TopNovel未来Top>槇原さんち☆れぽぉと・3


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 その夏は例年以上の猛暑。丁度7月の終わりが予定日だった私は地獄のようでした。

 暑くなると彼女も私が出歩くような時間にあまり見かけることが出来なくなります。ご主人の田舎が山の方なので避暑がてら遊びに行ったり、自分の実家にも戻っているようです。

………

 私ももっと話を聞きたいと切望しながらも、2歳児を抱えてはどうにもならない状況。同じ妊婦という立場にあっても第一子目と第二子目の出産は同じにはならないのです。出産時、急に産気づいたらどうするのか? というのもゆゆしき問題。
 お産なんていつ来るのか分からないのです。ウチの娘は人見知りがひどく、産院の看護婦さんにもなついていません。私がひとりで分娩室に入ったら半狂乱になるでしょう。ダンナの仕事中にタクシーを呼んだとしても、娘をどうしていいものか途方に暮れてしまう毎日です。

 そんな感じでママさん仲間の情報をたくさん仕入れました。やはりこんなときは先輩ママさんです。私たちの住んでいる地区では、保育園に産前産後の一定期間だけ、上の子を受け入れてくれる制度がありました。もちろん、大変な立場にある人が優遇されるわけですが、当時、ダンナの両親は共働きで、私の実家も遠く、頼れる者などありません。そのことを涙ながらに訴えました。ええ、市役所の児童福祉課のフロアで。

 大きなおなかの私が2歳になったばかりの娘の手を引いて必死の面もちでやってきたときから、担当の職員の顔が違いました。すぐさまいくつかの保育園に連絡を取り、その場でアパートから20分ほど歩いたところにある私立保育園を紹介してくれました。
 乳児ですからお弁当もいらない完全給食。その上、この夏はおむつはずしも行水もしてくれると言うじゃないですか! まるで天国の様でした(別に私が行水出来るわけではないけど)。

 出産と育児の経験がある方なら理解できるでしょうが(そうじゃない方も是非是非想像して下さいっ!)、赤ん坊が産まれて3カ月目になる頃までは、まったく昼も夜もない忙しさになります。産まれたばかりの赤ん坊と来たら、体の中に時限装置を備えているとしか思えないようにきっちりと3時間置きに腹が空いたと欲求します。その欲求の仕方はワンパターン、そう、大声で泣くだけです。
 そんな怒濤の日々に半日でも上の娘が預かって貰えたらどんなにいいでしょう。

………

 産まれてきた第二子は待望の男の子でした。このご時世、男よりも女を産み、ゆくゆくは娘夫婦と同居する、と言うのがママさんたちの間で描かれる未来予想図ですが、やはり年輩の人間たちにとっては「男の子」イコール「跡取り」として、それはそれは期待されます。

 上の娘が産まれてから、一体何百回、何千回の「次は男の子ね」「一姫二太郎ね」と言う不躾な言葉を浴びせられたものでしょう。娘がお誕生を過ぎてよちよち歩きをする頃には「二人目は」コールが朝晩絶えることなく続きました。それがうるさかったのか、ダンナは私が止めるのも聞かず、さっさと子作りを開始してしまったのです。

 その頃、娘は「夜泣き」のピークでした。娘を寝かしつけた後、子作りに励み、仕込み(?)が終わった頃にまた娘が泣き出す。出来れば3歳は離したかったのですが、私もダンナも年が年なので早くした方がいいとせっつかれます。最初は基礎体温などを必死で計っていましたが、疲れてくるとだんだん面倒になってきます。
 生理が来れば、夫のがっかりした顔。今月こそはとカレンダーと手帳を覗き込んで検討してます。私はだんだんサラブレットを産出する種馬の気持ちになってきました。
 ダンナがバックからの行為が好きだったこともそれに拍車をかけます。背後から降りかかるダンナの「ふうふう」と言う声、お尻に微かに当たる中年太りのおなかの肉…まあ、出産後たるんだのは私も同じなので仕方ないのですが。こんなにもでぶでぶに肥えていくことはないのに。

 …ああ、何だか想像したくないものを延々と描写して申し訳ありません。まあ、何回めかの仕込みでめでたくも妊娠し、私の種馬生活は終わりを告げたのです。

 そんな感じで産まれてきた息子はそれはそれは良く泣きました。そろそろとつま先立ちで歩く音にも反応し、2キロ先の消防署の出動の音にもハッと目を覚ます。娘はどちらかというとよく寝る子だったのだと、その時初めて気付いたものです。
 保育園の関係もあって、私は実家に帰ることも出来ず、出産もこっちですることになりました。さすがに床上げまでは母が来てくれましたが、産後21日たつと、さっさと田舎に引き上げてしまいます。まあ、当然でしょう。田圃だって畑だって忙しいのです。

