このお話は「片側の未来」の番外編になります。
「こんにちは、小林さん。ご無沙汰しています」 聞き覚えのある声が頭のてっぺんから降ってきた。黒いビニールポットに入った花の苗をいじっていた私。慌てて顔を上げる。 「ま、まあっ! 菜花ちゃんパパ…とと、槇原さんっ!」 「こちらこそ、ご無沙汰してますっ!! 皆様、お変わりありませんかっ!?」 「ええ、お陰様で。小林さんもお元気そうですね」 「ききき、今日は…どうなさったんですか? ものすごい遠出ですねっ!? 」 「はい、東京本社時代のお得意さまから呼び出しがありまして。そちらに伺っていたんです。帰り道にふと思い出して、久しぶりに小林さんのお店で買い物しようかなと立ち寄ったんですよ」 ええと、今日はちゃんとメイクしたっけ。髪の毛のパーマが取れかかってないかしら? …ひとんちのご主人にこんなに舞い上がってしまう自分が悲しかったりするけど…う〜ん、だっていいのっ! 槇原さんこと菜花ちゃんパパは私たちのアイドルなんだからっv 「それでしたら、これから夏咲きの苗がたくさん入ってきてます。特別に良さそうなものをお選びしちゃいますから、何がいいか仰ってくださいっ」 「はい、いつもすみませんねえ。助かります…」 「今、薔薇に凝ってまして、色々見て回っているんですよ? …ああ、野菜の苗も色々あるんですね。裏庭の方にだいぶ敷地が余っていて日当たりもいいので、そこで家庭菜園を作ろうかと千夏と話しているんですよ…」 トマトやなすの苗を優しげな瞳が辿る。ああ、あのトマトになりたいっ、あのトマトになって、槇原さんちの菜園で毎日愛でられたいわ…。 ……… ええと。 説明が遅れました、ごめんなさい。 そして、私は上の子が大きくなってしっかりしてきたし、パートに出ることになりました。私は結構自分でも凄いと思うミキハウス・フリーク。ダンナと子供たちとミキハウスを着込むことを生き甲斐にしてました。でも、ミキハウスってやっぱり高いんです。私は中古でもいいと思ったのですが、ダンナは「古着なんて」と嫌がります。 それがここのホームセンターの一角。苗木売り場です。もともとガーデニングに興味があったし、趣味と実益を兼ねた職場なんて素敵だなと思ってました。 でも週3回のパートでもう家の中はごちゃごちゃ、障害物競走状態です。どうしてこんなに散らかるのか、それは皆が出すだけ出して、片づけないからだと思います。いくら口で言っても駄目なので私がきーきー言いながらひとりで片づけます。ちなみにダンナは私のことなど気にも止めず、ナイター中継に夢中です。 仕事をする日はもうそれだけで手一杯なので、そのほかの日は家中の掃除をすることになります。我が家は2世帯住宅で、1階にダンナの両親と弟がふたり住んでます。弟たちはまだ独身です。玄関も分けた完全な2世帯にしたかったのに、義母が反対しました。キッチンを分けるのだって大変でした。電話を2本引くのだって今時当然だと思うのに、それすら説得に1週間っ!! とうとう、お風呂だけは一緒になりました。 とにかく、ダンナのローンで建てた家なのに、自分の家の様な顔をして両親が「点検」に来ます。部屋の掃除は怠ることが出来ないんです。せっかくガーデニングに萌えようと広めに作った庭も、草取りするのが手一杯。手の掛からないプランターでお花を育てるのが関の山です。ああ、悲しい。 ああ、自分の話ばかりですみません。 ……… ええと、今店先に来ている素敵な男性。気になりますでしょう? ええ、ええ。彼こそが私たち、ママさん仲間のアイドル「槇原さん」です。密かに「マッキー」と呼んでいる人までいます。残念なことにもう奥さん持ち、ついでにふたりの子持ち。でもっ、そんなことは関係ないくらい素敵。
