それからというもの。私は今までの無精が嘘のように、てきぱきと朝の家事を片付けるようになりました。生活の潤いなのです、菜花ちゃんママ(槇原さん・彼女)の姿を見るのは。多分、それは私だけじゃないと思います。他のママ仲間の視線も気が付くと彼女を追っています。 メンバーの中でも一目瞭然の最年少の若さ。目立ちすぎないシンプルでナチュラルな、でもどこかおしゃれで洗練された服装。そうそう、本当にフェリシモのカタログのようなのです。あの服は、写真で見ると結構おしゃれですが、実際に手にすると素材が薄くて安っぽく、なかなか上手に着こなすことが出来ません。 季節は秋から冬へと移り変わり、ついでに新年を越えていました。寒々しい時節ですが、風の強くなる午後を避けて、日溜まりの午前中に公園に出ます。新しくグループになったママさんたちは一人目の子供を出産した人ばかりでした。上の子がいるのは私だけ。ですから、ベビーカーを揺らしながら談笑するメンバーに始終入っていることは出来ませんでしたが、居心地は悪くありませんでした。 「服なんて、何を着たって同じじゃないの。どうしてトレーナー一枚に1万円も2万円もかけるの?」 今年のお正月も5万円の福袋を申し込みました。ミキハウスはテナントによっては福袋を予約できて、宅配してくれるサービスまであるんです。有り難いことです。ちゃんと男の子女の子に別れていて、ついでにサイズの指定もある。ほとんどそのままお買い得品みたいに。それに中身だって不足ない。
その日、菜花ちゃんママはピンクのニットにベージュのスカートをはいていました。腰が細いのですららっとしています。裾が花びらのようになったマーメードスタイル。ロングのスカートが多いようです。日当たりのいいベンチでいつものようにみんなで和やかにおしゃべりしていると、突然、隆君ママ(あのぴらぴらな重ね着の彼女、息子はガテン系)がとんでもないことを言い出しました。 「ねえねえ、会陰(えいん)切開の後って、もう痛くない?」 その時。私はベンチから立ち上がって、沙也佳の遊ぶ様子を眺めていました。娘はブランコに乗ったり、鉄棒にぶら下がったり、小山に登ったりしています。とりあえず、視界から消えなければ安心です。今日は乱暴な子供もいないようですし。 「会陰切開」と言うのは、赤ん坊が出てくるときに産婦人科医が「出口」を切る行為です。ぞぞぞっとしますが、出口が完全にやわらかくなって広がらないうちに頭が出てくると変な風に裂けてしまうこともあるようです。切った後はお産が終わってから先生が縫ってくれます。沙也佳の時は抜糸で死ぬ思いをしましたが、晃の時には「溶ける糸」で縫って貰ったので、それがありませんでした。 「私さ、あんまりにお尻が痛くて…退院するとき病室にあったドーナツ型の椅子を買って来ちゃった。お産も長くてさ〜」 「聞いてよっ、何と1日半、お産だったのよ。最初はいきみを逃すのが大変で大変で…もう体力を消耗して、産む頃には気力もなかったわ…その上っ!! ダンナってば、苦しんで呻いている私の隣りで、ガーガー高いびきで寝てるのっ!! 信じられないわっ!」 まるでたった今の出来事のように握り拳を振り上げる。ああ、コムサダンナはこの先、一生ことあるごとにこのことで嫌みを言われるんだわ。ご愁傷様…。 「やっぱり痛いわよね? ダンナが『裂けないだろうな?』とか言って、指を当てたから、もう飛び上がるかと思っちゃった。ダンナはダンナで『折れるかと思った』って…」 一同、きゃあああああっ!! と叫ぶ。ああ、いいのか。日の当たる公園で、和やかな若いママさんたちが…とか言いつつ、耳をダンボにする私。 「そうよねえ…こっちは朝も夜もない生活でボロボロしているのに、ダンナってば私がおっぱいしてると『コレで3時間は大丈夫だな』って、背中に張り付いてくるの。いやんなっちゃう…」 「まあ、妊娠後期に我慢させたから、仕方ないわよ…」 「ええっ!? 妊娠後期って…一体何ヶ月、してなかったの!?」 「あ、…ええ、まあ…」 「私、妊娠中毒症になって、それどころじゃなかったのよ。