 ダンナは子供が泣けば「うるさいぞっ!!」と背中を向けてしまうタイプです。男の子はミルクの缶が一缶多く必要だと義母が話していましたが、それは本当のことでした。すぐに母乳だけでは足りなくなり、私は夜中でも赤ん坊が泣き出す前にほ乳瓶を用意して、それを冷ましておき、おっぱいのあと与えるようにしていました。
 泣けばおむつを取り替え、その後、おっぱい、そしてミルク。げっぷをさせて寝かしつけるとその2時間後にはまた、ぎゃーと泣き出します。

 経験がある分、今回は余裕があるだろうと思っていたのに。赤ん坊だけにかかりっきりになれない二人目子育ては想像できないくらい大変でした。いつ朝が来て、夜になるのか、全然分からない感じでした。

………

 ふらふらのまま、8月9月が過ぎ去り、娘の預け入れの期間も終わってしまいました。まあ、昼間のおむつが外れたので良かったです。私立の保育園は法外に料金が高く、出産費用であっぷあっぷしていた私はもう少しで「無人君」に駆け込んでしまうところでした。おむつはずしに高いお金を払ったようなものです。


 息子をばってんおんぶして、娘の手を引いて、夕方の買い物に出ました。頭の中は献立を考える余裕もありません。でもレトルトもデリバリーも飽き飽きしていました。
 10月半ばのことです。柿の実が赤く色づき、さやさやと夕暮れの風がこころにふうっと吹き込んでくる。薄ら寒い気分でした。でも、そんな私にも神様はちゃんとご褒美を下さったのです。

 

 そう…とうとうっ!! 彼(と彼女)との再会を果たすことが出来たのですっ!!

 

 その日、ノーメークでひっつめの頭で、ボロボロになって歩いていました。母乳を与えるために日に何度もたくし上げるので、薄いトレーナーはどんどん裾が伸びていきます。どの服もでれでれとみっともなくなってしまい、買い物に出掛ける服にも事欠くようになりました。セシールや千趣会などのカタログをゆっくり読もうにも時間がありません。その辺に置いておくと、全てが娘の餌食になりました。

 金色に輝く銀杏の並木。ひらひらと花びらのように落ち葉が舞います。向こうの方から男女のふたり組が歩いてくるのを見つけました。よく見ると男性の方がベビーカーを押しています。

 ああ、あれはデパートで見かけた某ブランドモノのじゃないか。赤い持ち手がとても可愛くてビビットな色遣いも素敵だった。普通のベビーカーなら特売で1万円なのに、それは5万円位したような気がする。あ、もちろん、ウチのベビーカーは特売品よっ!

 それに気を取られているうちにふたりはどんどん進んできて、やがて先にあちらから声をかけられてしまいました。

「まあ、ご無沙汰してます…」

 鈴を転がすような軽やかな彼女の声でした。5万円ベビーカーの主があの若い夫婦だったと気付いて、私は腰が抜けるかと思いました。彼の方は私とは直接面識がありません。誰? と言った顔で彼女に訊ねています。

「あのね、透。ご近所のお友達なの、病院のこととか色々教えていただいたのよ?」

 …何と言うことでしょうっ!! 彼女は、何度か立ち話をしたり、買い物の途中に一緒になっただけの私を『お友達』と紹介してくれるではありませんかっ! 彼女の説明によって、彼がへえ、と感慨深そうにこちらを見つめてきます。その親密な視線っ!! ああ、何という幸運でしょうっ!!
 でも…このトレーナーは頂けなかったなあ…せめてぱつんぱつんのスパッツじゃなくてジーンズでもはいてくれば良かった。彼女が優しい色のジャンパースカートを女らしくゆったりと着こなしているのが目に映ります。前ボタンになっているのはやはり授乳中なのだからでしょうか?

「千夏が色々とご迷惑をお掛けしたそうで。これからも宜しくお願いしますね、何も分からない奴ですから…」
 そう彼が言うと、彼女の方はちょっと膨れた顔で彼のシャツの袖を引っ張ります。その仕草の可愛らしいこと、それに応えて微笑む彼の優しいことっ!! どうしていちいち絵になるんでしょう、この2人はっ!!

