「あ、あのぉ…。小林さん?」 「はっ、はいっ!?」
あああ、私ってばっ! どれくらいの長い時間、座り込んでいたのかしら。なすとキュウリとトマトの苗の間に足を踏ん張って、ようやく立ち上がる。園芸売り場のエプロン、緑とオレンジの気色悪いストライプ。それをぱんぱんっと勢いよく叩いた。 そして。目の前には相変わらずの槇原さん、スーツ姿。傾いた午後の日差しにますます甘くとろけそうな笑顔(多少、戸惑い気味)。
そうだったわ。さっき、槇原さんがお店に来て。苗木をいろいろ見ていて。そしたらいつの間にか、ぼーっと物思いモードに入ってしまったんだ。我ながら、恥ずかしい…ああ、でも、楽しかった。 「質問して、宜しいでしょうか?」 まあ、そんなに遠慮なさらないで。あなたはお客様なのよ、槇原さんっ! でもいいわ、年下の彼っ(…彼ではないって、おいっ!)、こうしてちょっと甘えるように言葉をかけられるのも悪くない。 「ええと、何でしょうか?」 さあ、何でも聞いてちょうだいっ! 私だってガーデニング歴、約10年っ! 園芸を語らせれば、そこら辺のにわかママには負けないんだからねっ! もうこのごろの若い人は毛虫一匹にもびびるんだから、あんなんじゃ花一輪咲かせることはできなんだからっ。 …でもって、お店の裏にはたくさんの資料もありますから、分からないこともすぐにお調べ致しますわっ! 「せっかくですから、冬至のユズ風呂の為に、ユズの苗木を一本買おうと思いまして。でもなんだかいろいろ名前があるんですね…金柑(キンカン)もユズの仲間だったんですか…へえ。で、どれを買うといいんでしょうか?」 ――あ、いけないわ。質問に答えなくちゃっ! 「ええとですね、冬至にお風呂に入れるのは、こちらの『本ユズ』になります。でもよくお吸い物とか…そう言うのに浮かべるのは、こちらの『花ユズ』ですね。花ユズは花も同様にお吸い物に浮かべて楽しめるんですよ。お庭に植えるなら、どちらでもいいと思います。花ユズは鉢植えにも出来るのでベランダガーデニングも出来るんですよ」 「へえ、では『本ユズ』は大きくなるんですね?」 「…そうですねえ、3〜10メートルと言いますから…」 私の答えにうんうんと頷く槇原さん。顎の所に手を持っていって、真剣に二つの苗木を見比べている。 「なら、実家の庭にあったのは『本ユズ』の方ですね…高いところばかりになりて、なかなか取るのが大変でした。とげがちくちくと痛くて…」 ――いかん、いかん。妄想が…。 「ああ、窒素の多い土壌に植えると、丈ばかり伸びて実がならないんですって。それから日当たりの良いところに植えないと駄目ですね。花がつきません…」 槇原さんの長い指が愛おしげに花ユズの枝を取る。あ、とげには注意して下さいねっ! でも怪我をなさったら、絆創膏でお手当が出来るかしらん…。 「じゃあ、こちら。頂きます。今までは実家から宅配便で送ってもらってましたから、今年は自家製ユズで出来るかな…楽しいですよね。ぷかぷか浮いていて。ではお勘定をお願いしましょうか?」 「は、はいっ! たくさん、ありがとうございますっ!!」 槇原さんのカートにはいろいろなお花の苗や野菜の苗が入っている。私はユズの苗木を手にすると、先導して歩き出した。 「あっ…、ちょっと。待って下さい」 「これは…ザクロですか? 今、植えても大丈夫でしょうか?」 「ええと3〜4月で、今ならちょうどいいと思いますよ? あ、こっちのユズもそうですが。ザクロは有機質の多い元肥を使って、ちょっと高植えにするといいんですって。日当たりはやはりいい方がベストですね…」 槇原さんの視線が心地よい。もう3歩歩くごとに呼び止めても許してあげるわっ! 何でしたら、もう膝をつき合わせてとことん、語り合いません? …ああ、いやいや、これから横浜の向こうまで戻る人にそれはないか。本当にどうしてお引っ越しなんてなさったのかしら? 悔しいわ〜。 