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46.蘭月の記


 それは、久方ぶりに迎えた静かな夜であった。

 春過ぎからの公務の忙しさもようやく一段落。毎年の異動で新しく任に付いた新人たちはその衣の初々しさと同様に何とも心許ない務めぶりであるが、それもこの夏の暑さが過ぎ去る頃にはしっくりと馴染んでくることであろう。
  ここは竜王様の住まう御館の一角、「東所」と呼ばれる場所と目と鼻の先にある部屋である。以前は他の使用人と同じように御館の表に家族の居室(いむろ)を与えられていたが、長年連れ添ってくれた側女(そばめ)が高齢を理由に里へ戻ってからはここに移り、気軽な独り身で生活のほとんどを部下に任せることにしていた。
  寝の刻を過ぎ、月の光に満たされた庭には誰もいない。一声掛ければ、そこここに潜んだ寝ずのお庭番が姿を見せるだろうが、今夜はそのような「訓練」をする気にもなれなかった。

 ―― 全く。まさかこの歳まで、公務を任されているとは思わなかった。

 長年殿上人の側近として仕え、皆から「竜王様の一の侍従」と呼ばれ続けた。しかし今ではあの御方も、愛した女人と仲睦まじく遙か遠き月の国にいらっしゃる。早く再びお目に掛かりたいと願いつつ、未だにその希望は叶えられそうにない。

「お祖父様、こちらにいらっしゃいましたか」

 振り向くと、渡りに灯された燭台の輝きを背にして小さく揺れる影が見える。

「父上からの文が届いたと聞きました。私も拝見して宜しいでしょうか?」

 艶やかな漆黒の髪、同じく闇の色を集めた瞳に一瞬の煌めきが走る。彼を静かに包み込む、もうひとつの光。遠目に見れば「北の集落」生粋の者であると誰もが思うであろうが、この男子(おのこ)の中には確かにもうひとつの「血」が流れていた。

「ああ、もちろんだとも。夕餉の後に届けられたから、明日にでもお前に渡そうと思っていた。さあお出で多楡(たゆ)、爺の前で読み上げてご覧」

 嬉しそうに駆け寄ってくるその無邪気な姿は、今は遠い地に住むこの文をしたためた彼の父親のものと重なる。だが、……それもやはりあやふやな記憶の中にあるものなのだろう。実際のところ、真の親子らしく睦み合った覚えもない。それを孫であるこの子が果たしてくれるとは、何とも不思議なことであった。

「ほら、相変わらず美しいお手蹟(て)だね。そなたの父の筆遣いは実に見事であるよ」

 そう告げながら畳まれた薄様紙を差し出せば、彼はまるで自分が褒められたかのように嬉しそうな笑顔になる。まだ元服にも数年の間がある年頃なのに親兄弟と離れてひとり異郷にいてはどんなにか心細いであろう。朗らかな気だてで人懐っこくそのような様子はどこにも見当たらないが、悟ることの出来ない分さらに不憫に思える。

「書はそのひととなりを表すと言うからね、お前もますます励まなくてはならないよ」

 艶やかに流れるその筆運びは、遠目には女子(おなご)のものとも見まがうほどだ。それもそのはず、この者に筆のことを一から教えたのはその母である人。柔らかく包み込むような温かさは、在りし日の笑顔にも重なってゆく。

 そう、彼女はとても優しい女子であった。そして、どこまでもまっすぐで頑なであった。だからこそ……最後の恋人として心から愛したのである。しかし、最後までふたつの想いはしっかりと絡み合うことはなかった。

 

・・・


「―― では、お前はどうしても私の言葉に従ってくれぬと申すのだな?」

 やはりそれも、月の光が天を満たす夜であった。眠りについた幼子を抱いたまま、彼女は俯いたまま小さく「はい」と応える。控えめな物言いではあったが、そこには一寸の迷いもなかった。

「わたくしのような年端もいかない者が殿について都に上がっても、何のお役にも立てませんわ。もっとしっかりした御方がお側に居てくださった方が宜しいと思います。すでにあちらこちらからお声は掛かってお出ででしょう、その中から一番見合う方をお選びになるべきです」

 正妻であった人が長患いの末についに身罷り、あとには自分と一人娘が残された。都での公務は何かと気苦労も多い。やはりしっかりと支えてくれる妻の存在は不可欠だ。亡き人の喪も開け、その選出を急ぐときが来ていた。