 こちらが緊張して呆然としているとふたりはさっさと歩いてきて、私の傍まで来ると背中の息子を覗き込みました。

「やあ、男の子さんなんですね。…はっきりしたいい顔をしてるなあ、ほら、千夏、ご覧よ。可愛らしいよ?」
 耳元に彼の声が落ちてきます。

 きゃああっ!! 長身の人だとこんな風に上から声が降ってくるのね…それにしても何でこんなに素敵な声…このまま『オンリー・ユー』と唄って欲しいと思ってしまう辺り、かなり私は疲れているようです。

 それにそれに。

 はっきりしたいい顔、ですって!! ちんくしゃで鼻が上を向いていて、ダンナにそっくりな息子が…彼にそう言われるとちょっとその気になってしまうのはどうしてでしょう。

「まあ、本当ね。眉が濃くて…凛々しいわ」
 彼女も嬉しいことを言ってくれます。一方私は、5万円のベビーカーの中ですやすやと寝息を立てている赤ちゃんに目をやりました。

「まあ、可愛らしいっ!! 見てご覧なさい、沙也佳っ! 何て可愛い赤ちゃんなのかしら!?」
 普通、どんな赤ん坊を見ても社交辞令でそう言うお世辞を言うものだがさすがの私もこの言葉に嘘偽りはありませんでした。

 くるくると明るい茶色の髪はくせっ毛みたい。ふわっと白い肌、ピンク色の口元。まつげが長いこと。くるんとここもカーブしています。予定日から考えて、まだ1カ月か2カ月と言うところでしょう。こんなに整った顔立ちの赤ちゃんがいるのでしょうか。淡いピンク色のベビードレスは赤ちゃんの顔に邪魔にならない部分に可愛らしくレース飾りが付いていて、この子にぴったりです。
 沙也佳が産まれたとき、色の黒い娘は赤ちゃん色が似合わずに、困り果てたことを思い出します。大人もそうですが、赤ちゃんでも可愛らしい子は何を着せても似合うものでしょうか…?

「そうですか? …ありがとうございます」
 娘を誉められて、父親である彼もまんざらではない様子。にこにこと目尻が下がります。親バカな顔をしても格好いい人は格好良いのですね、感動します。

「お嬢さん、お名前は?」
 私が訊ねると、彼女が恥ずかしそうに答えます。

「菜花、って…言うんです。菜の花って書いて、なか」

「…まあ」
 何て可愛らしい名前っ!! 今風ですっ!! 息子なんて「晃」…どこかにこんな名前の演歌歌手がいなかったでしょうか? これでも、義父母が「昭」と付けると言うから、必死で抵抗したんです。どうして、何が悲しくて、新しき平成の世に…昭和の「昭」!? もう、悲しくなって、

「どうしても『あきら』にこだわるなら、『亜樹羅』とでも付けたらどうなのっ!!」
 …と、産後のふにゃふにゃになった頭で錯乱して、瞬時に却下されてしまいましたっけ。あの時は6人部屋にいて、他のママさんたちが呆気にとられていたっけ。

 私がうるうると感動していると、彼女さんの方は何を勘違いしたのか恥ずかしそうに言う。

「秋に産まれて菜の花なんて…やっぱり変ですよね。でも…透が、じゃなくて主人が…どうしてもこの名前がいいって」

 うっわ〜〜〜〜〜っ!! 彼が付けたんですか!? 顔に似合わず…と言うかクールに体育会系の外見で(ええと例を挙げればテニスプレーヤーとか? 間違ってもレスリングではありません。ずえったいに、お相撲さんとかじゃないからねっ!)そんな〜島崎藤村じゃないんだからさっ。え? どうして島崎藤村? いえ何となくよ、何となく。ウチのダンナなんてっ! 100年かかったって、思いつきもしないわよっ!!

 その時、感動にむせび泣いている(心の中で。まさか沿道で泣けないわ…泣きたいくらい感動したけど)母親の監視が手薄になり、好奇心旺盛な娘がベビーカーの中の天使を指でつんつんとつついたらしいのです。ついでにくるくるの巻き毛が興味深かったらしく、きゅーっとつまみ上げたから、たまりません。

「ぴぎゃあああああっ!!」
 私たちの傍らでいきなり大きな泣き声が上がりました。皆、びっくりして声のした方向を見る。3人の大人に見つめられて、小さな娘の方も泣き出しそう。

「おやおや、菜花。おっきかな〜?」
 彼は間違っても沙也佳を責め立てるようなことはせず、何気ない感じで愛娘を抱き上げました。

「もももも…申し訳ございませんっ!!」
 やだ〜〜〜、もうっ!! 私は真っ赤になって平謝り。もう、何してんのよ〜、この馬鹿っ!!