ある晴れた5月の清々しい風、朝露に濡れる道路、そこを颯爽とゴミ袋を片手に彼はやってきました。半透明な都指定の袋。その後ろをちゃかちゃかとサンダル履きの女性が追いかけてきました。髪の毛の長い若い、そう見るからに若い女性。私よりも5歳以上若いなあと思いました。そして実際は8歳も若かったんですけど。 「透、いいのに。ゴミ捨てなんて私がやるから…」 「そんな、君は普通の身体じゃないんだよ? こんな重いものを持って、何かあったらどうするんだ?」 「…んもう、平気だって、言ってるのに…」 ちょっと、ふくれっ面になった彼女に、ゴミ捨て場の蓋を開けて袋を収めた彼が寄り添います。 そして…!! そっと顎を持ち上げて…えええええっ? ここ、道路ですよっ! そこで…いきなり…キス!! キスなんてしてるっ!! もちろん、口と口。マウス・トゥ・マウスと言う奴っ!! 「あんまり無理しちゃダメだよ。もしも何かあったら、すぐに電話して…」 どうも、それは出かけの挨拶だったらしく。その後も彼は名残惜しそうに彼女の頬をすりすりしてます。あまりにも甘くて、ふたりの周りの空気が溶けだしてしまいそうです。彼女の方はとっても恥ずかしそうにしてます。でも、彼はそれすら、可愛くて仕方ないという感じ。ああ、朝から当てられてしまいます。 木陰から、そのふたりの姿を見ていた私は、何とゴミ袋を3個も抱えていました。ええ、彼女よりもおなかが大きかったと思います。でも、3個っ!!それをえっちらおっちら運んでいたのに…。 こんなの、現実にあるわけないっ!! きっとドラマのロケなんだわ!! そう思いましたが、いくら植え込みの中をきょろきょろしても、ロケ班なんていません。もう、朝からこっちが赤面っ!! そんな風に槇原さんと私の出会い(…とは、言えないかしら?)は衝撃だったのですっ!! ……… その後、私は意識してそこの道を通るようにしました。どうにかして、彼と彼女にもう一度、会おうと思ったのです。赤面夫婦(たぶん)の実体っ!! それを突き詰めなければならない。私はメラメラと使命感に燃えていたのです。 しばらくたって、彼女さんの方とぱったり出くわしました。彼女は夕食の買い物に出るところでした。おなかをゆったりと隠すようにモスグリーンのジャンスカを履いています。髪はやはりさらさらと長いままのストレートであまりお化粧気のない肌に、ピンクのルージュを引いていました。 もちろん、初対面の彼女にキスシーンを目撃した話などはせず、さらりと切り出します。 「あの〜、予定日はいつですか?」 「9月なんです…」 「そうなの、どこで産むの? 決めてあるの?」 すると、彼女は私と同じ産院を口にしました。本当はどちらかの実家に近い病院で産みたかったそうなのですが、どうしてもご主人が側に置きたいと言ったそうで…まあああ、私なんて3カ月でも半年でも戻ってこなくて良かったのにって言われたのに!! 夜泣きの時に…っ!! 「へえ、じゃあ、ご近所だし。分からないことが会ったら聞いてね、私二人目だから」 そう、どうにかしてあの素敵な彼とお近づきになりたいと思いました。ウチのダンナとは雲泥の差。どうして同じ男なのにあんなに違うのかしら。ダンナなんて私よりも背が低くて、おなかも出ていて。もう、何ヶ月ですか? と言う感じ。それなのに…こちらはうっとりするくらいのだんな様。何てことなんでしょう。 彼女…槇原さんは、ついつい最近、ここに引っ越してきたそうです。新しく建った分譲マンションを購入して。そう、マンションっ!! ウチなんて当時、賃貸の木造アパート2DK。それが…ウチのダンナよりも10歳近く若いご主人が…マンションを買おうと言ったの!? 「槇原さん、随分お若いようだけど。ご主人とはどこで知り合ったの?」 妊娠すると区が主催して「マタニティー教室」なるものがあります。同じ月齢のプレママさんを集めてその心得などを保健婦さんやお医者様が教授してくれるものです。まあ、任意の参加なんですけど。 …そう言うことで、私が明け透けに聞きますと。彼女さんの方は、このような質問に何度も合っていたのでしょう(みんな考えることは同じです)、恥ずかしそうに俯きながら、小さな声で言いました。 「同じ職場で、同期入社だったんです。主人は四大でしたが、私は短大で…」 「ど、どどど、同期入社っ!!」 まあ、それはドラマの香り。私の友人にもその手の感じで彼氏をゲットした子が何人もいました。何でも大きい会社で、何十人規模の新人採用がある会社では新人研修の時に何となくみんな仲良くなるそうです。そして定期的に飲み会をしたり、気の合った仲間同士でハイキングとか爽やかな企画をしたりして。本当に学生時代の延長のように、楽しいものらしいです。 目の前の彼女さんは。今着ているものはフェリシモ風でそんなにブランド入っていませんが、それでも若手の女優さんのような顔立ち。何よりつるつるのおでこが若さの象徴です。入社した頃は同期どころか、先輩社員からもチェックが入っていたでしょう。