Novel Top秘色の語り夢・扉>紫峰のしずく・13


…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-13-

 

 

 しばらくは忘れていた水音が、ゆるやかに耳に注ぎ込んでくる。とても真夏のそれとは思えない涼やかな夜が、どこまでも続いていた。

「初めてあなたの姿を拝見したのは、まだ元服も迎えぬ頃でありました」

 気付けば男に促され、元の場所に腰を下ろしていた。使い込まれた板間に申し訳程度の敷物で席をこしらえ、そこに向かい合っている。ふたりの間には男が用意した香り酒が置かれていた。勧められるままに一口含めば、柔らかな花の香が胸一杯に広がっていく。彼の方は手酌で三杯ほどを飲み干した後、ゆっくりと話し始めた。

「そう……なのですか?」

 一時吹き荒れた嵐が嘘のように、男の声は穏やかな響きに戻っていた。もともとが荒々しく物言いをするようなたちではないのだろう。こちらの方が彼の本来の姿のように思える。

「わたくしは、こちらの館に移った先の婚礼の夜が初めてとばかり思っておりましたわ。何かの記憶違いではございませんか……?」

 

 男が以前から自分のことを知っていた、などとはどう考えても有り得ないことである。多分、他の姉姫の誰かと取り違えているに違いないと瞬時に判断した。

  大臣家に出仕する者たちが、自分の子を同行させることはよく見る光景である。小さい頃から父親の背中を見て育つことで、得ることは多い。複雑な人間関係なども、頭の柔らかい頃ならば素直に受け入れることが出来る。
  そんな風にして目の前の男が元服前から大臣家の館を訪れていたと言うのは事実だろう。何も知らない幼子たちであれば、身分の上下などもそれほど気に掛けることない。事実、大臣家の表庭は始終子供たちの明るい声で溢れていた。そしてそこには当然のように大臣家の子供たちも加わっていたのである。

 ――しかし、なのだ。

 他の兄姉たちには当たり前のことでも、燈花にとってはそれは決して許される行為ではない。いくら表が賑やかでそこに紛れてみたいと思っても、願うだけ無駄であった。見張りの侍女の承諾を得なければ、部屋から一歩出ることも出来なかったのだから。

 物心が付いた頃にはすでに奥の対に幽閉され、季節ごとの親族の顔合わせにすら立ち会うことを禁じられていた。表向きは体調の不良が理由であったが、それが嘘だと言うことは燈花自身が一番よく知っている。
  顔を合わせた男君は今は西南の大臣である長兄と、あとは薬師くらいのもの。こっそりと部屋を抜け出したりすれば、すぐに大変な騒ぎになり連れ戻された。そうなればその時間にお世話を担当していた侍女は厳しい処罰を受けることになり、その後はさらに警戒は厳しくなる。何故、このように意地悪をされるのか、幼い心ではどう考えても合点がいかなかった。

 

 静かに盃を盆に戻せば、二の腕がかすかにきしむ。つい先ほど、力強くこの身をかき抱いた腕はすでに外れてしまったが、むせるような残り香がまだ辺りを漂っていた。まるで天真花の耕地に頭まで埋まってしまったかのように、気の遠くなる心地。それは本来ならば、かの殿上人のものに違いない香りであったが、すでに燈花は目の前の男以上にこの香を使いこなす者はいないだろうと思い始めていた。

「いえ……そうではございませんよ?」

 こちらの反応はすでに予想していたのだろう。男は落ち着いた物腰のまま、喉の奥でくすりと笑った。

「ふたりの兄たちが父上と共に大臣家に上がるのが羨ましくてならなかった。だから、どうしてもと無理を言って連れて行ってもらうことにしたのです。だけど……実際は思っていたほどのこともなく退屈なばかりで。兄たちは父と共にお務めに就いてしまいますから、日中は何もすることがなかった。仕方なく広い敷地内を表も裏も外からも、ぐるぐると回って探検していたのですよ。
  ある日……高い塀の外側を歩いているときに、どこからか小さな子供の泣き声が聞こえてきて。でも、それがどの方角からなのかが分からない。周囲を見ても誰もいないし……そのうちに、ああ塀の中からだと気付いたのです」

