「あらあら莉子ちゃん、大変だったわね」
そして、十数分後。
緊急事態にスーパーマンのごとく駆けつけてくれたのはやっぱり楓さま。何でも一時限が自習だったんだって。それにしても、どこかにセンサーでも付いているんじゃないかと思うほどの早業だった。
「たっ、大変なんてもんじゃありませんから……!」
合宿所のシャワーを借りたんだけど、それでもまだ全身がベタベタしている気がする。あのとき空から降ってきたのは、真っ赤な水性ペンキ。それを頭からたっぷり浴びて、「決して夜中にひとりでは観ないでください」状態になってしまったあたしだった。
「お友達の早紀さんから聞いたわよ。おかしな手紙を何度も受け取っていたんですって? そんな風になっていたこと、どうして話してくれなかったの」
今、あたしたちがいるのは作法室とくっついてる給湯室。またの名を「華道部部室」という。横長のテーブルとパイプ椅子が並んでして、いつもここでお茶をいただいてる。大王の住処「指導室」ではお湯が沸かせないしね。
幸か不幸か体育のためにジャージに着替えていて、制服は無事。さすがに下着には被害がなくて、良かった。濡れた髪を乾かしたら、表面上は元通り。
「えーっ、だって……」
いたずらに話を大きくしたくなかったんだもん。でも結果的には、もっとヤバイ感じになっちゃったんだけどね。
「もうっ、駄目でしょ。莉子ちゃんはいつも自分ひとりで解決しようとするんだから」
ふわわんと甘い香り、今日は煮出して作るミルクティー、「チャイ」をご馳走になってる。蜂蜜をたっぷり入れて、とっても温まるんだ。
「私や衛のこと、もっと信用して欲しいわ。そんなに頼りにならないかしら、私たち」
あああ、そんな風に悲壮感溢れる表情で俯かないで。何だか自分がすっごく悪いことをしている気がして来ちゃう。この人のやっていることは、半分以上が演技だってわかっているはずなのに、ついつい「本気」に思えてしまうのね。
「いえっ、決してそんなわけじゃないんですけど。これくらいなら、大丈夫かなあって思って」
確かにね、今まであたしがやってきたことを考えれば、あちこちに恨みを買っていても当然。決定的な制裁を加えるのは学園側でも、その前の段階で「あぶり出し」を行うのはいつもあたしだったから。相手の懐に入り込みやすいんだよね、ちょっとアウトローっぽいところも簡単に心を許してくれる重要なポイントだ。
「それで頭からペンキを被ってたら、洒落にもならないわよ」
そこまで言うと、楓さまはちょっと首をすくめてみせる。
あたしのことがなかったとしても、最近はどこかお疲れモード。年度切り替えで何かと忙しいせいもあるけど、それより何より「受験生」だもんな。なまじ優秀なだけに、周囲の期待も大きく大変なんだと思う。頭のいい人はいい人なりの苦労がある、それが受験というものだ。
……だからこそ、心配かけたくなかったんだけどなあ。
「まあ、いいわ。ずいぶん派手にやってくれたから、すぐに足が着くはずよ。ほら、噂をすれば―― 」
そのとき、廊下の向こうからけたたましい靴音が聞こえてきた。上の階では普通に午前中の授業が続いているというのに、すごく迷惑だと思う。
「……ったく、面倒ばかり掛けやがって」
荒っぽく戸をノックして、がらりと開く。そこに立っていたのは、予想通りに仏頂面の学ラン男だ。
「あら、相変わらず仕事が早いわね」
にっこり微笑んでお出迎えの楓さま。こうやって向かい合ったふたりを交互に眺めていると、学園中の噂通りに「相思相愛カップル」に見えてくるからおぞましい。
「当然だ、俺を誰だと思っている」
そう言いつつ、多少乱れた髪をかき上げて。大王は次にじろりとあたしを睨み付ける。
「この馬鹿者めが。あれほど忠告しておいたのに、これはどういうことだ」
ここでしおらしく「しゅん」として見せればいいものを、それができないのが困ったあたし。どうでもいいけどさ、今って授業中でしょう? いいの、勝手に抜け出して。
「べっ、別に大王に助けてもらわなくたって、自分でどうにかできたもん」
いや、絶対に無理だったと思うけど。これくらいのはったりは許して欲しい。
「何?」
どーして大王の長髪って、どんなときにも艶々さらさらなんだろう。毎晩念入りにブラッシングしているところを想像すると、結構怖い。楓さまの方はウィッグなのに、何で自分もそうしようとは思わないのかな。
「お前にコイツを見つけ出すのは、百年かかっても無理だと思うがな。―― ほら、ここにいる女どもに間抜けな面を見せてやれ!」
大王が右手で掴んでいる第三者の腕の存在には気づいていた。すぐに突き出せばいいのに、前振り長すぎとか思っちゃ駄目?