 それなのに。彼はそんな私ににっこりと微笑んでくれる。ああ、なんて心が洗われる微笑…。

「気にしないでください、赤ん坊は泣くのが仕事なんですから。それにもうすぐ起きる時間だったんですよ。あんまり昼間よく寝てしまうと、夜が困りますからね…」
 座ってない首を器用に支えて、相当慣れた手つき。まるで保父さんみたいだ、こんなに手つきのいい新米パパは見たことない。はっきりいってウチのダンナよりもずっと上手いわ。

 彼が揺り上げると、すぐに天使の菜花ちゃんはにっこりと笑顔になりました。ああ、赤ちゃんだって、素敵な男性は分かるのね…って、パパだけど。

 赤ちゃんが落ち着いたので、彼はホッと一息ついて。そして感慨深そうに語り出します。

「大変ですよね〜、赤ん坊は昼も夜も無いんだから。ウチでも夜中のミルクは俺が作るんですよ、千夏なんて、もうふらふらでベソかいてるから…。今日もあんまりやつれているから、午後年休を取ったんです。本当、いつまで大変なのでしょうねえ…」

「やだっ! もう、透っ!! そう言うこと、言わないでっ!」

 さらさらと髪を揺らして、彼女が真っ赤になっています。だって、本当のことじゃない、とか言いながら、すっかりまたふたりの世界。ああ、髪の毛をなでたりして…いいのか〜〜〜、夕方の買い物客が行き交う歩道でっ!! いくらちっちゃいからって、片手で赤ちゃんを抱っこするのは危ないぞ〜〜〜っ!

 そんなことを一頻りしてから、思い出したように彼がまた私の方を見ました。もうこちらはあてられたというか、何というか…クラクラ。もう、どうにでもしてくださいっ!

「そうだ、…千夏のお友達なら…、あの、聞きたいことがあったんですよ。ええと…」

「小林さん、よ。透…」
 名前を知らない彼が困っていると、彼女はつかさず隣りから助け船を出します。美しき夫婦愛、絵に描いた餅…じゃなくて、絵に描いたようなカップル…(こぶつきだけど)。

「ああ、そうなの。…小林さん、ちょっとお伺いしたいんですが。先輩ママさんとして…」

「…はあ?」
 そう言うと、彼はすすすっと私のすごく傍までやって来るのです。ひゃあああああ、息がかかるよ、耳に。いいのかい、彼女が傍にいるのよ!?

 彼女の方と言えば、彼が一体何を思っているのか分かってないらしい。大きな目を見開いて、不思議そうにこちらを見ているよう。

「あの、小林さん…」

 ああ、そうよ。囁いて…いい声だわ、痺れるわ。何でしたら、下の名前は「晴美」なんですけど。そっちで呼んでくれたら、もっと素敵…。

 ばってんおんぶのぼろぼろな姿で最高にときめいている私。やがて、吐息混じりの甘い声が…。

「産後って、いつからしていいものなのでしょうか…あ、夫婦生活のことなんですけど?」

 …は!?

 一瞬で我に返る私。おんぶひもが肩にずしんとめり込んだ気がしました。

 

 ……あの。ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ…?

 ああ、失礼しました。笑っているわけではありません。ただ今の私の頭の中を表現してみただけです。

 何ですってえ〜〜〜? どうしてそんなことをいきなり聞くのよっ!! この上なく甘い声で…。

「とっ、透っ!!」
 私が何か言葉を発する前に、いち早く彼女の方がぴぴんと反応しました。両手で顔というか頬というか…要するにがばっと覆って、でも真っ赤になっているのがよく分かります。

「な、何てことを伺ってるのっ!! お願い、やめてっ!!」
 ぶるんぶるんと頭を振るので、さらさらな髪の毛が辺りに広がります。まるで昔ながらのオルゴールメリーの様です。

 それにしても、赤ちゃん育てで忙しいはずなのに、この手入れの行き届いた髪は何なのでしょう? 私なんて、この頃ではのんびりと風呂に浸かる暇もなくて、リンスインシャンプーでがしがしと洗っているのに。
 どう見ても、ゆっくりとシャンプーで汚れを落とした後、高級なヘアパックをして、5分蒸らす…みたいなことをしなくちゃ。ついでに美容院でのケアもしてるわ。どこをどうしたら、そんなお金と時間があるのよ〜、分けなさいよ〜〜〜っ!!

