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先週、この曲の歌詞を書き、連れ合いに捧ぐ、ということを書いた。そこで、勘違いされることもあろうけれど、連れ合いに捧げるための詩ではなく、書いている途中に連れ合いに捧げてもいいような詩だな、と感じたのである。あまり詩のことを説明することは好まないし、伝わる人には伝わるのではないかと勝手に思い込んでいるのだけれど、少しだけ補足してみようと思う。若い頃なら絶対にしなかったことだけど、この年になればいつぽっくり逝くかもわからないと思っているので…。
人は、一本の管のようなものだと、常日頃から思い浮かべている。自分の本体は、その管の中の空(クウ)であると。空気中のクウではない。管の中のクウである。肉体すなわちクダは、そのクウを維持するための、あるいは生きるための装置のようなものだ。その装置がなければ自分であるクウは生きていられない。その装置を動かしているものは、自分であるけれど、自分ではない。それこそが神の力というような心臓を動かす力である。つまり、クウは自分と神の一体物というわけだ。
人が生を受け、生まれた時を想像してみると、そこには染まっていない無垢のような存在があるように見える。昔の人の言葉で言えば赤心であろうか。人の愛や憎しみ、妬み、憧れ、など、育っていく過程でいろいろなものを見て、無垢のような存在物であったものは周囲に染まっていく。そこからが、人間の物語のようなものかもしれない。恋とか愛とか、そういったものの存在を、いつの間にか知るようになる。それはあくまで人に教えられるものではなくて、自分が自分と向き合った結果として、知るようになるのである。それが人間本来の習性なのだろう。その習性は、まるで季節の中の暦のような、厳然たるものなのかもしれない。
コロナ禍は、興味深いことを教えてくれている。長丁場になることで、べらんめえな行動をする人や、軽い行動を取ってしまう人が少なからず露呈するのは世の中の常ではなかろうか?ところが、圧倒的に多いのは、きっちりと対策を励行し、長丁場でもそれなりに楽しみながら耐えることを続ける人たちである。もちろんそれでも感染してしまうのは仕方がないし、ある意味では政策の失敗による人災だと捉えることもできるだろう。
その圧倒的に多い人たちが、なぜ耐え続けられるのだろうか?そこには家族というもの、あるいは家族でなくても信頼性のある繋がりというもの、それらとの関係性の中で、家族を守る繋がりを守る、という意識があるからではないか?と思うのだ。それは、人本来の持つ習性の一部なのではないか?ほとんどすべての人が、誰かの子供である。自分が独身だとしても、誰かの子供である。つまり、生きているか死んでしまったかの違いはあれど、誰もが家族を持っている。そういったものの存在、死んでしまったとしても自分の心の中にいる人の存在、そのようなものが厳然と粛々と生活をさせるエネルギーではないかと思うのだ。
自分が誰かの子供であるという事実は、辿っていくと赤心のようなものに行き着く。マスクや消毒三昧の生活だけど、人の営みは永遠に変わらない。
2021年8月27日