「……っ、いたたたっ! らっ、乱暴はやめてください……!」
ずしゃっと部屋に投げ込まれた人間。えんじ色のネクタイで新入生だってことはすぐに確認できたけど、その上にくっついている顔を見てびっくり。
「えっ!? えええっ……どっ、どうしてっ……!」
―― 嘘、そんなはずないじゃん。
呆然と見つめるばかりのあたしを、彼は涙混じりの目で恨みがましく睨み付けてくる。
「ぼっ、僕は悪くない! 悪いのはあんたの方だろっ! そうだっ、悪いのは全部この女だ。僕はただ、コイツに制裁を加えようとしただけで―― 」
何で、この子が。
「どうもね、この人はダンス部部長・菅野くんの熱烈なファンのようよ。莉子ちゃんのこと、恋敵だって勝手に勘違いしているみたい。で、今回のことを思いついたみたいよ」
次の言葉が出ないあたしに向かって、楓さまがすらすらと解説してくれる。
「そっ、そんな……」
どうしてなんだよ、春日部修也くん!? こんなに可愛い顔して、ひどいことしないで……!
「しっ、静音さまは……僕だけのものなのにっ。たった二年離れていた間に、別の女と仲良くなっているなんて、そんなのっ許せなかった! だから、静音さまに近づかないようにと忠告したのに、それなのにあんたが無視するから。だからっ、だから僕は……」
「菅野静音」―― そんな名前だったのか、先輩。漢字だけを見ると、すごく乙女なイメージだわ。ここで初めて明かされる、新事実。
「大馬鹿者っ、だからといっていきなりペンキはないだろう。少しは周りの迷惑も考えろ、昇降口をあんなにしてどう責任をとるつもりだ。罰として元通りになるまでひとりで始末してもらうぞ」
大王に蹴りを入れられてしまった春日部くん。とうとう、うわーんって泣き出しちゃった。冷たい床に四つんばいになっておしりをさすっている姿は……ひいき目に見てもかなり情けないものがあるわね。
「ううう、お願いしますっ。このこと、静音さまには教えないで! 僕、あの方に嫌われたら生きていけないっ、それだけはどうか勘弁してください……!」
何だかなあ、光り輝く春が来てせっかく見つけたアイドルくんなのに、こんなに早く夢をぶち壊してくれなくたっていいじゃない。男のくせにべそべそするのはやめてっ、泣きたいのはむしろこっちの方だよっ……!
