報告・感想・ひとりごと BACK NUMBER
人形劇団むすび座公演 戊辰戦争異聞「武士をやめる日」を見て 02/12/22
12月21日午後、立教小学校体育館で人形劇団むすび座公演 戊辰戦争異聞「武士をやめる日」を見て来ました。
お話は大政奉還の日にはじまり、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸から越後柏崎、会津、仙台を経て函館五稜郭まで従軍することになってしまった若き桑名藩士と百姓から武士階級に潜り込んだ青年とその妻の物語です。
登場人物?3人で1時間半の上演ですが、首取りや遺骸からの窃盗のエピソード、鉄砲や大砲で戦うようになった当時の戦争の恐怖感、藩主の行動に翻弄される武士の悲哀がよくわかるストーリーになっていたと思います。
むすび座は名古屋を中心に活動している人形劇団で、舞台は現代版の文楽といった感じで、黒衣が人形を操ります。黒衣が人形のせりふに干渉する場面もあったりしてなかなか楽しめました。
生憎の雨で、入場者は立教小学校の児童と父兄が中心のようでしたが、もっとたくさんの桑名市民に観てもらいたい内容だったと思います。PRを積極的に行えばホールで有料で上演しても充分通用する内容だと思います。再演を期待します。
南浦遺跡現地説明会報告 02/12/22
12月21日午前中、桑名市志知の南浦遺跡の現地説明会に行ってきました。といっても朝からの大雨で現場での説明は中止、プレハブの現地事務所の中で遺物の見学をしました。
この遺跡の発掘調査は県道建設工事に伴うもので、三重県埋蔵文化財センターによって7月から2年計画で始まりました。現場は員弁川中流右岸の水田の中で、縄文から戦国時代まで想像以上にいろいろな時代の遺構や遺物が出土しています。
戦国時代では溝で区画された屋敷地群と天目茶碗、青磁碗、漆碗、下駄など当時の生活道具、そして鍛冶工房のふいごの羽口など、鎌倉時代では石組みの井戸、お墓、墨書土器、奈良時代では建物跡と硯の破片、硯は円面硯でおそらく桑名市内で初の出土だと思います。下層からは縄文晩期の土器棺墓が出土したそうです。土器棺そのものは展示されていませんでしたが、写真パネルで見る限り、縁にギザギザの突帯文が付いているようで、昨年12月に発掘された朝明川左岸の小牧北遺跡の甕棺や、平成11年度に宇賀遺跡から出土し、今春復元公開された桑名で初の縄文土器にもよく似ているような印象を受けました。
この遺跡の調査は今年度分は12月で終了する予定でしたが、下層に縄文時代の生活層が予想されるため、引き続き掘り下げるそうです。
写真はここから
「発掘された日本列島2002」展報告 02/09/30
9月30日、四日市市博物館で開かれている「発掘された日本列島2002 新発見考古速報展」を見てきました。この展覧会が四日市に来るのはたしか4年ぶりだと思います。
今回の展示で注目されたのは、鳥取県の青谷上寺地遺跡から出土した弥生人の脳です。3体の頭蓋骨から採集できたそうですが、展示品(もちろんレプリカ)は若い女性のものだそうです。本物はホルマリン浸けなどにはせずに、氷温貯蔵を行っていて、DNA鑑定など生物学的な解析を行うそうです。この遺跡は他に100体近い老若男女の人骨が出土しており、それらは殺傷痕があるものが多く、怨念こもる殺害や戦争の跡を示す遺跡のようです。
東京の柴又帝釈天の近くの古墳からはシルクハットを被った埴輪が出土して「寅さん」と名付けられました。出土した日がちょうど渥美清の命日だったそうです。三重県からは嬉野町の小谷13号墳から出土の鉄剣や鉄鎧が展示されていました。
またこのほか会場にはキトラ古墳の実物大の石室が作ってあり、デジカメによる探査の様子をビデオで見ることができます。
展示の後半は地域展示で、「暮らすひとびと・行き交うひとびと」と題して北勢の遺跡にスポットを当てた展示です。北勢地方は近年、第2名神や、東海環状自動車道、北勢バイパスなどの工事で遺跡の発掘が相継いでいます。今回の展示はその集大成で、朝明川左岸の兔上遺跡、伊坂遺跡、山村遺跡(何れも弥生時代の遺跡)、伊坂城(戦国時代の遺跡)小牧北遺跡(飛鳥時代の鍛冶工房跡)等のほか、宮山遺跡(大安町の磨製石斧工房跡)、柚井遺跡(昭和初期日本で最初に木簡が出土、今回多度町史の編纂で新たに文字が判明)等々これを見れば北勢地方の考古学の成果が概観できるというような展示会です。
桑名からは桑部城、額田廃寺、西方廃寺の出土品が出品されています。特に西方廃寺は鋸歯文の入った複弁蓮華文の軒丸瓦が、同じ型から作られたといわれる志摩国分寺と松阪の大雷寺のものと並べて置かれていて興味を引きました。
当店の「北勢の考古学」も今回の展示のように、もっとコンテンツを増やすようにしないといかんなあと痛感した次第です。
この展示会は10月25日まで開催(水曜休館、金曜は夜7時まで開館(入場は6時30分まで)。
「東国の埴輪たち」展と講演会報告 02/9/28
9月28日、桑名市博物館で開催中の「東国の埴輪たち」を見てきました。
桑名藩の14代藩主松平忠堯(ただたか)は文政6年(1823)に忍藩(埼玉県行田市)へ移封されました。この縁から桑名市と行田市は友好都市提携を結び様々な交流を行っていて今回の展示もその一環です。
会場には行田市のさきたま古墳群から出土した、東海地方では珍しい表情豊かな人物埴輪や馬や家をかたどった形象埴輪など約30点が展示されています。ショウケースに入った茶色の古代人の口元を見ていると何かメッセージが聞こえてきそうな展示会です。また被葬者がワカタケル大王(雄略天皇)を補佐した武人と関係があることを記した稲荷山古墳出土の鉄剣のレプリカも出品されています。
午後には公民館で行田市郷土博物館の塚田良道さんの「人物埴輪の造形」と題する講演会がありました。なかなか中身の濃い話で、人物埴輪は圧倒的に関東に多い、全身像と半身像の身分の高低、中国の王は正座、日本の王は椅子に掛ける。埴輪の男女は髪型で見分ける。乳房の表現は東国が多く、近畿、西国は少ない。埴輪の配置には時代的変化に関係なく一貫性がある。埴輪の時代的変化と東国埴輪の特色。人物埴輪の配置には規則性があるのか等の興味深い話が聞けました。
また釆女らしい人物が付けている着物は実は一枚の布を紐で縛っているのだということを、受付嬢をモデルに実演を交えて説明されました。
展示会は10月20日までです(入場無料)。今回は立派なカラーの図録が出来ています(1,000円)。巻末に塚田さんの論文が入っています。
ハサマ遺跡現地説明会報告 02/9/15
9月14日午前中桑名のハサマ遺跡現地説明会に参加しました。
宅地造成に伴う発掘調査で、13年度に試掘調査によって発見され、新規登録された遺跡です。場所は員弁川左岸の標高20m程度の河岸段丘底部に位置します。試掘調査で多数の土抗や溝が発見され、須恵器や灰融陶器
、山茶碗が発見されました。