 そこは一体どんな造りになっているのかと首をかしげてしまうほど、頑丈に作られた板塀であった。大人の背丈の数倍もの高さがあり、もちろん向こう側を覗けるような穴などは存在しない。かなりの厚みもあるらしく、耳をくっつけてみても物音が大きくなることはなかった。
  あまりこそこそと立ち回ってはならないと父親からは厳しく言いつけられている。こちらの御館の主人である西南の大臣様はそれはそれは気性の荒い御方だ。ほんの些細な粗相をしても、いきなり斬り殺されてしまうことすらあるらしい。女子供だからと言って容赦ないと聞かされていた。
  しかし、塀の内側がやはり気になって仕方ない。この一角は前からどんなことをしても辿り着くことの出来ない不思議な場所であった。御庭を回っていても、行き止まりになってしまい、狭い通用門にはいつも怖そうな番人が立っている。その者に詳細を訊ねても良かったのだが、どうしてもそんな気にはなれなかった。

「姫がお住まいになっておられた奥の対。塀のすぐ外側に、それは立派な大木がございましたね。根元の幹の太いこと、大人が三人がかりで腕を回してようやく届くほどでした。
  あのような場所にありながら、切り倒されることなく残っていたのは、その滑らかな幹にあったのでしょう。かなり上方まで枝が落とされていましたし、途中に足場になるような部分もない。どんな名人でも登り切るのは不可能だと思われていたのでしょうね」

 そう語る瞳は輝き、まるで当時の様子をそのまま目の前に思い浮かべている様子であった。もちろん燈花もその大木のことは知っている。縁の端まで出れば見える唯一の外界の存在であったから、どんな風景が見えるのかと心の中で語りかけたこともある。その他は、たとえ自由に空を飛ぶ小さな小鳥ですら、高い塀の内側には入り込まぬように警戒しているように感じられていた。

「しかしながら……この通り、私は何事においても負けず嫌いにございますからね。子供の頃から習い事でも遊びでも、他の兄弟や村の子供たちよりも優れていないと我慢ならなかった。ですから木登りもね、お守りの侍女に『まるで小猿のようだ』と呆れられるほどの腕前だったのですよ。それでもかなり苦労しましたけどね、何度か足を滑らせて落ちかけながらも、どうにか最後には上の枝まで辿り着くことが出来ました」

 息を切らして登り切ったその高枝からは、大臣家のある高台から流れるように続く風景がそれは見事に眺めることが出来たであろう。だがしかし、彼が一心に見つめていたのは塀の内側の情景のみであった。

 親子ほどに年の離れたふたつの人影が縁の辺りに見える。どちらも女子で、その衣の様子から高貴な身の上の姫君とその侍女だと分かった。

「……どうして? 必ずって、約束したじゃない」

 押し殺したような声で訴える姫君。その背格好から、自分よりも幾分年下の――十になるかならないかであると思われる。ほろほろと涙を流しながらおもてを上げたその姿をはっきりと瞳に映したその時に、彼はもう少しのところで大声で叫んでしまうところであった。

 ――あんな可愛らしい御方が、この世にいらっしゃったなんて……!

 美しい朱の髪は、すでに身丈よりも長く伸ばされていた。手入れの十分に行き届いたそれは、折からの春の日にキラキラと輝き、目がくらむほどである。泣きはらした大きな目、長いまつげ、花色の口元。まだあどけない年頃なのに、どうしてここまで完成されたお姿なのだろう。
  大臣様の御子のおひとりだろうか、それにしてはお顔を拝見したこともない。子供たちが集う庭には誘われるままに幾度か足を運んだが、お目に掛かったことはなかったはず。もしもこのような御方があの場にいたら、辺りの子供たちも風景もその輝きに消し飛んでしまったに違いない。

「だから、何度も申し上げたでしょう! いい加減になさってくださいませっ」

 もうこれ以上は付き合っていられないと言うように、侍女は立ち上がった。なおもすがりつこうとする姫君の小さな手を乱暴に振り払う。

「そのように聞き分けのないことでどうしますっ!? 本日は急なお客人がいらっしゃって、御庭の散策をされることに決まったのです。そのように人目があるところに姫様がお出でになれぬことは、すでにご承知でしょう……! いずれ日を改めて、お出かけなさるしかございません」

 自分の言い分が正しいと言わんばかりに、侍女は胸を張った。その面差しはかなりきつそうで、激しい気性が伺える。

「でも……、もう花は散ってしまうわ」

 小さな姫君はぽつりとそう言うと、それきり俯いてしまった。もうこれ以上、何を言っても仕方ないと分かっているのだろう。しかし諦めきれない気持ちが噛みしめた口元に表れている。

