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自分のことを考える、このことを意識し始めたのは、20代半ばに差し掛かる頃だっただろうか?いや、誰だって自分のことは考えているだろう?と思われるが、案外若い頃はカウンターとして自分のことを漠然と捉えることが多いのではなかろうか?カウンター、つまり、相手がこうだから私もこうする、あるいは私は逆のことをする、世の中がこうだから、親がこうだから、というような。もちろん、それもあり、なのだけど。
20代半ば、高校時代の同級生の一人に、灰谷健次郎さんの本を勧められて、はじめて「人のことを考え始めた」ような記憶がある。では、それまでは何をしていたのだろう?人のことを深く知ろうとしないで、自分がこの様になりたいのになれないのはなぜか?というようなことを、外面から追求していたのかな?大学で上京して(浪人も1年原宿の代ゼミに通った)、大学に入ってみると、そこにいる大学生は良い就職先のことを第一に考えている人が大多数で、「お前ら夢はないのか?」との問すら恥ずかしいものだと思わされたのかもしれない。
とはいえ、それは思いだけで、実際は大学の授業にもほとんど出席しない、だめな学生だった。大学でやったことは、新しく音楽サークルを立ち上げたことだけだったかな?既存の音楽サークルに絶望し、そこで出会った生涯の音楽の相棒となるJとバンドを組み、サークルをかろうじて運営した。実際はライブハウスへの出演がメインだったし、アルバイトとバンドに明け暮れた年代だった。怖いもの知らずで、音楽の基礎をおろそかにしたただの馬鹿だった。コンテストで賞を取ってレコードを作ってもらったり、ライブハウスからレコードを出してもらったりしたところで、技術的な裏打ちは何もなかったに等しい。練習量だけは多かったが…。
一足先に相棒のJがジャズドラマーに教えを請い、遅れて僕はクラシックギターを1から習い直した。バンド活動も停止してただ単に基礎練習だけに時間を費やしていた頃だ。今の時代のような情報は乏しく雑誌から得ているような時代で、俯瞰して逆算して基礎を積み上げる、という意識が欠如していた。サッカーで言えば、技術もないのに試合をやって、勝てばそれでいい、というようなものだ。それを取り戻そうとしたのだが、気付くのが遅かった。だが、それは後になって、子供を育てる上では大いに役に立った。基礎を繰り返し練習できることならいくらでも応援するよ、という子育て方針は自分の失敗の上に立っている。
あの頃、音楽関係の人いわゆる業界の人にも何人か会っていた。だが、僕は馴染めなかったし、だんだんと都会で生活することが苦になっていた。音楽へのエネルギーはますます強くなるけれど、環境を変えたかった。あの当時、灰谷さんの本ばかり読んでいたわけではなかったが、それ以前から自然食品店で食材を買うようになっていたので、自然な流れで帰農する方向が見えたのだろう。同時に、自分のこと、人のこと、人間てなんだろう?という探求はエスカレートしたのか、本を読む時間は長くなったようにも記憶している。そして、29歳で帰農したことが自分らしく生きることの出発点になった。実際には、自分らしさというものは生まれつきのもので、後天的要因が具体性を表すのだろう。続く。
2020年6月19日
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