「だが……」

 そう言い掛けて、彼女の胸に抱かれた幼子に視線を移す。大人しく人の影に隠れてしまう気性が気がかりではあるが、利発なたちで最近本格的に始めた手習いも教える学者たちが舌を巻くほどの上達ぶりであると聞いている。自分は北の集落の長でありながら子宝に恵まれず、跡目となる男子に相応しい身の上の子もなかなか授かることが出来なかった。
  ようやく迎えた世継ぎなのだ、どうしても自分の側で育てたい。妻もそんな自分の気持ちは十分に承知しているはずなのに、どうしても首を縦に振ってはくれないのだ。確かに集落の長として、彼女の他にも側女はたくさん抱えている。だが、やはり共に過ごしたいのはこの人だけだ。

 

 初めて顔を合わせたのは今から三、四年ほど前。やはり公務の区切りの付いた蘭月の頃であった。

 「側女献上」―― それは集落特有の習わしで、数年に一度の決まり切った行事である。北の集落に数十と点在する村々。その中でも「直系」となる村で、順番に長であるものに年頃の女子を差し出すのである。何とも乱暴な行為のように思えるが、当時はごくごく当然のように各集落で似たようなことが執り行われていた。
  ひとつの村に側女が集中すれば、均衡が破れ困った問題を抱えることになる。集落の長はどんな場合においても皆に平等に接しなければならない。がんじがらめの政(まつりごと)も長として生まれてしまった以上はあらがうことなど許されなかった。
  元服の折に正妻を娶り、それと時を同じくして幾人もの側女を抱えることになった。何も難しいことではない、普段は竜王様の都に滞在して正妻と過ごし数ヶ月に一度里に戻る折に側女たちの元を数日ずつ順に訪れる。村にとっては「側女を差し出す」と言う行為、ましてやその者が幸運にも子を授かるということは大変な誉れで、競い合うことはあっても辞退することなど考えられることではなかった。

「これは……何と」

 仰々しいほどの出迎えを受け宴もたけなわで退出したが、寝所に控えていた女子を見て多岐のほろ酔いが一気に醒めた。

「初めまして、多岐様。わたくしは、村長の娘で多杖(たえ)と申します」

 初々しい佇まいにも、すぐには反応することが出来なかった。目の前にいる多杖と申す者、まだ年端もいかぬ娘ではないか。こうして側女として差し出されるからには、相応の年頃にはなっているのだろう。だが、当時すでに初老を迎える年頃になっていた彼には、都に残していた正妻との間に生まれた娘といくつも年の変わらぬ女子が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
  確かに側女には生娘と決まっていたから、あまり年齢のいった女子はその時点で候補から外れてしまう。でも何らかの理由で二十歳近くまで独り身でいる良家の子女も少なくはないはずだ。

「……いかがされましたか?」

 彼女はこちらの戸惑いなど全くお構いなしに、あどけない笑顔で多岐を寝台へと導いた。しかしその滑らかな手のひらを乱暴に振り払ってしまう。

「そなたは……おいくつになられたのか」

 このような対面は今までに十数回とこなしてきた。この後の段取りも承知しているはずなのに、衣の帯を解く気にもなれない。ここから逃げ出す理由があれば、すぐにでもすがりつきたいと思いつつもどうにかそう訊ねることが出来た。

「はい、この正月で十三になりました。春にはささやかではございますが、成人の宴も終えております」

 女子は若い方がいいなどと不埒なことを言う輩もいるが、多岐はそうは思えなかった。一体どういうことだ、村長も村長だ。自分の娘の年齢が足りぬなら、他の家の娘を選ぶことも出来ただろうに。何故、ここまで血縁にこだわるのだ、全く馬鹿げている。

「……そうか」

 もう少し気性の荒い男であったなら、すぐにでも酒の準備をさせて酔いつぶれていたことであろう。だが、清らかな新妻の前ではそれも無理だ。自分用に準備された奥の寝台にひとり上がると、そのままごろりと横になる。そしてどうにかしてこのまま眠りが訪れてくれないかと祈った。

「多岐様……?」

 理由も告げずに乱暴な行為であったとは思う。しかし彼女はことの成り行きをただぼんやりと見つめるばかり。自分が今宵どうするべきかはすでに家の者から伝えられていたはずであるが、この先はどうして良いのか分からないのであろう。

「どこかお悪いのですか? 薬師様を呼んで参りましょうか?」

 柔らかい手のひらが肩に掛かる。しかしそれも、今は疎ましくてならなかった。

「いや、それには及ばない。お前も早く休みなさい」

 それだけ言うのがやっとだった。この怒りを誰にぶつけたらいいのか分からない、そもそもそのような感情を集落の長である自分が抱くことも許されていないのである。皆の平安を祈り、自分の心を押し殺して生きること。それ以外に長として渡る道はない。

