TopNovel未来Top>槇原さんち☆れぽぉと・1


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このお話は「片側の未来」の番外編になります。

 

 

 

「こんにちは、小林さん。ご無沙汰しています」

 聞き覚えのある声が頭のてっぺんから降ってきた。黒いビニールポットに入った花の苗をいじっていた私。慌てて顔を上げる。

「ま、まあっ! 菜花ちゃんパパ…とと、槇原さんっ!」
 きゃあっ! 思わず3歩下がって、立ち上がる。ああ、びっくりした。もうっ、いきなりなんだもん。

「こちらこそ、ご無沙汰してますっ!! 皆様、お変わりありませんかっ!?」
 あああ、心臓ばくばく。何なんだよっ。でもすごい嬉しいぞ、今日はパート仲間のママさんが急に都合悪くなっていきなり出勤だったんだけど、そんなむかつきもさあああっと晴れていく。

「ええ、お陰様で。小林さんもお元気そうですね」
 ぴちっと決まったスーツ。菜花ちゃんママの話ではスーツの量産店で安いのを買ってくるって言ってた。なのに何故かこの人が着ると2万円のスーツも10万円に見えるような気がする。すらっと長身でしつこくない肉付き。何となく筋肉質。
 真ん中でふんわりと分けられたちょっと茶色がかった髪、キリッとした眉の下の丸くて大きくて甘い瞳。すすっととおった鼻筋に口元がちょっとセクシーなのよね。

「ききき、今日は…どうなさったんですか? ものすごい遠出ですねっ!? 」

「はい、東京本社時代のお得意さまから呼び出しがありまして。そちらに伺っていたんです。帰り道にふと思い出して、久しぶりに小林さんのお店で買い物しようかなと立ち寄ったんですよ」
 ああっ、そうそう、この流れるような口調。営業職だって聞いていたけど、こんな人がもしもセールスで来たら、高級羽毛布団でも何でも買っちゃいそうだわ。

 ええと、今日はちゃんとメイクしたっけ。髪の毛のパーマが取れかかってないかしら? …ひとんちのご主人にこんなに舞い上がってしまう自分が悲しかったりするけど…う〜ん、だっていいのっ! 槇原さんこと菜花ちゃんパパは私たちのアイドルなんだからっv

「それでしたら、これから夏咲きの苗がたくさん入ってきてます。特別に良さそうなものをお選びしちゃいますから、何がいいか仰ってくださいっ」

「はい、いつもすみませんねえ。助かります…」
 どこまでも柔らかくて甘い微笑み。ああっ、TVドラマの世界ならいざ知らず、どうしてこんなに身近にこんな素敵な人がいるのかしら。とは言っても、もうご近所さんではないんだけど。でも、こうして久しぶりに会って、名指しで話しかけられてしまうなんって私ってば、ラッキ〜。もうこれは明日の朝、ママさんたちに自慢しちゃおっ!!

「今、薔薇に凝ってまして、色々見て回っているんですよ? …ああ、野菜の苗も色々あるんですね。裏庭の方にだいぶ敷地が余っていて日当たりもいいので、そこで家庭菜園を作ろうかと千夏と話しているんですよ…」
 あああ、自分の奥さんのことを「千夏」なんて、また、恋人のように。もうっ、菜花ちゃんママの幸せものっ!!

 トマトやなすの苗を優しげな瞳が辿る。ああ、あのトマトになりたいっ、あのトマトになって、槇原さんちの菜園で毎日愛でられたいわ…。
 あんまり馬鹿馬鹿しい想像だと思うけど、今更奥さんにはなれない私。かくなる上は…と考えてしまう。そんな自分が可愛くて可哀想だった。

………

 ええと。

 説明が遅れました、ごめんなさい。
 自己紹介しますと私は小林晴美、と申します。結婚9年目の主婦で子供はこの春に小学校1年生に上がった娘と、年中になった息子。その息子の方の名前「晃」を取って「あ〜ちゃんママ」とか呼ばれています。ちなみに上の娘の時は「さーやママ」と呼ばれていました。そうです、娘の名前は沙也佳と言います。
 こんな風に子供の名前で呼ばれてしまう私は、近所では「小林さんの奥さん」となります。まるでダンナの所有物のように。その上、ダンナは私のことを「おかーさん」とか呼びます。子供と同じです。私はあんたの母じゃない、産んだ覚えもないと何度も言ったのですが、全然改善されません。もう諦めました。