 少ないやりとりでも、だいたいのことは察しが付いた。今の季節に「花」と言えば、天寿花に違いない。ふわふわした八重の花を枝にびっしりと付けたその姿は、夢殿のように美しいと言われている。この大臣家の外庭にはそれは見事な天寿花の林があり、そこは遠い都の竜王様のお住まいにあるものよりも立派であると言う者もいた。
  あの姫君は今日、花見に出掛けるはずだったのだろう。その口惜しそうな姿からも、とても楽しみに待ち望んでいたことが分かる。自分の家の庭なのに、何故自由に出歩くことが出来ないのか。かなりの疑問であったが、今はそれを詮索するときではない。

 ――可哀想に。

 いつの間にか侍女の姿は消えていた。入れ替わるように、姫君と同じ年頃の女の童(めのわらわ)がお側に控えている。だが、その者も泣きじゃくる女主人にはなすすべもないらしい。気弱な表情でおどおどとしているばかりだ。

 どうにかして、あの姫君の願いを叶えてやりたいと思った。だが、自分は余所者であるし、確かな身分もない。先ほどの侍女に何を言ったところで聞き入れてはもらえないだろう。では、彼女を直接連れ出してしまおうか、……それも現実的ではない考えである。

 あれこれ思案した末に、彼は一度大木から降りて、天寿花の林に分け入っていった。丁度昼餉時でほかに人影がなかったのも幸いである。一番見事に咲き誇っていたひと枝をぶら下がって全身で折り、引きずるように元の場所まで戻ってきた。そしてもう一度大木に登り、塀の内側に花枝を落とす。思ったよりも大袈裟な物音がして、びくりと身体が震えた。

「まあ……! 何と言うことでしょうっ、……姫様……!」

 すぐさま、先ほどの女の童が庭に飛び出してきた。そして、彼の投げた天寿花の枝を拾い上げる。次の瞬間、彼女はハッとして上を見上げた。

「……!」

 ここで大声で叫ばれていたら、万事休すと言うところであった。この館に仕えている彼女も、目の前の大木に人が上がっているのを見たのは初めてだったのだろう。驚きのあまり、すぐには声も出ない様子であった。ぱくぱくと口を動かしているばかりで、騒ぎ立てようと言う考えにも至らないらしい。高貴な御方に仕える者としてはふさわしくない行動ではあったが、彼にとっては幸いである。

 素早く自分の人差し指を口元において「内緒だよ」と目配せする。そのままするすると木から下りて、その場所を後にした。

 

「あとから何気ない振りをして、あの奥の対には誰がお住まいなのかと父に訊ねました。すると父はしばらく何かを考えた後に教えてくれたのです、あそこには竜王様のお后になる御方がお住まいなのだ、と。
  その言葉を聞いたときに、ひどく納得したことを覚えています。最初からあなたはとても私の手に届くような身の上の御方ではなかった。それは承知したのですが……やはりまたお目に掛かりたくなって。それからしばらくのことは、あなたもご存じなのではございませんか?」

 燈花は即座には返答することも出来なかった。震える口元が幾度も空を切り、かすかな吐息だけが漏れ出でる。開け放した奥の窓から戸口へと涼やかな気が流れ、さらに夜が深くなったことを教えられた。

「……桜木の……天狗様」

 いつの頃からか、それは覚えていない。でも、時折庭先の高塀から、色々な花枝が投げ込まれるようになった。もしも、それを年配の侍女の誰かが見つけたら、すぐに大騒ぎになってしまっただろう。だが、偶然なのかそれはいつも気の弱い年若の侍女――笹がいるときだけに限られていた。
  花の枝だけに限らない。時には一抱えほどある野の花が美しく束ねられていることもあった。見たこともない色とりどりのそれに、どんなに心を慰められたことだろう。笹はいつも花を手にこちらに戻ってくるときに決まってこう言った。

「姫様、桜木の天狗様がお出でになりましたよ?」

 一体、何を言っているのだろうと思ったが、そのうちぷつりとそれが途絶えてしまった。それ以来、もう記憶の底に忘れたまま、今日まで過ごしていたのである。

「……ああ、そのようにあの侍女も私を呼びましたね。もっとも――彼女もこちらが名乗るまでは私の存在をすっかり忘れきっていた様子でしたけど。全く薄情な御方たちですね、こちらとしては口惜しいばかりです。あれは御庭番の者たちに気付かれぬように、命懸けの行為でしたのに」

