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ここ数年考えていることがある。いや、30年か?そうすると人生の半分ということになるから、それはちょっと大袈裟だ。表題のpratyayaすなわち縁起というような概念のことだ。縁起とは、インターネットで調べると「あらゆる物事が因縁によって生じているということを仏教では因縁生起と言う」とあり、略して縁起ということになる。物事には原因と結果があり、その原因の始まりともいうべき縁、そのことに僕は注視してきたのだ。
僕の家が曹洞宗の仏教であるから、僕も仏教徒ということになるかどうかは別として、精神的には神道に近いところに佇んでいる気がする。宗教団体に興味がないのは、数年前に他界した祖母が「生長の家」に半生を捧げたような人だったことの反動も少しはあるのかもしれないが、元来宗教的な考えは若い頃から少しずつ各方面で吸収していた。洋楽ばかり聴いていた若い頃(今も聴くのは洋楽オンリーに近い)、その歌詞にキリスト教の教えの引用が少なくなかったので、自然にそのような傾向になった、ということもあるだろう。だから、とりわけ仏教の縁起ということに固執しているわけではない。
30代の頃は、新しい出会いが多く、縁というものの力に魅了されていた印象もある。その中に結婚という大事な事柄も含まれるし、多くの人が似たような概念を持っているのではと思う。その前の29歳での帰農からこちらの地方の農業人、自由人(?)などとの出会いは、人口の多い東京での出会いに比べて圧倒的なエネルギーを持っていた。出会いのエネルギーが大きくて、余計に縁というものの大きさに圧倒されたのかもしれない。
60歳になって今思うのは、縁は縁に過ぎないということである。されど縁ではある。考えてみれば、小学校や中学での同級生との縁も大きなことであるし、高校や大学などの新しい環境での学校生活でも出会いは少なからずある。ただ、人は成長する。何も考えずに勘に頼っていたことに、考えや好き嫌いが加わり、周りの人の人となりを観察して自分との相性を蓄積していく、という高度なテクニックを人間は持っている。さらに大人になって働きだして、打算的な経済優先の生き方を好む社会に順応しだすと、人は思い切った行動や出会いから疎遠になることも多い。そのような中で、縁を大切にする行為は素敵ではある。
問題は、縁が長続きするかどうかであろうし、途切れ途切れの縁でも繋がっていくことに興味深さがある。実際に、結婚して子供が生まれ、なんとか子供が育ったとして、振り返ってみればそこに長い結婚生活が現存して、縁というものがあるのだなあ、と理解できるのである。小中高の同級生であっても、結果的に長続きのするような腐れ縁ともいうべきものも、ある意味で特筆に値する事象なのかもしれない。
さらに、母親が生んでくれたにしても、多分半分は父親の遺伝子が厳然として受け継がれ、そこには好き嫌いなく祖先からの繋がりを残している。今60歳になって、年老いた母親を見る時、自分が若い頃に見た眼差しとは違う自分を発見できる。つまり、縁というものは客観視するためのもので、主観とは別の世界にあるのでは?と。
2020年8月21日
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