クラクラして吐き気はするし。でもダンナは元気でしょう? 口でやれって言われて、本当に悲しかったわ…」 「ああ、フェラはね…嫌よねえ…」 「でも、私、妊娠中にみっちり仕込まれたわ。ホント、頭に来ちゃう」 私は沙也佳を見てますから、誰が言っている言葉なのか、正確にはわかりませんでした。でもきわどいことは確かです。もしかして皆様…下ネタ好き!? ああ、子作りしてからずっとご無沙汰なんて口が裂けても言えないわ。ここは沙也佳を見てる振りして耳ダンボに徹しようっと…こそこそ。 「ねえ、ねえ。菜花ちゃんママ〜あなたは?」 「どうなの? どうなの? ねえ、菜花ちゃんママのとこって、やっぱりパパも若いの?」 「それとも、ものすごい年の差カップルだったりする? いきなりご主人が40歳とか?」 あああ、可哀想に。俯いて頭をふるふるしてる。でもその姿が可愛いわ…。うっとり。 「え…あのっ…」 「もったいぶらないでよ〜〜〜っ!」 「えっと…」 何しろ、他のメンバーの視線は全て彼女に注がれています。たまったもんじゃないでしょう。顔を上げると瞳が潤んでいます。うわわ、そそられるわ、この視線っ! もしかして、私って、危ない…??? 「あの、痛いです。やっぱり…」 「でもさ、菜花ちゃんのパパって…」 「もう、菜花ちゃんが可愛くて仕方ないでしょう? こんなに可愛い赤ちゃんだったらめろめろになりそう…」 「え…あ、そうなんです。もう、大変で…」 「おむつをどちらが替えるか、ミルクをどちらがあげるかで、ケンカになっちゃうんです…」 「ええっ!?」 「菜花ちゃんパパって…おむつを替えてくれるの!?」 「え…でもっ。紙おむつですし…」 「紙おむつだってね〜、ウチのダンナはおむつ替えの時は違う部屋に逃げちゃうわっ!!」 「うちも、うちも…」 「お風呂だって、怖いからお前がやれって…私の仕事ばっかり増えて、ゆっくりとお風呂に入る暇もないの。嫌になっちゃうっ!!」 菜花ちゃんママは、途方に暮れたように、矢継ぎ早に浴びせられる言葉を受け止めています。 まあ、そうだろう。それくらはやって当然かも知れないわ。私はちょっと優位に立ちながら心の中でほくそ笑みました。 何しろ、朝のゴミ出しをするようなご主人だ。おむつ替えくらい朝飯前だろう。そうか、あのご主人をみんなは知らないのね!? ああ、役得〜〜〜っ! 「ああ、いいな〜羨ましいっ!! 1日交換したいわっ? どう!?」 「え、あの…それは…」 「…と、透に…相談しないと…」 一同。水を打ったように、しんと静まりかえりました。 「…あ、あのっ? 菜花ちゃん…ママ?」 「ダンナさん、名前で呼んでるの? 今でも?」 周囲の皆も同意見のように、うんうんと頷いています。でも当の本人は何のコトやら分からない様子で目をぱちくり。大きな目が、こぼれそうです。 「あ、…そうですけど」 …きゃあああああっ! とまた、叫び声が上がります。 「ええ、ウチなんか、もう『ママ〜』よ」 「ウチも、ウチも。あんたなんか産んでないってっ!! 蹴り入れてやりたいわっ!」 「そそそそ…そうなんですか?」 「う〜ん、でも菜花ちゃんママがそんな風に可愛らしく呼んでも、菜花ちゃんには敵わないでしょうね…」 「そうよね、男は若い女が好きだもんね…」 ああ、みんな、そんな勝手なこと言って。私は心の中で舌打ちしました。みんな知らないから、槇原さんちのご主人。ふふふ、何だか優越感っ!! 嬉しいわv