「子供の頃はどこにでもあるもんだと思っていたのに…あまりお店でも見かけませんでしたよね? でも、このところ、なんだか有名になったみたいで…何でも女性の美にいいんですって? 千夏がこのごろ、肌荒れに悩んでいたりするから、いいかなと思って」 「…はあ」 結局、それかい? きっと、この人。菜花ちゃんママが冷え性で悩んだら、すぐに薬用養命酒を買っちゃうんだろうな…お肌が荒れるなら、桃の葉エキスの入浴剤かしら? でもって、二人で入ったりするのかな…1軒家のお風呂だもんな…ユニットバスじゃないだろうし。 待てよ? ユズ風呂って…もしや、お湯が見えないくらい、ユズをたくさん浮かべて、一緒に入ったりするのかな? もちろん、お子さんたちは最初に入れて、寝かせちゃって。菜花ちゃんママがひとりでゆったりと入浴している所に、槇原さんが入ってきて…。
「…きゃあっ! 透っ…さっき、お風呂入ったじゃないのっ! 何で?」 「だってさ…寝かしつけしてたら、すっかり冷えちゃったから。いいじゃないの、湯船は広いんだから」 「あ、温まったら、出てね…」 「う〜ん、いい香りだね…」 「えっ、…いやあっ! ちょっと、やめてっ!」 「あれ〜、ユズかと思ったら、千夏だったのか…」 「もう、駄目っ! やめてよっ! 私、先に上がるから…」 「まあまあ、せっかくのユズ湯なんだしさ。ほら、マッサージしてあげる…」 「やっ…、やぁっ…!」 「体中、みんなこすってあげようね…ふふ、千夏、いいニオイがする…」
それで。どこまで行くんだろう。お風呂えっちまで持っていくのかな? それともせめるだけせめて、出来上がったところで、ベッドにGo! …かな? ふふふ、いいよな〜。ああ、いかんいかんっ! また、妄想にスイッチがっ! どうにかこうにか。レジを打ち、細かい部分をちょっとおまけしたり、はねてあった苗を入れてあげたり。槇原さん用の段ボールはふたつ、一杯になってしまった。それを軽い方を受け持って、歩く。駐車場まで。もちろん、重い方を持つって言ったのよ、私。でもね、槇原さんが言うの。 「女性は、いいんですよ。…あ、苗木も俺が持ちますから…」 ああっ! スーツが汚れちゃうっ! そう思っているうちに、ひょいっと持ち上げてしまう…そんな太くもない腕なのにどうしてこんなに力持ちなの? お姫様抱っこだっていけそうねっ! あ、いつもしてるのかしら、それくらい…うらやましいっ! 隣を歩いていても、長身の槇原さんが他のお客様から見られているのが分かる。いいな〜これくらいの上背があると男らしくて。私だって、そんなに低い方じゃないけど、槇原さんの隣なら、可愛く見えそうだわ。あ、見てくれはとにかく、身長はねっ!
「…あ、これです。今、トランクを開けますね?」 うわわ、ボルボだ〜ブラックだ〜。これって結構高いわよね。結構じゃなくても高いわよ。従兄が自慢してたわ、5百万円くらいするって…。ぴかぴか、新車!? 『真のドライビング・プレジャーを生み出す、卓越した走行性能&先進のセーフティー性能(ボルボのサイトから引用)』…って、ねえ、CMで槇原さんが自ら語ってくれてもいいわよ〜。ウチのダンナ、車なんて走ればいいって、今時っ! 白の軽自動車に乗ってるのよっ! もう、銀行じゃないっていうのっ! ぴかぴかのトランクに敷かれている、キティーちゃん柄のレジャーシートが素敵v こう言うのに女性はくらくらっと来るのよねっ。家族を大事にする男がこれからの主流よねえ…! きちんとチャイルドシートもついてる。ふたつ。しかも後部座席に。と言うことは…やっぱり、菜花ちゃんママが助手席ね。ウチなんかさ、晃が助手席をぶんどるから、私はいつも後ろなのよ〜。 ああん、もう。カーナビが標準装備しているんだから、いらないでしょう、人間ナビ。もしや、子供が寝た隙に、「ちゅっ」とかやっているんじゃないだろうな…ああ、やりそう、この人なら。でもって、可哀想な対向車線の車…渋滞だったら、当てられっぱなしって奴??
