その夏は例年以上の猛暑。丁度7月の終わりが予定日だった私は地獄のようでした。 暑くなると彼女も私が出歩くような時間にあまり見かけることが出来なくなります。ご主人の田舎が山の方なので避暑がてら遊びに行ったり、自分の実家にも戻っているようです。 ……… 私ももっと話を聞きたいと切望しながらも、2歳児を抱えてはどうにもならない状況。同じ妊婦という立場にあっても第一子目と第二子目の出産は同じにはならないのです。出産時、急に産気づいたらどうするのか? というのもゆゆしき問題。 そんな感じでママさん仲間の情報をたくさん仕入れました。やはりこんなときは先輩ママさんです。私たちの住んでいる地区では、保育園に産前産後の一定期間だけ、上の子を受け入れてくれる制度がありました。もちろん、大変な立場にある人が優遇されるわけですが、当時、ダンナの両親は共働きで、私の実家も遠く、頼れる者などありません。そのことを涙ながらに訴えました。ええ、市役所の児童福祉課のフロアで。 大きなおなかの私が2歳になったばかりの娘の手を引いて必死の面もちでやってきたときから、担当の職員の顔が違いました。すぐさまいくつかの保育園に連絡を取り、その場でアパートから20分ほど歩いたところにある私立保育園を紹介してくれました。 出産と育児の経験がある方なら理解できるでしょうが(そうじゃない方も是非是非想像して下さいっ!)、赤ん坊が産まれて3カ月目になる頃までは、まったく昼も夜もない忙しさになります。産まれたばかりの赤ん坊と来たら、体の中に時限装置を備えているとしか思えないようにきっちりと3時間置きに腹が空いたと欲求します。その欲求の仕方はワンパターン、そう、大声で泣くだけです。 ……… 産まれてきた第二子は待望の男の子でした。このご時世、男よりも女を産み、ゆくゆくは娘夫婦と同居する、と言うのがママさんたちの間で描かれる未来予想図ですが、やはり年輩の人間たちにとっては「男の子」イコール「跡取り」として、それはそれは期待されます。 上の娘が産まれてから、一体何百回、何千回の「次は男の子ね」「一姫二太郎ね」と言う不躾な言葉を浴びせられたものでしょう。娘がお誕生を過ぎてよちよち歩きをする頃には「二人目は」コールが朝晩絶えることなく続きました。それがうるさかったのか、ダンナは私が止めるのも聞かず、さっさと子作りを開始してしまったのです。 その頃、娘は「夜泣き」のピークでした。娘を寝かしつけた後、子作りに励み、仕込み(?)が終わった頃にまた娘が泣き出す。出来れば3歳は離したかったのですが、私もダンナも年が年なので早くした方がいいとせっつかれます。最初は基礎体温などを必死で計っていましたが、疲れてくるとだんだん面倒になってきます。 …ああ、何だか想像したくないものを延々と描写して申し訳ありません。まあ、何回めかの仕込みでめでたくも妊娠し、私の種馬生活は終わりを告げたのです。 そんな感じで産まれてきた息子はそれはそれは良く泣きました。そろそろとつま先立ちで歩く音にも反応し、2キロ先の消防署の出動の音にもハッと目を覚ます。娘はどちらかというとよく寝る子だったのだと、その時初めて気付いたものです。 ダンナは子供が泣けば「うるさいぞっ!!」と背中を向けてしまうタイプです。男の子はミルクの缶が一缶多く必要だと義母が話していましたが、それは本当のことでした。すぐに母乳だけでは足りなくなり、私は夜中でも赤ん坊が泣き出す前にほ乳瓶を用意して、それを冷ましておき、おっぱいのあと与えるようにしていました。 経験がある分、今回は余裕があるだろうと思っていたのに。赤ん坊だけにかかりっきりになれない二人目子育ては想像できないくらい大変でした。いつ朝が来て、夜になるのか、全然分からない感じでした。 ……… ふらふらのまま、8月9月が過ぎ去り、娘の預け入れの期間も終わってしまいました。まあ、昼間のおむつが外れたので良かったです。私立の保育園は法外に料金が高く、出産費用であっぷあっぷしていた私はもう少しで「無人君」に駆け込んでしまうところでした。おむつはずしに高いお金を払ったようなものです。
そう…とうとうっ!! 彼(と彼女)との再会を果たすことが出来たのですっ!!