 言葉こそは恨みがましい様子であるが、その穏やかな表情からはひとつの嘆きも感じ取れない。まるで懐かしい友に久し振りに出会って思い出話に花を咲かせているような雰囲気。野山を自在に走り回っていた幼い頃の姿がゆっくりとその横顔に重なっていく。
  こうして大人になった今もこれほどまでに美しいのだ。幼き頃はどんなに愛らしい少年だったことだろう。たくさんの人々から愛され、その輝きをさらに増していったのだ。
  いきなりそんな姿で大木の高枝にとまっていたら「天狗様」がお出でになったと思われても仕方ない。その時の笹の驚きを思うと、場違いに笑みがこぼれてしまうほどだ。

 

「そうですね……、あれは元服を終えてすぐの出仕だったでしょうか? いつものようにこっそり抜け出してあなたのお住まいになる対まで塀を回ろうとして、――父に止められたのです」

 もしかすると、すでに父親は息子の行動の全てを察していたのかも知れない。静かな、しかし威厳をもった表情で行く手を遮ると、ただ一言告げた。

「――夏月、これより先はお前が踏み込める場所ではない。忘れるのだ、全てを」

 その時すでに、彼の中ではあの姫君の存在こそが全てになっていた。元服を終えれば当然のように、妻選びの話が持ち上がってくる。明るく快活な領主の息子に、領地の豪族たちも近くの別の領主からも次々に気の早い縁談が舞い込んでいた。

 だが、そんな話も彼にとっては他人事のようにしか思えない。あの姫君が自分の手に届かない御方であることはすでに承知している。どんなに望んだとしても、手に入れることは不可能なのだ。だが、どうしても諦めきれない。こうして遠くから眺めることすら敵わなくなってしまった今、もう一度だけでいいからお姿を拝見したい。どんなにかお美しくなられたことであろう。

「両親や兄弟には止められましたが――あなたが竜王様の元へ輿入れする際の花嫁行列には警備の下働きとして志願しておりました。私は跡目でもございませんから、大臣家ではきちんとした身分も与えられておりません。領主の息子として下男以下の働きをすることは家名を汚すことにもなりかねないとは思いましたが、どうしても……諦めることは出来ませんでした」

 

 一体、何を見つめているのだろうか。

 男の視線はやはり自分をすり抜けて、遙かなる偶像を眺めている。決して絡み合うことのない視線、事実を事実として晒しながらも繋がることのないふたつの道が平行している。

 

「今回の話が決まったときには、もう両親も兄弟も何も反論は致しませんでした。そうはいっても全てを許して認めてくれたわけではありません、彼らの身を切るような嘆きはもちろん承知しておりましたが、私には願ってもない幸運だったのです。
  父から譲り受けたこの館は古いものでしたがしっかりした造りで、少し手を加えただけで見違えるように素晴らしく生まれ変わりました。もともと私はずるがしこい人間ですから、領地から上がる禄高なども少なめに見積もってかなりの蓄えがございました。商人の才能もあると、言われたこともあるのですよ。ああいうことは馬鹿正直なだけではやっていけませんからね。
  花見に行けなくてあんなに悲しんでいたあなたが、このたびのことでどんなにお嘆きかと私まで胸を痛める想いでした。誰よりも竜王妃としてふさわしい存在であったあなたなのに、涙に暮れるお姿はお似合いになりません。それならば……竜王妃よりも竜王妃らしくお過ごし頂けば宜しいかと。自分でも突飛な考えだとは思いましたが、とても楽しかったですよ。……さすがに肩が凝りましたけどね」

 金糸銀糸をふんだんに織り込んだ、この上なく優美な衣装。王族にしか許されていない刺し文様を惜しげもなく施し、香の物を焚きしめる。お道具も一級品ばかり、侍女もみな教育が行き届いていて気持ちよく接してくれる。そして――傍らには、いつ何時でも自分を心から慈しんでくれる御方がいて。

 確かに。自分が夢見ていた竜王妃としての暮らしは、目もくらむ程のきらびやかなものであった。誰もが崇め奉る希有の存在。広い海底国のどこを探しても、自分以上に恵まれた者などいるはずもないのだ。

 

 ……でも、どうなのだろう。自分が真に望んでいたのは、果たして何であったのだろうか……?

