ぱんだの自己紹介

 中国四川省、ならぬ日本神奈川県に生まれる。
 高校時代の国語老師が、えらく中国に染まった方で、中国語の入門書を執筆、これが結構なロングセラーとなっているらしく、あれから15年も経った現在も書店で販売されている。老師、わが高校に赴任される前は、某山西省で日本語の教鞭をとられていたようである。漢文の時間、返り点の説明もそこそこに、中国語で漢詩を朗読、いや、それよりも前に、最初の授業でご自身のお名前を中国語で紹介されていたような…。でも、この時はこれが中国の罠とはまさか気が付かなかった(笑)。
 語学が苦手だった私は、農学系の大学へ。大学時代、海外からの日本向け国際放送聴取に熱を上げ、北京放送(現中国国際放送)などがとりわけ気に入っていた。いつもの調子で「中国知識クイズ」なるものに応募したところ、どういうわけか1等賞をいただき、放送局のご招待で北京1週間の旅に参加。近くて遠い中国と言う国が、一気に近くなった。だからと言って中国語を勉強しようとか、そういった積極的な想いは全くなかった親しみを感じるようになったことは事実だが。
 そうこうするうちにぱんだも就職。大学の専攻通り、某肥料メーカーに就職した。在職中は、休みになると好きな旅行に出ていた。当然中国に首っ丈??とんでもない。このころからネパールという国に一目ぼれ。暇さえあればネパールのことを考えていた。ただ、山の見える時期のネパールというのは、目指す人も多く航空券の入手が難しいのは事実。航空券がとれずに、どこかへ行く座席が空いていないかと探すと中国だったと言う理由で、中国を訪問したりと、ぱんだと中国の付かず離れずの関係は続く。でも、無料招待旅行で知り合った放送局の方と再会できるのは楽しみだったし、大陸を走る重厚長大な列車に郷愁を感じたのもまた事実ではあった。
 転機は突然訪れる。あるとき何を思ったかJOCV(青年海外協力隊)に志願、このとき私の職種に募集が入っていた国はパナマ、パラグアイ。中南米のスペイン語圏だった。ネパール、中国をはじめ、アジアばかりを歩いてきた私にとって、スペイン語という響きは新鮮だった。英語で受けた横文字アレルギーのダメージを振り払う絶好の敗者復活戦となるはず…だったのだ。試験官の先生から「どの国を希望しますか?」と聞かれ、「どこであれ必要とされる場所で仕事をします」と答えるが、追加募集で中国が入っていたことを気にも止めてはいなかった。この時まさか深ーい中国の落とし穴にはまるとは気づくはずもない。2次試験の合格通知が届き、開けてみると、国名が漢字で…。つまり「中国」。
 というわけで、1998年4月から2000年3月まで、広西壮族自治区来賓県小平陽鎮なる、内陸部の田舎で農業開発…友人開発の隊員生活を送る。都市化、グローバル化されていないこの国の生の姿を見たと言う点では、それなりの自負もあるわけだが、よもや心の奥深くまで中国から影響を受けていたとは思わなかった。
 任期終了後、当然帰国。2年間悩まされたあの中国人のGoing my wayぶりや、辺り構わず響く大音響の中国語、ぼろバスや鈍行列車の混乱振りが何故だかなつかしくなる。そんな折、JOCV参加前に勤務していた会社の中国合弁企業駐在員から、中国で仕事をしないかとのお誘いをいただいていたことを思い出す。中国かあ。それもありだよな…。
 というわけで、その方の後任として2000年10月に中国へ赴任、これが今のぱんだである。行き先はたまたま私の中国の故郷となった広西壮族自治区。ただし今度の街は海岸沿いで隣国ベトナム国境まで40kmの防城港市
 中国4000年の歴史の中で15年などあっという間ではあるが、それにしてもそういった時間の流れの中で、いつの間にやらこの国のするめのような魅力(どーいう魅力じゃ??)に取り付かれていた。これが「中国の罠」なのか、自然の流れだったのかはわからないが。

 「縁分」、日本人にも理解できる単語であるが、中国でも皆が口にする言葉だ。そして全く意味深い言葉である。「縁分」の糸をたどり糸をたどり、気が付くとここにいた。

 2002年、さらなる縁分が待ち受けていたりする。9月、中国雲南省香格里県出身の女性と結婚。完璧に罠にはまった、のかもしれないけど、これから中国はどんなさらなるびっくり箱を用意してくれるのだろう。

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