その日、ノーメークでひっつめの頭で、ボロボロになって歩いていました。母乳を与えるために日に何度もたくし上げるので、薄いトレーナーはどんどん裾が伸びていきます。どの服もでれでれとみっともなくなってしまい、買い物に出掛ける服にも事欠くようになりました。セシールや千趣会などのカタログをゆっくり読もうにも時間がありません。その辺に置いておくと、全てが娘の餌食になりました。 金色に輝く銀杏の並木。ひらひらと花びらのように落ち葉が舞います。向こうの方から男女のふたり組が歩いてくるのを見つけました。よく見ると男性の方がベビーカーを押しています。 ああ、あれはデパートで見かけた某ブランドモノのじゃないか。赤い持ち手がとても可愛くてビビットな色遣いも素敵だった。普通のベビーカーなら特売で1万円なのに、それは5万円位したような気がする。あ、もちろん、ウチのベビーカーは特売品よっ! それに気を取られているうちにふたりはどんどん進んできて、やがて先にあちらから声をかけられてしまいました。 「まあ、ご無沙汰してます…」 鈴を転がすような軽やかな彼女の声でした。5万円ベビーカーの主があの若い夫婦だったと気付いて、私は腰が抜けるかと思いました。彼の方は私とは直接面識がありません。誰? と言った顔で彼女に訊ねています。 「あのね、透。ご近所のお友達なの、病院のこととか色々教えていただいたのよ?」 …何と言うことでしょうっ!! 彼女は、何度か立ち話をしたり、買い物の途中に一緒になっただけの私を『お友達』と紹介してくれるではありませんかっ! 彼女の説明によって、彼がへえ、と感慨深そうにこちらを見つめてきます。その親密な視線っ!! ああ、何という幸運でしょうっ!! 「千夏が色々とご迷惑をお掛けしたそうで。これからも宜しくお願いしますね、何も分からない奴ですから…」 こちらが緊張して呆然としているとふたりはさっさと歩いてきて、私の傍まで来ると背中の息子を覗き込みました。 「やあ、男の子さんなんですね。…はっきりしたいい顔をしてるなあ、ほら、千夏、ご覧よ。可愛らしいよ?」 きゃああっ!! 長身の人だとこんな風に上から声が降ってくるのね…それにしても何でこんなに素敵な声…このまま『オンリー・ユー』と唄って欲しいと思ってしまう辺り、かなり私は疲れているようです。 それにそれに。 はっきりしたいい顔、ですって!! ちんくしゃで鼻が上を向いていて、ダンナにそっくりな息子が…彼にそう言われるとちょっとその気になってしまうのはどうしてでしょう。 「まあ、本当ね。眉が濃くて…凛々しいわ」 「まあ、可愛らしいっ!! 見てご覧なさい、沙也佳っ! 何て可愛い赤ちゃんなのかしら!?」 くるくると明るい茶色の髪はくせっ毛みたい。ふわっと白い肌、ピンク色の口元。まつげが長いこと。くるんとここもカーブしています。予定日から考えて、まだ1カ月か2カ月と言うところでしょう。こんなに整った顔立ちの赤ちゃんがいるのでしょうか。淡いピンク色のベビードレスは赤ちゃんの顔に邪魔にならない部分に可愛らしくレース飾りが付いていて、この子にぴったりです。 「そうですか? …ありがとうございます」 「お嬢さん、お名前は?」 「菜花、って…言うんです。菜の花って書いて、なか」 「…まあ」 「どうしても『あきら』にこだわるなら、『亜樹羅』とでも付けたらどうなのっ!!」 私がうるうると感動していると、彼女さんの方は何を勘違いしたのか恥ずかしそうに言う。 「秋に産まれて菜の花なんて…やっぱり変ですよね。でも…透が、じゃなくて主人が…どうしてもこの名前がいいって」 うっわ〜〜〜〜〜っ!! 彼が付けたんですか!? 顔に似合わず…と言うかクールに体育会系の外見で(ええと例を挙げればテニスプレーヤーとか? 間違ってもレスリングではありません。ずえったいに、お相撲さんとかじゃないからねっ!)そんな〜島崎藤村じゃないんだからさっ。え? どうして島崎藤村? いえ何となくよ、何となく。ウチのダンナなんてっ! 100年かかったって、思いつきもしないわよっ!! その時、感動にむせび泣いている(心の中で。まさか沿道で泣けないわ…泣きたいくらい感動したけど)母親の監視が手薄になり、好奇心旺盛な娘がベビーカーの中の天使を指でつんつんとつついたらしいのです。ついでにくるくるの巻き毛が興味深かったらしく、きゅーっとつまみ上げたから、たまりません。 「ぴぎゃあああああっ!!」 「おやおや、菜花。おっきかな〜?」 「もももも…申し訳ございませんっ!!」 それなのに。彼はそんな私ににっこりと微笑んでくれる。ああ、なんて心が洗われる微笑…。 「気にしないでください、赤ん坊は泣くのが仕事なんですから。それにもうすぐ起きる時間だったんですよ。あんまり昼間よく寝てしまうと、夜が困りますからね…」 彼が揺り上げると、すぐに天使の菜花ちゃんはにっこりと笑顔になりました。ああ、赤ちゃんだって、素敵な男性は分かるのね…って、パパだけど。 赤ちゃんが落ち着いたので、彼はホッと一息ついて。そして感慨深そうに語り出します。 「大変ですよね〜、赤ん坊は昼も夜も無いんだから。ウチでも夜中のミルクは俺が作るんですよ、千夏なんて、もうふらふらでベソかいてるから…。