「あっ、あのさ……春日部くん」
でもね、やっぱりプリティーな後輩くんなのよ、この子は。髪の毛とかもふわふわして、思わず触りたくなっちゃう。これまでは近寄ることも無理かと思ってたけど、えへへっ、今ならすごく近い。
「ペンキもひどいけど、植木鉢はもっとヤバイよ。あたし、お嫁入り前なんだからキズものにはなりたくないなあ……」
まあ、別の意味では十分にキズものになっているあたしなんだけどっ。それはこの際、置いておいて。
思わず「いいこ、いいこ」って、頭なでなでしてあげちゃった。あー、いい手触りっ。お隣に住んでいる大型犬・シルビーみたい。
「……え……?」
そしたら、春日部くん。本当にわんこみたいな澄んだ瞳で、うるうるあたしを見つめるの。
「……う、植木鉢って……僕、そんなの知りませんけど」
え。
このとき、その場にいたあたしと楓さま、あと大王も一瞬のうちに固まっていた。
そんな中でいち早く我に返ったのがやっぱ大王。この人って化け物だからね、常人じゃ考えられない能力があるんだよね。
「この期に及んで言い逃れか。ずいぶんとふてぶてしい奴だな」
思い切り凄んでたからね、心の準備がないままに目の当たりにしたら魂が抜かれて真っ白になっちゃうよ。
「ち、違います! 僕、本当にやってません。そりゃ、靴箱の手紙と……それからペンキのことはもちろん僕ですけど」
上の歯と下の歯が噛み合わないくらいガチガチと顎を震わせながらも、春日部くんは命がけの表情で反論している。その必死な姿からは「嘘をついている」なんて全然思えなかった。
「でも……だったら、一体誰が」
楓さまと大王も、素敵にアイコンタクト。従兄弟同士だから仕方なんだけどねー、超能力で会話されちゃうとあたしだけが置いてけぼりになっちゃう。ちょっとは気を遣って欲しいものだわ。
うーっ、ってイライラしてたら、またまた戸口に人影が。
「あっ、あのーっ……」
銀縁眼鏡がきらりんと光る彼は、今朝出会ったばかりのオタクくん。
「すっ、すみません! その、ちょっとお話を聞いていただけませんか?」
大王の「なんだ、お前は?」の眼差しにも逃げることなくその場に留まっているということは、それだけ強い意志を持っていると言うことだ。
「どうしたのかしら。確かあなたは……一年福組、柴田教諭クラスの大行司東くんだったわね?」
すごーい、さすがは楓さま。この人って、全校生徒の顔と名前をすべて覚えているのよね。しかもそれだけに留まらず、さらにどんどん個人情報が追加されていくんだから恐ろしい。
「はっ、はははっ、はいっ……そうです……!」
ほらほら〜、全校生徒の憧れの君に突然フルネームで声を掛けられちゃって、オタクくんの瞳もハート・マークになっちゃってる。
「ええと、そのっ、……実は! その、どうしても皆さんのお耳に入れたい情報がありまして。それで今朝、莉子先輩に声を掛けたのですが、どうしてもお話させていただけなくて」
あ〜、あたしひとりを悪者にして! そんな恨みがましそうな目で見なくたっていいじゃない、元はと言えばあんたの登場の仕方が怪しすぎるのがいけなかったんだよ……!
「私たちの耳に入れたい情報? 一体何かしら」
緊張した面持ちのまま、それでも百合の花のような微笑みを浮かべる楓さま。もちろん、こうすることで相手がどんな反応をするかをきちんと計算しているに決まってる。
「えっ、ええと……その」
一度は口を開いて話し出そうとしたオタクくん。でも、彼は急にハッとして、あたしと子犬の春日部くんの方を見る。その姿を素早く見て取ったのは「生徒会副会長」な彼女。
「わかったわ、こちらにいらっしゃい。―― 他の皆さんはもう教室に戻っていいわ、きっとクラスの方々も心配していると思うから」
一呼吸分の間合いのあと、楓さまは和やかな語り口のままでそう言った。
「春日部くんも、二度と莉子ちゃんを虐めちゃ駄目よ。この次は絶対に許しませんからね」
驚いたことに、一番先に戸口に向かって歩き出したのは大王だった。こういうときって絶対に自分も一緒に話を聞くとか言い出して、ふたりの間に強引に割ってはいるとばかり思っていたのに。
「さ、戻るぞ。楓の言うことには素直に従った方がいい」
ふと見ると、春日部くんも尾てい骨の辺りをさすりながらよろよろ立ち上がったところだった。大王のあの「蹴り」、実はかなり強烈だったみたい。
つづく♪ (100502)
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