「厨房に入りてダシをとる!その二」
恭さんが台所に復活して、クッキーやパンケーキの類も復活したわけだが、魚料理も復活した。恭さんは鯵や鰯が安く売っているとたくさん買ってくる。何とか三昧にテーブルが占領される。それはそれで結構なことだが、今日は鯵の三まいに下ろした残りをおでんの出しに使った。大根がないのが残念だったが、おでんらしいおでんの味が出てよかった。
恭さんが動き始めても、僕のだし調達の役割は終わらない。基本調味料としてのかつおと昆布の一番出しは、使ってみると便利この上ない。四合瓶一本ぶんの一番出しをとるのには、このごろ使い始めた回転式の鰹節削り器を百回ほど手でくるくる回す(かき氷をかくように)。昆布を水から入れて沸騰するまでの三分間で取り出して、その間に百回くるくると回して削った鰹節を鍋に入れて五分。鰹節を取り除けば出来上がる一番だしは、食後のお茶を入れている間にできてしまうほど簡単なものだ。冷蔵庫に入れておけば、こんな簡単な準備で三日や四日は使えてしまうのだ。
さやえんどうの卵とじにも使ったし、小松菜や法蓮草などの葉ものの煮びたしには常に使える。チャーハンにも隠し味として使えるし、ラーメンの具をいためるときにも使う。素材さえよければ単純に合理的にこくのある味を楽しむことができるということが、一番出しの魅力の一つであると思う。野菜の素材については、目に見える形ではっきりとしたものを収穫できるという強みが僕たちにはあるが、調味する際の素材も理解できていると、味に確信を持つことができる。もっとも、茹ですぎであるとか調理後の時間がたってしまっているとか、あるいは製造の日付の古さが原因の味落ちなどのミスが逆にはっきりと味に出てしまうことにもつながるが。
僕たちは無農薬で無化学肥料の野菜を育てて売っているので、年がら年中食事のことを考えていることになる。もちろん、外に出れば「郷に入れば郷に従え」のとおりに何でもいただくが、家庭ではできうる限り確かなものを使っての食事の準備だ。僕たちが家庭内で出来合いのものばかり食べていたり、化学調味料にばかり依存していたなら、味のことを人には伝えられない舌の感覚になっていることだろう。子供たちはともかくも、僕たち夫婦は野菜が好きであり、自分たちの育てた野菜に愛着を持っている。野菜の育った土の歴史をこの目で見ているのだから、素性を疑う余地がない。
そんな環境の中で、野菜の持つ野菜の味らしさを表現するには、きっちり出しをとることが一番だ。味噌汁もそうだが、脳に覚醒が流れるようなだし汁があると、旬の野菜の香りがぐっと浮き出てくる瞬間を捕まえることができる。そんな時こそ、季節の中で生きている嬉しさがやってくる。透き通ったものが体を横切るときのあの感覚こそが、大きな大きなエネルギーの源になっているのだ。恭さんが料理をするようになって十年近くになろうとしている。厨房も畑と同じく、共同作業の場として長所を伸ばしていけたらなと、このごろは思うようになった。
2004年4月22 寺田潤史