今年度7月からの緊急発掘調査で13世紀(鎌倉時代)のものと考えられる覆い屋の柱穴に囲まれた素堀りの井戸や区画溝、底面に墨書のある鎌倉時代の山茶碗、片口鉢、小皿、土錐などが出土しました。
地元の伝承によると、調査地周辺は「宮」と呼ばれる小規模な社寺があったとされ、現在でも「ニノミヤ」、「フタツミヤ」などの地名が残っているそうです。それを裏付けるように古代から中世にかけてのものと見られる瓦の破片も出土しました。
現場は現地説明会を追い立てるように造成工事が始まっており、屋敷地を区画した?と見られる区画溝は既に埋められていました。井戸も同日午後には埋め戻されてしまうのだそうです。折角掘り上げたのにもったいないような、残念なような気がします。
なお地名のハサマとは、ちょうど現地は大字芳ヶ崎と大字森忠にまたがる部分であり、このように呼んでいるそうです。 写真はここから
御坊さんの親鸞聖人像 02/9/12
桑名の御坊さん(我々桑名っ子は東本願寺桑名別院のことをこう呼んでいます)の境内に編笠を被った旅姿の親鸞聖人の銅像があります。この銅像は昭和12年(1937)に大阪の実業家広瀬精一氏(鍋屋町にあった桑名鋳物の創業者のひとつ広瀬鋳物の分家)によって寄進されたものだそうで、これは同じものが6体作られ、京都、新潟、東京、大阪、広島、そして広瀬氏の出身の桑名に建てられたのだそうです。
このうち広島の像は原爆で被爆し正面全体が焼け爛れてしまっていたそうですが、1955年に世界平和の願いからニューヨークに渡り、マンハッタンにあるニューヨーク本願寺仏教会の正面に置かれていて毎年8月に「平和の集い」−広島長崎原爆法要−が像の前で行われているということが最近、桑員NPOの会員の方によって分かりました。
そこでそう言う縁がある銅像ならば桑名でも世界平和を祈願する集いをこの像の前で開いたらどうかといういう意見が持ち上がり、ちょうどニューヨークの同時多発テロ事件から1年を迎える9月11日午後、テロや戦争で亡くなった人たちを悔み世界の平和を祈願するささやかな集いが開かれました。10数名の方が銅像の前に集まり、それぞれが平和に対する思いを語り合いました。
その中で会員の方から合掌の仕方が披露されました。それは両手に力を込めて合掌するのでなく、肩の力を抜き、体の前で自然に手を合わせれば、その人の手は他人が上から力を加えても絶対に動かないということを参加した人の手を取って説明されました。これは小生には平和は力(武力)では獲得することが出来ないということを象徴しているのではないかと思われました。これから合掌するときには早速実践してみようと思います。
名古屋市博「名古屋城下のゴミ事情」展報告 02/8/11
名古屋市博物館で開かれている「名古屋城下のゴミ事情」という企画展を見てきました。
この催しは江戸時代のゴミ穴を通して当時の生活環境を考えようという展覧会です。
取り上げられているゴミ穴は上級武士の屋敷、下級武士屋敷、城下から離れた街道沿いの町です。そのほとんどは瓦や瀬戸欠けです(どこかで聞いた言葉ですね)。でもこれらをよく見ると当時の生活が浮かび上がってきます。
よく江戸時代はリサイクル社会といわれますが、擂り目がなくなるまで使い込んだ擂り鉢や、真ん中がへこんで磨り減った硯石、底に穴が開けられ植木鉢に転用された瓶、焼き継ぎによる修復の跡が残る焼き物など当時の人たちがモノを大切に使っていた様子がうかがわれます。
展示ではゴミ穴から出ない物として古着と鉄製品をあげていました。これらは完璧にリサイクルの仕組みができていたようです。
このほか当時の上水道や、トイレ事情も紹介されています。また「もうひとつの名古屋」ともいわれた江戸尾張藩邸の発掘成果も紹介されています。
ただこの展示は少し説明不足のところがあり、古着の行方や、焼き継ぎ技法の誕生と瀬戸や美濃での磁器生産の始まりなど、図録を読まないとわからない部分もあるようです。会期は8月25日(日)までです。
藤原町「ふるさと発見 員弁の酒造めぐり」展 02/6/24
朝日新聞の北勢版に紹介されていて気になっていた藤原町民文化センターで開催中の「ふるさと発見 員弁の酒造めぐり」という展示会を見てきました。
員弁郡内にかつて造られていた酒のラベルや蔵元銘の入った徳利などを集めた個人の方のコレクションです。「白鴻」、「蔓年」、「澤の橋」など聞いたこともないような銘柄が並んでいます。新聞記事によれば江戸時代、郡内には30軒もの蔵元があり、なかには10数代続いた老舗もあったそうですが、戦後、廃業が続いて現在はすべて姿を消したそうです。
そういえば桑名の後藤酒造さんの話によれば、桑名にも昔は20数件の蔵元があったそうですが、現在は後藤さんの「青雲」だけになってしまいました。地酒ブームというのに全く残念な話です。
それというのも、戦後の米不足で国策として三増酒(アルコールで3倍に増量する醸造法)が奨励され、品質が悪くなったり、大手酒造メーカーに買い取ってもらう桶売りが横行して地酒が消えていったようです。
昔は酒は3里四方で造られ消費されたといいますが、これらの酒は地域ブランドとして生き延びることは出来ず、今はラベルや量り売りの通い徳利で偲ばれる存在になってしまいました。
食品は地域で作られ、地域で消費されるのが本来の姿だと思います。同じ様なことが、先頃いろいろ話題となった牛乳についても言えるのではないでしょうか。
とまれこの展示会は小生にとってはお酒だけではなく、地域と食品の関係について考えさせる展示会でした。
この展示会は終了時点が未定です。問い合わせ先は藤原町民文化センター(TEL 0594-46-4311)です。
六華苑の古代ハス開花 02/6/16
桑名市の天然記念物に指定されている「古代蓮」が今年も咲きました。昨年より2週間ほど早く、やわらかなピンク色の花を付けています。
この古代蓮は5年前に桑名市の市政60周年を祝って友好都市の埼玉県行田市から贈られたものです。文政6年(1823)桑名藩14代藩主松平忠蕘(ただたか)が忍藩(現在の行田市)へ国替えになったという歴史的な繋がりから、桑名市と行田市は昭和48年に友好都市提携しています。
古代蓮は昭和47年行田市内の池で葉が見つかりました。その前年に近くのゴミ焼却場工事で掘り返された土の中の蓮の実が自然発芽したらしく、古代蓮の条件を備えているそうです。蓮の実の年代測定から1400年から3000年前のものと推定されています。
古代蓮は花弁の数が12〜17枚と少なく、葉が大きく濃いのが特徴だそうです。根茎10本を譲り受けた桑名市は六華苑の池で大切に育ててきましたが、鯉やザリガニに新芽を食べられたりして最初のうちは開花せず、2年前からやっと花をつけるようになりました。
今年は蕾の数も多く、今週末頃までは見ることができそうです。ぜひお出かけください。朝のうちが見頃のようです。
やっぱりパソコンは難しい!? 02/6/15
しばらくHPが更新できませんでした。それというのも4月にパソコンをWindowsXPに乗り換えたのはよかったのですが、ISDNのTAやInternet
