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…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-14-

 

 

 天はいつか秋の色に塗り替えられていた。

 暦の上では秋の訪れを告げる頃ではあるが、まだ日の中は軽装でも汗ばむほどの陽気である。だが、こうして日も傾き西の空が朱に染まる刻限となれば、流れ込んでくる気もつい先だってまでの蒸し暑さが嘘のように涼しげなものに変わって来ていた。

 ――ああ、また季節が巡ってゆくのね……。

 柔らかな秋草が大木の根元にほころび始めた季節の庭を眺めながら、燈花は感慨深げに吐息を漏らした。端正な横顔、その頬から重ねに沿って床まで流れ落ちる髪はやはりただ人とは思えぬほどに美しく、見るものに自分の生まれや育ちを訴えかけるほどである。
  だがしかし、今彼女の身を包んでいるのは地方官僚の妻としてふさわしい質素なもの。身分のある女人であるからそれなりの素材と仕立てではあるが、この地に辿り着いたあの頃の装いとは雲泥の差がある。館の西、大広間の前に広がる白虎の庭の縁に共にくつろぐ供の者たちも、ここにいる女主人に準ずる衣を心地よくまとっていた。

 

「やあ、皆はこちらにお出ででしたか。たまには庭を回って表から脅かして差し上げようと思ったのに、あちらの対はもぬけの殻。これでは僕の方が度肝を抜かれてしまいますよ」

 南の庭の方からぐるりと回って辿り着いたのだろう。いつもながらのおどけた口調でにこやかに微笑むのは、夫の弟である秋月であった。大袈裟なその物言いに、控えていた侍女たちは明るい笑い声を響かせる。すぐにその中のひとりが敷物を手にやってきて、燈花の座した隣に席を設えた。

「お務め、ご苦労様でした。どうですか、今年の実りは」

 燈花が差し出す香茶を、彼は一礼して受け取る。それを一気に飲み干した後で、またこぼれるような笑顔が表れた。

「ええ! 領地の民たちは皆、とても良く励んでくれましたからね。昨年にも勝る豊作になることは間違いないです。これで僕の肩の荷も下りるというもの。ああ、代理とはいえ、これだけの所領を任されるのは骨が折れますね。やはり自分にはこちらの兄上の下にお仕えするのが性に合っているようです」

 そこまで告げて、彼はハッと口をつぐんだ。だが、目の前にいる兄嫁が穏やかな笑みのままでいるのにホッとしたらしい。すぐに気を取り直したように、話を切り替えた。

「だいぶ気が澄み渡ってきた様子ですね。ただ今戻ってくる折、あちらの麓では紫峰の夕映えがそれはそれはみごとでありましたよ。あの風景はいつ眺めても美しいことに変わりはございませんが、やはり初秋は格別です。近いうちに一度、姉上もご覧になりませんか? あまり館に籠もってばかりでもいけません、皆を連れていつかのように賑やかに参りましょう」

 屈託のない微笑みは出会った頃から少しも変わっていない。だが、この男ももう赤子の父親になるのだ。そう思うと、嫌でも時の流れを思わずにはいられない。

 ――そう、もうあれから一年以上が経ってしまったのだわ。

 この手のひらからこぼれ落ちていく日々のあれこれが、つなぎ止める間もなく記憶から遠ざかっていく気がする。

 

 夫が大臣家の息子の形代として西果ての地へと赴いたのは、昨夏の盛りのことであった。

 今も瞼を閉じれば、その光景がつい今朝方のことのように思い浮かんでくる。きらびやかに着飾った夫を乗せ、豪奢な牛車はゆっくりと遠ざかっていった。心がちぎれるとは、このようなことを申すのだろうか。御簾を開けてこちらを振り向くことすら許されぬその人を、丘の下まで降りて遠く霞んで消えてしまうまで見送った。
出立の朝は絶えず笑顔でいるように務めて明るく朗らかに過ごしていたが、ひそりと静まり返った対にひとり取り残された寂しさはとても言い尽くせるものではなかった。しかし、自分は夫の代わりにしっかりとこの家を守らなくてはならない。館の者たちの前では気丈に振る舞っていたが、暫くは夜しとねに休めば独り寝の寂しさに枕を濡らすばかりであった。