 そして、私は上の子が大きくなってしっかりしてきたし、パートに出ることになりました。私は結構自分でも凄いと思うミキハウス・フリーク。ダンナと子供たちとミキハウスを着込むことを生き甲斐にしてました。でも、ミキハウスってやっぱり高いんです。私は中古でもいいと思ったのですが、ダンナは「古着なんて」と嫌がります。
 デパートの初売りの福袋を購入したりもしますが(結構お得です、今は予約すると配送してくれる福袋もあるんですよ)やっぱ、買いたいものは買いたい。だったら、自分で稼ごうと決意しました。これから娘のお稽古ごとも増えていくし、家のローンもあるし…。

それがここのホームセンターの一角。苗木売り場です。もともとガーデニングに興味があったし、趣味と実益を兼ねた職場なんて素敵だなと思ってました。

 でも週3回のパートでもう家の中はごちゃごちゃ、障害物競走状態です。どうしてこんなに散らかるのか、それは皆が出すだけ出して、片づけないからだと思います。いくら口で言っても駄目なので私がきーきー言いながらひとりで片づけます。ちなみにダンナは私のことなど気にも止めず、ナイター中継に夢中です。

 仕事をする日はもうそれだけで手一杯なので、そのほかの日は家中の掃除をすることになります。我が家は2世帯住宅で、1階にダンナの両親と弟がふたり住んでます。弟たちはまだ独身です。玄関も分けた完全な2世帯にしたかったのに、義母が反対しました。キッチンを分けるのだって大変でした。電話を2本引くのだって今時当然だと思うのに、それすら説得に1週間っ!! とうとう、お風呂だけは一緒になりました。
 孫と一緒に入りたいから、なんて言ってたのが嘘のように、全然入れてくれる気配がありません。同居だって孫の顔が見たいとか言っていたくせに、パートで5時帰りの日すら愚痴愚痴言われる始末。戻ってくれば、子供の惨状をまるで私が悪いように責め立てます。…とと、ウチの同居の愚痴なんてどうでもいいわ。

 とにかく、ダンナのローンで建てた家なのに、自分の家の様な顔をして両親が「点検」に来ます。部屋の掃除は怠ることが出来ないんです。せっかくガーデニングに萌えようと広めに作った庭も、草取りするのが手一杯。手の掛からないプランターでお花を育てるのが関の山です。ああ、悲しい。

 ああ、自分の話ばかりですみません。

………

 ええと、今店先に来ている素敵な男性。気になりますでしょう? ええ、ええ。彼こそが私たち、ママさん仲間のアイドル「槇原さん」です。密かに「マッキー」と呼んでいる人までいます。残念なことにもう奥さん持ち、ついでにふたりの子持ち。でもっ、そんなことは関係ないくらい素敵。


 私が槇原さんを初めて見たのは、もう何年も前になります。そうそう、下の子がおなかにいた頃でした。

 ある晴れた5月の清々しい風、朝露に濡れる道路、そこを颯爽とゴミ袋を片手に彼はやってきました。半透明な都指定の袋。その後ろをちゃかちゃかとサンダル履きの女性が追いかけてきました。髪の毛の長い若い、そう見るからに若い女性。私よりも5歳以上若いなあと思いました。そして実際は8歳も若かったんですけど。

「透、いいのに。ゴミ捨てなんて私がやるから…」
 申し訳なさそうにそう告げる彼女に、彼はとろけるような優しい瞳で応えます。

「そんな、君は普通の身体じゃないんだよ? こんな重いものを持って、何かあったらどうするんだ?」

「…んもう、平気だって、言ってるのに…」

 ちょっと、ふくれっ面になった彼女に、ゴミ捨て場の蓋を開けて袋を収めた彼が寄り添います。

 そして…!! そっと顎を持ち上げて…えええええっ? ここ、道路ですよっ! そこで…いきなり…キス!! キスなんてしてるっ!! もちろん、口と口。マウス・トゥ・マウスと言う奴っ!!

