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世の中には決め事が多い。決め事を作る政治家、それを形作ろうとする公務員。官僚も公務員だろうけれど、どうして偉そうになるのかな?学校の勉強ができると、偉そうに勘違いしてしまうのかな?会社の社長も部下に命じて決め事を作る。そうしないと秩序が取れなくなる心配があるのは、学校も同じだろう。(心配と決め事って菅原道真去った後の大宰府建立か?)
税金をある一定の割合で収めるということも決め事だが、収めてもらう側の国や官公庁は、サービス業としての丁寧さが求められる。立場としては、収める側の民衆の方が偉いと思うのだが、納めろと強制する側のほうが高圧的な態度を取るのはなぜだろうか?つまり、決め事をやってもらうためには、低姿勢が最低限必要であるということが理解できないのが、学校の勉強ができた人たちだろう。人の気持ちを理解できる人、そういう評価が、今こそ学校に求められるのではないか?(最初から本題とずれてしまっているではないか!あかん)
決め事には、いつだってある程度のゆるさがある。車のハンドルの遊びのようなものか。そのゆるさの中を人がうごめく。群れる性質のある人達は、自分の考えと似たような人たちと密集するようになり、違うタイプの人間を排除しようとする。その歪んだ一つの姿が、女子高校生の群れかもしれない。しかし、それとて、卒業してしまえば、また個人としての女性に戻ることができるのだろう。いや、ある意味、日本では高校生を卒業してから、ようやく集団から脱皮しようとして個人が形成されていくような風土が出来上がってしまったのかもしれない。
決め事と人の群れを見極めた時、どこに自分のスペースを確保するか?これがその人なりのポジショニングである。そのポジショニングの仕方を見て、人は生涯の伴侶を探す。間違いも起こるけれど、何割かは適切な判断だと時間を経て自己診断を下すことになる。人を判断する時に、相手の最低限の技術も見極めるかもしれないが、多くは人としてのポジショニングで判断する。後付けで言葉にすることもあるかもしれないが、定義付けられないある種のなにかがポジショニングには含まれているのだろう。
これらのことは、サッカーの試合に似ている。個々の技術はもちろん最低限必要であるし、フィジカルや走力だって必要だ。しかし、そのポジショニングの仕方だけは、どうしても個人の性質が顕れてしまうことが多い。ここはこのポジションにいなさい、とコーチが指示したところで、刻々と変化する試合状況の中で、指示し続けることも指示を聞き続けることもできない。どうしてもボールばかり追ってしまうボールウォッチャーになってしまう人であれば、ボールが別のところに来た途端に今までマークしていた相手をほったらかしてボールに近寄り、マークした相手はフリーになって点を入れられてしまう、という事態を引き起こす。
試合中、常に相手のエース格にボールが入らないようなポジショニングを取り続けること、一度に二人の相手を警戒し続けられること、そういったボールのこない場所でのポジショニングが重要だ。人はドカンと強烈なシュートを打つ人に目を向けがちになるが、人生において、日々の生活でのポジショニングは深く際限のない世界だ。
2020年9月18日
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