 もちろん、実家である大臣家からは内々に里帰りを促す文が何度も届く。簡単な宿下がりのように見せかけて、その実は「役目」の終わった燈花を連れ戻そうとしていることはすぐに察しが付いた。そこは夫の父である月の一族の長が、上手く取りなしてくれる。男のきめ細やかな心遣いは、短い間に領地の隅々まで行き届き、ここに来るまで何ひとつ不自由を感じたことはなかった。

 主の去った後の領地は、約束通り彼の弟がしっかりと守ってくれている。寂しさを埋める日々を指折り数えていたのも初めの頃だけで、気付けば忙しい日常の中にいつか気も紛れていた。秋の初めに耕地の刈り取りを終え、さらに森も野も様々な実りの収穫を迎える。大地の恵みに感謝しながら年の瀬を迎え、瞬く間に新年。薄氷が溶ける頃には、もう次の植え付けが始まるのだ。
  それだけではない、今年の春は新しい生命を迎える準備にも忙殺された。赤子の品々というのは、何もかもが可愛らしくつい目移りしてしまう。生まれてみなければ男か女かも分からぬと言うのに、あっという間に塗籠(ぬりごめ)に仕舞いきれぬほどの衣が集まってしまった。
  館の使用人も領地の民たちも競って祝いの品を持ち寄る。色とりどりの絹、お道具。これも全て、遠き地にいるあの男の器量が成す技だとしみじみと感じ取った。

 別れのあの朝から、男の消息を伝えるものは一切なかった。

 表向きは「大臣家の息子」としてお役目に付いた身である。世の中には悪しき心を持ち、人の足を引っ張って引きずり下ろそうとしているものも少なくないのだ。もしもこちらに届けるはずの文が、他人の手に渡れば大事となってしまう。西南の大臣家としてはどうしても避けなければいけないことであり、初めの約束の時からこれはきつく言い渡されていたことだ。
  その上、念には念をいれということなのか、お目付役の侍従までが大臣家より伴われたと聞く。せめて無事を知らせる季節の便りでもあれば安堵することが出来るのに、初めからその手段を絶たれている。これではいくら気を強くもったところで、不安にならずにいろと言う方が無理な話であった。

 慣れぬ地で、如何お過ごしなのだろうか。本当にご無事でいらっしゃるのだろうか。――燈花に出来ることは、ただ祈ることのみであった。それしか出来ぬ自分が情けない限りであったが、これ以上はどうすることも出来ない。気楽な身の上であれば単身で夫の後を追うことも可能であるが、それも彼の望むことではないだろう。

 

「あの、……お方さま」

 くつろいだ一同の前に、奥の部屋からいまひとりの人影が現れた。手にはおくるみに包まれた赤子を抱いている。初めはたどたどしい手つきであった彼女も、どうにかこの頃では乳母としての姿が板に付いてきた様子だ。ふっくらと丸みを帯びた身体が、母となった心の豊かさを感じさせる。笹は自分の夫である人を会釈で迎えて、すぐに自分の務めに戻った。
  彼女とて、今や押しも押されもしない「月の一族」の一員なのである。秋月との結婚はすでに広く知れ渡っていること。それなのに表向きは燈花の侍女として変わらずに仕えてくれる。義理とはいえ、妹となった者をこのように下に使うのはどうかと思うが、当の本人の望みであれば仕方ない。

「若君がお目覚めになりましたので、お連れ申し上げました」

 その声に、燈花は静かに振り向いた。生まれて三月ほどになる赤子は、日を追うごとに愛らしくなり始終手放せないほどである。そんなに抱いてばかりいては癖になると年配の侍女からたしなめられても、自分ではどうにも出来ない執着ぶりであった。こうして昼寝のしばらくの間ですら、膝が寂しく思えてくる。

 

 ――何……?