Explorerへのプロバイダーの設定に難渋してしまい、サポートへ電話したりしながら2週間近くかけてやっとHP閲覧とメールが打てるようになりました。
これでOKと「桑名歴史案内」を更新してアップロードしたら転送途中にエラーが出てうまく行きません。またサポートへ電話をしても土日はなかなか繋がらなかったり、休みであったりしてメールで問い合わせたりもしましたが痒いところには手が届かない感じで焦るばかりです。仕方がないのでイベント情報などの更新は旧パソコンで行っていました。
やっとの思いでホームページビルダーのサポートへ電話したところ、いくつかのチェック項目を教えてくれました。その中で転送設定の詳細設定でパッシブモードで転送するにチェックを入れてみたらとのアドバイスで成功することが出来ました。こんなことはマニュアルにも書いてはありません。
それにしてもMicrosoftさん、OSを自動車のモデルチェンジのように扱うのは止めてもらいたいと思います。自動車はモデルは変わっても操作法は同じなんですから。でも自分のHPを更新するのに2ヶ月もかかってしまうなんて、全くいつになっても若葉マークのパソコン初心者です。
観光三重「語り部推薦コース」の紹介 02/4/7
このほど三重県観光連盟のHP「観光三重」の中に「語り部推薦コース」がオープンしました。これは県内各地の「ふるさとの語り部」が推薦する約70の探訪コースがデータベース化されていて、歴史・文化、街道、文学といったキーワードや地域、所要時間などから所望のコースが検索できるようになっています。
桑名は「東海道」、「山辺コース」、「文学碑巡り」など5コースが登録されています。桑名の場合、このコース選定には桑名歴史の案内人の会が委託を受け、ワーキンググループを作って検討しました。小生もコースの検討やネーミング、原稿のとりまとめに加わらせていただきました。そうして作った原稿に観光連盟の方で写真を撮っていただき完成したものです。ぜひ一度アクセスしてみてください。URLを下記に示します。小HPへのリンクもはっていただいております。
http://www.kankomie.or.jp/
さらにこれと同時期に桑名市の観光課が「桑名観光ガイド」というサイトを立ち上げました。こちらの方は桑名の主要史跡や観光スポットがざっと60箇所以上網羅されており、地図も完備していて目的地までの道のりがアニメで表示されるなど画面の動きに工夫が凝らされています。「観光三重」のサイトからリンクでたどれます。
最近は以前に紹介した教育委員会の「桑名の文化財」も含めて、行政側でも強力な案内サイトを作り出してきたので、小HPも安閑としておれません。
「ポンペイ展」報告 02/3/31
愛知県美術館で開かれている「ポンペイ展」を見てきました。ポンペイは西暦79年にヴェスヴィオ山(小生は学校で確かヴェスビアス火山と習った様に思います)の大噴火で火山灰に埋まって消滅してしまったローマ帝国時代の古代都市です。
ポンペイは18世紀になるまで世に知られることなく地中に眠っていました。発掘された建造物や遺物は火山灰が風化を防いだためか、保存の状態が非常に良く2000年の時の隔たりを感じさせません。
火山灰から身を守ろうとして顔を押さえたまま息絶えた犠牲者の姿が石膏取りされて展示されてもいるのには少々ショックを受けました。
当時の技術力は非常に高く、復元展示されている土木工事用の距離測定車の仕掛けには驚きます。また街に敷設されていたという水道管や水柱などは現在のものと変わりません。市中には闘技場や公共浴場、市場、居酒屋などがあり、食べ物も豊富だったようで人々の生活は現代人と変わらない、いや、昼で仕事を終えて風呂に入れるなんて今より豊かだったのではないかと思ってしまいます。
しかし現代と異なる点は、これらの都市生活が展示からもかいまうかがえるように奴隷制の上に成り立っていたことです。
いづれにしてもこの展示は2000年前に発達した古代ローマ文明の基で栄えたポンペイ最後の夏の1日を封じ込めたタイムカプセルです。科学の発達した現在、ヴェスヴィオ山のような火山の噴火はある程度予知できると思われます。しかし直下型地震は予知することが出来ません。2000年前ポンペイで起きた悲劇は現代の都市で生活している我々の上にも起きる可能性は充分あると思われます。
西暦79年といえば日本では弥生時代中期にあたり、卑弥呼登場以前の時代です。この展示を見て、2000年という時間を隔てても人々の生活には変わらない部分があるのだな。時間的には同じでも空間的な隔たりによって生活の営み方は変わってくるのだなということを改めて考えさせられました。
「ポンペイ展」は4月7日(日)までです。金曜日は夜8時まで開催しています。
桑名初の縄文土器公開! 02/3/11
平成11年度に蓮花寺の宇賀遺跡から発掘された桑名初の縄文土器を見てきました。宇賀遺跡は古墳時代の溝と堰が見つかり話題になりましたが、その堰の周辺から出土したものだそうです。このほど市教育委員会による復元作業が終了し、桑名市博物館2階ロビーで公開されています。
高さ約70cm、直径約50cmの大型の瓶(カメ)で、口縁部と肩の部分にD字刻みの突帯文が付いています。細かく砕けた状態で出土したそうですが、全体の3分の1強が残っており、全体像が復元できたようです。時代は様式から見て縄文晩期だそうで、突帯文が無ければ弥生土器のようにも見えますが、桑名市内では初の縄文土器の出土です。煮炊きに使ったのか表面には煤で燻れた痕が付いています。
今まで桑名では縄文時代の遺物は出ておらず、員弁や、多度あたりが限度ではないかと思われていました。今回の出土は集落の発見を伴っていないのであまり断定的なことは言えませんが、縄文時代の生活圏がこのあたりにも及んでいたのではないかと思われます。
この展示は3月24日(日)までです。ぜひ現物を見てください。修復・復元の課程を説明したパネル展示もあります。また江戸時代後期の桑名の輪そう寺の住職で画家「帆山花乃舎」の館蔵展も同時開催されています。こちらは桃の節句に因んだ作品も展示され、早春のひとときが楽しめます(月曜休館)。
桑名市モバイル観光案内サイトの紹介 02/2/9
紹介するのが遅くなってしまいましたが、昨秋、桑名市が携帯電話用の観光案内サイト「モバイルページKUWANA"M"SITE」を立ち上げました。このサイトには市内の史跡巡りのお勧め5コースが設定してあり、各コース7〜12カ所の観光スポットの情報が得られるようになっています。各スポットには簡単な解説と、カラー写真、案内図が入っています。また市内の宿泊施設の案内もあります。
実はモバイル史跡案内は小HPでも手掛けたいと思っていたのですが、市に先を越されてしまいました。開設されたのは先に紹介した「桑名市の文化財」と同時期のようですが、最近の桑名市には、行政にITメディアを積極的に活用していこうとする姿勢がうかがわれます。
なお、このモバイルサイトは災害時の緊急情報連絡サイトとしても活用できるように作られています。アドレスを下記に示します。