「…では」 ああ、妄想していたら、さっさと荷物が積まれている。槇原さんはやわらかい手つきでトランクを閉める。間違えても大きな音なんて立てない。そう言うところまでスマート。 「いろいろ、ありがとうございました。また、こちらに来るときにはお寄りしますね…そうそう、新しい名刺が出来たんだ。一枚どうぞ」 そう言って、名刺入れからささっと一枚。それを両手で受け取って、思わず息をのむ。 「え…? 所長さんに…なられたんですか!?」 本社じゃなかったら、閑職で出世も出来ないって言ってたんじゃなかった? そう聞いたわよっ!! 所長って…偉いんだよなあ…。 「あ…はい。4月の1日付で。前所長が本社に戻りましたので…と言っても、ウチの営業所は小さいですから。全部含めて30人くらいで…」 さんじゅうにんの親分でも、十分すごいですっ!! あんた、いくつよ? まだ、30ちょっとでしょう?? 「家の方にもどうぞ遊びにいらして下さいね…晃くん、でしたよね。男の子、ご一緒に。男の子、可愛いですよね。ウチも頑張ってるんですけど、なかなかね…まあ、男の子でも女の子でもいいんですけど。千夏の子なら、きっと可愛いですよ…」 うわわわっ…車に乗り込んで、エンジンかけて、さらに言うかっ!? もうっ!! こっちが赤くなっちゃうわよっ!! 「それでは、失礼します。お仕事、頑張って下さいね」 大きな車に似合わない、優しいエンジン音。静かに走り出す、黒い車。それが駐車場の出口を出て行って見えなくなるまで、私はその場に立ちつくした。ドリカムの「未来予想図・2」の様に…ああ、ウインカーが切ない…うるる。 夕方の風が頬をなでる。夕日が傾いて、広い駐車場をオレンジ色に染め上げる。黒のボルボ、どこまで行ったかしら…。 ああ、そろそろ終業の時間だわっ! 晃を託児に迎えに行かなくちゃっ! もう、菜花ちゃんママにつられて晃も幼稚園に入れちゃったから、仕事のある日は幼稚園の後に託児所に入れてる。結構散財なんだけど…実は保育園の空きを待っているのよね。菜花ちゃんママのいない今、もう幼稚園に未練はないのっ。 緑色とオレンジ色のしましまエプロンを翻す。負けてなるものかっ! 小林晴美、まだまだ行きますっ!! 今日はたくさんエネルギーをもらったもんねっ! これで2週間くらいは元気でいられるわ。そうそう、これは皆さんに即、メールよっ!! おもむろに携帯を取り出して、ちゃかちゃか操作を始める。勢いよく、メールの本文を打ち込みながら考える。行きましょうとも、槇原家。もう、是非是非、突撃しちゃうっ!! ああ、今週末でも行こうかしら。絶対に休日に行くの。槇原さんがいるときに!! 美しいお庭を眺めながら、ふたりでまったりとガーデニング談義。いいわ、いいわ。もうたくさん予習しちゃうからっ!! 思わずスキップしながら、そそくさと仕事場に戻る。心の中に、新しい野心を抱いて。とりあえずはエステと美容院ね。とびきり美しくなろう。 槇原家に乱入する段取りを考えながら、私の口元は知らず、微笑んでいた。
とりあえず、ここまでv(021223)
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