 

 彼女は満面の笑顔で笹の方に手を伸ばしかけたが、刹那その動きが止まる。

「あの……、如何致しましたか? お方さま……?」

 見えない糸に引かれるように表の方に向き直った女主人に、笹は不思議そうに訊ねた。だが、それに対する返事はない。燈花の濃緑の双の瞳は、庭先の茂みの辺りで止まっていた。

 

 突然、気の流れが止まったように感じられた。

 どうしてなのかは見当が付かない、何の根拠があるわけでもない。ただ、胸が締め付けられるほどの懐かしさがこみ上げて、燈花の頬を揺らしていた。

 がさり、と茂みが左右に分かれて。その中から、ぼろぼろの衣をまとったふたつの影がぬっと表れた。

「……ひっ、ひいっ……!」

 最初に悲鳴を上げたのは、すぐ側の場所で庭仕事をしていた下男である。彼は数歩後ずさりはしたものの、そのままぺたんと地面に尻餅を付いてしまう。どうも腰が抜けてそれ以上は動けぬらしい。燈花の後ろに控えた侍女たちもざわめきだし、隣に座していた秋月はおもむろに胸元の懐刀を探った。

「……なァんだ、話ほどのこともないじゃないか。御庭番がこの程度じゃ、すぐにこの館も攻め落とされてしまうぞ?」

 前に立った大男がしゃがれた声を出す。周囲の者たちの視線などものともしない様子にあった。ごろごろと喉の奥で何かが引っかかっているような癖のある話し方に、すぐにこの土地の者ではないと気付く。頭にかぶっていた手ぬぐいを外せば、現れたのは元は美しい金色であったと思われるすすけた綿色の髪。それをぼさぼさとみっともなく伸ばし、その随所にも枯れ枝や枯葉を引っかけていた。

「あんたが偉く自慢するから、どんな素晴らしい場所かと期待してたのに。全く、あんたも話が大きすぎるぜ、……なぁ、御曹司」

 大きい方の浮浪者は、すっかり自分の影になってしまっている今ひとりを振り向いた。荒くれ者が怒りまくっているような恐ろしい声なのに、相手の者は少しも動じていない様子である。それどころか、くすくすと面白そうに忍び笑いすら漏らしているのだ。

 その場に集まった者たちは、いきなり現れた侵入者が我が物顔で振る舞うことにすっかり度肝を抜かれていた。彼らにとって一番大切なのは、館主に危険が及ばぬようにしっかりとお守り申し上げることに他ならない。だがしかし、頭では分かっていても元々が穏やかな土地柄でこのような状況には慣れていない。皆声を上げることも出来ずに、ただただ震え上がるばかりであった。

 

「……あ……」

 その中で、ただひとり立ち上がったのが、燈花である。

 彼女は別人のような身のこなしで縁から飛び降りると、そのまま裸足で駆け出していた。袴や重ねが地について汚れることなど全く構わないようである。ようやく遅れて秋月が後を追い始めた頃には、彼女はすでに大男たちの元まで辿り着いていた。すぐさまその場に腰を落とし、片膝を付く。

「お……、お帰りなさいまし」

 その声に、あとの者たちも訳が分からぬまま立ち上がって様子を見守った。伸び上がって確認しようと試みる者もあるが、いかんせん前に立ちはだかった男が大きくその後ろの全てを隠してしまっている。

 影になった男は、静かに頭の手ぬぐいを解いた。そしてひれ伏したままでそれ以上動こうともしない燈花をなだめるように自分も地に跪く。およそ人のものとは思えぬほど痩せこけた手に彼自身が一瞬戸惑った風であったが、やがて骨と皮ばかりの指先を艶やかな髪に滑らせた。

「ただいま戻りました、……だいぶ長く待たせましたね?」

 懐かしい声に励まされて、燈花はゆるゆると顔を上げた。まるで別人のように、輪郭が変わってしまうほどに肉の落ちた顔。その髪は色も変わり果て、艶やかな以前の面影もない。ただ、くぼんだ目に揺れる瞳が、懐かしくこちらを見つめていた。

 燈花の頬を、溢れ出た雫が静かに伝っていく。何かを伝えようと開きかけるものの、すでにその役目を果たしそうにない口元。ただただ泣き崩れるばかりの彼女を、ぼろぼろの布を絡みつけただけの腕が強くかき抱いた。

「姫……よくぞこちらに残ってくださいました。まるで夢のようです、こうして無事に帰り着いてもすでにあなたがこの地にいらっしゃらないかと思うと、私はそれだけで絶望の渦に堕ちていきそうでした。ああ、……本当に、何という……!」

