―― で、放課後。
どうにかこうにか一日分の日課をすべて終えたあたしは、当然のごとく指導室へと足を向けていた。本当、今日は厄日としか言いようがない。こうやって歩いていることが奇跡だと思えてくるほど、よろりんよろよろだ。
「演劇部が大道具作りで片付け忘れてたペンキなんだって? あんたも本当に災難ね」
いつの間にかそんなシナリオが作成されているしっ。一応は悲惨な目に遭った友人を慰めてくれる早紀だったけど、その後の移動教室のときにはあたしから半径一メートル以上離れて歩くという呆れるくらいわかりやすい行動を取ってくれた。
ひどいよなあ、そこまでする? まあ、彼女こそが「赤ペンキお化け」のあたしを一番間近で見たその人なんだから、用心するのもわかるんだけどさ。
がらがらがら。
相変わらず立て付けの悪い引き戸だよなあ。途中でつっかえて止まってしまうそれを、器用にレールに乗せつつ動かしていく。
「―― あれ」
鍵、開いてるからてっきりもうご到着かと思ったのに。開けはなった窓から桜の花びらがひらひらと舞い込むデスクに人影はない。
その代わり、窓際のパイプ椅子にちょこんと腰掛けた意外な人影があった。
「あっ、莉子先輩!」
今はトレードマークのリュックを膝の上に置いて、にこにこ笑顔で迎え入れてくれるオタクくん。
「え……なんで、あんたがここにいるのよっ」
今更ながら、すごい違和感。この「指導室」の住人と言えば、主である閻魔大王と彼の最愛の恋人(と、皆からは誤解されている)の楓さまと決まっていた。その他には「矢文」で呼び出されて説教を受ける生徒が時たま現れるのみ。
なのに……これって。
「もしかして、先輩も呼び出しを受けたんですか? 閻魔大王に睨まれているという噂は本当だったんですね!」
いやいやいや、ちょっと情報が間違って伝わっている気もするけど。まあ、そういうことにしておいた方が色々と好都合だから仕方ない。
「呼び出しって……あんた」
そのとき、背後にふっともうひとりの気配を感じた。
「大行司くん、お待たせしちゃってごめんなさい。あら、莉子ちゃんも来てたのね」
振り向くと、そこにはお茶のセットを手にした楓さま。よく見たら、部屋の隅っこではいつもは存在しない湯沸かしポットが音を立てていた。
「あっ、高宮先輩!」
何なのコイツっ、すっごいわかりやすいんですけど。確かあたしが入ってきたときには、座ったままへらへらお出迎えだったよね? なのに今度は椅子からびしっと立ち上がって姿勢を正しているんだから。
「さあさ、ふたりともお茶の支度を手伝って。机は四つくらいくっつけたらいいかしら、ええ高さが同じくらいなのを選んでね」
ここは元々が物置だから、各教室で不要になった古い机がたくさんある。それをがたがたとセッティングするあたしたち。楓さまは紅茶ポットをお湯で温めながら、にっこりと微笑む。
「あのね、莉子ちゃん。大行司くんをここに連れてきたのは私なの。彼、なかなか優秀でね、学園の情報も色々集めてくれていたのよ。お陰でとても助かったわ、興味深い話もたくさん聞けたし」
今度はポットのお湯をセッティングしたカップに注いで。その手つきは相変わらず流れるように美しい。
「前からとても気になっていたのよね、生徒会長の不穏な動き。でも彼は絶対に尻尾を見せないし、こっちとしても動きようがなかったわ。でも大行司くんはその辺も詳しく調べてくれて、……でもそのことを向こうに感づかれてしまったみたい」
―― え、それって、まさか。
思わず目をむくと、楓さまもゆっくりと頷く。
「そう、朝の植木鉢。あれのターゲットは莉子ちゃんじゃなくて大行司くんの方だったのね。まあ、本気で当てるつもりはなかったんでしょう、多分威嚇したかっただけだと思うわ。それにしてもたいした腕前よね、感心するわ」
違うでしょ、手元がちょっと狂ってたら大変なことになってたから!
「証拠はほとんど出揃ったわけだけど、このあとはあちらサイドとの駆け引きね。私たちとしては在学中に何か問題を起こされなければいいわけだし、しばらくは泳がせてみようと思うの。そのためにもコンピュータの知識に長けている大行司くんの存在は不可欠だわ。正直、私も衛もそっち方面にはあまり明るくないし、手伝ってくれる人が欲しかったのよね」
何ですって〜! この上におかしな人間が増えてどうするんですかっ!?
