2009年8月2〜9日 ことば悦覧in京都 記録集    home 

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 番外編  名古屋 小林聖明  東京 太田浩史 松島潤平

  山本麻子さん編   8月03日pm3時〜  晴れ 

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 その01

(山本麻子さんの おいたちなど)
  
佐藤:山本さんの現況を理解できていないのですが、いきなり来てインタビューをさしてもらいます。佐藤です初めまして、よろしくお願いします。
竹口:竹口です、山本にインタビューということだったんですけど

佐藤;そうですね。山本さんが大丈夫じゃないんですか?無理ですか?
竹口:いやいや大丈夫ですよ
佐藤:じゃーよろくお願いします

山本:初めまして、よろしくお願いします。
佐藤:音採ってますので、だいたい1時間ぐらいでお願いします。
山本:わかりました

佐藤:じゃよろしくお願いします、山本さんの。色んなかたのインタビューをしているですけども、
山本存じてます
佐藤:山本さんのベーシックな情報を、写真撮っていいですか。喋りながら
山本はい。ははははは、どうぞ。

佐藤:とりあえずどこで生まれたとか、そういうさしつかいない処を詳しく、大学入る前まで、ザザザっと喋っていただけますか
山本:はいわかりました。
佐藤:お願いします

山本:はーい。なにか他の方の見てたら、他にも書いたあったんで。
佐藤:今回は一回目なので、建築はまあいいやって感じで

山本
:そうですか。そうなんですか。
佐藤:お話ししたかったらしていただいても構わないですけど
山本:はい、わかりました

佐藤;どこで産まれたんですか
山本:滋賀県大津市です。
佐藤:大津ですか
山本:この近くですね。
佐藤:産まれも育ちも

山本:いや全然違いますね、生まれて直ぐにどこだって言っていたかな。芦屋に引っ越して。全部仕事の都合なんですけど。芦屋に行ってそれから神戸に行って、それから京都に来て。京都が一番長いですね。小学校の4年生からずーっと京都におります。
佐藤:ああそうですか。小学校4年から京都
山本:はい、ずーっと基本的には京都です。
佐藤:高校も京都ですか
山本:高校の京都です。大学も京都です。

佐藤:京大へ行かれたんですか
山本:はいそうです。
佐藤:高校までは何かスポーツとか、そういうクラブ活動
山本うふふふふふ
佐藤:何かやってらっしゃいましたか

山本:一応バスケット・ボールを高校の時にしてた、はいでもすーごく弱いチームで、私も高校からしかも始めたので、弱い上に、
佐藤:足を引っ張っていたと
山本:はい、けっこう、まさしく。でもまあ高校と言えばクラブだろうという感じで。本人は頑張って張りきってはいたですけど。

佐藤:京都大学へ入るということは最初から建築を目指してたということで?
山本:そ〜いう、それも考えたんですけど、ふふ、そういう訳でもなかったですね
佐藤:とりあえず入っちゃったと
山本:高校3年生のときにそうですね。京大で学部を色々並べて考えていて。興味はだからあったんだと思うんですけど、あんまり凄くよく覚えてないんですけど。理系のクラスにいたんですけど。割によく本を読んだり。歴史とか法律 そういうことも、方が趣味としては好きだったので。

佐藤:ああ 歴史とか法律
山本:好きだったんですね、だからたぶん建築がそういう、丁度合流点に、だというふうに考えたんだと思うんですけど。
佐藤:概念的に、たぶん繋がっているんじゃないかと
山本:なんとなくこう、そうですね。それが何か。うん。

佐藤:けっこう小難しい高校生ですね
山本:ふははは、そうですかね
佐藤:(知の合流点)そんなこと考えるなんてね
山本:そうですかね〜
佐藤:絵かくとか物を作れるとか、そういう人が多いんですけど

山本:あ〜あ。
佐藤:歴史と法律を合体させたら、建築が一番なにか近いだろうと、なんて事は、どうなんでしょう、無かったですから。よく判りませんですが。
山本;今思えば、色々作ったりとか好きだったな、っとは思うんですけど。素直にそうは
佐藤:思ってなくって、それで京都大学は1,2年とかは教養を勉強されるんでしょう
山本:そうですね。
佐藤:3,4年になってから