「あんまり無理しちゃダメだよ。もしも何かあったら、すぐに電話して…」

 どうも、それは出かけの挨拶だったらしく。その後も彼は名残惜しそうに彼女の頬をすりすりしてます。あまりにも甘くて、ふたりの周りの空気が溶けだしてしまいそうです。彼女の方はとっても恥ずかしそうにしてます。でも、彼はそれすら、可愛くて仕方ないという感じ。ああ、朝から当てられてしまいます。

 木陰から、そのふたりの姿を見ていた私は、何とゴミ袋を3個も抱えていました。ええ、彼女よりもおなかが大きかったと思います。でも、3個っ!!それをえっちらおっちら運んでいたのに…。

 こんなの、現実にあるわけないっ!! きっとドラマのロケなんだわ!! そう思いましたが、いくら植え込みの中をきょろきょろしても、ロケ班なんていません。もう、朝からこっちが赤面っ!!

 そんな風に槇原さんと私の出会い(…とは、言えないかしら?)は衝撃だったのですっ!!

………

 その後、私は意識してそこの道を通るようにしました。どうにかして、彼と彼女にもう一度、会おうと思ったのです。赤面夫婦(たぶん)の実体っ!! それを突き詰めなければならない。私はメラメラと使命感に燃えていたのです。

 しばらくたって、彼女さんの方とぱったり出くわしました。彼女は夕食の買い物に出るところでした。おなかをゆったりと隠すようにモスグリーンのジャンスカを履いています。髪はやはりさらさらと長いままのストレートであまりお化粧気のない肌に、ピンクのルージュを引いていました。

 もちろん、初対面の彼女にキスシーンを目撃した話などはせず、さらりと切り出します。

「あの〜、予定日はいつですか?」

「9月なんです…」
 ぽっと染まった頬で、愛らしく微笑みます。とにかく本当に可愛らしい人。となると、今は6カ月くらいかな? 二人目の余裕か観察力のある私。

「そうなの、どこで産むの? 決めてあるの?」

 すると、彼女は私と同じ産院を口にしました。本当はどちらかの実家に近い病院で産みたかったそうなのですが、どうしてもご主人が側に置きたいと言ったそうで…まあああ、私なんて3カ月でも半年でも戻ってこなくて良かったのにって言われたのに!! 夜泣きの時に…っ!!

「へえ、じゃあ、ご近所だし。分からないことが会ったら聞いてね、私二人目だから」

 そう、どうにかしてあの素敵な彼とお近づきになりたいと思いました。ウチのダンナとは雲泥の差。どうして同じ男なのにあんなに違うのかしら。ダンナなんて私よりも背が低くて、おなかも出ていて。もう、何ヶ月ですか? と言う感じ。それなのに…こちらはうっとりするくらいのだんな様。何てことなんでしょう。

 彼女…槇原さんは、ついつい最近、ここに引っ越してきたそうです。新しく建った分譲マンションを購入して。そう、マンションっ!! ウチなんて当時、賃貸の木造アパート2DK。それが…ウチのダンナよりも10歳近く若いご主人が…マンションを買おうと言ったの!?
 お友達のひとりがそのマンションに入居してました。玄関を入ると両側に納戸と洋間。突き当たりがリビングでその隣りが和室。3LDKと言うことになるそうです。キッチンはもちろん対面式カウンター。食器洗い機も付いてます。ぴかぴかの新築マンションの輝かしさ、広いベランダ。全てが羨ましくてうっとりでした。
 それにそれに…。何とご主人は次男! 将来的にも同居の予定はないそうです。数年後にダンナの実家を2世帯住宅に建て替えて同居することが決まっていた私にとっては本当に夢のようなお話でした。

「槇原さん、随分お若いようだけど。ご主人とはどこで知り合ったの?」
 初対面の人にここまで聞いてしまえるのが、妊婦仲間の特権です。

 妊娠すると区が主催して「マタニティー教室」なるものがあります。同じ月齢のプレママさんを集めてその心得などを保健婦さんやお医者様が教授してくれるものです。まあ、任意の参加なんですけど。
 そこに一人目の時に参加しました。最初の日、5,6人の班に分かれて自己紹介をしあったのですが、何と6人中5人が出来ちゃった婚でした。もう、その後は出来ちゃってどんなに驚いたか、双方の両親にどうやって報告したか、苦労話が飛び交いました。ただ1人、不妊治療の上に授かったという少し年長の方は、小さくなっていて可哀想でしたけど。

 …そう言うことで、私が明け透けに聞きますと。彼女さんの方は、このような質問に何度も合っていたのでしょう(みんな考えることは同じです)、恥ずかしそうに俯きながら、小さな声で言いました。