[i-mode] http://m.city.kuwana.mie.jp/index.html
[J-sky] http://m.city.kuwana.mie.jp/index.htm
[ez-web] http://m.city.kuwana.mie.jp/index.hdml
桑名市文化財HPの紹介 02/1/9
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
昨年の桑名は東海道制定および桑名開府400年の記念行事が続いて、大変にぎやかな1年でした。今年は特別の行事もなくなり、落ち着いた年になりそうです。
しかし、年明けからGoodニュースがあります。それは桑名市教育委員会が「桑名市の文化財」というホームページをオープンさせたことです。これは並みの文化財PRのためのHPではなく、桑名市にある122件の指定文化財と135箇所の埋蔵文化財包蔵地を全てデータベ−ス化し、インターネットで検索できるようにしたものです。
市内の地図を6分割し、任意のエリアをクリックするとそのエリア内にある文化財が拡大図の中に表示され、さらに名称をクリックすると指定文化財の場合は、その写真や詳しい説明が、埋蔵文化財の場合は包蔵地付近の詳細図が画面に表示されるようになっています。またジャンル別や、町名からも検索することが出来たりとなかなかの力作です。これを利用すれば図書館へ行って遺跡分布図や図録類をひっくり返す手間も省けます。
このサイトを見て、小HPでやろうとしていることが半ば達成されているような気もしてヤラレタ!と思ってしまいました。
このようなデータベースがインターネットを通して使えるように仕立ててあるのは、全国の自治体でもそう多くはないと思います。桑名市の文化財行政に掛ける心意気が感じられます。
またこのサイトには昨秋オープンした埋蔵文化財の整理所の紹介も入っています。ぜひ一度アクセスしてみてください。URLは次の通りです。
(小HPのリンク集にも管理者の承諾を得て収録させていただきました。)
http://bunka.city.kuwana.mie.jp/
小HPとしては手をこまぬいてはいられませんが、まあ、一人でやることですので今年も楽しみながら少しづつコンテンツを増やして行こうと思っています。
六華苑ガイドブックの紹介 01/12/24
このほど桑名市教育委員会から六華苑のガイドブックが発刊されました。これまで六華苑を紹介した印刷物は入館の際に渡される小さな栞しかなく、六華苑の詳しい説明や見どころ等は苑内の案内板か、待機している「歴史の案内人」の説明で知るしかありませんでした。
そのため、小HPでも今年の夏以降かなり意気込んで六華苑のページを制作し、最近やっとアップロードしましたが、それと相前後して市教委からこのガイドブックが発行されました。
A5サイズ、30ページ、オールカラーで六華苑の見どころが隅から隅まで詳しく紹介されています。解説文も相当錬り込んで書かれており、また写真もプロの手になるもののようで、大変完成度の高いガイドブックだと思います。
同じ対象をHPで紹介している者として、記述の仕方、写真の撮影ポイントなど随分勉強になる一冊です。六華苑を訪れる方には絶好のハンドブックになると思います。このガイドブックは六華苑の事務所で販売しています。価格は400円です。
小牧北遺跡現地説明会報告 01/12/15
もう1週間になりますが12月9日、四日市の小牧北遺跡の現地説明会に行ってきました。
この遺跡は、朝明川左岸の低い丘陵の上にあります。国道365号員弁バイパス工事に伴って、三重県埋蔵文化財センターが発掘調査を進めてきました。
調査の結果、縄文晩期から平安末期までの墓や建物跡、土器が見つかりました。特に注目されるのは、竪穴住居約20棟、掘立柱建物約20棟からなる飛鳥時代の住居群で、赤く焼けたカマドを伴ったり、フイゴの羽口や鉄滓(てつさい)が出土しています。また遺構の中の土のほとんどに炭、灰、焼け土が入っていることから、集落の中で鉄製品の加工や、修理をしていたのではないかと推定されます。
この附近は昔の朝明郡に含まれます。平安時代中期に成立した百科事典「和名類聚抄(わめいるいじゅうしょう)」には近くに大金郷という地名が見え、江戸時代の伊勢国の地誌「勢陽五鈴遺響」には大金郷に鍛工金作部(たんこうかねつくりべ)が置かれていたとあるそうで、地理的に近いこの遺跡との関連がうかがわれます。現地説明会の写真はここから
道標のデザイン01/11/18
昨秋頃からだったと思いますから、もう1年になりますが、旧東海道の鍛冶町の七津屋門から新町の石橋を通って新町を南進する角までにかけて、写真左のような案内標識が電柱などに取り付けられています。地元の人が作られたのか、白いプラスチックの板に手書きで矢印などが書かれたものです。確かにこのあたりは桑名の東海道でも道順がわかりにくい場所で、はじめて歩く人には良い案内となっています。
今年は東海道宿駅制定400年で、東海道を歩いてみようとする人が多く、ガイドブック片手に、リュックを背負った人達に出会うこともしばしばです。市でも街道ルネッサンス事業によって、南大手橋の角、京町見附付近には写真中のような現代版の石の道標を設置しました。新町の付近にも設置する計画だと以前に聞いたことがありますが、できるだけ早く設置していただきたいと思います。
この現代版道標のデザインは、昔の道標より少し細くスマートになっていますが、以前に主要史跡の前に建てた石と銅板による案内標識(どこで設計されたのかわかりませんが、秀逸なデザインだったと思います写真右)とどこか共通なイメージが感じられるものであったらなお良かったと思います。
桑名弦楽合奏団コンサート「石取祭交響曲」報告 01/10/24
御台所祭りで賑わう21日午後、桑名弦楽合奏団の石取祭交響曲「おかっつぁん」桑名賛歌を聴いてきました。開演時間が1時43分で語呂合わせで「いしどりさんか」に掛けたのだそうです。曲目は、くわなルネッサンスにちなんでビヴァルディの「グロリア」、レスピーギの「リュートのための古代舞曲とアリア」に続き、「石取祭交響曲」が披露されました。この曲は当合奏団が四日市の作曲家櫻井ゆかり氏に委嘱した作品です。
ステージは2管編成規模のオーケストラに、87人の女声合唱、ソプラノ、アルトのソロ、尺八、神楽太鼓、3台のマリンバ、チェンバロ、それに石取祭車が加わった見た目にもスペクタクルな編成です。
曲は石取祭りの叩き出しの神事に倣って、花道に置かれた神楽太鼓の打ち鳴らしと提灯の合図によって始まりました。声楽と尺八のソロ、合唱を伴った「おかっつぁん」の導入部、続いて芭蕉が桑名で詠んだ句が散りばめられた合唱、オーケストラによる祭囃子のリズムの擬態、そしていよいよ石取囃子との合奏です。今回の石取囃子の叩き手は、先の桑名吹奏楽団のコンサートのように子供達ではなく、青年の叩き手によるものです。それだけに力一杯叩くので、ホール中に太鼓と鉦の響きが溢れ、オーケストラの音をかき消してしまう勢いです。舞台裏からも祭囃子が聞こえ、掛け合いになります。