……… ぽかぽかと春めいた陽ざし。昨日の日曜日に地域のボランティアが清掃に入った公園はいつもに増して綺麗になってました。 やはり、小さな子供を遊ばせる場所は綺麗じゃないと嫌です。もちろんトイレも水洗で抵抗なく入れるところ。子供はどこでもトイレに行きたがります。そのくせ(ウチの沙也佳もそうですが)汚いと入れないのです。今時の子供ですね。 月曜日。 それは専業主婦にとって至福の日です。何しろ、ごろごろと居間に転がって、何かと口を出してくるダンナがいなくなった家は掃除もはかどります。そりゃ、いなくちゃ困るのがダンナですが、正直言って「亭主元気で留守がいい」という言葉がぴったり。 私もようやく今月から幼稚園に行きだした娘をバスに乗せ、さっさと掃除を終えました。そして、速攻で公園行きです。これにはもう一つの理由があったりするのですよね。 実は。ダンナの親が自宅の建て替えを検討していて、それとなく同居をほのめかしてきます。ずばっと本題に入らずに「夫婦ふたりの生活は寂しい」だの「飯がまずい」だのそういうことばっかり。いつまでものんびり家にいたりすると、電話がかかって来ちゃうんです。 ママさんたちの話を聞くと、イマドキは「同居したくない」と言う親も多いようです。自分たちが同居して苦労したので、姑になってまで苦労したくないと言うんでしょう。残念ながら、ウチの義父母は「孫と一緒にアヒルさんを浮かべてお風呂に入りたい〜」というタイプです。 延ばし延ばしににしても、埒が明かないのは分かっているんですけど…はあああっ…。 大きなため息を付いてしまいました。気が付くと息子の晃はベビーカーの中でバタバタしています。一応見栄を張って靴を履かせておりますが、9カ月の息子が歩くわけもありません。かといって、公園の落ち葉の上にでも下ろせば、途端にごろごろと転がっていってしまいます。子育ての間である意味、一番扱いにくい時期です。 仕方ないなあ、重くなってきたけどちょっと抱いてやるか…他のママさんたちもだんだん集まってきたようです。私は息子を片手で抱えると、ベビーカーを押してそちらに移動しかけました。 その時。 辺りに、爽やかなみどりの風がすす〜っと流れた気がしました。そんなはずもないのですが、さながら少女漫画のきらきらの点々が流れてくるような。その方向をちらっと見ると…。 …まあああああっ!! 思わず息を飲みました。彼ですっ! 彼っ!! 彼が来ました。公園に出てくるのは初めてかも知れないわ、それに菜花ちゃんママもこの頃いなかったし。私は離れた場所で棒立ちになってしまいました。 サーモンピンクの細かいチェックのシャツ、ラフにブローした髪。ブラックのジーンズ。いつもの5万円ベビーカーではなくて、菜花ちゃんをそのまま抱っこしてます。うわわ、髪の色が同じだ、菜花ちゃんは結構パパ似だったのねっ!! …でも? でも? どうして…彼が!? 「やあ、小林さんじゃないですか!」 うわ、どうしよう。一応、顔なじみなんですから当然なんだけど、満面の笑みを浮かべた爽やかな人がまっすぐにこちらに向かって歩いてきます。私は思わず抱えた息子を取り落としそうになり、慌てて揺り上げました。 「こ、こんにちはっ! ご無沙汰してますっ!」 「ど、どうしたんですか? 菜花ちゃんパパ…」 「え…? ああ、そう言う風に公園では呼び合うんですってね。面白いです、千夏が言ってました」 彼はこくんと咳払いをしました。 「菜花が毎晩、すごい夜泣きで…千夏が参ってしまいまして。今日は休みが取れたので、彼女を休ませてやろうと…大変なんですねえ、ようやく夜まとめて寝るようになったと思ったのに…」 大変ですねえ、と言いながら、それでも愛おしそうに愛娘を抱き直します。菜花ちゃんはとても夜泣きをしてママを困らせるようには見えないのに…天使のように愛らしい微笑みで。くりくりの髪が少しずつ伸びてきて本当に可愛いわ。 「ひどい子は1歳半くらいまで続くとか言いますけど…どうでしょうね」 晃はまだ断乳前なので、夜中に泣かれると寝たままでパジャマをまくり上げておっぱいを上げてしまうのです。こんなやり方をしたら、ヘタすると窒息死だと物の本には書いてあるけど。でも眠いものは仕方ないし。気付くと明け方まで胸がはだけたままで眠りこけていたりします。 「ええ、1年半? それは大変だなあ…」 「夜もね、さっさと寝ちゃうんですよ、彼女。2時くらいになると菜花が泣くからって。そんなのたまりませんよねえ…だから、必死で揺り起こして、ふたりの時間を楽しもうとワインとか用意するんですけど。それでもボーっとしていて。