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同級生Tの葬儀は終わった。なんというか、空白感が残っている。喪失感とはなにか違う、得体のしれないものである。今年は、死というものを考える時間が多い。人間は動物とは違うなぁ、ということが死を考えることから理解させられている。が、死というものを理解したとは言い難い。
人の死は、自分の死とは違う。人の死は、残された人間が見つめるものであろう。残されたものは、死んでいったものとの関わりや影響、存在感あるいは疑念を時間の中で考えるものだ。一方、自分の死は、未来への恐れ、残されたものへの影響を心配するような類であろうか?この世には殺人犯というものが存在するが、彼らはきっと死というものを考えなかった人たちなのだろう。残されたもののことを考えることがないからこそ、人を殺すということができるのだろう。と、余分な方向にまで脱線して考えてしまう。
人が死んでも、子供たちは関係なく自分の人生を生きている。三女も四女も本当に楽しそうに、帰宅後の数時間を過ごしている。そして、長男がサッカーをやろうと言ってくれば、僕ももうサッカーのことだけが頭を支配する。そんな時間を過ごした後には、人はなんて楽天的な生きものだろう?とも思う。
長男のサッカー、県トレセンのはじめてのトレーニングと開講式に行ってきた。6年生では、32人のフィールドプレイヤーと6人のゴールキーパーが選ばれ、コーチも10数名いたのではなかろうか。6年生のほかに5年生と女子がそれぞれ別グループでいるのだから、総勢は150人以上と相当な数である。県トレセンというのは一大事業である、ということを認識させられた次第である。
肝心のサッカーであるが、トレーニングのあと、ゲーム形式で15分を3本行った。4チームを作って、それぞれ別のチームと試合をしたのだ。下手な子がいない。当たり前かもしれないが、非常に拮抗した実力の子ばかりである。誰もが良い部分を発揮していたし、誰もがボールを奪われたり抜かれたりしていた。寄せが早いから、ボールを持って考えている時間は、ほんの一瞬である。このようなレベルの中に身をおくことができるなんて、幸せなことである。
これからの1年弱、このレベルの中で、這い上がろうとし、蹴落とされもするのだろう。先週聞いた、ネットでの東海トレセンマッチメンバー記載は、バックアップメンバーを含めてのことだったようだ。長男はバックアップメンバーには選ばれている。誰かが怪我しない限りは呼ばれない立場だ。日本代表がすでに今年のワールドカップでの熾烈な代表争いの最終局面を迎えているが、そんな選考の浮き沈みをこの小学6年生ですでに体験しているようなものだ。
そんな世界に身をおくことがサッカー選手を目指すということなのだと、頭ではわかっていても、いざ体験してみると、前だけを向いていなければやってられない世界だと教えられる。逆に考えれば、僕の友達が死んだとしても、子供とサッカーの世界にいる時には無心でいられるというわけだ。実際には、子供に助けられて生きているのだ。
2018年5月25日 寺田潤史
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