 目の前の男のことも、こんな偶然が重なるようなことでもなければ一生忘れたままであった。あのまま大臣家に残っていたとしても、遠くない時期に自分は「駒」として動き出すことになる。西南の大臣である兄の望むままに振る舞うことこそ、あの兄嫁よりも優位に立つ唯一の手段だったのではないだろうか。
  どんなに卑劣な言葉を浴びせかけられ不条理な立場に置かれても、ひたすら耐えてきた。一生に一度、あの能面のような表情をずたずたにしてやりたい。口惜しさに怒り震える姿を勝利の微笑みで見つめることが出来たら、どんなに喜ばしいだろう。
  兄嫁だけではない、今まで自分を人とも思わずないがしろにしてきた全ての者たちを陥れてやりたかった。その時に泣いて許しを請うても、誰が聞き入れてやるものか。

 どこまでも毒の回った身体である。およそひとりの命を投げ打ってまで救われる存在ではない。こうなったら一生、がんじがらめのまま生きていけばいいと思っていた。それこそが自分の生きる全てであると。

 それなのに……未だに捨てきれないもうひとつの希望があるのは何故だろう。あの日、どうしても花見に行きたくて駄々をこねたように、無理だと分かっていても求めてしまう想いがある。

 

 今、自分たちの間にはあの頃の高い板塀は存在しない。それだけが確かなことだ。

 手を伸ばせば容易に届く場所にありながら、それを見過ごそうとする。待つ時間が長すぎて、もう想いのままには生きていけなくなっているのだろうか。

「……夏月さま……」

 ああ、やはり。

 あれからいくつもの季節を越えて今や表向きは人の妻となったというのに、己の内面は少しも変化していない。上手に想いを伝える術をついに誰からも教えられないまま過ごし、もう明日はない恋心と知りながらただ泣くことしか出来ないではないか。

 やがて始まるはずだった、もうすぐだと夢見ていた。ようやくほころびかけた人らしい心も、このまま再び凍てつく茨道に儚く散り落ちて葬り去られるのだろうか。

 もしも、この目の前の男が単なる気まぐれで閉ざされていた籠の扉を開けたのだとしたら、何も迷うことはなかった。差しのべられる腕を振り払い、意固地になることで自分を守り通すことが出来たはず。共に羽ばたいていこうと告げた大きな翼を信じて付いてきたのに、何故突然目の前から消えてしまうのだ。

「……夏月さま、やはりこのままでは嫌っ! わたくしはこの先、優美な衣装も分不相応な暮らしも何も欲しくはありませんわ。だから、ただひとつ、あなた様のお心が欲しい。今まで導いてくださった真心の全てを、決して消えないように私の心にしっかりと刻みつけてくださいませ。わたくしを……人として愛してくださる方は、今こちらにいらっしゃるただひとりの御方だけですわ」

 そう言いつつも、男とは酒の盆を隔てた位置にいて、腕を伸ばすことすら出来ない。怖かった、全てを投げ打って求めても、やはり拒まれるのではないかと。男の意志は強く、頑なであった。それを分かっているだけに、自分からはどうすることも出来ない。

「……わたくし……」

 心底情けなかった、全てを取り払ってしまった心というのはこんなにも頼りないものなのだろうか。憤りに我を忘れていた頃の方が、よほど気丈に生きていられた。すべての殻を取り払ってしまった今、もう二度と以前の自分には戻れない。これから先は、このまま頼るものもなく心細く生きて行かなくてはならないのか。

「姫……、困ります。そのようにお泣きにならないでください。何を嘆くこともないのですよ、あなたはもう自由の身なのですから。私も彼の地から、あなたの幸せだけをお祈り申し上げております。どうかご安心ください」

 それは周りからふわりと包み込むような慈悲に満ちた声だった。だが、燈花は静かにかぶりを振るだけ。ほろほろととめどない雫を寝着の袂で拭った。

「……姫、本当に」

 男はもう、自分でもどうしていいのか分からなくなっている様子であった。いつもの自信に満ちあふれた彼はどこかに行ってしまい、幼子のような心許ない姿がそこにある。まるで出逢いのあの頃に時が戻ってしまったかのように。何の指南もなく、なすすべもない想いが漂っているばかりだ。

 

 ふわっと。

 その刹那、燈花の周りの気が色を変えた。盆を脇にどけて、男がゆっくりとこちらに膝を進める。静かな衣擦れの音が辺りに響き、床に落ちて流れた一房が舞い上がった。

「お願いします、そのように悲しまれては私はどこにも行けなくなってしまいますよ? 突然の話でしたので、心細くなっていらっしゃるのも当然です。でも、すぐに慣れますから。大丈夫ですよ、心配なさらなくて」