「ずいずいずっころばし」を連想させる「おかっつあん」の合唱、「桑名の殿さん」のフレーズやガムラン風のアレンジも入って多彩な展開の後、フィナーレはさらにコーラスも加えたオーケストラと祭囃子の響演です。そしてラベルの「ボレロ」のように急転直下音が途切れエンドとなりました。
曲の印象は、先の桑吹の「石取ファンタジー」が石取祭を抽象的な表現で描いていたのに対して、こちらは筆の勢いを込めて描いた石取祭の具象画を見ているような気分です。 よく石取祭囃子はジャズよりもエキサイティングだと言われます。ジャズとオーケストラの競演はよくありますが、今年の桑名での2つのコンサートのように祭囃子とオーケストラの競演は全国的にも珍しいのではないでしょうか。それだけに難しさも伴っていたようです。
アンコールは 石取祭囃子の独演となりましたが、ここでは祭囃子は、ますます水を得た魚のようにトレモロのアドリブたっぷりの祭囃子が披露されました。それにしてもホールでの力一杯の石取囃子は鉦の音が響きすぎて、やはりやかましいと思ってしまいます。
残念だったのは、演奏会が終了して観客が引き上げている最中に、折角の機会だからと石取囃子をまた叩き出したことです。あくまでもコンサートだから、終演後は音は鳴らさずに片付けるのがよいのではないでしょうか。
「くわなルネッサンス」オープニングフェスタと伊勢国分寺現地説明会報告 01/10/11
イベント続きの忙しさに追われて報告が遅くなりましたが、10月6日午前中、平成のまちづくり「くわなルネッサンス」オープニングフェスティバルに行ってきました
。少し遅れて行ったので子供たちによる「おかっつぁん」は聴けませんでしたが、6市町村の郷土芸能
お国自慢で伊勢太神楽を見ることができました。
ロビーで三重県下の宿駅マップなどを収集。野外の楽市大物産展へ、80店舗が出店とかで大変な賑わい。抽選会場は長蛇の列、本部席でお目当ての商店街連合会制作のPR用CD−ROMをゲット、家に帰って早速パソコンで開けてみたら、観光ページの一部に小HPの画像が使われているのにびっくり。でも石取祭りや花火大会の様子が動画で見れるなどなかなかの出来です。まだ入手されていない方は、加盟店へお問い合わせを。
午後は街道ウォークがあったのですが、鈴鹿の伊勢国分寺発掘現地説明会へ向かいました。ここは平成11年度から本格的に掘り始めて今年で3年目年になる遺跡です。これまでに築地塀に囲まれた伽藍の範囲、講堂、金堂、南門の位置が明らかになっています。
今年は記録的な猛暑の中、発掘作業が進められました。その結果、中門の基壇とそれに取り付く回廊の様子が明らかになりました。中門の基壇はほとんど削平されていますが、それでも版築の下層部が出てきました。規模は東西19m南北12mです。回廊は基壇も残っておらず、かろうじて両側の溝や瓦溜まりから、南東角、東北角が確認されます。
それから推定すると、回廊は東西68m、南北51mで、中門と金堂を結んでいることが分かりました。この伽藍配置は陸奥(宮城県)や遠江(静岡県)の国分寺と似ているそうです。また国分寺が建てられる前の時代である古墳時代から奈良時代初頭にかけての竪穴住居や掘立柱建物跡も見つかりました。
待望の塔の場所については、今年の結果から、金堂の東方、現在コスモス畑になっているあたりに推定されるようで、来年度の調査に期待が持たれます。 現地説明会の写真はここから
桑名今昔展へのお誘い 01/9/30
六華苑番蔵棟で「桑名今昔展」が始まりました。これは桑名歴史の案内人の会が「平成のまちづくり・くわなルネッサンス」の一環として開催するものです。
内容は昔の桑名の史跡の様子と、現在の桑名を対照させて約130枚の写真で紹介しているほか、市民の方や、市外の方からも提供を受けた昔の絵はがきや、地図、絵画、雑誌なども展示されています。また伊勢湾台風や空襲に関する展示もあります。
開催にあたっては案内人の会でこの春から実行委員会を作って準備を進めてきました。写真を新たに撮り下ろしてパネルを作成したり、展示品の交渉や飾り付けなど委員の方々のご努力には頭が下がります。
展示は10月28日(日)まで行われています。桑名の歴史に関心のある方はぜひ一度ご覧ください。会期中は受付に歴史の案内人が交代で待機しております。展示会の時間等詳細はイベント情報にてご確認下さい。
雑誌の取材を受けて 01/9/23
このたび、小ホームページがPHP研究所発行「ほんとうの時代」10月号の特集「50代からのパソコンのある生活」の応用事例に取り上げられました。
一ヶ月ほど前に編集部の方から、パソコンの楽しさや広がりについて紹介し、中高年がパソコンを始めるきっかけを紹介したいから、とメールで取材申し込みを受けました。検索サイトから探されたようです。雑誌に紹介されるのは少し面映ゆかったのですが、桑名の観光スポット六華苑で取材していただきました。
ホームページを作るようになったきっかけや、作る楽しみ、苦労、抱負などを聞かれました。雑誌の編集者はさすがに文章にまとめるのはお手のもので、1時間ほどのインタビューの内容をその日のうちに仕上げ、夜には添付ファイルで原稿が送られてきました。
小生などはこの「報告・感想・ひとりごと」を書くのにも四苦八苦している現状で、さすがにプロの仕事は次元が違うなあ、少しは見習わなければと思ってしまいました。
このホームページは立ち上げてからまだ4ヶ月余りですが、雑誌に取り上げられた以上、あと戻りはできません。ますます充実!といくかどうか、まあ、あまり気負わず楽しみながら続けて行きたいと思っています。
桑名吹奏楽団定期演奏会「石取ファンタジー」報告 01/9/7
9月2日、桑名吹奏楽団の定期演奏会を聴いてきました。「石取ファンタジー」という石取りの祭囃子と吹奏楽の競演という触れ込みに引かれました。桑吹は桑名高校吹奏楽部OBが母胎になり昭和48年に結成された団体で、この地方では高度な演奏水準で定評があります。 「石取ファンタジー」は、この楽団の音楽監督で作曲家の石原立教氏の書き下ろし作品で、ステージに石取祭車を入れての演奏です。
曲は2部構成で、木管による日本的な旋律が断片的に繰り返される導入部に続いて、低い吹奏楽の響きの中に石取の祭囃子が登場します。 叩き手は少年少女で、音量をセーブして叩いているためかうるさい感じはしません。 曲は次第に祭囃子とブラスの掛け合いとなり、ブラスに桑名の殿さんのフレーズが演奏され、2階席のバンダ(別動鼓隊)も加わってクライマックスとなります。
石取祭囃子と吹奏楽の組み合わせは初めての試みで、もちろん世界初演だそうです。
桑名っ子に親しまれた石取の祭囃子のリズムとブラスの響きが融合しながらも緊迫感もあり、なかなか良い演奏だったと思います。