山本:一応、はい。
佐藤:それで布野さんの処へいらっしゃって
山本:それも竹口を私と、よく言うんですけど。2年の時に布野先生と竹山先生が来られたんですよ。だからけっこう建築学科がなんとなく盛り上がっていた
佐藤:ああそうなんだ

山本:その時の新しい、若い建築家の先生が来るし
佐藤:布野先生は歴史学者の名でですか
山本:そのときは批評家っていう、すごく。
佐藤:批評家だったんだ。

山本:まだ建築文化にたくさん文章も書いてらっしゃって。らっしゃったし。そうですね、で私達は建築文化はけっこうね。読んだりとかしてたので
竹口:おもしろかった

佐藤:そうですか
山本:それでしかも山本理顕さんの講演があって、そのときは理研さんが最後に仰ったんですよ。「この度 布野先生が来ることになるから、ここの 長年の友人である、すごい楽しみにしてます」みたいな事を仰ったりして。

佐藤:みんなで盛り上がったんだ
山本:わりとこう、みんな、可愛い
佐藤:1990年ぐらいですよね

山本:そうです、90年に丁度入学の年。
佐藤:ぼく布野さん歓迎のパーティーに新大阪のホテルに参加し、二次会も一緒で北新地で してますからね。
山本:そうですか
竹口:就任が92年か、91年。僕らが2回生ぐらいのときに

佐藤:その間の2年ぐらいは着任してはいないけど
山本:そのちょっと前、半年ぐらいまえにそういう決まっていて。春からだったか
佐藤:これは布野先生の下に行かなくチャー、現代批評家のものへと

山本:
竹山先生の人気と 布野先生の人気と 割にそいう雰囲気は在って。その時の友人もみんな。けっこう独立している人が多いですね。

佐藤:すみません、ぼくコーヒ呑まないので、先に言えばよかったですねただの水で、いい。持って来てますからいいです。
山本:そうですか。

佐藤:ご夫婦なんでしょうか?、知らないで来ているので、じゃここでちょっとチェンジして
山本:はいふふふふふふ


(竹口健太郎さんの おいたち)

佐藤
:もう一人の、突然の! 竹口さんのインタビューに。今のような感じで自分のことを説明して話していただけますか。階段の上るときここ産まれたというような、ここが実家だとおっしゃってましたよね。ということはずーっとここで暮らしていたということですか

竹口;そうですね、小学生の2年のときから。建築とのエピソードを話さしていただけるとするとですね。父親の実家が建材店だったんですね。で左官業を中心にバラスの、3,4mの山とかが
佐藤:そこはこの場所なでしょう、ああまた違う場所があると
竹口:はい。
山本:ここが倉庫だったんですね

竹口:でここは倉庫の一つで、この裏っかわがですね。されからセメントの袋が積まれていることであったりとか。

それから、その建物自体が。ある種のコルビュジェ様式と言いますか。打ち放しのコンクリートの縦のルーバーが並んでいるような建材店でして。
佐藤:変わってますね、

竹口:はい、でそのスラブに穴があいていたりとか。階段がサーキュレーションがグルグル廻っているような建物で、危険なんですけど。建材を用い遊んでいたんですね。それは直接建築とは関係はないような事ではあるんですけど。ただ素材自体には馴染んで

佐藤:
小さいときから建築の素材と暮らしていたということですね
竹口:まあある意味では。それ やはり小学生の時だけだったんですけど。何か自分でコンクリートを打ったり。混ぜたら固まったりとか、そういう事をやってみたりしたことあるんですが。それで設計がやりたいと思っていたわけじゃなくって。ただ父親がですね。構造設計者でフリーランス事務所してる京都大学出身のパートナーを色々やっていたわけですから。小学校2年生のときにも、京都の作家の、そちら側の9つのブロックで出来ているというラーメン構造のコンクリートの建て物ですね。それに住んでいたりとか。