「同じ職場で、同期入社だったんです。主人は四大でしたが、私は短大で…」

「ど、どどど、同期入社っ!!」

 まあ、それはドラマの香り。私の友人にもその手の感じで彼氏をゲットした子が何人もいました。何でも大きい会社で、何十人規模の新人採用がある会社では新人研修の時に何となくみんな仲良くなるそうです。そして定期的に飲み会をしたり、気の合った仲間同士でハイキングとか爽やかな企画をしたりして。本当に学生時代の延長のように、楽しいものらしいです。
 そう言う私はおじさんばかりの会社で、同期は女の子もうひとり、男性社員は既婚者しかいなくて、不倫もしたくないような方ばかり。悲しい青春でした。それだけにこう言う話には盛り上がってしまいます。

 目の前の彼女さんは。今着ているものはフェリシモ風でそんなにブランド入っていませんが、それでも若手の女優さんのような顔立ち。何よりつるつるのおでこが若さの象徴です。入社した頃は同期どころか、先輩社員からもチェックが入っていたでしょう。しかも受付嬢だったと言うからなおさらです(と言うか、見栄えがしない子だったら、受付嬢にはなれません。その辺、上層部もシュールです)。

 もうちょっと、突っ込んで聞きますと。入社した翌年に夏のボーナスを貰って退社して、その年の9月に挙式してます。短大を出た次の年に花嫁!! 多く見積もっても22歳ですっ!!…と言うことは、今、23…。驚くほど早い結婚ではないにせよ、そのスピードには目を見張るものがあります。
 彼女さんにはそれ以上の詳しいお話は聞けませんでしたが、私の頭の中では、もうぐるぐると妄想が広がります。もうトレンディードラマを地で行っているようです。考えるだけで楽しい。おむつの取れていない娘を抱えつつ、2人目を妊娠中。そんな娯楽もない虚しい毎日に光が射し込んできた気がしました。

………

 その日の夜。私はダンナの高いびきを背中で聞きながら、娘を寝かしつけていました。2歳の誕生日の来たばかりの娘のおむつをこの夏に取ろうと思っていましたが、出産時期と重なってしまうため、どうも無理そうです。まあ、幼稚園は再来年だから、そんなに急ぐこともないか、と思ったら一気に気が楽になりました。ダンナの母親の攻撃はすごいですが、もう耳に蓋をしています。
 ゴーゴーと地鳴りのようないびき。いつもだったら耳障りで、一度寝付いたら起きないのをいいことに顔に蹴りを入れたりします。それで向きが変わって、いびきが止むこともあるのです。でも、今夜に限ってはそんなことも気になりませんでした。

 頭の中は夕方の彼女さんの話でいっぱいです。これでも昔は文芸部員、素敵な恋愛に夢を見ていた私、妄想だって半端じゃありません。ムクムクと盛り上がってきます。私の描いたシナリオはこんな感じでした。

………

 3月。新人研修の初日。真新しい制服に身を包んだ女子社員と着慣れないスーツ姿の男子社員。彼らはオフィスの研修室で初めての顔合わせをした。商社だから、接客業に近い。男性社員のほとんどは外回りの営業。大変と言えば大変であるが、自分の努力がそのまま実績になる、男性的な職種なのかも知れない。女子社員の水準も高くて、皆合格点の仕上がり。
 その中でもひときわ目を引いたのが、ストレートヘアの彼女。ミルク色の白い肌に茶色がかった大きな目が印象的で。控えめな微笑みに、彼はもう、ひとめで恋に落ちた。

「ああ、どうにかして、彼女の近くに行けないものか」

 そう思いつつも、彼は外回りの営業。彼女は受付嬢。いくら何回も顔を合わせているとは言え、彼女がくれるのは他の社員に与えているのと同じ、営業スマイルだ。彼女の目の前に行って、世間話を始める先輩社員もいるが、自分はとてもそこまでは出来ない。
 学生時代は体育会系だった(…これは、想像。マッキーは正確には山岳部員:作者)。彼自身もいいセン行ってるのに、何故が女性に縁のなかった人生。だからこう言うとき、どうしたら彼女の気を引けるかも分からない。こんな風にうだうだしているウチに誰かに先を越されたら、どうしたらいいんだ!!