 まあ。彼女のうろたえるのも分かります。立ち話程度の面識しかないご近所さんにいきなり夜の生活のことを尋ねられたら、誰だって慌てるでしょう。すぐさま穴を掘って籠もりたくなっても当然です。

 それなのに。

 彼の方は何てことなしに、涼しい顔をしているではありませんか。必死で食い下がる彼女に対して、にっこりと余裕の笑みを浮かべています。

「何を言っているんだよ? 千夏、一番大切なことだろう? いい加減にしてはいけないと思うんだけど…」

「だだだ、だってぇ〜〜〜〜!!」

 彼女の叫びは無視されて、彼はくるりとこちらを向きました。あんぐりと口を開いたまま硬直していた私を見たのでしょう。さすがにちょっと照れたようです。ほんのり色づいたハナの頭を人差し指でなでてます。何でオヤジがやったら情けない仕草も、彼がやると決まっているのでしょう。きっと背中をかいても格好良いんだわ。

「…ああ、やはりいきなりでしたか…でもね、小林さん。俺も千夏も、周りの友達には、まだ所帯持ちがいなくて、誰にも聞けないんですよ? まさかね、上司や取引先に訊ねるのもどうかと…」

 …そ、それはおやめになった方が宜しいかとっ!! あああ、この人、涼しげに微笑みながら、頭の中で一体何を考えてるの!?  いやん、もう、分からないわっ!!

「あっ、あのっ!!」
 聞かれたからには答えなくちゃならないだろう。でも、ついついどもってしまう。夕暮れの遊歩道。2歳児の手を引いて、さらにばってんおんぶの買い物姿。私は全神経を脳に終結させたのです。

「そ、その様なことは、産婦人科の先生が教えてくださるのではないのですか!?」

 そうだった気がする。確か…産後、1カ月検診の時に、悪露(『おろ』…産後の出血のことをこう言います。全く持って失礼しますよねっ!?)の様子を診断されて、先生が仰った気がする。

「出血がなくなったら、大丈夫ですよ。でも産後だからと言って、きちんと避妊しないと今はすぐに妊娠しますからね。身体を休めるためにもその辺はぬかりなくお願いしますよ。私としては、患者さんが多い方がいいのでばんばん産んで欲しいですけどね…」
 そう言って、がっはっは、と豪快に笑う。

 笑い事じゃない。ばんばん産んだら、大変じゃないですか!? どこかの自称『健全少女小説書き』・サイト管理人のように、3人年子を産んだらどうするんですかっ!!  あんな大変な思いは話に聞くのも嫌ですっ!! 受診した産婦人科医も看護婦さんも開いた口が塞がらなかったそうですよ。

 もっともさ、普通は…産後はそれどころじゃないのではないかな。赤ちゃんは昼も夜も関係なく泣くんだから。母親の方もふらふらで、とてもエッチなことまで考えられないと思うわ。それにさ、ウチのダンナは言ったわよっ!!

『お前の胸、怖い。ホルスタインみたいで…』

 ぐうううううううっ!! 本当に、デリカシーのないダンナで口惜しいわっ!! 腹ポテになったのだって、ホルスタインになったのだって、あんたのせいでしょうがっ!! あんたが仕込んだから、こういうことになったのよっ!!

 私だってね〜〜〜、独身時代はそれなりにモテたんだからっ!! 彼女になってくれなくちゃ死んでやるって言われたことだってあるんだからっ! あああ、口惜しいっ!!

 

 …はあ。話が逸れたので、元に戻します。失礼しました。

 

「う〜ん、そうなんですけどね…」
 彼はちょっと困った顔になると、彼女の方をちらっと見た。彼女さんの方と言えば、もう所在なさげに突っ立っている。すぐにでも引き上げたいと言った表情だ。

「先生は、検診の時にオッケーサインを出してくださったのですが…千夏がまだ怖いって、嫌がるんですよ。こうなったら、小林さんから説得してもらおうかな…」

「…は?」
 思わず、声が裏返ってしまったわ。そんなこと、気心の知れた友人だって難しいわよ。何で私に振るのよ〜〜〜っ!!

「産後の傷も痛いんでしょうね? 溶ける糸で縫ってあるから、抜糸もないと聞いてますが…つれるって…」

 そそそそそそ…そりゃああ、そうですけどっ!! 聞かないでよ〜、恥ずかしいじゃないですかっ!!

