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先週、ミスを認めよう、というようなことを書いた。ミスというものは、自分のミスだと自分が認識したのなら、ああ間違いだったと感じているのは真実である。ところが、人というものは不思議な生き物で、ミスを指摘されるのが嫌いな生き物らしい。旧態然とした男社会がその代表だと言えるだろう。ミスを認めないことを誇りと勘違いしている向きもある。一方、女性がミスを指摘されても、やはりおとなしくしている人は少ない。夫婦げんかの大半は、ミスの指摘仕合と言えるのではないだろうか?大丈夫だ。人間はミスの塊だから。
弘法にも筆の誤り、という諺があるが、日本ではその程度のミスをよしとしてきた文化がある。専門性の一端を垣間見る諺かもしれない。確かに、サッカー選手でもミスの少ない選手は重宝される。それでも、大きなミスをしてしまうのが人間であろうし、小さなミスを繰り返すのもまた常なのだ。ところが、ミスをミスと認識できない場合がある。世間知らず、がそうさせるのかもしれない。若気の至りは、誰もが大目に見るところでもあろう。
問題なのは、ある種の地位にある人が、ミスを認識できないか、あるいは全く無知で勉強する気がないのか、ミスをわからないままふんぞり返って人様を指導している場合である。地位というものが、専門性の積み重ねだとよいのだけれど、文化の低い場面で活躍して登用された人に多く見られる。それは、どういう事を意味するかというと、層が違うのである。
人は誰でも、自分が見渡している層というものがある。相という言い方もできるかもしれない。自分が見えている部分においては、きっちりと仕事ができる。ある種の専門性があるものと感違いされがちだ。いや、きっと、ある種の専門性はあるのだろう。ただ、それが世界に通用するようなレベルであるかどうかは、そのような高いレベルを見ようとしない限りはなかなかできるものではない。
だからこそ、自分の存在する層以外のことが重要になってくるのだ。全く違う層に首を突っ込めば、全くわからないことだらけになる。そこで得た知見や謙虚さは、元の自分の得意な層に戻った時に、大いに役立つし、世界を見渡す原動力にもなる。そしてまた、現場の大切さも忘れないようになるだろう。上の地位に立つ人は、現場に足を運び、見聞きしなければ、現場の人が何を考えているかを理解できるはずもないのだ。
と、いろいろ書いてしまったが、僕の過去はミスの塊であるし、今も毎日ミスを連発している。ミスを指摘されるとムッとなるし、人のミスも指摘する。問題は、ミスの指摘の言い方かもしれないね。仕事だって家事だって、殆どは修正することだからね。修正までの時間を、できるだけ短くするのが、精神衛生上は楽になる。
久しぶりに若い頃のバンド演奏のライブレコードを聴いてみた。ミスだらけの演奏だった。エネルギーと集中力だけはあった。ただ、その先につながる音楽性と技術が見えなかった。そのことを25歳過ぎて、自分で気がついたのだろう。そこから1からの出直しを図った。そのことが帰農へと繋がったことをラッキーだと、今、思う。
2021年5月28日