 新入社員のクセに恋にうつつを抜かす彼。でも何故か、仕事上では才能開花(お約束)。新入社員ながら、大口の注文を取り付け、社長賞並みの栄誉を受ける。彼自身はそんなに特別なことをしたつもりもなかったが、その誠実な人柄が新規に獲得した取引先に気にいられてしまったのだ。
 そして、仲間たちの計らいで、そんな彼を祝う名目の、実は合コンがしたいだけの飲み会が開かれた。同期入社の社員には残らず声をかける。他の新人社員だって、それぞれに目当ての女の子がいる。皆、先輩より先にどうにかしたいと焦っていたのだろう。
 そうは言いつつも、自分を祝ってくれる酒がまずいはずもない。気持ちよく酔いが回って来る。ふと見ると、視線の先にちょっと顔色が悪そうな彼女。他の社員たちは気付いていない様子。すっと席を立って、近くに行った。

「…どうしたの?」
 心配そうに、彼女の顔を覗き込む。間近で見ると、さらに血の気がない気がする。

「まあ、槇原さん…このたびは、おめでとうございます」
 具合が悪そうなのに、健気にもお祝いの言葉を述べる彼女。その愛らしさにかなり、ぐっと来る。お礼代わりににっこり笑って、頷く。それから話を続けた。

「それより。君はかなり顔色が良くないよ? どこか悪いの?」

「…え? あの、お酒をちょっと飲み過ぎちゃったみたいで…」
 とか言いつつ、彼女の手には何口も飲んでいないようなビール。実はかなりの下戸らしい(これは嘘。千夏はかなりお酒は強い方です:作者)。勧められるままに、断り切れなかったのだろう。

「具合が悪いなら、無理しない方がいいよ? 送るよ…家はどこ?」

「…え、でもっ…」
 すっと立ち上がると、彼女は慌てる。そりゃ、そうだ。主役が勝手にいなくなっちゃっていいはずはない。

「ほらほら、ご覧よ? みんな、自分の世界だから…」
 そう言われて、彼女も宴会の席を見渡した。みんな思い思いに楽しそうに語らいつつ、杯を空けている。

「俺も、ちょっと量を過ごしたから。もう帰ろうと思っていたんだ」
 その言葉に視線の先の彼女がおずおずと頷く。彼は心の中で、密かにガッツポーズを取った。

 

 幹事をしている仲間に声をかけて、そのまま戻ることにした。彼女も歩けるというので、電車を使うことにする。別に、部屋まで送ることはないから、と言う彼女の言葉を無視して、強引に送り届けた。彼女は駅から歩いて10分くらいのアパートで一人暮らしをしていた。

 部屋まで着くと一気に気が抜けたのか、玄関先でふっと倒れてしまう。体の線の細い彼女らしく、この辺はか弱い。慌てて抱きとめて、お姫様抱っこ(これはお約束)で奥の部屋に運ぶ。女の子らしい、サーモンピンクで統一された部屋。白木の家具。ローチェスト。部屋全体から彼女の香りがして、思わずくらくらっとした。
 色とりどりの布を接ぎ合わせたベッドカバーを外して、その上に彼女を横たえる。少し、苦しそうに身じろぎした。本当は衣服を緩めてやった方がいいのだろうが、どうしていいのか分からない。そんなことしたら、一気に襲いかかってしまいそうな気もする。それは良くない、彼女はこんな状態なのだから。
 彼は自分の中にこみ上げてくる欲求を必死で払いのけた(偉いぞ、マッキー)。そして、綺麗に片づいて、水滴ひとつ落ちていないぴかぴかのキッチンで水を1杯貰うと、そのままずるずると腰を下ろす。身体を動かしたので自分も酔いが回っていたらしい。今までは彼女のことが心配で少しも気が付かなかった。
 そのまま。彼は丸くなって、キッチンの床で眠り込んでしまった。

「…槇原さん? 槇原さん、起きてください…」
 やわらかい声に揺り起こされる。その鈴が転がるような心地よい音色をいつまでも聞いていたい気がした。ふっと目を開けると、あまりに間近に彼女の顔がある。ハッとして飛び退くと、そのままキッチンセットの扉に思い切り背中をぶつけた。
 いつの間にか朝が来たのか。キラキラとまばゆい陽ざしが狭いキッチンに溢れている。

「す…墨田さん」(小林さんは千夏の旧姓を知らないのですが、便宜上:作者)
 彼の頭の中で、昨日の記憶が運動会している。そして、ようやくゴールテープを切ったとき、ホッと胸をなで下ろした。