よく石取祭は日本一やかましい祭りと言われますが、あれは確か昭和40年代にこの市民会館がオープンした記念にNHKの「ふるさとの歌まつり」の収録があり、初めての試みとして石取祭車をステージに上げて叩いたところ、鉦と太鼓の音がホールに反響して、出演の故宮田輝氏と橋幸夫が耳を押さえて「日本一やかましい祭りですね」と言ったことから始まったと記憶しています。
本来、石取祭は野外で行われる祭事で、残響の長い近代ホールで思い切り叩けばやかましく響いてしまいます(石取祭囃子コンクールは相変わらずこのホールの中で行われていますが)。今回の演奏は音量を押さえ気味で、曲にうまく溶け込んでいたと思います。
演奏会はこの他、ショスタコーヴィチ「祝典序曲」、レスピーギ「ローマの祭り」その他が演奏され、久しぶりに生の楽器の伸びやかな響きに触れ、生き返ったような気がしました。
今年は石取祭をテーマにした演奏会が10月に桑名弦楽合奏団でも予定されており、こちらの方もどのような曲になるのか今から楽しみです。
人権センター企画展「戦争と人権」報告 01/8/21
桑名市人権センターの企画展「戦争と人権」展を見てきました。桑名は昭和20年7月17日と24日の空襲で679人の方が亡くなり、市内の約70%が焼失しました。旧東海道の主要な史跡もこの時に焼けてしまいました。
展示は1トン爆弾の原寸大の模型が天井から吊り下げられ、床には昭和23年に進駐軍が撮影した桑名市内の航空写真が拡大コピーして並べられています。よく見ると市内のいたるところに爆弾による穴が開いているのがわかります。桑名に落とされた爆弾の総量は711トンで、これは平米あたりに換算すると爆撃を受けた全国の都市の中で最大だそうです。
ショーケースには赤紙や、罹災証明書、軍服、当時の新聞などが並べられています。また市内の益生小学校に保存されていた当時の小学校の国史の教科書も手に取ってみることができました。神武天皇の東遷や神功皇后の朝鮮出兵などが物語風に語られています。
米軍の本土空襲は日本の戦意を喪失させるのが目的であったのでしょうが、無差別爆撃といってもよいような戦術で、その究極の行為が広島、長崎への原爆投下であったと思います。小生は空襲の時はまだ赤ん坊で、夜中に母親の背中に背負われて逃げまどった恐怖をよく聞かされました。こういう展示を見ていると、戦争はお互いの国民の人権を脅かす最悪の行為だということがよくわかります。
またこの展示会には、戦時中にリトアニアにあってナチスドイツの追害から行き場を失ったユダヤ人の難民のために本国の意向に反し、独断でパスポートを発行して6000人のユダヤ人の命を救った日本の外交官杉原千畝氏に関する展示もあります。 氏は岐阜県八百津町の出身ですが、桑名市内の日進小学校に2年間通われたことがあるそうです。
戦時中を記憶されておられる方も、戦争を知らない世代の方もぜひ一度訪れてみて下さい。桑名の空襲とはどんなものであったのか、戦争の悲惨さに思いをはせていただきたいと思います。人権センターは桑名市が設置した施設で市役所の北側にあり、土日も開いています。8月31日まで。
宇賀新田古墳群第3次発掘調査現地説明会報告01/8/6
石取祭の試楽の4日、大安町の宇賀新田古墳群第3次調査の説明会に行ってきました。
宇賀新田古墳群は全部で11基の古墳からなり、そのうち7基が道路の拡幅工事の影響を受けるため、三重大学考古学研究室が大安町教育委員会の委嘱を受けて1999年8月から発掘調査を続けてきました。
これまでの調査でこの古墳群は出土した須恵器などから、6世紀中頃から後半にかけて、ちょうどこの地方に仏教が入ってくる直前の時代の古墳であることが分かりました。
同研究室の山中章教授などが中心となって、この古墳の保存の方策が何度も検討されたようですが、結局住民の利便性が優先されて、それらのうち最も残りの良い9,10号墳の主要部分が工事で消滅してしまうことが決定的となってしまいました。工事で破壊されてしまうのなら、発掘した自分たちの手で壊してみよう、その過程でこの古墳の築造過程が解明できるかも知れないということで、7月下旬から断ち割調査が始まりました。今回はその成果の説明会です。
両古墳とも直径約11m高さ約1mの円墳で埋葬施設は両袖式の横穴式石室です。断ち割調査の結果、両古墳とも墳丘と石室を同時に造っていく版築工法(質の異なった土を交互に突き固めて地盤を強くする工法)が取られていることが分かりました。また石室の裏込め土の量が10号墳は多く9号墳は少ないため、9号墳の東壁の崩壊の原因になっていることが推定できました。古代にも手抜き工事が存在したようです。遺物は昨年石室から出た須恵器や耳環の他には、墳丘からは何も出土しなかったそうです。
道路工事からかろうじて外れる3号墳、4号墳は築造当時のようにマウンド状に復元して保存するそうですが、現在未調査で林の中に眠っている5〜8号墳と共に後世までその姿を伝えていただきたいと思います。
なおこの古墳群については小HPの「北勢の考古学」で詳しく紹介する予定です。
10号墳石室全景(西南角から) | 10号墳東側墳丘断面 |
西羽晃著「郷土史を訪ねて」の紹介01/8/5
先頃、桑名の郷土史研究家西羽晃さんが「郷土史を訪ねて」という本を自費出版されました。この本は西羽さんが平成3年(1991)2月から10年間106回に亘って桑名市広報に連載された同名の記事を一冊の本にまとめられたものです。
この連載は我々桑名歴史の案内人の仲間では一種のバイブルのような存在になっていて、月初めに広報誌が届くと早速切り抜いてスクラップブックに貼っていたのですが、それでも保存し忘れた号があり、市の図書館へ行ってバックナンバーをコピーしてもらったりして読ませていただいたものです。
この本では、毎回添えられた写真もそのまま掲載されており、完全保存版となっています。内容は一般市民を対象に書かれており、非常に分かりやすく、特に系統立てた配列にはなっていないのでどこから読んでもおもしろく、桑名の歴史に関心のある方には絶好の良書だと思います。
この本ではこのほか、他の刊行物やホームページに掲載された随想や考察などがまとめられています。ここでは「桑名市史」への忌憚のない意見や、行政と民間の活動との協働などの問題も提起されています。また最後の桑名藩主松平定敬降伏と桑名城開城の経過などの考察も述べられています。また「記事に見る私の軌跡」として、西羽さんを紹介した新聞等の記事の再録も付けられていて、氏の活動の一端がしのばれます。
この本は、小HPでも参考にさせていただいている既刊の「新桑名歴史散歩」、「志るべ石(桑名歴史めぐり)」と併せて氏の3部作になるものです。
A5版 310頁
販売価格1300円
下記の場所で入手できます。
・桑名市内の新光堂書店、
・六華苑、
・市民活動センタープラザ「わたし」TEL:0594-27-2700,FAX:0594-2733
上野遺跡シンポジウム「北畠一族と秀吉」報告01/7/23
7月20日、久居市の上野遺跡シンポジウムに行ってきました。北勢地方とはあまり関係がないようですが、開発と遺跡保存について重要な問題を含む遺跡だと思われるので、レポートすることにしました。