「え……、その」

 こちらの告げた意味をようやく理解したのだろう。娘はなおも言葉を重ねてくる。

「多岐様、わたくしは……今宵あなた様の妻になるのですよね? そうではないのですか」

 この者をなじるのはお門違いというものだ。彼女は何も、好きこのんで側女に上がっているわけではないのだから。村のため、両親のために自分の人生を犠牲にする。年に幾度も会えない夫を待ちこがれ、寂しく老いていくことしか出来ないのだ。夫となった自分が身罷るその日まで、他に縁づくことも許されない。

「駄目だ、私は――」

 お前の人生を汚すことは出来ない、そう言い掛けた言葉が途切れた。背中にしっとりと吸い付くぬくもり、そして小さなすすり泣き声。

「それ以上は仰らないでください。お気持ちは分かります、わたくしのような者では多岐様のお気に召さないと言うことも。でも……でも、わたくしは幼き頃からずっと、多岐様の側女となるのだと信じて生きて参りました。遠くからお姿を見るたびに、あのようにすばらしい方がわたくしの背の君になられるのだと嬉しく思っておりました。それなのに……駄目なのですか?」

 自分の真の心など、初めから分かっていた。心惹かれていたのだ、その姿を一目見た瞬間から。まるで年若き頃の初恋の心地で、全てを奪われていた。だからこそ許せなかったのだ、このように立場がありながらそこまで思い詰めてしまう自分が。心の均衡が破れる、それは多岐にとってこの上ない恐怖であった。

「……だが」

 どうにか全てを振り払おうとしても、泣き濡れた瞳を見てしまってからでは遅かった。すべてのしがらみを取り去って、ただのひとりの男に戻ってこの女子を愛したい。

 その日の誓いを見ていたのは、天を染める月明かりだけであった。

 

 冴え冴えとした光が、ふっくらとした頬を照らしていく。しばらく押し黙ったまま俯いていた若き妻は、幼子の寝顔に口元をゆるめてから静かに言った。

「それ以上仰っては、わたくしが困ってしまいます。ならば、……こうしませんか? これから先、何十年掛かるか知れませんが、他の側女様が皆都に上がれぬほどに年老いてしまわれたら、そのときはわたくしがこの子と共に上がりましょう。ですから、多岐様は出来るだけ長生きをしてくださいね。そしてわたくしを待っていてください」

 

・・・


「―― 守れぬ約束などしおって……」

 ぽつりと呟いたひとことに、孫が不思議そうに顔を上げる。ああ、やはりよく似ている。彼女の血は確かにこうして受け継がれていたのだ。
  あのとき彼女の抱かれていた息子は、すでに神の使いの一族として新しい人生を歩んでいる。しかしあいの子として生まれたこの子を自分に託してくれた。あの日果たせなかった夢をかたちにするために。

「お祖父様、僕に新しい弟が生まれたそうです。是非会いに来てくださいと書いてあります。早く会いたいです、そうだそのときはお祖父様もご一緒しませんか? 西の山はこれからが一番美しい季節なんですよ」

 時は過ぎ、世は新しい竜王・亜樹様の元に動き始めている。もしも自分が退出を申し出れば、皆は惜しみながらも承諾してくれるだろう。北の里はすでに実弟の息子が新しい長となり、ゆっくりと羽を伸ばした隠居生活が送れそうだ。

「あっ、……あれ? お祖父様、ここに読めない字があります。困りました、どうか教えてください……!」

 眠い目をこすりながらも必死で父の言葉をたどるその姿を見ながら、つい今湧きかけた物思いをうち捨てる。

 

 ―― いつか再び巡り会えるその日まで、あと何度同じ天を見上げることになるのだろう。

 

 膝の上で寝息を立て始めた孫の髪を、老いた指で静かになぞってゆく。愛しい人のその色を写した輝きを一日でも長く見つめていたいと祈りながら。

了(070621)

 

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お題提供◇香枝様
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「君を呼ぶ風」の数年後のお話
主人公は「竜王一の侍従」と呼ばれていた北の集落の長・多岐です
次代になるとかなり曖昧なものになってきた「側女」の制度、しかし彼はそのしがらみの中に置かれていました男性から見たら一夫多妻制ってどんなもんなんだろうなあと思いつつ、やはりここは純愛で
突き詰めて考えてみるといろいろと悲しい部分もありますが、一番書きたかった場面が出せたので満足です

……あ、「蘭月」とは陰暦七月の異名だそうです