しかも受付嬢だったと言うからなおさらです(と言うか、見栄えがしない子だったら、受付嬢にはなれません。その辺、上層部もシュールです)。 もうちょっと、突っ込んで聞きますと。入社した翌年に夏のボーナスを貰って退社して、その年の9月に挙式してます。短大を出た次の年に花嫁!! 多く見積もっても22歳ですっ!!…と言うことは、今、23…。驚くほど早い結婚ではないにせよ、そのスピードには目を見張るものがあります。 ……… その日の夜。私はダンナの高いびきを背中で聞きながら、娘を寝かしつけていました。2歳の誕生日の来たばかりの娘のおむつをこの夏に取ろうと思っていましたが、出産時期と重なってしまうため、どうも無理そうです。まあ、幼稚園は再来年だから、そんなに急ぐこともないか、と思ったら一気に気が楽になりました。ダンナの母親の攻撃はすごいですが、もう耳に蓋をしています。 頭の中は夕方の彼女さんの話でいっぱいです。これでも昔は文芸部員、素敵な恋愛に夢を見ていた私、妄想だって半端じゃありません。ムクムクと盛り上がってきます。私の描いたシナリオはこんな感じでした。 ……… 3月。新人研修の初日。真新しい制服に身を包んだ女子社員と着慣れないスーツ姿の男子社員。彼らはオフィスの研修室で初めての顔合わせをした。商社だから、接客業に近い。男性社員のほとんどは外回りの営業。大変と言えば大変であるが、自分の努力がそのまま実績になる、男性的な職種なのかも知れない。女子社員の水準も高くて、皆合格点の仕上がり。 「ああ、どうにかして、彼女の近くに行けないものか」 そう思いつつも、彼は外回りの営業。彼女は受付嬢。いくら何回も顔を合わせているとは言え、彼女がくれるのは他の社員に与えているのと同じ、営業スマイルだ。彼女の目の前に行って、世間話を始める先輩社員もいるが、自分はとてもそこまでは出来ない。 新入社員のクセに恋にうつつを抜かす彼。でも何故か、仕事上では才能開花(お約束)。新入社員ながら、大口の注文を取り付け、社長賞並みの栄誉を受ける。彼自身はそんなに特別なことをしたつもりもなかったが、その誠実な人柄が新規に獲得した取引先に気にいられてしまったのだ。 「…どうしたの?」 「まあ、槇原さん…このたびは、おめでとうございます」 「それより。君はかなり顔色が良くないよ? どこか悪いの?」 「…え? あの、お酒をちょっと飲み過ぎちゃったみたいで…」 「具合が悪いなら、無理しない方がいいよ? 送るよ…家はどこ?」 「…え、でもっ…」 「ほらほら、ご覧よ? みんな、自分の世界だから…」 「俺も、ちょっと量を過ごしたから。もう帰ろうと思っていたんだ」
幹事をしている仲間に声をかけて、そのまま戻ることにした。彼女も歩けるというので、電車を使うことにする。別に、部屋まで送ることはないから、と言う彼女の言葉を無視して、強引に送り届けた。彼女は駅から歩いて10分くらいのアパートで一人暮らしをしていた。 部屋まで着くと一気に気が抜けたのか、玄関先でふっと倒れてしまう。体の線の細い彼女らしく、この辺はか弱い。慌てて抱きとめて、お姫様抱っこ(これはお約束)で奥の部屋に運ぶ。女の子らしい、サーモンピンクで統一された部屋。白木の家具。ローチェスト。部屋全体から彼女の香りがして、思わずくらくらっとした。 「…槇原さん? 槇原さん、起きてください…」 「す…墨田さん」(小林さんは千夏の旧姓を知らないのですが、便宜上:作者) そんな彼を彼女は不思議そうに見つめている。大きな目、見つめられると吸い込まれてしまいそうだ。 「あの、槇原さん。昨日は本当に申し訳ございませんでした。お布団を出して差し上げれば良かったのに、私ってば、あのまま寝ちゃったんですね…」 「あ、いや。こちらこそ、ごめん、こんなところで…」 「宜しかったら、シャワーを使ってください。その隙に、朝ご飯作ります。お詫びに食べていって下さいね」 しかし、彼の方はちょっと悩んでしまった。どうして、こうもあっさりと男物の服が出てくるのだろう、一人暮らしなのに。まあ、布団がもう一組あってもいい。友達でも泊まりに来れば使うだろう。でも…服は…。 「あれ? 弟の服、サイズ合わないですか? …同じくらいの背格好だと思ったんですけど…」 「下着くらいは着替えた方が気持ちがいいでしょう? 弟が泊まりに来たときに置いていったものですからご遠慮なく。