上野遺跡は昨年4月に家型埴輪棺が全国で初めて発見され話題を呼んだ遺跡です。民間の大規模な住宅団地建設に伴う発掘で、調査は一応今年の3月で終了し、宅地造成にかかる段階の遺跡ですが、昨年4月以降、方形に区画された中世の大規模な屋敷跡や、三重の堀を持つ付城(前線基地)跡が発見され、47000平方メートルにわたる建設予定地全体が日本最大級の中世から近世にかけての村落、城郭遺跡になることが分かってきました。
今春、NHKの「その時歴史が動いた」の番組の中で小牧・長久手の戦いとの関連で、秀吉が北畠氏攻撃に際して作らせた付城の発見として紹介されましたが、まだまだ一般にはあまり知られておらず、遺跡保存と調査の拡張を求めて三重大学の考古学、歴史学の研究室が中心になり 今回のシンポジウムが開かれることになりました。
午前中は遺跡の見学会で、炎天下100人以上が参加しました。場所は久居インターの西約2q雲出川左岸の河岸段丘上にあります。3月末に発掘が終わり、まだそのままの状態で置かれていましたが、当日はどういう事情からか発掘主体の久居市教委からは人が派遣されず、大学の山中章教授と県埋文センターの人の応援で説明が行われました。
現地見学会の写真はここから
午後は久居駅前の市民ふれあいセンターで下記の内容で講演会があり、250名の参加がありました。
1 「上野遺跡と城郭立地」 村田修三氏(大阪大学教授)
2 「室町時代の村落」 広瀬和雄氏(奈良女子大学教授)
3 「上野遺跡発掘の経緯とその成果」 八賀 晋氏(三重大学名誉教授)
4 「木造氏と小牧・長久手の戦い」 藤田達生氏(三重大学助教授)
1では中世城郭の発達の諸段階と上野遺跡の位置づけ、そして近世の付城の意味が。2では村落の中心となる居館の存在が示唆されました。4では文献から見て、付城は当時織田方の重臣であった木造(こつくり)氏の戸木(へき)城を攻めるため、秀吉が領主榊原氏に命じて作らせた砦であったことが推定できるとされました。
最後にシンポジウムが予定されていましたが、講演に熱が入り、時間切れとなってしまいました。
いずれにしても、この遺跡は遺物が少なくて分からないことが多く、遺跡がさらに西の方に続くことや、付城の虎口(城郭の出入り口)が未調査区域に推定できることなどから、シンポジウムでも調査の継続と調査区域の拡張が強く求められていました。しかし住宅建設のタイムリミットが来ていて、業者の方もジリジリしており、市議会でも調査打ち切り、建設着手になりそうな雰囲気だそうです。
セミナー 「今、 考古学は楽しい」報告01/7/17
7月14日午後、四日市市博物館で奈良大学の水野正好さんの講演会を聴いてきました。
午前中、博物館前の広場で小泉首相の遊説があり、大変な人出だったようですが、午後は潮が引いたように静かになったと博物館の人が言っていました。
水野さんの講演は毎年恒例になっており、考古学の話題をわかりやすく、また面白くお話しされるため、大変人気があります。今年も会場がすぐ満席になりました。ちなみに正確な演題は「今年も考古学は最高に楽しい」となっていました。
内容は例の旧石器捏造事件の顛末から始まりました。藤村氏のかかわった発掘は全部ダメではないかという話です。でも藤本氏のことは2〜3年前に別の講演会でゴッドハンドだと持ち上げておられました。専門の学者達もコロッと騙されるのですね。
天皇皇后両陛下が、江戸東京博物館で開催された「新発見考古速報展」をぜひ見たいと言って視察され、松阪の宝塚古墳の船型埴輪に大変興味を示された話や、昨年、大仙古墳(仁徳天皇陵)の墳丘の修理で、大瓶の一部が出土したのを宮内庁が公開し、築造年代が分かりかけてきた話。
飛鳥池遺跡と万葉ミュージアム、平面が龍の形をした長屋王庭園とそごう奈良店などを例に、遺跡保存の話等々盛りだくさんで、時間を30分延長しての長丁場でした。
でも奈良大学の学長を退官され、心なしか小さくなられた様にお見受けしました。もっとも午前中の菰野との掛け持ち講演で、しかもこの暑さですからね。
これからもぜひお元気で活躍され、来年も楽しいお話が伺えることを期待いたします。
六華苑 人前結婚式01/7/9
六華苑の案内当番の7月7日、苑を会場に2組みの結婚式がありました。これは桑名開府400年記念事業「くわなルネッサンス」の一環として、この実行委員会と第三セクターのまちづくり機関(TMO)「まちづくり桑名」が、六華苑の観光PRのために七夕特別企画として一般から公募したものです。15組の応募があったそうで、抽選で2組のカップルが選ばれました。午前中の挙式は洋式で、午後は和式でおこなわれました。
公共施設なので宗教は持ち込めないので、皆の前で式を挙げるという意味から「人前(じんぜん)結婚式」と言うのだそうです。仲人も「立会人」と呼んでいました。
梅雨の晴れ間だったので芝生の庭園を使って行われました。赤い絨毯が敷かれ、フラワーシャワーやケーキカットなどのセレモニーが行われ、平服や、浴衣姿で参加した友人などから祝いの言葉が寄せられていました。結婚式場を使ったありきたりの結婚式ではなく、よい思い出になったのではないでしょうか。
六華苑の詳細は「市内の主要史跡」で紹介できるよう、現在取材中です。
玉重橋リフトアップ見聞記 01/6/29
6月29日、昨年完成した西諸戸邸前の昇降式可動橋「玉重橋」が定期点検でリフトアップされるというので見学に行ってきました。玉重橋は西船馬町の堀に架かる橋で、昨年、市がこの堀を台風時に揖斐川に係留されている漁船の避難場所として利用できるように改修しました。その際船の出入りに玉重橋の橋桁が邪魔になるので、リフトアップできる構造の橋に架け替えました。
橋は鋼鉄製で、自重が29トンありますが電動で3m持ち上がります。赤いランプと警報音を発しながら6分で持ち上がりました。停電時には自家発電によるサブモータで約20分かかるそうです。この橋の内外で50艘の船が収容できるそうです。
この堀の改修に当たっては護岸を西諸戸邸の米倉の外壁に合わせて煉瓦を使用しています。なんとなく小樽に雰囲気が似ているとの声がありました。玉重橋は夜はライトアップされるそうです。市の担当者の話では平成16年にはこの堀に沿って住吉神社を経て七里の渡しへ通じる遊歩道ができ、また南の方は寺町堀に潮を入れ、公園や遊歩道設置の計画があるそうです。
この定期点検は市の広報誌で予告されていましたが、見学に訪れたのはほとんどが「歴史の案内人」のメンバーで、一般の市民が少なかったのは少し残念でした。次回は9月末か10月初めに行うそうです。
鉄砲伝来の歴史とその実演〜火縄銃砲術の迫力を体感する〜報告01/6/11
6月10日、菰野町町民センターで行われた菰野町教育委員会主催の火縄銃砲術の実演展示に出掛けました。堺鉄砲研究会の澤田平さんのお話と大阪城鉄砲隊、関ヶ原鉄砲隊による砲術の演武です。