「もっ、もったいないお言葉です! 自分っ、大行司東、高宮先輩のために身を粉にして働かせていただきます……!」
あ〜っ、反則! ここで、天使の微笑みを発動するなんて。
「これから私たちも課外とかで忙しくなるし、莉子ちゃんがひとりじゃ寂しいだろうなと思っていたからちょうどいいわ。ふたりとも、仲良くしてね」
……って、幼稚園児じゃないんですから! いきなりそんなこと言われたって、「お手々つないでランランラン」とか、絶対無理だよ。それにコイツ、滅茶苦茶胡散臭いしっ!
「揃ったみたいだな」
そして、もうひとり。少し遅れて登場したのが、他の誰でもないこの部屋の主である大王。でも驚いたことに彼はひとりではなかった。
「どっ、……どうして……」
何かもう、今日は驚くばっかの一日だ。
「こっ、このたびは……大変ご迷惑を、お、おかっ、お掛けしました……」
怪しげな学ラン男に二の腕をがっちりと掴まれたまま現れた「彼」。まるで三日三晩雨に打たれた子犬のように打ちひしがれているその人は、半日前にあたしをペンキまみれにした張本人だった。
「コイツは使えるだろう、なんと言っても女どもの目の色が違う」
今日のお茶菓子は、楓さまが持参してくれた缶入りのクッキー。これがもー、ほっぺが落ちるくらい美味しい! ああっ、どうにも止まらないわ。
「二年幸組に怪しい集団がいただろう? まずはそこに潜入させてみようと思ってな、もちろん本人には了承済みだ」
えええ〜っ、何それ。はっきり言って、脅しじゃないですか……!
「でっ、でも。あのお姉様方、ちょっと普通じゃないよ? 見た目はいかにも良いとこのお嬢様風だけど、かな〜りいろいろありそうだし……」
しょんぼりうなだれている姿を見ていたら、さすがに可哀想になって来ちゃった。あたしなんてもう、こういう状況にも慣れっこだけど、春日部くんは入学したばかりのいたいけな少年。いきなり悪の道に染めるのはどうかと思う。
「いっ、いいんです! それは構いませんっ、僕は何でもやらせていただきます……!」
やがて決死の覚悟で顔を上げたプリティーくん、彼が真っ直ぐに見つめたのは―― 何故かあたしだった。
「あっ、あの! 莉子先輩、今まで本当に申し訳ありませんでした。でもっ、僕は心を入れ替えましたから。これからは莉子先輩にどこまでも付いていきます……!」
はぁ? 何を言っているの、この子。呆然としているうちに、両手もがっちりと握りしめられちゃってるし。
「なっ、ななな……なにごとっ……!?」
うわぁ、キラキラ乙女のような瞳で見つめられちゃってるよっ……! これって、どうして、愛の告白……じゃないよね!?
「莉子先輩と一緒にいれば、静音さまともお近づきになれるか知れないじゃないですか! ああっ、どうして最初にそのことを思いつかなかったんだろう。こうなったら、ボディーガードでも何でもします! ええっ、どうかお姉様と呼ばせてください……!」
やだーっ、そんなの断る! あたし、イケメンくんは大好きだけど、そこに「変態」が追加されたら一気に引いちゃうわ。
「ふふ、莉子ちゃん。すっかり懐かれちゃったわねえ……」
むっつり黙ったまんまの大王の隣で、優雅に微笑む楓さま。軽く頭を動かすごとに、さらさらの髪が美しくなびく。
「これから、ますます楽しくなりそう。良かったわね、衛」
あああ、知らないよ。楓さま、これって絶対にわかっててやってるでしょう? あっという間に負のオーラが辺り一面に漂って来てるのに、その笑顔をキープできるのはすごいよ。
「そろそろ切り上げろ、俺は仕事が残っている」
まともに戦って勝ち目がない相手であることは、大王にだってわかっているんだろう。超不機嫌な表情のままで席を立つと、さっさと自分の「定位置」についてしまう。
「あらあ、衛ってば。まだいいじゃない、みんなで楽しくおしゃべりしましょうよ」
か、楓さま。やめようよ、これ以上つつくのはいくらなんでも危険だよ。
あたし以外のニューフェイスくんふたりは、楓さまの取りなしで楽しいお茶の時間を続けている。だけど、こっちはもうそれどころじゃなかった。
わかってる、楓さまの言動はそのすべてが計算し尽くされたものであるってこと。本当は、一番大変なことを、こっそり隠したままでいるってことも。
最後まで大王はあたしたちに背中を向けたまんまだった。だから、その表情は全く見えない、何を考えているかもさっぱりわからない。
―― だけど。
何となく、雲行きが怪しくなって来たような予感が、あたしにも確かにあった。それでも窓の外はまだ、満開の桜。胸の中のもやもやが晴れないままで、あたしはその幻想的な風景を見送っていた。
今年度も、はじまりから波乱含み。
とりあえず、ここまで♪ (100421)
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