絵ではなく、燈花を真っ直ぐに見つめていた。溢れそうになるものをかろうじて押しとどめながら、くるりときびすを返す。もうこの場所には長居は無用だ。これ以上、乱れた姿を晒しては、さらに男の中にある偶像と差が開くだけである。

「どうして、……そのようなことを仰るのです。それほどまでに私を憎く思われるのでしょうか……? この部屋を見られたあなたはもはやご承知のはず、何故私のこの切なる想いに報いてくださらないのでしょう。
  私も館の者たちも、あなたを大切にもてなそうとそれはそれは心を込めて尽くして参りました。こちらにお出でになることが決まってから婚礼までは急なことであまり間がございませんでしたが、それでも皆で一丸となって骨を折ってきたつもりです。必ずやこちらでの暮らしがお気に召すと信じておりましたが……このような田舎者が考えることでは、やはりご満足頂けないのですか」

 ささやかな空間を横切り、引き戸に手を掛けるまでにそれほどの間は掛からなかった。背中を追いかけてくる声に幾度も振り返りそうになり、必死でそれを堪える。

「わたくしは、やはりどこまでも西南の大臣家の娘なのです。あなた様の……妻ではございませんわ」

 いくら言い訳を並べ立てたところで、どうにもならないことだ。事実は事実として、目の前に深く横たわっている。一度として心を通わすことのなかったふたりをひとつのものとして認めることなど出来ない。

「こちらで過ごした日々は夢の中の出来事として、後生大事にさせて頂きますわ。夏月さまから頂くものは、もうそれだけで十分です。余所者は余所者として……きちんと身の振り方をわきまえなければ見苦しいことになります」

 これ以上、想いを偽ることなど出来ない。遠い地へ旅立ってしまった人の最愛の妻として振る舞いながら、皆に守られて暮らすことなどどうして出来るだろう。さらに他の者が産んだ子を我が子として育てるなど、さらに独り身の哀しみが募るだけではないか。

「そんな……! この期に及んで何ということをっ。お待ちください、姫。それでは、あなたはこの私に無駄死にをしろと仰るのですか……っ!」

 

 がたん、と背後で何かが大きく揺れた。

 次の瞬間にはもう、燈花の周囲を取り巻いていた気が、大きく流れ出す。開いた戸口から飛び出す前に、後ろからその動きを制された。

「やっ……、離してっ……!」

 そう叫んで大きくもがいてはみたが、その訴えとは裏腹に後ろから回った袖が左右からしっかりと燈花の身体を絡め取った。薄く柔らかい衣を素肌まで突き刺すようにたぐり寄せられる。

「この想いは同情などではございません、こちらにあなたを迎え入れることは長年の私の叶わぬ夢でしたのに。姫、あなたは……以前からずっと私の憧れの存在だったのですから」


つづく(050913)


 


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