「神ながらの農 その二」
畑は、ジャガイモや夏野菜の準備で大忙しだ。ジャガイモには生分解マルチフィルムを試している。夏野菜は今年もビニールマルチを使う。手作業でこれらのマルチを張るので、時間がかかる。一日二百メートルくらいずつがいいところだ。これらのマルチフィルムを使うということ、このことについても古人と相談しながらだ。昔はこんなものなかったはずだから、古人がそのことについて詳しいわけはないが、風の強さや風の向きに関しては圧倒的に古人のほうが詳しい。手作業でマルチフィルムを張るということは、風次第のところがある。土質にもよるが、風と仲良くしないとうまく張れない。大雨の後では、土を動かすのが大変だから、やむをえない時意外はマルチフィルムを張るのを控えたほうがよい。風は、ないに越したことはないが、晴天の時に風が吹かない日のほうが圧倒的に少ない。風のことは、古人に聞くのがよい。
昨日、「とーと畑」を歩いていて、苗床のビニールトンネルが風で開いてしまっているところを見つけた。関東では春一番が吹いたから、少し風は強かった。「おお、良くぞ見つけられた」と自分を褒めた時に気がついた。そうか、気がつくということは、自分で気がつくのではなくて、気を付けられた、ということなのかと。古人が教えてくれたに過ぎないのかと。恭さんは、苗のことは他人事である。苗に関することはほとんど僕が作業しているからで、種播きも水遣りも温度管理、はたまた畑への苗の定植すらほとんど僕がやっている。そうすると、かかわりが少なければそれだけ苗に対する気持ちも沸いてこないだろう。だから、暑かろうが寒かろうが恭さんは苗のことを気にかけないことがほとんどだ。逆に食事のことに関しては、僕は素材選び以外あまり気にかけていない。誰でも多かれ少なかれ、気にかけることとかけないことが存在するのは当たり前かもしれない。でも、人間というものは自分にできて人にできないことがあると、気が利かないな、と感じてしまうことも少なくない。ところがである。気が付くということが、繰り返し同じことに関わることで古人(個人)の能力を引き出すことにつながり援助を受けるということであれば、人の気が付かないことをとやかく思うのは無意味なことだと感じたのだ。
その人にはその人なりの生まれながらにしての流れがあり、その流れの中で人は結びついている。あくまでもその流れの中でしか能力を発揮できないとすれば、人に対していらいらしたりする必要はなくなり、やりたいと思ったことややって欲しいことは自分が実行するだけのことなのだ。自分が実行している時に、ほかの人も一緒にやりたいと思えばそうするがよい。明日ジャガイモの植え付けをするとなれば、ジャガイモの種芋を切断するのは私がやると恭さんが言い、自分でジャガイモの本を見つけ出してきて「確か二十五グラムから三十グラムだったよね」と本で切断の大きさを確かめている恭さんがいるのであれば、それが「かんながらの農」であるのだ。
昨日は親父の命日であった。僕は特段お供え物をするわけではなく、掌を合わせるわけでもなく、子供たちに「おじいちゃんといっしょにご飯を食べようね」といったくらいだ。いつも一緒にいるのだから、特別なことは何もないのである。
2005年2月24日 寺田潤史