「旬を食べる、旬を育てる その十三」
またしても台風である。乾燥した大地に井戸水の力の継続が必要であった一週間は、あっという間に台風のもたらした異常なまでの湿気に包まれてしまった。つい数日前の日曜日には極上の涼しさが、心地よいまでの風を僕たちにもたらし、「涼しい事が幸せ」という実感とともに、「暑くない事がこんなにも体を動かせたのだ」という再発見をくれた。それは、暑いということがどれほどに僕たちを疲れさせていたのかという裏返しである。それが、一転、またしても極度の湿気に襲われて体が動かなくなってしまった。
今年は二,五坪の冷蔵庫が畑のほうに移動したので、冷蔵庫の中に入る機会が増えた。この湿気の中を抜け出て冷蔵庫に入ってみると、涼しいという事以上に体が軽くなる事を強く感じる。冷蔵庫から玉葱などを出荷のために出して、冷蔵庫の中を整理し外に出てみると、とたんに体が重くなる。湿気が体にまとわりつく感じで、体が重く感じるのだ。実際に体の中が暑さでどのような変化をしているかどうかは知らない。湿度が下がって、気温三十度を下回ったなら、これはもう体が動く。気温三十度を下回るととたんに野菜がたくさんとれだす。オクラも胡瓜もピーマンもだ。野菜は湿気があったほうが良いものもあるが、気温の低いときは湿度があったほうがよいということか?気温三十度以上になって大地が乾いたなら、もういけない。野菜は瀕死の状態になる。気温三十度以上で湿度も高かったら、人間はもうお手上げに近い。南の熱帯地方に住む人々がのんびりした気質になるのもわかる気がする。涼しければ体が動くのだから、適度に寒い国の人のほうが勤勉になるのも不思議でないような気がする。
僕の住んでいる地方はもう亜熱帯といってよいのだから、暑いときはのんびりを決め込むくらいのほうが賢い事かもしれない。勤勉であるといわれる日本人は、四季のうちの春秋冬に体を動かしやすいし、北のほうに住む人は春夏秋で、その間勤勉に働くと、厳しい冬あるいはこのごろの夏にも勤勉でないと悪い事のような印象がある。体を気候に順応させていかないといけない時代になってきたような気がする。もっとも、暑い夏も冷房をきかせて、働け働けとあおるのが一般的な企業であり、夏の電力不足に備える事を声高に唱えて原子力発電を推進してきた経緯もある。勤勉はすばらしい特質であると思うが、体の声を無視するのはすばらしいことでもなんでもない。避暑ということばがあるが、軽井沢に別荘地を持つような上流家庭のことはさておき、実際の生活の中で、エアコンを極力避けてなおかつ暑さも避けるのが現代の避暑だ。避暑ということには体の声を聞くという事柄が含まれていると思いたい。
ニラとともに、今年の夏は葉ねぎも収穫できている。これは、本当に不思議だ。いつも真夏の冷たい麺や惣菜を食べたいときには葉ねぎは存在しなかった。薬味としての葉ねぎは、味そのものとしてどうという事はないが、その風味に不思議な魅力がある。この頃ではもっぱら恭さんの仕込む味噌汁に、夕方葉ねぎを散らして入れるだけで、乙な一品となっている。昼の麺類にも葉ねぎは欠かせない。葉ねぎには何か救われる思いのようなものを感じるが、この夏は葉ねぎに重たい体を救われているのかもしれない。
2004年8月19日 寺田潤史