 そんな彼を彼女は不思議そうに見つめている。大きな目、見つめられると吸い込まれてしまいそうだ。

「あの、槇原さん。昨日は本当に申し訳ございませんでした。お布団を出して差し上げれば良かったのに、私ってば、あのまま寝ちゃったんですね…」

「あ、いや。こちらこそ、ごめん、こんなところで…」
 そう言った彼の目の前に差し出される着替え。どう見ても男物、綿シャツとハーフパンツと…それから下着まで。

「宜しかったら、シャワーを使ってください。その隙に、朝ご飯作ります。お詫びに食べていって下さいね」
 そう言って、彼女は当然の様に微笑む。

 しかし、彼の方はちょっと悩んでしまった。どうして、こうもあっさりと男物の服が出てくるのだろう、一人暮らしなのに。まあ、布団がもう一組あってもいい。友達でも泊まりに来れば使うだろう。でも…服は…。
 疑惑の心を込めて、エプロン姿の背中を見つめる。よく見れば、昨日のスーツ姿ではない。家着らしい、シンプルなものに着替えていた。彼女はもう、シャワーを浴びたのだろうか。

「あれ? 弟の服、サイズ合わないですか? …同じくらいの背格好だと思ったんですけど…」
 視線に気付いたのだろうか、彼女はくるりと振り向いて無邪気な微笑みを浮かべる。

「下着くらいは着替えた方が気持ちがいいでしょう? 弟が泊まりに来たときに置いていったものですからご遠慮なく。使い終わったら捨てちゃっていいです」

 その言葉にカーッと顔が熱くなる。ああ、何て不埒なことを考えてしまったんだ。自分が恥ずかしいっ! 一瞬でも彼女に男の影を疑ってしまった自分が情けなかった。そのままユニットバスに飛び込む。でも、そこにはほんのりとフローラルなシャンプーの香りが充満している。

「か、彼女が使ったばかりの…」
 いけない妄想ばかりが頭をよぎる若きエリート。シャワーを出すと、それを一番冷たいところまで下げる。思い切り頭を冷やさないともう彼女のところには出られないと思った。

 ラフな格好になって、バスルームのドアを開ける。すると、何とも言えないおいしそうな香りが鼻を突いた。

「まあ、ずいぶんと長いお風呂で。のぼせちゃったのかと心配しました。覗きに行こうかと思いましたよ…」
 そんなものすごい言葉をにっこりと微笑んで告げられる。せっかく冷えた頭がまたクラクラしてしまう。

 そして、テーブルの上を見た。ほかほかと湯気を立てる朝食のメニュー。

「急だったので何にもなくて。あり合わせでごめんなさい」
 すまなそうに俯く彼女。

 でも、何と言うことか。全然そんなじゃない。彼は久しぶりに見るきちんとした朝食の風景に言葉も出ないほど感激していた。

 炊きたてのご飯にわかめと豆腐のみそ汁。塩鮭の焼いたのに大根下ろし。だし巻き卵とキュウリの浅漬け。ついでに小さなタッパーに入った昆布の佃煮と柴漬けまである。もう至れり尽くせりだ(はっきり言って、ここまで千夏は作れません、朝ご飯。だって、マッキーよりも起きるのが遅いことも多いし…:作者)。

「お口に合うといいのですけど…」
 彼女は長い髪をさらさらとさせながら、控えめに言う。

 何の何の…味も最高にいい。二日酔いで食欲もなかったはずなのに、ご飯のお代わりまでしてしまった。いつもは良くてパンとコーヒーの朝食。ああ、彼女と結婚したら、毎朝こんな食事が食べられるんだ。そして何よりもあんな心地よい声で起こして貰って…。また、妄想の広がる槇原。朝から、こんなでいいのか!?

 テーブルを片づけて、食後のお茶をいれてくれる。その白くて長い指をぼんやり見ていた。頭の中では今日、これからどうしようか考えながら。

 …まさか、このまま「はい、さようなら」はないだろうなあ…せっかくの休日なんだし。その上、あつらえたようにいい天気だ。そうだ、どこかに行こうと誘うのはどうだろう。いや、彼女の都合も聞かないと。ええと…。

 せっかく訪れたチャンス。ここで彼女に目を付けている同僚や上司に差を付けなくてはならない。ここを逃してなるものか。頑張るんだ、自分っ!!