澤田さんのお話によると、天文12年(1543)種子島に伝来した2丁の火縄銃は、堺の刀鍛冶や鋳物師の手によって国産化され、戦国時代という時代の中でまたたくうちに国内に普及していったそうです。火縄銃はそれまでの戦闘方法を変え、築城法にも影響を与え、有力諸侯による全国統一への機運を促すなど、日本の歴史に大きな影響を与えました。
また刀鍛冶らの苦心による一枚の鉄板から砲身を作り出す方法や、尾栓のねじを切る方法の発明などは、その後の日本の産業技術の分野にも大きく貢献したことがうかがえました。
お話の合間には火縄銃の実物や、加工工程の復元品を実際に手にとってみることもできました。
砲術の演武は近くのグラウンドで、甲冑を身にまとった16名の会員によって当時の大、中、小の火縄銃を使って行われました。
左手に巻いた火縄によって点火し、銃の火蓋を切ると大音響と共に火と煙が発射されます。もちろん玉は込められていない空砲で、しかも狭いグラウンドなので、近隣への迷惑も考慮して火薬の量を少なくしてあるそうですが、その連射によるスピード感と大きな爆発音で、家族連れで来ていた小さな子供達は泣き出してしまいました。
音と煙、たち込める火薬のにおいは、さながら戦国絵巻をみるような臨場感です。関ヶ原の合戦は鉄砲によって戦いが決したと言われますが、火縄銃は確かに当時のハイテク技術であり、戦国武将たちが、これの入手に先を争ったのもわかるような気がしました。
東海道周辺のいしぶみ拓本展報告01/6/3
6月2日、六華苑で開催された三重拓美会の「東海道周辺のいしぶみ拓本展」を見てきました。
この展覧会は、リンク集でリンクをはらせていただいている「北伊勢のみちしるべ」、「北伊勢風土記」の作者である四日市の水谷さんも出品されておられます。
桑名、四日市にある道標や句碑の拓本20点が出品されていて、桑名では鍋屋町の本願寺の梅花仏鏡塔のまわりにある句碑がたくさん採拓されていました。
水谷さんに拓本の採り方や、苦心談をお伺いする積もりでしたが、小生がまた日時を取り違えていて、歴史の案内人の班会議と重なってしまい、充分お話をすることが出来ませんでした。残念! 水谷さんごめんなさい。
でも拓本は写真と違って、原寸大で記録できるので、迫力があると思いました。
一弦琴の語らいと演奏会報告 01/5/23
5月20日六華苑で開かれた一弦琴の演奏会を聴きに行ってきました。
一弦琴は邦楽器の中で最も古い部類に入る楽器だそうで、平安時代初期三河の国に漂着した崑崙(こんろん)人によってもたらされたと伝わっています。
一弦琴は江戸時代中期より明治時代にかけて国学者や文人墨客の間に広まり隆盛をみましたが、その後忘れ去られ、戦後は途絶えかけた時期もあったそうです。
楽器は琴の半分くらいの大きさで、琴と同じように桑の木の裏面をくり抜いた板の上に弦が一本だけ張ってあります。演奏者は左手の中指に象牙で出来た呂管と呼ばれる管をはめ、薬指との間に弦を挟んでスライドさせて音律を決め、右手人差し指にはめた呂管で弦を弾いて音を出します。音色は凛として力強く、ストレートな音がします。
ただ一本の弦を弾いて発せられる音は、聴くものの魂を揺るがせ、演奏者の心を表す精神性の高い楽器だそうです。
当日はお香を焚いた会場で13名の演奏者によって、古今の和歌や、平家物語に曲をつけたものを中心に、荒城の月や竹田の子守歌などの現代曲も披露されました。六華苑の庭から吹き渡る五月の風の中、爽やかな午後のひとときを過ごすことができました。
城ノ広遺跡現地説明会速報 01/5/20
昼前に団地の近くで飛行機の墜落事故があって町中が騒然とする5月19日午後、城ノ広遺跡の現地説明会にでかけました。事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。それにしても市街地上空が訓練空域に指定されているなんて、小生も含めて桑名に住む大半の人が知らなかったのではないでしょうか。
城ノ広(じょのひろ)遺跡はJR朝日駅西方の朝明川左岸丘陵上にあります。今回の発掘は土地区画整理事業と県道の改良工事に伴うもので、朝日町教育委員会と三重県埋蔵文化財センターによって実施されました。
墳丘部が削平された全長40mの前方後円墳、5棟の竪穴住居、14棟の掘立柱建物、盛土が失われた4基の方形周溝墓などの遺構が見つかりました。出土遺物から、6世紀はじめから7世紀終わり頃までの遺跡と考えられます。
特に前方後円墳の発見は旧朝明郡域では初めてで、昭和61年の縄生廃寺の発見により、指摘されていた旧朝明郡域の豪族の存在が古墳時代後半まで遡ること、そして古墳の大きさから、桑名の高塚山古墳、四日市(旧三重郡)の志で神社古墳の被葬者に匹敵する勢力であったであろうことが推定できます。
また掘立柱建物群について、規模の大きな建物が含まれることや、倉庫と思われる総柱建物の存在、建物が広場を中心にして分布していること等から、豪族居館の可能性も考えられます。
写真はここから
訂 正 01/5/14
のっけからミスをやってしまいました。イベント情報の桑名市博物館の「鎮国守国神社所蔵品展」の会期が5月19日(土)〜6月17日(日)とあったのは誤りで5月12日(土)〜6月17日(日)です。お詫びして訂正させていただきます。
このイベントの前の「東海道と桑名の歴史展」が5月6日までだったので、展示替えに時間がかかると思い込んで、数字をよく確認せずに入力してしまいました。それにしても市博は少ない人数ながら、短い期間でよく展示されると思います。
「鎮国守国神社所蔵品展」は、普段は5月2日、3日の鎮国祭りの期間しか公開されない桑名藩関係の所蔵品を見ることが出来ます。ぜひお出かけ下さい。
松阪 宝塚古墳船形埴輪特別公開展見学記 01/5/13
5月6日、桑名歴史の案内人の班のメンバーと松阪宝塚古墳の船形埴輪を見てきました。今年の文化庁の考古速報展に出品され、6月から全国を巡回するので、その記念展です。
京都で作られたというレプリカと本物が同時展示されるというので興味がありました。レプリカは樹脂で出来ているのでしょうが、修復の跡も良く再現されていてどちらが本物か見まがうばかりです。
レプリカは低い位置に展示されていたので、昨年夏の本物の展示ではよく分からなかった威杖や太刀の取り付け部や船の内部の様子が確認できました。レプリカはライオンズクラブの寄贈だそうで、もちろん速報展には本物が巡ります。
その他今年新たに見つかった2そうめの船形埴輪の復元や戦前に発見され、現在は個人蔵となっている埴輪の破片も出品されていました。
また文化会館では三重大学の山中章先生の「宝塚古墳の過去・現在・未来」と題する講演がありました。宝塚古墳の築かれた時代背景を古墳時代前期から、大化改新を経て壬辰の乱と伊勢・伊賀地方の関係まで含めて、Power Pointを使ってビジュアルに説明されました。
先生が発掘に携わられた大安町の宇賀新田古墳群の話もでてきました。後半はサービスで、大和の石山古墳から嫁いだ「松姫」が当地の「宝王」を葬るために、造り出し部で水の祭りを行うというロマン溢れる物語が披露されました。