今日もあんまりやつれているから、午後年休を取ったんです。本当、いつまで大変なのでしょうねえ…」 「やだっ! もう、透っ!! そう言うこと、言わないでっ!」 さらさらと髪を揺らして、彼女が真っ赤になっています。だって、本当のことじゃない、とか言いながら、すっかりまたふたりの世界。ああ、髪の毛をなでたりして…いいのか〜〜〜、夕方の買い物客が行き交う歩道でっ!! いくらちっちゃいからって、片手で赤ちゃんを抱っこするのは危ないぞ〜〜〜っ! そんなことを一頻りしてから、思い出したように彼がまた私の方を見ました。もうこちらはあてられたというか、何というか…クラクラ。もう、どうにでもしてくださいっ! 「そうだ、…千夏のお友達なら…、あの、聞きたいことがあったんですよ。ええと…」 「小林さん、よ。透…」 「ああ、そうなの。…小林さん、ちょっとお伺いしたいんですが。先輩ママさんとして…」 「…はあ?」 彼女の方と言えば、彼が一体何を思っているのか分かってないらしい。大きな目を見開いて、不思議そうにこちらを見ているよう。 「あの、小林さん…」 ああ、そうよ。囁いて…いい声だわ、痺れるわ。何でしたら、下の名前は「晴美」なんですけど。そっちで呼んでくれたら、もっと素敵…。 ばってんおんぶのぼろぼろな姿で最高にときめいている私。やがて、吐息混じりの甘い声が…。 「産後って、いつからしていいものなのでしょうか…あ、夫婦生活のことなんですけど?」 …は!? 一瞬で我に返る私。おんぶひもが肩にずしんとめり込んだ気がしました。
……あの。ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ…? ああ、失礼しました。笑っているわけではありません。ただ今の私の頭の中を表現してみただけです。 何ですってえ〜〜〜? どうしてそんなことをいきなり聞くのよっ!! この上なく甘い声で…。 「とっ、透っ!!」 「な、何てことを伺ってるのっ!! お願い、やめてっ!!」 それにしても、赤ちゃん育てで忙しいはずなのに、この手入れの行き届いた髪は何なのでしょう? 私なんて、この頃ではのんびりと風呂に浸かる暇もなくて、リンスインシャンプーでがしがしと洗っているのに。 まあ。彼女のうろたえるのも分かります。立ち話程度の面識しかないご近所さんにいきなり夜の生活のことを尋ねられたら、誰だって慌てるでしょう。すぐさま穴を掘って籠もりたくなっても当然です。 それなのに。 彼の方は何てことなしに、涼しい顔をしているではありませんか。必死で食い下がる彼女に対して、にっこりと余裕の笑みを浮かべています。 「何を言っているんだよ? 千夏、一番大切なことだろう? いい加減にしてはいけないと思うんだけど…」 「だだだ、だってぇ〜〜〜〜!!」 彼女の叫びは無視されて、彼はくるりとこちらを向きました。あんぐりと口を開いたまま硬直していた私を見たのでしょう。さすがにちょっと照れたようです。ほんのり色づいたハナの頭を人差し指でなでてます。何でオヤジがやったら情けない仕草も、彼がやると決まっているのでしょう。きっと背中をかいても格好良いんだわ。 「…ああ、やはりいきなりでしたか…でもね、小林さん。俺も千夏も、周りの友達には、まだ所帯持ちがいなくて、誰にも聞けないんですよ? まさかね、上司や取引先に訊ねるのもどうかと…」 …そ、それはおやめになった方が宜しいかとっ!! あああ、この人、涼しげに微笑みながら、頭の中で一体何を考えてるの!? いやん、もう、分からないわっ!! 「あっ、あのっ!!」 「そ、その様なことは、産婦人科の先生が教えてくださるのではないのですか!?」 そうだった気がする。確か…産後、1カ月検診の時に、悪露(『おろ』…産後の出血のことをこう言います。全く持って失礼しますよねっ!?)の様子を診断されて、先生が仰った気がする。 「出血がなくなったら、大丈夫ですよ。でも産後だからと言って、きちんと避妊しないと今はすぐに妊娠しますからね。身体を休めるためにもその辺はぬかりなくお願いしますよ。私としては、患者さんが多い方がいいのでばんばん産んで欲しいですけどね…」 笑い事じゃない。ばんばん産んだら、大変じゃないですか!? どこかの自称『健全少女小説書き』・サイト管理人のように、3人年子を産んだらどうするんですかっ!! あんな大変な思いは話に聞くのも嫌ですっ!! 受診した産婦人科医も看護婦さんも開いた口が塞がらなかったそうですよ。 もっともさ、普通は…産後はそれどころじゃないのではないかな。赤ちゃんは昼も夜も関係なく泣くんだから。母親の方もふらふらで、とてもエッチなことまで考えられないと思うわ。それにさ、ウチのダンナは言ったわよっ!! 『お前の胸、怖い。ホルスタインみたいで…』 ぐうううううううっ!! 本当に、デリカシーのないダンナで口惜しいわっ!! 腹ポテになったのだって、ホルスタインになったのだって、あんたのせいでしょうがっ!! あんたが仕込んだから、こういうことになったのよっ!! 私だってね〜〜〜、独身時代はそれなりにモテたんだからっ!! 彼女になってくれなくちゃ死んでやるって言われたことだってあるんだからっ! あああ、口惜しいっ!!