 腕を回した身体は、記憶の中のものよりもひとまわりもふたまわりも痩せてしまっていた。どんなにか過酷な状況をくぐり抜けてきたかと言うことを、己の手のひらが感じ取っていく。絶望の渦に巻き込まれそうになったのは、自分も同じ。このまま二度とお目にかかれないままではないかと、それを思うだけですぐさま足下から崩れてしまいそうであった。

 

「……えっ……? 本当に! ――兄上でいらっしゃいますかっ!?」

 間近までやってきた秋月はなおも信じがたいように確認して、その表情をみるみるうちに崩していく。そしてしまいには幼子のように、ぼろぼろと泣き出してしまった。

「あっ、兄上っ……! よくぞ、ご無事で……ああ、本当にっ! 本当に、兄上が……!」

 声を上げて泣きじゃくる立派な体格の弟に苦笑いをしつつ、男は燈花の手を引いて静かに立ち上がった。そして向き直ると、ただひとつ面影を残す穏やかな瞳で告げる。

「立派に留守を守ってくれたのだね、……ありがとう。本当にありがとう」

 その状況を遠巻きに眺めていた家人たちも、いよいよ自分たちの予想が確信出来たと思ったのだろう。我先にと庭に下りてくる。瞬く間にふたりの浮浪者を取り囲む何重もの人垣が出来ていた。

「あの……、殿。こちらの方は……?」

 夫の手は、片時も離すことなどないと言うようにしっかりと燈花の手を包んでいる。その変わらぬぬくもりを頼みに、燈花はやっとの思いで訊ねていた。この辺りでは見たこともない、南峰の民の姿をした男。夫もかなりの長身になると思うが、その姿を覆い隠してしまうほどの体格は、まるで鬼のようである。地獄の門番と言われても信じてしまいそうな有様であった。

「ああ……この人はね、あちらで大変世話になった人なのですよ。故郷ではとんでもない荒くれ者でしまいには西の地に流されてしまったそうなのですが、大変働きぶりもよくてね。私の裁量で放免にしてあげたから、もう自由の身なのですけど……気が付いたらここまで付いてきてしまいました」

 首をすくめてそちらに目配せする仕草から見ても、ここにいるふたりがかなり信頼し合っているのが感じ取れる。大男はふんぞり返るように胸を張った。

「俺様は腕っ節は天下一品だからな、開墾地でも皆が俺様にひれ伏していたものよっ! そこにな、何だかどっかの集落の大臣の息子とやらがやって来るってェ言うじゃないか。ここはひとつしっかりと俺様の偉大さを知らしめてやろうと思ったんだがなァ……」

 がっはっはと大声で笑うと、それだけで地面が揺れるような気がする。周囲の女たちは悲鳴を上げて大袈裟に後ずさりしたが、大男はそれを気にする素振りもなかった。

「いやぁ、恐れ入ったっ! さすがは御曹司、今までの腰抜け役人たちとは全く違う話の分かる御方でさ、俺様の子分たちもすっかり懐いてしまって仕事もはかどるはかどる。任期が終わって故郷に戻られると聞いたときは、皆男泣きに泣いたものよ……」

 普通の人間の倍もあるほどの手のひらで背中をばんと叩かれても、夫はやはり静かに笑っている。驚いたことに、この男はならず者で通っていた流刑囚たちまで手なずけてしまったらしい。感動の再会になるはずが、驚くことばかりが多すぎて、なかなか気持ちが定まらないままだ。

「でも、……実際。彼がいて、どんなに心強かったか。全く信じられないことではあったが、こちらに戻る道でも何度か刺客に襲われかけてね。きっと私ひとりでは、助からなかったと思いますよ?」

 ――口封じ。

 西南の大臣である燈花の兄は初めから、この者を生きた状態で里に戻すつもりはなかったらしい。初めに送り込んだ侍従がならず者たちの手で追い払われてしまうと、さらに何度も手を変え品をかえて企みを実行しようとした。人を人とも思わぬ卑劣な行為も、彼にとっては合法となってしまうのか。血の繋がった兄であるというのに、もはや憎しみ以外の何も浮かんでは来ない。

「ま、俺様がいればもう安心だ。大臣だか何だか知らねえが、御曹司に刃を向ける奴には容赦しねえからなっ! 大船に乗ったつもりでいてくれよっ! ま、一同っ、宜しくなっ!」