「あ、あのっ。そう言うことは、個人差がありましてね…一概には…」
 もう、本当に。この人はどうなってるのよっ!! ああ、どうやってコメントしたらいいのやら…。

「もおっ! 透…いいでしょう? もう、帰りましょうよ。菜花だって寒くて可哀想だわ…」
 彼の上着をぎゅうぎゅうと引っ張って、泣き出しそうな表情の彼女。そうよね〜、公衆の面前で、事もあろうに夫婦の夜の生活のことを話されちゃ、たまったもんじゃない。

 でもさ、でもさ、でもさ…。ウチなんか、ダンナも私もそんな気も起こらなくて、1年ぐらいは本当に忘れていたわ。でもって、いきなり2番目作りよ。解禁したら、いきなり子作りっ!! もう情けないったらありゃしない。そして、その後は腹ポテに興味はない、産まれればホルスタインには興味がない。ウチの次の夫婦生活なんて一体何億光年の彼方にあるのか、分かったもんじゃない。

 こっちのご主人はそうじゃないわよね〜そんなはずもないわ。きっと彼女とのムフフな生活を取り戻したくて必死なんだわ。必死だから、初対面の私にまで聞いて来ちゃうのだし。

 きっと、流れ星の如く、今夜にでも決行しちゃうわ。


………


 夜の9時過ぎ。夫婦の寝室。ベッドに腰掛けて天使のような菜花ちゃんにミルクをあげている彼女。その背後に、すすすっとすり寄る彼。しっとりと湿ったシャンプーの香りが首筋にくっついて、彼女は小さく悲鳴が上がる。

「…やんっ。何っ? 菜花がびっくりするでしょう? やめてよ、透」

 ああ、いいわ〜もう名前が分かったもんね。臨場感溢れる妄想が出来ると言うものよ。彼は補乳瓶が空になって菜花ちゃんが満足したのを見て取ると、脇から腕を伸ばして、我が子をすっと抱き上げた。

「げっぷさせて、寝かしつけておくから。千夏は早くシャワーを浴びておいで」
 そう言いながら、慣れた手つきで赤子を肩に抱く。背中をぽんぽんと叩いて。

 このげふ、をさせておかないと、後からミルクを戻したりして大変なことになるのだ。吐いたものが喉に詰まって、窒息することもあるんだから。

「いいわよ。透はお仕事で疲れているんだから。菜花の世話は私がやるから…ゆっくりしていて」
 申し訳なさそうに言う彼女。しかし、彼は軽くかぶりを振ると何かを含んだ熱い視線で彼女を射抜く。

「菜花の世話は俺がするから。千夏は俺の世話をして。…ね、いいだろ…?」

「…え?」
 目をぱちぱちと瞬きさせる彼女の頬についっと吸い付く唇。

「待ちくたびれたら、バスルームまで襲いに行くけど。それでもいいの…?」

「え…、でもっ…」
 彼が何を思ってこんなことしてるのか、彼女もようやく察する。そして泣き出しそうな瞳で彼を見つめた。

「…やっぱり、嫌…怖いの、まだ…」
 ふるふるっと首を振る彼女の耳たぶに彼の吐息がかかる。

「怖くないんだよ、千夏。優しくするから、無理はしないから…ね、シャワーを浴びてきて…」

「で、でもっ…透…」

「…愛してるよ、千夏」

 その声に、真っ赤になって俯いてしまう彼女。彼女とて、そうしたくないわけじゃないのだ。でも、やっぱり怖いし…。そう、痛いとかそう言うこと以外にも引っかかってしまうところがあるのだ。
 きゅっと、唇を噛むと立ち上がる。そうだ、種火だっていつまでも付けていられないだろう。シャワーはどちらにせよ、浴びるのだから…。

 

 そして、少しの時間が流れる。

 

 ところ変わって、バスルーム。彼女が身体に付いたボディーシャンプーの泡を流すために、ザンザンとシャワーを浴びている。きゅっと、コックを閉めて。折り戸を開けて、バスタオルを取ろうとした瞬間に、ぎょっとして後ずさりした。

「…やああっ、どうして、…透…」
 脱衣室に、突如現れた彼。わあ、寝込みを襲う、と言うのは聞いたこともあるが、風呂上がりを襲うのか。

 当然のことながら、後ずさりして戸を閉じようとする彼女。しかし彼の腕が一瞬早く、彼女を捕らえる。彼の手にした真っ白なバスタオルの中に、気付くと抱きすくめられていた。

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