「あの…」
 そう言いかけたとき、聞き慣れた音が耳に響いていた。

「あら、槇原さん。携帯が鳴っているみたいですよ?」
 彼女に言われて、壁に掛かった自分のスーツの中でわめいている無粋な存在に気付いた。無視するわけにも行かず、立ち上がってそれを取る。あれ…? このナンバーは…。

「あ、これは先輩っ! おはようございますっ!!」
 開口一番、電話片手にぺこりと頭を下げる。こんな時に、何なんだ、全くもう。

 話をしている間、彼女は邪魔にならないように静かに食器を片づけていた。携帯を元のようにしまうと、その背中に声をかける。

「午後から取引先と急な打ち合わせが入ったんだって。向こうのお偉いさんが今日なら都合が付くって…」

「まあ」
 彼女はやわらかく微笑みながら、お茶をつぎ足してくれた。こんな、手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、どうして何にも出来ないんだ。まあ、いきなり何かする方が変だけど。これはまたとないチャンスなのに…。でもそんなヨコシマな妄想は彼女の言葉にうち砕かれる。

「昨日と同じスーツと言うわけには行きませんよね? これからお家に戻られて、着替えないと…お忙しいですね…」
 そんな風に当然のことを言わないで欲しい。でも、俺は今日は打ち合わせなんかより、1日君と過ごしたかったんだ。せっかくいいムードだったのに…っっ!!

 しかし、そんなことも言っていられない、新人エリートサラリーマン。彼女に見えないようにふすまの影で着替えて、身支度する。アタッシュケースを持つと、彼女は玄関先で見送ってくれた。

「どうぞ、お気を付けて。行ってらっしゃい」
 その笑顔はいつも受付のカウンターで見せる笑顔と一緒。せっかくエプロン姿で手を振ってくれているのに…この上なく悲しかった。


 その後は何の進展もなく、月日が流れていく。忙しい仕事の合間をぬって、同期の飲み会や親睦会には必死で参加した。彼女はそこにいることもいないこともあった。同期の女性社員たちと和やかに語らっている彼女になかなか声をかけることが出来ない。仕事もどんどん忙しくなる。あっと言う間に半年ほどの時間が過ぎた(これ以上、話が長くなってもいけないので、いきなりぶっ飛び:作者)。

 年の瀬のある日、彼は驚愕の事実を耳にする。

 何とたらしで有名な先輩が彼女をクリスマスのディナーに誘ったと言うではないか。先輩は用意周到に周りから固めていって、彼女をうんと言わせる様に持っていったらしい。さすがにやり手の営業マンは押しが違う、とか感動している時ではない。大変だっ!!

 社内恋愛にはそれほどうるさくない会社だが、そのスキャンダルについては詳細に知れ渡る。もしも社員同士で付き合ったりしたら、すぐに社長の耳にも入る程だ。そんな中、彼女の浮いた噂を聞かないことだけが救いだった。
 頻繁に上京してくる家族を家に泊める、と言っていた彼女。夜遅くいきなり来ることもあるから、携帯を持っていない彼女は早めに部屋に戻るようにしていると笑っていた。あんなに綺麗な娘を一人で置いておいて御家族も気が気ではないのかも知れない。部屋の感じも男がいるようには思えなかった。

 でも、ひどいじゃないか。彼女の上司にそれとなく打診して、仲介させるようなかたちで誘うなんて。いやらしいったらないっ! 男のくずだっ! …とか言いつつ、今までどうしても行動に出られなかった自分。今更、ヤキモキしても仕方ない。でも…どうして、諦められるだろうか。

 同期の飲み会がその後、程なく合った。彼女を遠目に見ながら、いっそのことガンガン飲ませて潰してしまおうかとか考えている自分が悲しかった。あれ以来、用心しているらしく、彼女はいつでもシャキッとしている。ビールに強くなったのか、それとも早めにウーロン茶に切り替えているのか?
 もう、話を切り出すのは今しかない、来週末はクリスマスだ。あんなたらしに彼女をみすみすくれてやるなんて…っ!(いえいえ、くれてやるって。あんたのものでもありません:作者)

 彼女の隣りがふっと空席になった。それを見た瞬間、慌てて席を立つ。椅子取りゲームのように必死でそこに急いだ。

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