…はあ。話が逸れたので、元に戻します。失礼しました。
「う〜ん、そうなんですけどね…」 「先生は、検診の時にオッケーサインを出してくださったのですが…千夏がまだ怖いって、嫌がるんですよ。こうなったら、小林さんから説得してもらおうかな…」 「…は?」 「産後の傷も痛いんでしょうね? 溶ける糸で縫ってあるから、抜糸もないと聞いてますが…つれるって…」 そそそそそそ…そりゃああ、そうですけどっ!! 聞かないでよ〜、恥ずかしいじゃないですかっ!! 「あ、あのっ。そう言うことは、個人差がありましてね…一概には…」 「もおっ! 透…いいでしょう? もう、帰りましょうよ。菜花だって寒くて可哀想だわ…」 でもさ、でもさ、でもさ…。ウチなんか、ダンナも私もそんな気も起こらなくて、1年ぐらいは本当に忘れていたわ。でもって、いきなり2番目作りよ。解禁したら、いきなり子作りっ!! もう情けないったらありゃしない。そして、その後は腹ポテに興味はない、産まれればホルスタインには興味がない。ウチの次の夫婦生活なんて一体何億光年の彼方にあるのか、分かったもんじゃない。 こっちのご主人はそうじゃないわよね〜そんなはずもないわ。きっと彼女とのムフフな生活を取り戻したくて必死なんだわ。必死だから、初対面の私にまで聞いて来ちゃうのだし。 きっと、流れ星の如く、今夜にでも決行しちゃうわ。
夜の9時過ぎ。夫婦の寝室。ベッドに腰掛けて天使のような菜花ちゃんにミルクをあげている彼女。その背後に、すすすっとすり寄る彼。しっとりと湿ったシャンプーの香りが首筋にくっついて、彼女は小さく悲鳴が上がる。 「…やんっ。何っ? 菜花がびっくりするでしょう? やめてよ、透」 ああ、いいわ〜もう名前が分かったもんね。臨場感溢れる妄想が出来ると言うものよ。彼は補乳瓶が空になって菜花ちゃんが満足したのを見て取ると、脇から腕を伸ばして、我が子をすっと抱き上げた。 「げっぷさせて、寝かしつけておくから。千夏は早くシャワーを浴びておいで」 このげふ、をさせておかないと、後からミルクを戻したりして大変なことになるのだ。吐いたものが喉に詰まって、窒息することもあるんだから。 「いいわよ。透はお仕事で疲れているんだから。菜花の世話は私がやるから…ゆっくりしていて」 「菜花の世話は俺がするから。千夏は俺の世話をして。…ね、いいだろ…?」 「…え?」 「待ちくたびれたら、バスルームまで襲いに行くけど。それでもいいの…?」 「え…、でもっ…」 「…やっぱり、嫌…怖いの、まだ…」 「怖くないんだよ、千夏。優しくするから、無理はしないから…ね、シャワーを浴びてきて…」 「で、でもっ…透…」 「…愛してるよ、千夏」 その声に、真っ赤になって俯いてしまう彼女。彼女とて、そうしたくないわけじゃないのだ。でも、やっぱり怖いし…。そう、痛いとかそう言うこと以外にも引っかかってしまうところがあるのだ。
そして、少しの時間が流れる。
ところ変わって、バスルーム。彼女が身体に付いたボディーシャンプーの泡を流すために、ザンザンとシャワーを浴びている。きゅっと、コックを閉めて。折り戸を開けて、バスタオルを取ろうとした瞬間に、ぎょっとして後ずさりした。 「…やああっ、どうして、…透…」 当然のことながら、後ずさりして戸を閉じようとする彼女。しかし彼の腕が一瞬早く、彼女を捕らえる。彼の手にした真っ白なバスタオルの中に、気付くと抱きすくめられていた。 |