佐藤:建築が生活だったんですね
竹口:まあ、ある意味では、当たり前のことだったんですね。それでその、えーとまあ。色々機械とかにも興味があったわけですが、でもそれなりにクリエーティブな仕事が出来そうだということで。なんとなく自分で思ったとおりの物を設計するっていうことは、仮に決めていたわけです。ですから、その竹山先生とかがいらっしゃった時に、スター建築家が教えに来たというのは。それによって進路を変えたりしたわけではなくって。ありがたい。それでまあ京大自体がある意味では大きな設計事務所の下・・っていうようなカタチであったんですけど。作家をちょっとはつくっていこうと。ゆうことになって、好かったというかね。

佐藤:結論にきちゃいましたけれども。京大へ入られたわけでしょう。それで布野研に入ったっていう話ですよね
山本:彼は違うんです
竹口:私は学部の時は竹山研なんです

佐藤:ああ竹山研ですか、人気を二分した両方に所属して。最先端を押さえ
山本:ふふふふふ
佐藤:学んじゃったと
竹口:最先端というか、まあ一番面白そうなの

佐藤:竹口さんの方は自分の思った通りの建築を作るということに最初、当然のようにというか。不思議だなと思うのはお父さんが建築やってても、反発して! やらない人が居るじゃないですか。

竹口ああ そうなですか
佐藤:僕も子供が居ますけども、「建築なんてやらない」って言われましたけども
山本:うふふふふふ
竹口:それは、構造設計者ですから。作家としての悩みとかは、僕には直接は来ないですから。
佐藤:意匠をサポートするというか、共同して建物創り上げるという事だから。完全に建築デザインという意味ではないので
竹口:そうですね。

佐藤:ちょと違う方だと、いつもお父さんに注文している奴になってみようかみたいな感じあったのかな
竹口;そうです、だから片鱗を観てたわけで、実態はあんまり知らん。模型とかもいつも在るわけじゃないですし。断片的にあって、そんで図面も引かれているし。これは面白そうだと。

佐藤:そうすると建築一筋ですか。何か他の事はやらなかったですか。
竹口:僕ですか
佐藤:学生時代に、ちょっとよそみち、山登りしちゃうとか、何か別活動は
竹口:だから、大学時代ですか。大学時代はそうですね、どちらかと言うと、車の運転とかこんな話は公表するまでもない。だから機械とか好きだったですから、非常に20才頃に、皆が夢中になるような様々なテクノロジーには、例えば高校時代に、すこしコンピューターのプログラミングをやってみたりとか。中学時代でしたかね。そういったごく当たり前の

佐藤:コンピューターは中学生からいじっていたと言うことですか。
竹口:そうですね、あるいみ
佐藤:それは何年ぐらいですか、中学生ですから。
竹口:それも父親、要は構造解析にベーシックのプログラムを組んだりとか。大学の研究室で、システムをプログラミングを開発するっていうことやってる。
佐藤:その姿を見てたわけですね
竹口:そうですね。それを使わしてもらって
佐藤:それを使えたの!!

竹口:ゲームに
佐藤:あ、ゲイムにね
竹口:ゲームをやりたいという、目標のもとに すこしベーシックを囓ってみた。動かしてみると。ですから、そんなには没頭しなかったですけれど。どういうことが起こるのかっていうことは把握していたので
佐藤:中学生っていうと何年ですかね。

山本:1971、2年ですか、83とか84とか
佐藤:あまり一般的じゃないですよねまだね。
竹口:NECがパーソナルコンピュータを量産し始めた頃と丁度リンクしている
佐藤:中学生の時に一応触ってみたと
竹口:そうですね

佐藤:そこでプログラム少年になるわけでもなく、やっぱり建築デザインに行くと、そこの処がちょっと、判らない。変わってますよね。プログラマーに成る人多い。東京の同世代のかたはプログラマーも上手な人であって、建築系に入るも建築からずれている 人 数知ってますけど。そういう道には行かなかったというんだから、余程デザイン、建築の方が魅力的だと

竹口:そうですね
佐藤:まだ建材の中で暮らしているし
山本:たしかに大学に行くときに、情報科学っていうの、人気あったんですね。コンピュータの関係で。花形っていう感じはあったですね。システムエンジニア、高校生の時から
佐藤:そうですよね。大学にメールが入って、これからはPC使った情報の時代だみたい風潮があったはずなのに  15:20

 その02