もともとそんなに体力もある方じゃないし、仕方ないんですけど…」 「この間は、とうとう実家に預けに行って、日中ふたりきりでデートしちゃいましたよ?」 …ひぇえええええっ!! そんなことしていいのか!? ウチの義父母は絶対に許さないぞっ!! 「親の楽しみのために、子供を犠牲にしてはいけない、きちんと育て上げるまでは何もかも諦めなければならない」って、耳にタコができるくらい言われてるし。その隣りで、ダンナがうんうんと神妙に頷いているのがますます怒りを募らせてるわ。 「千夏、全然こっちを向いてくれないんですよ? 口惜しいですねえ…」 えええええ? もしかして、拗ねてるんですか!? いいんですかっ!! ああ、でも許すわ、この人ならっ。
うっわ〜、きっと夜とかも強引に迫っちゃったりするのかな? そうなのかな? 菜花ちゃんのママが、嫌がっても言うこと聞かないの。…素敵かも。
「いやん、透っ! …私、眠いのっ! 今日はやめて…」 そう言って、まとわりついてくる腕を払おうとする彼女。でも彼はそんな言い分になど耳を貸さない。熱い吐息で耳にそっと語りかける。 「駄目だよ? …千夏は俺のモノなんだから。なあ、いいだろ?」 「あっ…」 「透っ…だめっ…!」
ああ、もしかして。無理をさせているのは、ここにいる彼!? 彼女はだから起きてこられないの? まさか…もう1ラウンドこなしてきたんじゃないでしょうね、あり得るぞ…。
真昼の妄想にクラクラ来てしまう。これもみんな彼のせいよっ! 彼が私を妄想させるのよっ!! そんな私を知ってか知らずか。彼はふふふっと、忍び笑いを漏らします。 「午前中、俺が菜花をちゃんと世話したら。午後は存分にふたりの時間にして貰いますから」 がががががががが〜〜〜〜〜〜んっ!! んなっ! 何ですか!? 昼間からやりますか? ちょっとっ! 覗きに行っちゃうわよっ、私ご無沙汰してるんだからっ!! 思わず仁王立ちになっていると、背後からガラガラとベビーカーの集団のやってくる音がします。 「あーちゃんママ〜おはよう〜♪」 あああ? 皆さんっ! 何だか声のトーンが違うんですけど…。しかも皆様、私に挨拶しながら、視線がみんな菜花ちゃんパパ、要するに槇原さんに集まってます。ああ、正直だこと。 「やあ、もしかして。皆さんが千夏のお友達ですか? いつも妻がお世話になっております…」 「い〜え、こちらこそ。菜花ちゃんママはクッキーやカップケーキを焼いてきてはご馳走してくださるんですよ? お世話になってます…」 槇原さんは、その言葉に満足そうに微笑みました。 「ああ、オレンジの入ったケーキ、あれ、おいしかったですよね? 俺、3個も食べたら、千夏に皆さんの分がなくなるって泣かれちゃって…でも、ついつい手が出ちゃうんですよねえ…」 …ひゅるりららららららららら〜〜〜〜〜〜〜〜〜。 ああ、皆さんも引いているわ。思い切り引いているわ。 「で、でもっ…菜花ちゃん、可愛いですよねっ! お目々なんかぱっちりで…」 でも、彼女の虚しい努力もすぐにノックアウトされてしまいます。 「そりゃ、そうですよ。千夏の子供ですから」
次の日から。菜花ちゃんママが、仲間のママさんに質問責めにあったのは言うまでもありません。 彼女も懲りたのでしょう。次からはちゃんと槇原さんが公園に来るときにも付いてくるようになりました。彼女なりに必死で牽制して、彼の失言(彼女にとってはそう言うことになるのですよね)を阻止しようとしてるらしいです。 でもっ、でも。ふたりが菜花ちゃんを挟んで並んでいるだけで、充分当てられているんですけど。そこまでは配慮できなかったらしいですよね…。 もちろん、彼も厳しく言われたのでしょう。それからは子供たちを中心にした会話に切り替えて、他のママさんの子供を抱き上げたりしてサービスします。子煩悩爽やかパパを一目見ようと、よその公園のグループも移ってきたのは言うまでもありません。 彼の隣りにはいつでも恥ずかしそうに微笑む彼女がいました。どこまでもふたりはお似合いでした。 |