 さあ、酒だ! 今夜は騒ぐぞー! と泥足のまま館に上がり込もうとする男を、侍女が数人でどうにか押さえつけている。慌てて御台所にお湯を取りに行く者、彼に似合った衣を見繕いに行く者など、皆取り急がしく働き始めた。だが、その誰の顔も喜びの笑みで溢れている。

 ほどなくして秋月の遣わす文使いが、ひづめの音を立てて月の一族の長の元へと飛び出していった。

 

「……ご主人様、こちらが若君にございます」

 今まで大勢の人垣になかなか近寄れないでいた笹が、ようやく人気の引いた燈花たちの元に歩み寄ってくる。そして、大切に抱きかかえていた赤子をうやうやしく夏月に差し出した。

「おお……、こちらが」

 彼は自分の汚れた装いを見ていくらかの躊躇いを見せたが、傍らの妻に促されるように赤子を受け取った。初めての抱き心地に赤子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふんわりと微笑みかける。誰を見ても柔らかい笑みを浮かべる頃なのではあるが、やはり愛らしいものだ。

「どうであろう、……こちらの君は父親に似であるかな? だが、何とも言えぬ涼しげな目元で男子にしておくのが惜しいほどだね。笹もこれで大出世ではないか、一人目から世継ぎに恵まれるなど兄上たちをも出し抜く快挙だな」

 初めのうちは慣れない手つきで恐る恐る抱えている様子であったが、次第にあやす仕草にもゆとりが生まれてきた。辺りはにわかに色づき始める。燈花は夫のそんな姿を眩しく見つめているばかりであった。幸せすぎて……そう、幸せすぎて動悸が胸を突き抜けそうである。

「嫌ですわ、ご主人様」

 そんな中、笹がひとり頬を膨らませる。そして口惜しそうにとんがった口元で呟いた。

「私が産んだのは女子(おなご)ですわ。とても愛らしい姫で、夫が志摩(しま)と名付けてくれましたの。まだあちらのしとねで休んでおります」

 その声に、夫がハッとしたようにこちらを見る。燈花は何だかひどく恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。

「そちらはお方さまがお産みになった、ご主人様の若君ですよ? ご自分の御子がお分かりになりませんか、呆れたお父君ですこと……!」

 

「……姫」

 赤子を残したまま笹がその場を去ってしまうと、夫は何とも間の抜けた声で話しかけてきた。すぐに何か返事をしなくてはならないと思うのに、なかなか言葉が浮かんでこない。まず先にこのことを告げなければならなかったのに、こうしてその時が来るとどんな風に切り出していいのか見当が付かないのだ。

「あの、……今の笹の話は誠のことなのですか。……その、この赤子は……」

 燈花は黙ったまま夫の片腕にもたれかかった。土臭いひなびた香りは、以前の彼のものとは似てもにつかなかったが、それでもこうして無事に帰館してくれただけで嬉しい。

 自分の中にも新しい命が宿っていることに気付いたのは、この人を送り出してからしばらくが経ってからであった。それまでは涙がちに暮らしていたが、自分も人の親となるのだと思うと新しい勇気が湧いてくる。ひとりで待つのは辛いが、ふたりなら手に手を取り合って励まし合うことが出来る。そして何よりも愛する人が与えてくれたこの幸せをしっかり育んでいかねばと思った。

「名が……まだないのです。この子の名付けは、やはり父親である殿にお願い致したくて。ずっと……この日をお待ち申し上げておりました」

 夫は赤子を落とさないように片手に抱き直すと、空いた方の腕を燈花の背に回した。ゆっくりと抱きすくめられる、幸せの瞬間。

「……そうですか、では格別に良き名を思案しなければなりませんね」

 

 確かなぬくもり。ああ、この場所こそが自分のあるべきただひとつの砦なのだと燈花は思った。

 神が与えし紫峰の山麓が見守るこの地で、きっとこの先も自分らしく生きて行くことが出来る。難しい駆け引きもいらない、ただひとつの愛を信じることを忘れなければ、大丈夫。

 

 怒りも憎しみも全て流れ去り、最後に残る確かなもの。はるかな峰から流れ落ちるしずくを、燈花は今、しっかりと胸に受け止めていた。

 

了(050927)
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