使い終わったら捨てちゃっていいです」 その言葉にカーッと顔が熱くなる。ああ、何て不埒なことを考えてしまったんだ。自分が恥ずかしいっ! 一瞬でも彼女に男の影を疑ってしまった自分が情けなかった。そのままユニットバスに飛び込む。でも、そこにはほんのりとフローラルなシャンプーの香りが充満している。 「か、彼女が使ったばかりの…」 ラフな格好になって、バスルームのドアを開ける。すると、何とも言えないおいしそうな香りが鼻を突いた。 「まあ、ずいぶんと長いお風呂で。のぼせちゃったのかと心配しました。覗きに行こうかと思いましたよ…」 そして、テーブルの上を見た。ほかほかと湯気を立てる朝食のメニュー。 「急だったので何にもなくて。あり合わせでごめんなさい」 でも、何と言うことか。全然そんなじゃない。彼は久しぶりに見るきちんとした朝食の風景に言葉も出ないほど感激していた。 炊きたてのご飯にわかめと豆腐のみそ汁。塩鮭の焼いたのに大根下ろし。だし巻き卵とキュウリの浅漬け。ついでに小さなタッパーに入った昆布の佃煮と柴漬けまである。もう至れり尽くせりだ(はっきり言って、ここまで千夏は作れません、朝ご飯。だって、マッキーよりも起きるのが遅いことも多いし…:作者)。 「お口に合うといいのですけど…」 何の何の…味も最高にいい。二日酔いで食欲もなかったはずなのに、ご飯のお代わりまでしてしまった。いつもは良くてパンとコーヒーの朝食。ああ、彼女と結婚したら、毎朝こんな食事が食べられるんだ。そして何よりもあんな心地よい声で起こして貰って…。また、妄想の広がる槇原。朝から、こんなでいいのか!? テーブルを片づけて、食後のお茶をいれてくれる。その白くて長い指をぼんやり見ていた。頭の中では今日、これからどうしようか考えながら。 …まさか、このまま「はい、さようなら」はないだろうなあ…せっかくの休日なんだし。その上、あつらえたようにいい天気だ。そうだ、どこかに行こうと誘うのはどうだろう。いや、彼女の都合も聞かないと。ええと…。 せっかく訪れたチャンス。ここで彼女に目を付けている同僚や上司に差を付けなくてはならない。ここを逃してなるものか。頑張るんだ、自分っ!! 「あの…」 「あら、槇原さん。携帯が鳴っているみたいですよ?」 「あ、これは先輩っ! おはようございますっ!!」 話をしている間、彼女は邪魔にならないように静かに食器を片づけていた。携帯を元のようにしまうと、その背中に声をかける。 「午後から取引先と急な打ち合わせが入ったんだって。向こうのお偉いさんが今日なら都合が付くって…」 「まあ」 「昨日と同じスーツと言うわけには行きませんよね? これからお家に戻られて、着替えないと…お忙しいですね…」 しかし、そんなことも言っていられない、新人エリートサラリーマン。彼女に見えないようにふすまの影で着替えて、身支度する。アタッシュケースを持つと、彼女は玄関先で見送ってくれた。 「どうぞ、お気を付けて。行ってらっしゃい」
年の瀬のある日、彼は驚愕の事実を耳にする。 何とたらしで有名な先輩が彼女をクリスマスのディナーに誘ったと言うではないか。先輩は用意周到に周りから固めていって、彼女をうんと言わせる様に持っていったらしい。さすがにやり手の営業マンは押しが違う、とか感動している時ではない。大変だっ!! 社内恋愛にはそれほどうるさくない会社だが、そのスキャンダルについては詳細に知れ渡る。もしも社員同士で付き合ったりしたら、すぐに社長の耳にも入る程だ。そんな中、彼女の浮いた噂を聞かないことだけが救いだった。 でも、ひどいじゃないか。彼女の上司にそれとなく打診して、仲介させるようなかたちで誘うなんて。いやらしいったらないっ! 男のくずだっ! …とか言いつつ、今までどうしても行動に出られなかった自分。今更、ヤキモキしても仕方ない。でも…どうして、諦められるだろうか。 同期の飲み会がその後、程なく合った。彼女を遠目に見ながら、いっそのことガンガン飲ませて潰してしまおうかとか考えている自分が悲しかった。あれ以来、用心しているらしく、彼女はいつでもシャキッとしている。ビールに強くなったのか、それとも早めにウーロン茶に切り替えているのか? 彼女の隣りがふっと空席になった。それを見た瞬間、慌てて席を立つ。椅子取りゲームのように必死でそこに急いだ。 |