 ああ、この心地は幾度となく味わったことがある。

 そう、朝目覚め前の淡い抱擁。まどろみの中で、いつでも男の吐息をぬくもりを感じていた。震える腕はやはりたどたどしく背に回ってくる。人前で見せる愛撫は隙がないほどに洗練されていて舌を巻いたのに、こちらの彼はどこまでも不器用だ。どちらが本来の姿であるかなどという無粋な考えはもはや脳裏を過ぎることもない。
  ゆっくりと髪を梳く指先、そのぬくもりにただ身を預ける。先ほどのように強くしがみつけば、また振りほどかれてしまうかも知れない。こうしているだけで十分に満たされる、この先望むことは何もない。

 もしも、出逢いの瞬間にふたりの間に板塀がなかったら。一体どんな物語が始まっていたのだろうか。そんなことを考えるゆとりすら生まれてくる。

 ――否、それも過ぎ去ったこと。ふたりは何もない隔たりに今度は自らの手で新しい壁を作ろうとしているのだから。

  ああ、人のぬくもりとはこんなにも温かいものなのか。どんな冷酷非道な人間でも、その皮膚の下には血潮が流れていると言う。だからこんな風に感じ取る温かさだけを信じてはならないのだ。そうは言っても……やはり求めてしまう。出来ることなら、このまま夜が明けきるまでこうしていたい。

 

 しばしまどろんでいたのだろうか。

 気だるさの中からようやく抜け出して、小さく身震いする。するとそれに反応したように、しっかりと回されていた腕が緩んだ。

  そっと顔を上げる、未だ不安げな表情の男が自分を見つめていた。そこに映るもうひとりの自分を真っ直ぐに見据えながらゆっくりと唇を震わす。

「……殿」

 男の目がふっと細くなる。笑っているような泣いているような、たとえようのない表情で、それでも瞬きもせずに腕の中にいる燈花を映している瞳。

「姫……っ!」

 次の瞬間には、今まで感じたことのなかった熱の中に飛び込んでいた。密着した寝着から伝わってくる男の濃厚な体温は、身を焦がすほどである。頬に掛かる手のひらも焼けるように熱い。

 

 迷うことなく吸い付いてくる唇。甘やかな香りが辺りを満たした頃、いつものように寝着の腰ひもが静かに解かれた。

 

◆◆◆◆◆


 いつか燭台の炎も消えていた。

 闇に包まれた庵に未だに夜明けは訪れず、辺りはひっそりと静まり返ったまま。遠く近く響く水音だけが、世界を支配していた。

 

「……夏月さま?」

 頬に落ちる規則正しい吐息に、まだ深い眠りについているものとばかり思っていた。ひとつの衣を掛け合うささやかなしとねでしっかりと逞しい腕に抱かれたまま、燈花はぼんやりと瞳を開いていく。見下ろしている愛しい人の瞳は、今にもこぼれ落ちそうに潤んでいた。

「私は……どうしたらいいのだろう」

 別にこちらに問いかけているわけではないようだ。自問自答のような言葉を、溜息と共に漏らす。

「何も未練など残さず、満ち足りた気持ちで旅立つはずであったのに……。もう少しで願いが叶うという時になって、こんなにも愛おしいものを手に入れてしまった。あまりの名残惜しさに、このままでは心だけがちぎれてこの地に留まってしまいそうです」

 燈花はふっと俯くと、むき出しのままの胸にそっと頬を押し当てた。じっとりと滲んだ汗すら心地よく、どうしても手放せないと思ってしまう。

「……必ず、お戻りくださいませ」

 しかし、今はこう告げるだけで精一杯である。いくらあがいたところで決まりの付いてしまった事柄が覆ることはない。それを痛いほどにお互いが感じているからこそ、その先を願ってしまう。

「わたくし、こちらで殿のお帰りをずっとお待ち申し上げております。何年も何十年も、あなた様のお留守を立派に守って見せますわ。ですから、……約束してください、必ず戻ると。わたくしの元に戻ってきてください」

 

 言葉の代わりに、夫の腕が燈花の背にしっかりと絡みつく。

 ひとときを共に過ごしたことで彼の中の迷いも吹っ切れたのだろうか。その瞳の熱さに戸惑いながらも、再びの波に飲み込まれていく。幾たびも幾たびも降り注ぐ愛に我を忘れ、ただひたすらひとつだけの想いを願い続けていた。


つづく(050921)


 


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